<吉祥寺残日録>私が生きた時代👀 ドキュメンタリー番組『世界サブカルチャー史』で辿る「日本 逆説の1970年代」 #240128

26日から始まった宮藤官九郎脚本のドラマが面白い。

TBS金曜ドラマ「不適切にもほどがある」。

阿部サダヲ演じる昭和のパワハラ教師がタイムスリップしてハラスメントに怯えて人間関係が希薄になった令和の時代に迷い込むという設定で、バブル期の当たり前が現代の日本でいかに変質したかをユーモラスに描いている。

今や死語となった当時の流行語やわかる人にはわかる小ネタが随所に散りばめられていて、2つの時代を生きた私の世代には刺さるセリフが随所に登場する。

途中インド映画のように登場人物が突然歌い出したりして、クドカン流の奇想天外な脚本が万人受けするとは思わないが、昭和を美化する風潮を笑うと同時に、コンプライアンスやハラスメント教育が徹底しすぎた現代社会に対する疑問もストレートにぶつけていて今後の展開が楽しみで仕方がない。

タイムスリップといえば、奇妙なニュースが飛び込んできた。

1970年代に起きた連続企業爆破事件に関与して指名手配されていた左翼活動家・桐島聡容疑者を名乗る人物が警視庁公安部の事情聴取を受けているというのだ。

桐島は過激派組織「東アジア反日武装戦線」に所属していて、1975年に起きた銀座の韓国産業経済研究所の爆破事件に関与したとして指名手配されていた。

事件からおよそ半世紀、桐島は逃亡を続けていてその間全国の交番に彼の顔写真が貼られていたが、事件発覚のきっかけは末期ガンで余命数ヶ月と診断されたこの男が自らが桐島であることを病院関係者に告げたことがきっかけだったという。

同じ過激派グループによる連続企業爆破事件が起きたのは、私が大学生となり上京する直前の1974〜75年だった。

田舎の高校生には遠い世界の話であり、私には事件の明確な記憶はさほど残っていないものの、人間の性質というものは親から受け継いだ気質だけではなく、成長期の時代背景にも極めて大きな影響を受けるものだ。

そういう意味で、1970年代が私の人格形成に与えた影響は計り知れない。

先日、岡山で伐採した木を焼却炉で燃やす作業をした時、BGMとして流していたのは1970年代の楽曲だった。

吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫、チューリップ・・・、そうかと思えば荒井由美や中島みゆき、サザンオールスターズもいる。

四畳半フォークからニューミュージックへ。

それこそがまさに、私の青春だった。

しかし私にとって極めて重要な1970年代は、世界的な学生運動のうねりが挫折した「停滞の時代」と定義され、現代史の中で軽視される傾向にあるという。

まるで、私自身が否定されるような違和感。

誰になんと言われようと、私の中にはっきりと刻まれた1970年代の痕跡が残る。

70年代とはどんな時代だったのか?

自分自身の原点を客観的に振り返る材料として、1本のテレビドキュメンタリーに沿って考えてみたいと思った。

NHK-BSで再放送された『世界サブカルチャー史 欲望の系譜3 日本 逆説の60ー90s』。

テレビマンユニオンが制作した私が大好きなシリーズの日本編である。

1970年代を扱った回は銀座の歩行者天国の空撮から始まった。

銀座で日本初の「歩行者天国」が始まったのは1970年8月2日だそうだ。

バックに流れる曲はチューリップの名曲「心の旅」だ。

この曲がリリースされた1973年、私は高校生。

家にステレオはなく、ラジオから流れる音楽をただただ聴くだけだった。

そして1990年代、私が編集長を務めたテレビのニュース番組では、飲み会の最後にみんなで肩を組み、なぜか「心の旅」を合唱するのが慣わしとなっていた。

実に懐かしい、私にとってまさに思い出の曲である。

この曲をバックに玉木宏のナレーションが流れる。

『70年代の日本。日米安保、学生紛争に揺れた闘争の季節が終わり、日本にも本格的な消費社会が訪れていた。かつてのような社会の一体感を失った人々が新たな価値観を模索していた。』

