<きちたび>バルカン半島の旅2024🚌 ボスニアヘルツェゴビナ🇧🇦 修復された石橋と虐殺博物館!世界遺産の街モスタルを歩く

🇧🇦ボスニアヘルツェゴビナ/モスタル 2024年10月28日~30日

モスタルは「橋の町」である。

街の中央をネレトヴァ川が流れ、その激しい水の流れによって深い谷が刻まれた。

その深い谷を渡る吊り橋が架けられたことによりモスタルはこの地域の重要拠点として古くから歴史に刻まれた。

そして街がさらに大きく発展するきっかけとなったのが、オスマン帝国時代の1566年に完成した石橋「スタリ・モスト」である。

全長30m、川面からの高さ24mを誇るこの石橋は当時としては最先端の建造物であり、この街を訪れる者全てを驚かせた。

建設には9年の歳月を要したという。

要塞化されたこの橋は東西に2つの塔を持つ。

東が「ヘレビヤ塔」、西が「タラ塔」。

この2つの塔は「モスタリ=橋の護衛者たち」と呼ばれ、それが町の名前の由来となっている。

実際に橋を渡ってみると、全て石材を組み上げて作られていることがよくわかる。

中央部が高い構造になっていて、毎日多くの人が行き交うため、表面の石はツルツルで滑りやすい。

そのため滑り止めの役目の石が帯状に設置されているのだが、結構傾斜がきついために欄干にしがみついて体を支え慎重に登る女性の姿も多く見られた。

モスタル観光は全てがスタリ・モスト中心に成り立っている。

橋の両岸には旧市街が広がり、橋がよく見える特等席には観光客目当てのレストランが崖に張り付くように立ち並んでいる。

そして夏の風物詩となっているのが、橋の中央からネレトヴァ川への飛び込みである。

残念ながら私は遭遇出来なかったが、現地で会った日本人の方は偶然目撃したと話していた。

ただ、ネレトヴァ川の水温は非常に冷たく、冬に着衣のまま橋から飛び込み行方不明になった中国人ユーチューバーがいたとの話も聞いた。

しかし、残念なことに私たちが今見ることのできるこの橋は、わずか20年前に修復されたものに過ぎない。

私も取材していた1990年代の「ボスニア紛争」の際に、意図的に破壊されてしまったのだ。

川面に映る美しいその姿の裏に、人間のエゴと愚かしさを隠し、我々にそれを訴えかけてくるのである。

スタリ・モストを渡って東岸の旧市街を歩くと、土産物屋の軒先にごく普通に銃弾などが売られている。

世界中から訪れる観光客にとってモスタルは橋の町であると同時に「戦場」でもある。

かく言う私も、ジャーナリスト時代に激しい戦闘が続き近づくことさえ出来なかったこの町に一度は足を踏み入れたい、そう思ってモスタルにやって来て。

そんな私のような戦争について学びたいと思う観光客が必ず訪れる場所が、東岸のバザールを抜けたところにある小さな博物館である。

「戦争と虐殺犠牲者の博物館」

入場料18兌換マルク(約1500円)を払って中に入ると、「まず2階からご覧ください」と促され階段を上る。

すると、いきなり銃声が聞こえ。

音のする方に振り向くと、モニターにはセルビア人民兵によって拘束された数人の男たちが茂みの中で処刑される映像が流れていた。

処刑する側の民兵たちが記録のために自ら家庭用ビデオカメラで撮影したものらしい。

こんな映像、当時は見たことがなかった。

処刑されているのはイスラム教徒のボシュニャク人の男たちだろう。

武装しているようには見えないので、普通の村人のようだ。

男たちは後ろ手に縛られたまま人目につかない林の中に連れていかれ、1人ずつ前に出るよう命じられる。

そして数歩前に歩いたところで後ろから撃たれて倒れていく。

映画のように泣き叫んだり逃げ出したりする者もなく、淡々と処刑が行われていく。

そして最後に残った2人は縄を解かれ、仲間の死体を藪の中に運ぶ作業を命じられる。

引きずるように仲間の死体を片付ける2人はこの時何を考えていたのだろうと想像する。

ひょっとすると自分は助かるかもと微かな期待を抱いただろうか?

しかし、死体の始末が終わると2人にも仲間と同じ運命が待っていた。

「民族浄化」と呼ばれた冷酷な戦場の日常を見せつける酷い映像・・・。

1992年に始まったボスニアヘルツェゴビナ紛争は、「民族のモザイク」と呼ばれ多民族がごちゃ混ぜに暮らしていたこの複雑なエリアで、他の民族を全て追い出し自分たちだけの国を作ろうという戦いだった。

始まりはこの年の4月6日、一連の東欧革命を受けユーゴスラビア連邦が崩壊する過程で、イスラム教徒であるボシュニャク人とカトリックを信仰するクロアチア人が中心となってボスニアヘルツェゴビナの独立を宣言したことである。

