🇯🇵 兵庫県/丹波篠山市&豊岡市 2025年11月20日~21日
67年近く生きてきて、日本国内もいろんな場所に行ったけれど、まだまだ足を踏み入れたことのない空白地帯が残っている。
兵庫県の中部から北部も、私にとって、そうしたエアポケットのような土地なのである。
学生時代の仲間たちと年に一度の旅行の行き先を巡って議論を重ねた時も、せっかくならまだ行ったことのないエリアがいいと思い、兵庫県を強く推したものだ。

そうした過程で、仲間の一人が丹波篠山に「ぼたん鍋」発祥の宿があると教えてくれて、今回の旅行では最初の夜、その由緒ある旅館に宿泊できることになった。
「丹波篠山 近又」
創業400年、あの桂小五郎も宿泊したと、宿のホームページには記載されている。
丹波篠山市の中心街に面しているものの、間口は狭く、うっかりすると見過ごしてしまうような門構えである。

歴史を刻んだ門には「季節料理」と書かれた額が掲げられ、石畳の通路が玄関へと続いている。
よく見ると、門を入ったすぐ左手に「浩宮殿下御駐泊宿」と書かれた札が立っていた。
今の天皇陛下も若き日に宿泊した宿ということらしい。

玄関を入ると、いきなりイノシシたちに出迎えられた。
もちろん剥製ではあるが、まるで生きているように動きのあるポーズでロビーの上がり口を塞いでいる。
丹波篠山といえば、名産品の黒豆や栗とともに、このイノシシたちが主役なのである。

宿の荷物を預け、とりあえず紅葉を見に行こうと車を北西に走らせる。
幹事役の友人たちが案内してくれたのは「高蔵寺」という山間にあるお寺。
開山は646年、歴史ある天台宗のお寺だそうだが、むしろ最近では「丹波篠山もみじ三山」と呼ばれる紅葉の名所として訪れる客も多いという。

実際にお寺の周囲にはたくさんのもみじが植えられ、鮮やかに色づいていた。
ただ我々が訪れた時間には太陽は山の向こうに隠れていて、紅葉がいちばん美しい時間は残念ながらすでに過ぎ去っていた。

秋の夕暮れは早い。
紅葉見物を早々に切り上げ、篠山市内に戻った頃にはもう夕日は西の空に傾いていた。
せっかくなので、宿の周辺を少しみんなで散歩する。
丹波篠山は、江戸時代に築かれた篠山城を中心に発展した城下町である。

市役所の前庭には「デカンショ節100周年」として踊る男女の像が立っていた。
大学時代、宴会の席で「デカンショ節」をみんなで歌った記憶が蘇る。
🎵 デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ
あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ 🎵
明治、大正の時代から歌い継がれた学生歌としての「デカンショ」は、デカルト、カント、ショーペンハウエルの略であるが、実はその元歌が丹波篠山で盆踊りの際に歌われる民謡だったことを初めて知った。
元々は「デカンショ」ではなく、ヨッコイショといった掛け声を表す「デッコンショ」が正しいのだそうだ。

それ以上に私の目を引いたものは、街のあちらこちらに掲げられたイノシシのどでかい頭だった。
イノシシ料理を供するこちらのお店には、ぼたん鍋のほかに「デカンショうどん」があるという。

そしてこちらのぼたん鍋専門店のビルには、さらに巨大なイノシシの頭が乗っかっていた。
まるで歌舞伎町のゴジラのようである。

こうして散策を終えて宿に戻ると、夕飯は当然のごとく、ぼたん鍋が食卓に並んだ。
お恥ずかしながら、私は生まれてこのかた、イノシシ料理というものをほとんど食べたことがない。
今回の旅行では、このぼたん鍋を食することが旅の重要な目的だったのだ。

さすが「ぼたん鍋発祥の宿」と呼ばれるだけあって、提供された「最上級猪肉ロース」はとても美しく美味しそうであった。
たっぷりと脂がのったその肉を野菜とともに秘伝の味噌で鍋にするのだ。
普通の豚肉とは違い、イノシシの肉はよく煮なければ固くて食べられない。
「シシ16」という語呂合わせ通り、16分以上煮てから食べるのがコツだという。

肉にも野菜にもしっかり味噌味がしみ込んで、素朴な鍋が出来上がった。
恐る恐るイノシシ肉を口に運ぶ。
まったく固くない。
臭みも感じない。
これは、美味い。
イノシシ肉に対する私の偏見が一瞬にして吹き飛んでいく。