曲はサザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」に変わる。

彼らのデビューは1978年、私は東京に出て大学生活を満喫していた。

サザンやユーミンの登場は間違いなく、現代の日本文化につながる時代の転換点だった。

『高度成長を経た1970年代の日本。多くの人がすでに中流意識を獲得していた。しかし景気後退に公害問題、世界的なエネルギー不足に人々は動揺、不安も感じていた。70年代の日本はどこへ向かおうとしていたのか? 集団より「個」の重視へと転換する時代に吹いていた風は?』

1970年代は私にとって中学、高校、大学で学生生活を過ごしていた時代。

その時代しか知らない若者にとって特に違和感はなかったものの、今になって前後の時代と比較してみると、70年代は相当変わった変な時代だったことがわかる。

そもそも映像に残る人々のファッション。

チューリップハットにパンタロン、男性も長髪で、今から見れば実にダサい。

いまだに私にファッションセンスがないのは、あの時代に青春時代を過ごしたからなのかもしれない。

日本に70年代の幕開けを告げたのは大阪で開かれた日本万国博覧会。

1968年にはすでに世界第2位の経済大国になっていた日本で初めて開催された万博で、3月15日から9月13日までの会期中、のべ6000万人が会場に押し寄せた。

映像に映る当時の日本人はみんな溢れるような笑顔で、男性の多くは背広を着て、和服姿の女性も目につく。

まだ「よそ行きの服」という言葉が残っていた昭和の時代である。

当時中学生だった私も2度万博に行った記憶がある。

一度は学校から集団で、もう一度は誰と行ったのだろう?

当時読んでいだ漫画雑誌にも万博の特集が大々的に組まれていて、そんな記事をワクワクしながら読んだことや、会場ではものすごい行列のアメリカ館やソ連館を避けて並ぶ人もいないアフリカなどのマイナーなパビリオンをわけもわからず回ったことをかすかに覚えている。

今から思えば、その後世界各地の発展途上国を旅することになる私の潜在意識に、大阪万博が影響していたのかもしれない。

しかし万博開会中には、よど号ハイジャック事件が起きている。

岡山の中学生だった私にはリアルタイムの記憶は残っていないが、「われわれは明日のジョーである」という言葉を残し北朝鮮に亡命したよど号メンバーには、テレビ局の報道カメラマンとなった1984年、北朝鮮取材の一環として平壌でインタビューすることになる。

彼らははっきりとは口にしなかったものの、北朝鮮に渡ったことを後悔しているように私には見えた。

その時にはまだ知らなかったが、北朝鮮に亡命したよど号メンバーたちは1980年前後、ヨーロッパを舞台に日本人を拉致する活動に加担していた。

そして私が警視庁の担当記者をしていた1988年、最年少メンバーだった柴田泰弘が日本に極秘帰国して資金集めをしているのが摘発された。

まさに桐島と同じ、タイムカプセルから抜け出してきたような事件であった。

そして同じ1970年の11月には、作家の三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で自衛隊に決起を促したのち割腹自殺する「三島事件」も起きた。

『自衛隊が20年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだよ。もうこれで憲法改正のチャンスはない。自衛隊が国軍になる日はない。建軍の本義はない。それを私は最も嘆いていたんだ』

日米安保条約が改定され新憲法の下で自衛隊がアメリカの軍隊に成り下がったとみなす三島は、自衛隊にクーデターを促したが隊員たちの野次でかき消され、失意のうちに切腹した。

事件の4ヶ月前、サンケイ新聞に発表したエッセイで三島は次のように書いていた。

『このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう』

1972年には、連合赤軍による「あさま山荘事件」が起きた。

この大事件は、当時中学生だった私でもはっきりと記憶している。

過激派のメンバーが人質をとって籠城する山荘に機動隊が突入する様子はテレビで10時間にわたって生中継され、時事問題に疎かった田舎の少年にもその映像はあまりに生々しく、身動きすることもできずに画面に見入っていた。