これに対してユーゴスラビア政府の中枢を握っていたセルビア系住民が反発、翌日にはボスニア北部を中心とする「スルプスカ共和国」の独立を宣言して内戦に突入した。

隣接するセルビア本国とユーゴスラビア政府軍の支援を受けるセルビア人民兵は、「スルプスカ共和国」内の町や村を次々に占領し、そこで暮らしていたボシュニャク人などを追放、あるいは虐殺していく。

さらに、セルビア人勢力は各地に強制収容所を作り、ここを舞台に組織的な殺戮や女性に対する積極的なレイプを行なっていった。

こうした噂は私が取材していた当時も伝えられていたが、秘密のベールに閉ざされて、真実が明るみに出たのは戦争が終結した1995年以降の話である。

犠牲者の中には幼い少女たちも含まれていて、西側諸国はセルビアを強く非難し被害が多かったイスラム教徒たちを支援した。

冷戦終結後初めてヨーロッパで起きたこの紛争では、国連が全面に立って問題の解決に当たるという新しい仲介方法が試されたが、結果的にはNATOによるセルビア空爆によってようやく出口が見えたのだった。

それでも、常任理事国の反対で何も決められない今の国連に比べれば、まだ希望が持てた時代だったと言えるかもしれない。

この内戦でモスタルも激戦地となった。

ただ、この町の状況は一層複雑で、「ボシュニャク人・クロアチア人 vs セルビア人」という構図ではなく、主な戦闘は「ボシュニャク人 vs クロアチア人」の間で繰り広げられたのである。

博物館に当時のモスタルの地図が展示されていた。

ちょっとわかりにくいのだが、地図の中央、黒い線で囲まれたエリアがボシュニャク人の支配地域である。

ネレトヴァ川の東岸に位置し、川と背後の高い山に挟まれて南北に伸びた狭いエリアだ。

川の対岸はクロアチア人の支配地域。

クロアチア本国はこの時期すでに激しい内戦の末にユーゴスラビアからの独立を勝ち取っていて、本国の支援を受けたボスニアのクロアチア人勢力はモスタルを自分たちの首都と定め、この町の完全掌握を狙っていた。

そして、ボシュニャク人エリアの東側、山のすぐ向こう側にはセルビア人勢力の大砲がモスタルを常に狙っていたのである。

文字通り、「前門の虎、後門の狼」という絶体絶命の状況だったのだ。

あの「スタリ・モスト」も、こうした状況の中で意図的に破壊された。

やったのは、クロアチア人の民兵組織だった。

博物館では、実際に橋が砲撃され破壊された時の映像を見ることができる。

モスタルを見下ろす山の上からクロアチア人勢力自ら撮影したものである。

大砲が橋に命中するたびに、兵士たちが歓声をあげる。

まるで縁日の的当てを楽しんでいるようだ。

これが世界に衝撃を与えた「スタリ・モスト」破壊の真相だったのかと、私は一瞬言葉を失った。

町を完全に分断するという戦略的な理由があったのかもしれないが、それを実行した兵士たちからは文化財を破壊することに対する罪悪感は一切感じられない。

キリスト教徒であるクロアチア人にとってこの橋は、イスラム支配の苦い記憶と結びついていて、むしろ積極的に破壊すべきものと考えたのかもしれない。

それにしても、何発もの砲弾を浴びながらも簡単には落ちなかったスタリ・モストの堅牢さにもある意味驚かされる。

こうして長期にわたる戦争により廃墟となったモスタルだが、戦争が終わると目覚ましい勢いで復興していく。

EUの監視団が戦後の治安維持に当たり、この町だけで1500万ドル以上の復興予算が投じられた。

廃墟を取り壊して、新たに住宅やショッピングセンターが建設された。

中でも破壊された「スタリ・モスト」の再建は最優先事項とされ、終戦から4年目には工事に着工し、5年にわたる工事の末、2004年7月グランドオープンのセレモニーが行われた。

橋だけでなく、両岸の旧市街もできる限り元の状況に忠実に再現されて、2005年「モスタル旧市街の古橋地区」は世界遺産に登録される。

モスタルは、冷戦終結後の世界が目指した紛争処理の理想を体現する形で再生され、今日再び世界から観光客が押し寄せるボスニア随一の観光地に蘇ったのである。

しかし、こうした国際社会の願いにもかかわらず、民族の対立が完全に解消したわけではない。

モスタルの街を歩くと至る所で戦争の爪痕を眼にすることになる。

無数の銃弾が撃ち込まれた建物が、戦後30年経ってもそのまま残されているのだ。

廃墟となったまま放置されている建物もあれば、今も人が住んでいる建物もある。

こうした戦争の痕跡は圧倒的にネレトヴァ川の東側、ボシュニャク人の地域で目立つ。戦争の記憶を残すために意図的に戦争遺産として保存しているのかとも考えたが、単純に修復する金がないという話も聞いた。