合わせるお酒は、5種類の地酒の飲み比べ。
どれがどれだかわからなくなってしまうが、どの酒も甲乙つけ難く美味しい。
やはり、日本の地方には美味しい料理と美味しい酒が必ず存在するのだ。
考えてみれば、これはすごいことである。

結局、ぼたん鍋が美味し過ぎて通常の量では足りず、イノシシ肉と野菜を追加で注文、みんなでたらふく老舗の味を堪能した。
最後は、温かいご飯の上に、鍋の底に残る汁に玉子を落とし、それを温かいご飯の上に・・・。
もちろん、もう何も言うことのない美味さである。

と思ったら、後からもっとすごい奴が出てきた。
どうやらこれがぼたん鍋の〆となる「ぼたん丼」という奴らしい。
我々は肉を追加で頼んでしまったので、さすがにこの丼は多すぎるとも思ったが、結果的にはそんなことはなく、みんなペロリと平らげてしまった。
これぞ「ぼたん鍋発祥の宿 近又」の実力なのだろう。

一夜明け、中庭を望む和室で朝食をいただく。
ロビーから撮った写真があまりに美しく、朝ごはんを食べるみんなにこの写真を見せると、全員が感嘆の声を上げたものだ。
巨大な温泉旅館とは違い、これぞ日本旅館という風情がこの宿にはある。

朝食は、小皿に盛られた山の幸の数々。
わずかながら、丹波の黒豆もその中に含まれていた。
敷かれた紙には、イノシシのイラストと共に『人生は出逢いの旅路』と書いてある。
お風呂が小さく、温泉でないのは残念ではあったけれど、それを補って余りある名旅館だと感じた。
ただし、宿代はそれなりで、2食付き1人1泊4万数千円。
やはり猪肉の追加がちょっと響いたかもしれない。

宿をチェックアウトし、丹波篠山を離れる前に、ちょっとだけ篠山城に登ってみることにする。
この城は1906年、徳川家康の命により築城された。
山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことにより、当時まだ大坂にいた豊臣方を抑え、それを支持する西国の大名たちと分断する狙いがあったとされる。
それだけに天守閣は作られなかったものの、高い石垣と広い堀は高い防御能力を有していた。

現在城跡に遺るのは、「大書院」と呼ばれる建物のみ。
大書院は二の丸にあった城主の居館のうち、藩主による公式行事に使用された場所で、築城時、京都二条城の御殿を参考にして建設されたという。
ただ、昭和19年の失火により消失してしまい、現在の建物は2000年に再建されたものだそうだ。

次の目的地、「丹波の小京都」と呼ばれる城下町・出石に向かう途中、もみじの名所として知られる「岩瀧寺」に立ち寄る。
幹線道路から外れたこの寺には、訪れる人もほとんどいなかった。
ただ、その鄙びた風情はなかなかのもので、前日に訪れた「高蔵寺」に比べると、個人的には好印象を抱いた。

本堂の裏には「四国八十八仏」と呼ばれる仏様がずらりと並ぶ。
ここは真言宗の小さな尼寺で、あの空海によって開かれたとされる。

しかし、この寺の一番の見せ場はさらに奥にある。
八十八仏の前を通り過ぎ、石畳の山道を登っていくと・・・

美しい滝が姿を表す。
弘法大師の伝説が残る「独鈷(どっこ)の滝」である。
「独鈷」とは、真言密教で用いる両端が尖った仏具の名前で、この地を訪れた弘法大師が独鈷を投げたところから滝が流れ出したとの伝説が残っているのだとか。

滝の高さは18メートル。
滝壺のすぐ近くまで行けて、下から滝を見上げることができるのだが、我々以外に誰も訪れる人もおらず、まさに穴場と言っていいパワースポットである。

そんな独鈷の滝の脇には、急な階段が備えられていて、さらに上に何かがあるらしい。
足の悪い友人たちも懸命に石段を登り、その場所を目指す。

そこにあったのは、岩肌に開いた大きな割れ目だった。
どうやらこの洞窟が昔の人たちの信仰の対象となっていて、その場所に弘法大師がやってきてお寺を建てたようだ。
そして洞窟には祠が建てられ、修験道の修行の場となったという。

古くから多くの人が修行を行った独鈷の滝近くには、こんな立札も。
『浅山一伝斎壁書』
一伝斎は、日本の古武道の一つ「浅山一伝流」の流祖であり、この滝で修行を重ね独自の武道を編み出した。
剣術だけでなく、居合、棒術、柔術、鎌などを含む総合武術で、江戸時代に全国に広まり、明治期の警察にも一部が採用されたという。