日本中が見守ったこの衝撃的な事件は、権力と戦う学生を英雄視した時代の終焉を告げる出来事となる。

その後、多くの若者は政治と距離を置くようになり、左派学生たちは学内で孤立していく。

学生運動が挫折して無力感が漂うそんな時代を象徴する一本の映画として紹介されるのが、寺山修司第一回監督作品「書を捨てよ町へ出よう」。

詩人で劇作家だった寺山が1971年に発表したこの映画、大学生になってから名画座で見た記憶はあるが、その前衛的な作風は当時の私にはよく理解できなかった。

『一冊の書物を大都会の中に拡大し、拡散し、事物を読み風景を解釈することによって、読書の経験を書物から解放するこころみとして撮った映画だということもできるのである』(寺山修司 作品ノート)

学生運動の過程で、難解な言葉を操り前衛的な映画や音楽を愛することが格好いいとされる風潮ができあがっていた。

この寺山の処女作はイタリアのサンレモ映画祭でグランプリを獲得、つまり日本だけでなく世界全体が60年代の挫折から立ち直れず進むべき道を求めて模索した時代だったのだろう。

田舎から出てきた私には正直理解できない言葉が多かったが、努力して理解しよう、理解したフリをしようと必死でともがいていたことを思い出す。

あの当時の私の愛読書といえば、1972年に創刊された情報誌「ぴあ」だった。

毎月「ぴあ」の端から端まで目を通して、掲載されているマイナーな映画や小劇場、コンサートの情報をチェックし、知らない劇場にも足を運んだ。

それが時代の最先端のような気がしていたのだろう。

高校時代まで好きだったハリウッド映画を完全に馬鹿にして、名画座のオールナイトで「ATG(日本アートシアターギルド)」の難解な映画などを好んで見て、分かったフリをしていた。

そんなATG映画の中で私が一番好きだったのは、あの評論家の田原総一朗さんが制作・監督した『あらかじめ失われた恋人たちよ』という作品である。

今にして思えば、やはりとてつもなく変な時代だったのだ。

「ぴあ」に先立つ1970年には女性誌の「an•an」が創刊された。

70年代の東京は世界有数の大都市に成長し、女性の進学率の高まりとともに男女平等を求める運動が始まるのもこの頃だ。

女性は家庭を守り子供を育てるという旧来の日本の価値観は、アンノン族の出現により確実に変貌していく。

この頃国鉄が始めた「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンも相まって、オシャレをした女性だけのグループ旅行が日本全国に広がっていった。

テレビの全盛期も70年代にやってきた。

テレビ番組のカラー化が進み、TBSのお化け番組「8時だよ!全員集合」が最高視聴率50.5%を叩き出したのも1973年4月のことである。

その煽りを受けて大手映画会社は経営危機に陥った。

1971年には大映が倒産、日活は生き残りを賭けてロマンポルノへの路線変更を決断する。

私の思春期はまさにポルノ全盛期でもあった。

街にはポルノ映画のポスターがあふれ、テレビの深夜番組では女性の裸が当たり前のように流れて、日本テレビの「11PM」のオープニング曲を聴くとドキドキと胸が高まったことを思い出す。

先週始まったクドカンのドラマ「不適切にもほどがある」の中で、令和から昭和にタイムスリップした男子中学生が「地上波でオッパイが見たいんだ」と言って令和に戻ることを拒むシーンが出てきて、思わず笑ってしまった。

ただ面白いもので、「10分に1度の濡れ場さえあれば後は何をやっても構わない」というロマンポルノの世界は若手映画人の登竜門ともなった。

藤田敏八、崔洋一、相米慎二、周防正行、森田芳光など、その後の日本映画を支える監督たちがロマンポルノから育っていった。

1970年代の大ヒット映画といえば深作欣二監督、菅原文太主演の「仁義なき戦い」シリーズ。

第1作が公開されたのが1973年である。

既存のヤクザ映画で柱となっていた親分子分の「仁義」が失われた極道の世界を描く実録路線は、建前からリアルへ、秩序が崩壊したあの時代の空気を見事に反映し、私を魅了した。