また、メインストリート沿いにある墓地を覗くと、1993年に死亡した人たちの墓がやたらと目につくことに気づいた。

同じ年に亡くなった人の墓が並ぶというのは、戦争か災害があった何よりの証拠である。

中には死者の写真が刻まれたお墓もあり、22歳になったばかりで死亡した青年のことが私の脳裏に焼きついた。

こんな被害の後も生々しい東岸から西を望むと、山の上に十字架が立っているのが見える。

おそらく博物館で見た「スタリ・モスト」が破壊される映像はあそこから撮影したものと思われる。

あの十字架が見守るネレトヴァ川の西岸は、戦後完全にクロアチア人たちの住むエリアとなった。

戦争が起きる前には同じユーゴスラビア国民として混在して、隣人として暮らしていたボシュニャク人とクロアチア人が完全に分類され、川の東側はボシュニャク人、西側はクロアチア人の居住エリアとなった。

橋が元通りになり、外国人観光客が気楽に橋の東西を行き来するようになっても、地元の人たちは特別な用事がない限り、川を渡ることはないという。

戦争で傷ついた人間の心は、建物のようには簡単に修復できないのだ。

外国人である私は、そんな複雑な想いもないままに、橋を渡って西岸のクロアチア人エリアを散歩する。

旧市街の雰囲気は東岸とさほど変わらないけれど、橋から離れるに従って街並みは整然としてきて、大きな教会も現れた。

写真を撮っていると、2時半を知らせる鐘が鳴った。

モスタルにはイスラム教のモスクが多く、1日に何回かお祈りの時間を知らせるアザーンが聞こえてきたが、この辺りに来るとカトリック教会の鐘の音が優勢になるようである。

西岸ではほとんど戦争の痕跡に出会うことはないが、探していくといくつかの建物に弾痕が残っているのが見つかった。

この銃弾がイスラム側から撃ち込まれたものかどうかはわからない。

弾痕が残っている壁の向きや川からの距離を考えれば、西岸に住んで抵抗したボシュニャク人の家をクロアチア側が攻撃した痕跡と考える方が自然だ。

いずれにせよ、戦後に開かれた国際法廷ではモスタルにおけるクロアチア人民兵の犯罪行為も認定されていて、クロアチア人にとっては多少後ろめたい面もあるのかもしれない。

弾痕の残る住宅の壁に描かれた不思議な女性の絵は何を伝えようとしているのだろうか?

この日の夕暮れ。

ホテルの近くにあるレストランへ夕食に出かけた。

クロアチア人地区の中にあるが、トルコ風の料理を提供するお店である。

まだ誰もいないテラス席に上がり、一番眺めのいい席を確保した。

注文したのはこの店の一番人気だという「ミックスグリル」。

さまざまな肉が山盛りで出てきて、これで一人前なのだそうだ。

一緒に、地元で製造しているという「モスタルビール」も飲んでみる。

適度な苦味もあり、なかなか美味しいビールである。

それにしても、すごい量だ。

鶏肉、羊肉、そして牛肉。

ほとんど塩で味付けされただけのシンプルなグリルなのに、これがめちゃくちゃに美味しい。

特に2種類の牛肉は大きくて柔らかくて絶品であった。

気がつくと、あたりはとっぷりと日が暮れて、大量にあった肉もかなり私のお腹に収まった。

案外、食べられるものだなぁ。

日没のお祈りを告げるアザーンが、複数のモスクから一斉に流れる。

いやあ、モスタルって本当に素敵な街だなぁと感じた。

結局、肉は全て完食し、気分が良くなったところでメニューで気になった「ボスニアコーヒー」を注文した。

「飲み方がわからない」と伝えると、あまり親切ではない店員さんは銅製の容器に入ったコーヒーをかき混ぜて、まず上澄みをスプーンですくってカップに移してから、残りのコーヒーを注いでくれた。

その所作にどんな意味があるのかは説明してくれなかったけれど、ほとんどトルココーヒーそのものだなと思う。

コーヒー自体はさほど美味しいとは思わなかったけれど、付け合わせのスイーツは最高で、イスラム文化の奥深さを感じる。

クロアチア人地区とはいえ、西岸にあるモスクにも多くの信者が集まってきていた。

モスタルでは戦後30年、こうして独自の分断と相互往来のルールが守られてきたのだろう。

満腹のお腹をさすりながら、満ち足りた気分で店を後にした。

代金はトータルで40兌換マルク、日本円にして3350円、やはり観光客価格のようであった。

食事を終えて、再び「スタリ・モスト」に行ってみる。

ライトアップされた橋が川面に映り、昼間よりも一段と魅惑的だった。

ボスニア紛争が終わり、私の関心からすっかり抜け落ちた後も、モスタルでは民族浄化の跡が今もはっきりと残っている。

その傷の深さは私の想像を遥かに超えるものだ。

戦争を経験した世代はもちろんのこと、戦後に生まれた若い世代にも戦争の傷が確実に受け継がれていることを知り、少なからぬショックを受けたモスタルでの一日だった。

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