当日予約で出かけた箱根湯本1泊2日の温泉旅行。
予約したプランには夕食は含まれていなかったので、現地に着いてからどこか近くでお店を探すことにする。
ロマンスカーの中でGoogleマップを頼りにディナーの店を検討したところ、宿の近くに数軒の飲食店があることがわかった。
一番近いのは牛なべのお店、高級そうだし、この暑い夏に牛なべでもあるまい。
その先に蕎麦屋があったが、調べてみると昼のみの営業のようだ。
そうして手近なところを探っていくうちに、一軒の老舗蕎麦店に行き当たった。
宿から歩いて5分ほど、箱根湯本駅に着いて電話をしてみると予約が可能ということで、晩飯はここに決めた。

地図を頼りに川沿いの道を進むと、何やら敷居の高そうなお屋敷に行き着いた。
どうやらここが、予約した蕎麦屋らしい。
お店の名前は「箱根暁庵本店 暁亭」という。
そういえば昔、広尾かどこかにあった「箱根暁庵」の支店に行ったことを思い出す。
どうやらここが、その本店ということのようだ。

入り口にはなんと「登録有形文化財」と書かれた看板まで立っている。
『明治の元老 山縣有朋公ゆかりの 暁亭』
山縣有朋といえば、明治の日本を軍国主義に導いた人物として私の評価は極めて低いのだが、看板にはこう書かれていた。
『明治40年(1907)古稀を迎えた元老山縣有朋公は、小田原市の西郊板橋に「古稀庵」と命名する別荘を設けられた。「暁亭」はその一部に設えた貞子夫人のための離れ家でありました。』
それから80年の時が経ち、昭和の終わり1988年に、取り壊される寸前だったこの離れを箱根に移築して蕎麦屋「暁庵」が開業、建物の新たな歴史がスタートしたということらしい。

白い暖簾がかかる木の門をくぐり・・・

アプローチを進むと、手入れされた庭の中に平屋の古民家が建っていた。
これが山縣有朋の別荘にあった離れのようだ。

店内に入ると、畳敷きの部屋にテーブル席が並んでいた。
平日の夕方5時半ということで、まだお客さんの姿はまばら。
温泉街の一番奥に位置するだけに、通りすがりの客が来る場所ではない。

その代わり、あらかじめ予約した私たちには一番眺めのいい席が用意されていた。
縁側越しに美しい庭が眺められ、明治の粋を今に伝えてくれる。
山縣有朋は好きではないが、なんとも言えず趣のある建物である。
箱根の隠れ家、ちょっと得した気分になれるお店だと思う。

メニューを開くと、温かいお蕎麦も冷たいお蕎麦も、そして蕎麦前のおつまみもなかなか手の込んだ料理が並んでいる。
竹炭を練り込んだ真っ黒な「墨の糸」という黒そばも気になる。

そんな中で、私はあえて山縣有朋の名を冠した「山縣膳」(3520円)を選んだ。
お蕎麦の前に提供される「一の膳」として、「蕎麦前 彩り六種」、すなわちお店自慢のおつまみなどが6品も付いている。
にしんのうま煮、板わさ、冷奴に合鴨のロース煮。

そして生ハムのサラダと焼き味噌である。
中でも絶品なのが、胡桃の入った焼き味噌。
これはもう、お酒なしでは済まないところだが、この日はなんとなくお酒は控えてお茶で我慢することにした。

そしていよいよお蕎麦の登場。
「二の膳」は、神奈川の銘柄豚「やまゆりポーク」を使用した「豚すき薬味せいろそば」である。
温かいつけ汁には、薄切りの豚肉となすなどの野菜がたっぷり入っていて、白髪ネギと三つ葉がトッピングされていた。

こだわりのお蕎麦は、厳選した国内産のそばの実だけを使い、その日使用する量だけ石臼で自家製粉して、「挽きたて打ちたて、茹でたて」の蕎麦を提供しているという。
お蕎麦だけの夕飯だと後でお腹が空くかなと心配ではあったが、どうしてなかなかボリュームもあり、濃厚なつゆと相まって十分の腹持ちであった。

この店で使うそばつゆは、鹿児島県枕崎市で上がった鰹から作る「本枯れ節二年物」を自家製削し、箱根の名水とともに作ったものだそうだ。
私が注文したのは豚肉入りの温かいつけ汁だったので、その味わいは今ひとつわからなかったが、今度食べる時にはぜひ普通のせいろそばを試してみたいと思った。

一方、妻が注文した「季節の野菜天ぷら盛り合わせ」(1350円)も絶品だった。
様々な夏野菜が上手に揚げられているが、中でも主役を張る「厚切りさつまいもの天ぷら」は箱根暁庵の名物というだけあって、絶対に食べる価値のある一品である。

私も2切れ分けてもらったが、素朴な見た目とは対照的に、表面はカリッと中はしっとり、これまでに食べたことのない実に芸術的な天ぷらに仕上がっている。
メニューには、さつまいもの天ぷらの解説も添えてあった。
『紅はるか使用。さつまいもが糖化するまで、長時間かけて加熱し周りが「キャラメリゼ」になるまで揚げた、ねっとり甘いさつまいもの天ぷらです』
つまり私が感じた表面のカリッとした食感は、あの「クレームブリュレ」と似た感触だったのだ。

そして、妻が注文した「とろろせいろ」(1980円)も正解だったらしい。
自然薯を使ったとろろは見るからに濃厚そうで、滋養がありそうだ。
箱根湯本駅の周辺にも「自然薯そば」を売りにした蕎麦屋が何軒も軒を連ねていて、値段は少々お高いものの、これはまさしく箱根グルメの代表格なのである。
旅館で夕食を食べる人が多いのか、食べ終わる頃になってもあまりお客さんは増えなかったけれど、どう考えても、宿のありふれた懐石料理よりもこのお蕎麦屋さんの方がずっと思い出に残る食事になると、私は思った。

お店の入り口には、この店を利用した有名人たちの色紙が飾られていた。
その中には、山田洋次監督や吉永小百合さんの色紙も。
そんな有名人もわざわざ訪れる名店だけあって、思わぬ出会いが待ち受けていた。
私たちが食事を終え、そろそろ席を立とうかというタイミングで、知った顔が突然現れたのだ。
テレビ局時代にお世話になったマネージャーさんだ。
「あれ〜、こんなところでお久しぶりです」などと挨拶をしていると、テレビで長年活躍されている大物司会者が、私の会社の後輩を引き連れてやってきた。
暑さを避けて箱根でゴルフをした帰りらしく、私は驚いて「ご無沙汰しています」とご挨拶をして慌てて妻を紹介した。
現役時代、直接お仕事をしたことはなかったけれど、いろいろな場面で接点があり、父の葬式の際にはお花をお供えしていただいた恩義もある。
大物司会者氏は私の顔を見ると、「こんなところでどうしたの? この辺に別荘でもあるの?」と聞いた。
別荘?・・・さすがお金持ちは、言うことが違う。

私が会社を辞めて、すでに6年。
私よりもずっと年上のこの大物司会者氏は、今もテレビで活躍されている。
まさかこんな箱根のお店で偶然お目にかかるとは思いもしなかった。
人生には時にこうした不思議な巡り合わせがあり、それが歳を重ねる面白さでもあるとしみじみと感じながら、暮れゆく道を宿へと戻る。
美味しい夕食と思いがけない出会い、箱根湯本のいい思い出ができた。
食べログ評価3.45、私の評価は3.60。
「箱根暁庵本店 暁亭」
電話:050-5600-8980
営業時間:11:00 - 20:00
定休日:不定休
https://akatsukian.jp/