リアルタイムで見られなかった私は、大学に入ってからどうしても「仁義なき戦い」を見たくて、仲間を誘って東映と交渉し大学でシリーズ5作品の一挙上映会を開催したことがある。

無断でビラ張りをしていて警察に捕まった挙句、結果は大赤字。

でもまだビデオ屋もない時代に、見たい映画を見る方法はそれしかなかったのだ。

今にして思えばいい思い出である。

映画界に起きた1970年代の大事件といえば、角川映画の進出だろう。

1976年、出版大手の角川書店が第1作となる映画「犬神家の一族」を公開、興行成績15億円の大ヒットとなった。

『映画は本を売るための巨大なコマーシャル』

売りたい本を映画で宣伝するという角川春樹の戦略は、大量広告とメディアミックスという新たな手法を生み出し、映画界に刺激を与えた。

しかし私は、「セーラー服と機関銃」と「蒲田行進曲」以外の角川映画はあまり好きではなかった。

こうして振り返ってみると1970年代の映画界は、日活のロマンポルノと東映のヤクザ映画、そして角川映画、確かに日本映画「冬の時代」だったのである。

1970年代は、公害の時代であった。

富山のイタイイタイ病、熊本の水俣病、三重の四日市ぜんそく、新潟の第二水俣病。

東京の都心でも急増した自動車の排気ガスで光化学スモッグが発生するようになり、高度成長がもたらした負の遺産が都市も地方も日本列島全体を覆い尽くした。

国民の厳しい目が注がれる中で、環境庁が新設されたのは1971年のことである。

私が暮らしていた岡山でも、海水浴場の水質がどんどん悪化して、とても泳げる海ではなくなってしまった。

一方で、1970年代はニュータウンの時代でもあった。

多摩ニュータウンの入居が始まったのは1971年3月。

リビングを中心とした欧米スタイルの間取りは若いカップルの人気を集め、排気ガスを逃れて多くの人々が郊外に夢のマイホームを買い求めるようになる。

日活ロマンポルノの第1作のタイトルが「団地妻 昼下がりの情事」だったのも、そうした時代の反映だったに違いない。

田中角栄が総理大臣に選ばれたのは1972年だった。

彼の著書「日本列島改造論」がベストセラーとなり、日本全国を新幹線と高速道路で繋いで都市と地方の格差を是正しようという夢が膨らんだ。

エリートが支配する政界で頭角を表した小学校卒の田中は、「庶民宰相」「今太閤」と呼ばれ絶大な人気を誇る。

就任2ヶ月にして中国との国交正常化を実現し、パンダが日本にやってきた。

しかし、そんな角栄ブームは長くは続かず、田中はロッキード事件で逮捕され闇将軍となる。

1973年には、第4次中東戦争の影響で日本にもオイルショックが押し寄せた。

店頭からトイレットペーパーが消え、物価が一気に高騰、狂乱物価という言葉が生まれる。

そして翌74年には戦後初のマイナス成長を記録して、日本社会が謳歌していた高度経済成長の時代は終わりを迎えた。

ちなみにこの年、野球界のスーパースター・長嶋茂雄も引退している。

さらに70年代の終わりにはイラン革命を引き金として第二次オイルショックも起きて、1970年代は様々なネガティブな出来事に世界が翻弄され自信を失った時代でもあった。