午前11時半、私たちが乗った車は、兵庫県北部豊岡市にある出石(いずし)の街に到着した。
古い街並みが保存された城下町で、「丹波の小京都」と呼ばれる街の中心に立つのが「辰鼓楼」、明治時代に作られた日本で2番目に古い時計台である。
明治4年に建てられた当初は、最上階から太鼓を鳴らして時刻を知らせていたが、明治14年にこの城下で開業していた医師から大時計を寄付されて時計台に生まれ変わった。
しかしそのわずか1ヶ月足らず前に札幌で時計台が動き出したため、残念ながら日本最初の時計台とはなれなかったそうである。

この時計台から少し南に歩いた山裾にあるのが「出石城」である。
この地はもともと守護大名の山名氏の本拠地であったが、羽柴勢の侵攻を前に敗退、山頂にあった山城は取り壊され、山裾のこの城が江戸時代、出石藩の藩庁として仙石氏によって受け継がれた。

苔むした石垣に紅葉した木々が映えて、なかなか美しい城である。
三の丸、二の丸、本丸と階段上に石垣が積まれ、天守は存在しない。

美しいもみじに彩られた本丸跡からは、出石の街並みが一望できる。
ここに立つ小さな祠「感応殿」は、地元市民から「権兵衛さん」の愛称で呼ばれているそうだ。
祀られているのは、仙石氏の初代藩主、仙石権兵衛秀久。
この「感応殿」の前には興味深い石碑が建てられていた。

題名は『出石そば発祥の由来』。
そう、「出石と言えば蕎麦」と言われるほど、出石の街にはたくさんの蕎麦屋が軒を連ねているのだ。
この石碑によれば、仙石氏は代々信州の城主だったが、1706年、4代政明公の時代にお国替えとなり出石藩にやってきた際、信州一の蕎麦打ち名人を伴ってきたというのだ。
その後、地元で作られていた出石焼の小皿にそばを盛り付ける独特の「出石皿そば」が考案され、今ではすっかり出石の名物となったというわけである。

「出石皿そば」とは、どのような蕎麦なのか?
私たちは「沢庵」という出石皿そばの名店で昼飯を食べることにした。
店の前には大きな奴さんの人形が飾られた一風変わった店構えである。

こちらが店のお品書き。
「名物 出石皿そば」は、一人前が5皿で980円で、追加は1皿150円と書かれている。
皿そばを食べたことのある友人の説明によれば、ここでは岩手のわんこそばや出雲の割子そばのように、そばが小皿で提供されるため、それぞれの量は少ないらしい。
とりあえず、各自が一人前注文して、足りなければ追加するのがよかろうということになった。

運ばれてきたのが、こちら。
思った以上に量は少ない。
食べ方のオススメも書いてあった。
『まずは塩だけで、次につゆだけで、後は軽い薬味から順にお使いください。くれぐれも、二・八そばは早く食べて頂くほどおいしく召し上がって頂けます』
名物というだけあって、そばは確かに美味しいが、いかんせん量が少なく、結局私は2皿追加し7皿ペロリといただいてしまった。
とはいえ、一度は味わってみたいご当地グルメである。
食べログ評価3.57、私の評価は3.50。

そして、最後に向かったのは出石のシンボルとも言えるこちらの劇場だ。
「出石永楽館」
近畿地方で最も古い芝居小屋であり、日本全体で見ても現存する最古の劇場建築だという。
しかし、今ではそんなことよりも、実写版の邦画として観客動員数の最多記録を塗り替えた大ヒット映画『国宝』のロケ場所として俄然注目を集めるスポットなのである。

この劇場が建てられたのは明治34(1901)年のこと。
明治から大正にかけては歌舞伎を中心に、剣劇や落語など大衆文化の殿堂として人気を博したが、昭和に入ると活動写真の上映が増え、戦後は映画中心の劇場となった。
ところが映画が斜陽化するのに伴って経営が悪化、1964年には閉館、一時はパチンコ屋になったこともあるという。
そんな永楽館が蘇ったのは2008年、豊岡市が費用を負担する形で「平成の大改修」が行われ、片岡愛之助一座が柿落とし公演を行った。

