🇵🇭 フィリピン/マニラ 2025年4月3日~6日
今週世界中の株式市場に激震が走った。
きっかけはトランプ大統領が2日に正式に発表した相互関税の発動である。
詳しい成り行きは事態の推移を見極めてから改めて書こうと思うが、トランプ氏が「アメリカ解放の日」と呼ぶ前代未聞の措置により、わずか数日の間に世界の時価総額500兆円以上が吹き飛んでしまった。
さすがトランプ大統領、やることがとにかく常識はずれである。
NISAを始めたばかりの投資初心者の人たちは、今ごろ経験したことのない暴落にパニックになっているのではないかと心配する。

そんなマーケットの混乱をよそに、私は今週、フィリピンのマニラに来ている。
戦後80周年の今年、日本軍が残した戦争の爪痕を辿るアジアの旅の第二弾として、日本人が忘れてしまった「マニラ市街戦」のことを学ぶことが第一の目的である。
ついでに、私が若き日に取材した「フィリピン革命」ゆかりの場所を40年ぶりに訪ねてみようと思った。
マニラ行きは全日空便を利用した。
岡山から羽田経由でマニラまで片道3万8000円と比較的リーズナブルなチケットがあったからだ。

そのおかげで、機内食は親子丼。
デザートにはハーゲンダッツのバニラアイスまで付いてくる。
機内食は基本的に苦手だけれど、やはり日本のキャリアは質が高い。

およそ4時間ほどのフライトの後、マニラに向けて降下する際、機窓から島が見えた。
マニラ湾の入り口に浮かぶ「コレヒドール島」。
そして島の向こうに見える陸地が「バターン半島」で、フィリピンの戦いにおける重要な戦跡だ。
1941年太平洋戦争に突入した日本は、マレー作戦と並行してアメリカの植民地だったフィリピンの攻略に乗り出す。
日本軍が真珠湾攻撃の2日後の12月10日からルソン島に上陸、マニラに向けて猛スピードで進撃を開始すると、アメリカはマニラを「無防備都市」と宣言して退却、要塞化していたコレヒドール島とバターン半島に立て籠もり日本軍を迎え撃つ作戦を立てた。

アメリカが準備したバターン半島の防衛線突破に手間取り多数の犠牲者を出した日本軍だが、1942年4月9日にはバターン半島の米軍が降伏、7万人以上を捕虜とした。
大量の捕虜の扱いに困った日本軍は、捕虜たちに徒歩での長距離移動を命じ、これが「バターン死の行進」として大々的に報道され、日本軍の非道ぶりを欧米諸国に印象づけることになる。
バターン半島を占領した日本軍はコレヒドール島への砲撃を開始、この狭い海峡を挟んで日米両軍の砲撃戦が繰り広げられた。
しかし、4月19日に米軍の弾薬庫が大爆発を起こし、砲撃戦を制した日本軍はコレヒドール島への上陸作戦に乗り出す。
コレヒドール島の守備隊が降伏したのは5月6日。
日本軍の計画では45日でフィリピンを攻略するとしていたが、結局150日を要し、「シンガポールは落ちたがコレヒドールは健在である」としてマッカーサー司令官を一躍英雄に祭り上げた。
しかし、コレヒドール島が陥落した時、マッカーサー司令官はすでに島にはいなかった。
3月に密かにオーストラリアに脱出していたのである。
有名な「I shall return」の名言は脱出後のオーストラリアで述べた言葉なのだ。

私が乗った全日空機は、羽田空港を出発して4時間20分後にマニラに到着した。
40年前に見慣れたカラフルでごちゃごちゃした街並みは今も健在だ。
しかし、当時はなかった真新しいビル街もいくつも見えて、発展する東南アジア、フィリピンも例外ではないことをうかがわせた。
そして80年前、コレヒドール島を陥落させた日本はフィリピン全土に軍政を敷くことになる。
わずか3年半ほどの日本による統治ではあるが、フィリピンの歴史においては残念ながら暗黒時代として記憶されている。
ほとんどの日本人は知らないけれど、1945年アメリカの反攻を受けた日本軍はこのマニラを放棄することをせず、街の中心部に立て籠もり激しい市街戦を展開する道を選ぶ。
「東洋の真珠」と呼ばれスペイン時代の美しい街並みが残っていたマニラはこの市街戦によって徹底的に破壊され、その過程で10万人以上の市民が犠牲となった。
単に戦闘に巻き込まれただけではなく、日本軍が積極的、組織的に住民を虐殺したのである。
しかし、終戦直後、南京虐殺と並ぶ日本軍の重大な戦争犯罪とみなされたマニラでの大量虐殺は、時間の経過とともに日本では完全に忘れ去られ、正直な話、私も今回の旅まではその残虐さを知らなかった。
戦後80年、自らの無知を埋める旅である。

マニラ首都圏の南部に位置する国際空港は現在、「ニノイ・アキノ国際空港」と呼ばれている。
1983年8月21日の白昼、アメリカから帰国したベニグノ・アキノ元上院議員、通称「ニノイ」がメディアの目の前で殺害された。
ニノイは長期独裁体制を敷いていたマルコス大統領を公然と批判する最大の政敵であり、暗殺の前日、TBS「報道特集」の単独インタビューに対し「明日殺されるかもしれない」と語っていた。
彼の予言通り、飛行機がマニラの空港に到着すると制服姿の兵士が乗り込んで来てニノイを連行、その直後に銃声が聞こえタラップ下に倒れたニノイの姿をテレビカメラがとらえた。
あまりにも衝撃的な事件だった。
当時私はテレビ局に入社してまだ2年目の駆け出しの報道カメラマンで、その3年後、バンコク支局の特派員として赴任した直後にテレビ史に残る革命劇を目撃することになる。
あの革命は、あの日、この空港から始まったのであり、その空港に殺された英雄の名前が刻まれたのも当然の成り行きだっただろう。
しかし、歴史は皮肉なもので、現在フィリピンの大統領を務めるのは革命によって亡命を余儀なくされたマルコス大統領の息子なのである。

40年ぶりに降り立ったマニラの空港は、ターミナルの数も増えて、入国審査もアプリから事前申請できるようになって多少スムーズになった気がする。
そして何より、静かになっていた。
バンコク特派員時代、何度も利用した空港は到着ロビーに客引きのタクシー運転手で溢れかえり、ものすごい熱気と殺気に包まれていた。
今ではだいぶ洗練されたようにも見えるけれど、他の東南アジア諸国に比べると市内への交通手段は貧弱で、旅行者にとっては今でも移動の主力はタクシーのようだ。
わずか3泊4日の短い旅。
トランプ関税のことは忘れて、80年前と40年前のマニラに向き合おうと思う。