そんな社会不安の中で、ベストセラーとなったのが「ノストラダムスの大予言」。

『1999年の7の月、空から恐怖の大王が降ってくる』

この本をきっかけに、にわかにオカルトブームが巻き起こり、テレビでは超能力者ユリ・ゲラーが大人気となる。

我が家でも、家族4人でスプーンを持ってテレビに向かって一生懸命念じたことを思い出す。

小松左京原作の映画「日本沈没」が大ヒットしたのも1973年のことだった。

こんな先が見えない曖昧な時代、高校生だった私が深夜ラジオでよく聴いて好きだった曲が井上陽水の「傘がない」。

あの頃には深く考えなかったけれど、学生運動に挫折して政治から距離を置くようになった当時の若者たちの心情がその歌詞によく表れている。

戦って社会を変えるよりも、自分の身の回りの幸せを大切にすること。

その究極の形が、「四畳半フォーク」と呼ばれた暗〜い音楽だった。

その代表曲が、南こうせつとかぐや姫が歌う「神田川」。

この曲がヒットしたのは1973年、貧しくて哀愁あふれる四畳半での同棲生活に田舎の高校生だった私は憧れた。

そして大学生になり東京に出た私は、彼女を作って文字通りボロアパートでの同棲生活を実現させる。

「同棲が好き」と仲間に公言することに格好良さのようなものを感じていたのは、きっと四畳半フォークの影響だったに違いない。

一方、「神田川」がヒットした1973年、四畳半フォークとは対極の全く新しい音楽が日本に現れる。

荒井由美の「ひこうき雲」。

どっぷり四畳半に浸っていた私が彼女の音楽を知ったのはいつ頃だったかはっきり覚えてはいないが、あれは間違いなく大きな転換点だった気がする。

ユーミンをはじめとする「ニューミュージック」と呼ばれた音楽をよく聴くようになったのは、おそらく東京に出て大学生活を始めてからだったと思う。

それは私の中でそれまではっきり区別されていた洋楽と邦楽の境界線を飛躍的に縮め、日本人にも洗練された曲が作れることを教えてくれた画期的な変化であった。

ユーミンがデビューした頃、日本人のライフスタイルも大きく変わろうとしていた。

セブンイレブンの第1号店がオープンしたのは1974年、郊外の幹線道路には次々にファミリーレストランがオープンしていく。

「ニューファミリー」が牽引する新たな消費社会が日本に根付くのと並行して、音楽の世界もニューミュージック全盛の時代へと変化していったのだ。

1978年には、TBSで「ザ・ベストテン」の放送が開始され、ランキング形式による出演アーティストの選定は既存の芸能界の秩序を破壊し、新たなスターを発掘していく。

そんな時代に出現したのがサザンオールスターズだった。

「低迷の時代」と評される70年代に生まれたユーミンとサザンの音楽が、その後長く日本の音楽シーンを引っ張り上げていくことになるのは実に興味深い。

挫折としらけの中で始まった1970年代だったが、音楽界だけでなく様々な分野で「新たな日本」が芽吹き始めていた。

1978年にはインベーダーゲームが登場し、ゲーム大国日本の第一歩が始まる。

2回のオイルショックも追い風となり、低燃費の日本車は海外でも売れに売れ、80年代の激しい日米自動車摩擦の火種はすでに出来始めていた。

一方で、日本式経営を評価する声も高まり、エズラ・ボーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーとなったのは1979年のことである。

同じ1979年に作家デビューした村上春樹は、その処女作「風の歌を聴け」で主人公に次のような台詞を吐かせている。

『強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ』

ドキュメンタリーは村上春樹の言葉を受けて、こんなナレーションで番組を締めくくる。

『強い人間に憧れても結局は叶わないと、多くの人が気づくことになった時代。スクラムを組んで戦うことに限界を感じ、個人の世界に没入した挙句の感慨か。アメリカ文学に影響を受けた新たな世代の才能が綴った言葉が、まさに風の歌のように街角に響いていた。そして時代は黄金の80年代へ・・・』

多感な思春期に触れた音楽や映画は、確実に私の血肉となり、半世紀経った今も私の心の中に巣食い、人格や価値観の一部となっている。

とても屈折していて、複雑で、ネガティブで、それでいて今日まで生き続けている多くの文化が生まれ出た時代。

それが私が育った1970年代の日本であり、私という人間はあの時代によって形作られていることを今改めて強く確信している。

<吉祥寺残日録>私が生きた時代👀 ドキュメンタリー番組『世界サブカルチャー史』で辿る「アメリカ幻想の1970年代」 #221105

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