普段は公演日以外は、入場料400円払えば誰でも内部を見学することができるらしいのだが、映画「国宝」の大ヒット以来、見学希望者が殺到してこの日も予約のない客はすべてお断りという札止め状態だった。
ただ頼りになる幹事役の友人が下見の際に予約していてくれたようで、指定された時刻に劇場を訪ねると、どうにか見学を受け付けてもらえたのだ。
恨めしそうに通り過ぎる観光客を尻目に、私たちは各自400円を支払って芝居小屋の中に入ることができた。

ところがである。
中に入ると、そこにはものすごい数の先客がいた。
淡路島から来たという高齢者の団体、総勢100人は下らないだろう。
元気なお年寄りたちは客席を占領するだけでなく、我先に舞台に上がって記念撮影、さらに交代で藤娘の小道具を肩にポーズを決めて代わる代わるポートレート写真を撮っているではないか。

これでは後から来た我々は写真の撮りようがない。
どこを撮ってもお年寄りばかり。
みんな映画『国宝』を見てきたらしく、「ここがあの場所だ」などと興奮気味である。
歌舞伎を題材にした『国宝』がついにあの大エンターテイメント映画『踊る大捜査線』の記録を塗り替えたのも、こうした全国の老人パワーを結集したからに違いないと、少々恨めしい思いを抱きながら、私は劇場内で繰り広げられる高齢者の動きを呆然と見つめる。
でも、私の大好きな名画『ニューシネマパラダイス』ではないが、この雑然とした雰囲気こそ全盛期の劇場に近いのではないか、そんな風にポジティブにこの状況を捉え直すことにした。

とりあえず、撮れる範囲で人の写り込まない写真を撮ろうと思い、桟敷席の上に掲げられた古びた広告などを撮影する。
和菓子屋、時計店、美容室、呉服店などなど。
これらは全て現在の広告ではなく、昔の資料をひっくり返して全盛期の様子を再現したものに違いない。

天井にはシャンデリア風の照明、桟敷席には提灯が並んでいる。
これはこれで、とても粋である。
こんな芝居小屋で演目を見れば、普通の劇場で見るよりもずっと楽しめることは間違いないだろう。

バスの時刻が来たらしく、ガイドの人の呼びかけで高齢者の団体は一斉に出口に向かい始める。
舞台上にはまだ記念写真を撮り足りないお年寄りが残っていたが、これでようやく永楽館の写真が撮れるというものだ。
花道に降りて、客席と舞台を撮影する。
お年寄りたちが座っていた座布団が乱れ、資料写真とはだいぶ雰囲気は異なるものの、まあ劇場の全体像は掴むことができる。

私も舞台の上に上がってみた。
舞台上にはまだ藤娘の小道具を手にしたお婆さんたちが残っている。
でも、この古びた舞台の床、中央に切られた大きな廻り舞台、素晴らしいじゃないか。

舞台の袖には、役者さんが使ったであろうお風呂もあった。
今では懐かしい五右衛門風呂である。

舞台の背後は2段になっていて、下は大道具を納める場所、そして上段は役者たちの控え室になっていた。
本番では、この前に背景の幕を下ろして隠していたのだろう。

狭い楽屋には畳が敷かれ、役者が化粧をするための机と鏡が並んでいた。
舞台衣装や手拭いは所狭しと無造作に梁にぶら下げてある。
この楽屋、実際に映画『国宝』のロケでも使われたのだという。

舞台下に設けられた奈落にも入ることができた。
廻り舞台を回転させるための木製の装置、当然のことながら人の力で回す。
さらには、役者が舞台に飛び出すための「せり上がり」も人力で動く仕掛けである。
狭い通路が客席の後ろに伸びていて、ここを通って役者が移動することで、神出鬼没の舞台演出が可能になるのだ。

こうして奈落の見学を終えて客席に戻ると、あれだけ賑やかだったお年寄りたちの姿が完全に消えていた。
静かになった劇場からは先ほどまでの活気が消え、静けさに包まれている。
劇場はやはり観客の熱気がないとつまらない。
いつの時代も、芝居は役者やスタッフだけではなく、観客と一緒に作るものなのである。

そんなことを思いながら、私たちも永楽館を後にする。
小さな街ながら、見どころの詰まった出石の町。
永楽館を見学したからには、私もそろそろ映画『国宝』を観なければなるまい。
「手打ち出石蕎麦 沢庵」
電話:0796-52-7888
営業時間:平日10:30 - 20:00
土日祝10:00 - 20:00
定休日:木曜
https://www.takuan-soba.com/