<きちたび>シンガポールの旅2025🇸🇬 民族共生の都市国家!ランチはインド街、ディナーはアラブ街で多文化を満喫する

🇸🇬 シンガポール 2025年2月12日

午前中にシンガポールに着いたので、多少睡眠不足ではあるが、短パン、Tシャツに着替えてすぐに街歩きに出かけた。

朝のうちの方が少しでも暑さが凌げると考えたからだ。

まずは、ホテルの近くにある「ハジャ・ファティマ・モスク」から。

このモスクは、女性実業家の依頼によりイギリス人建築家によって設計されたという変わり種で、モスクなのにヨーロッパとマレー、中国の影響が現れているという。

歴史的な価値はさほどないようだけれど、とてもシンガポールっぽい。

そこから西に進むと、アラブ街「カンポン・グラム」の中心部に入る。

金色のドームが輝く「サルタン・モスク」の周辺は街並みもアラブ風だ。

中央を走る通りの名前は、ズバリ「アラブストリート」。

当然のことながら、この界隈ではアラビア文字もよく眼にする。

とはいえ、古い町屋をカラフルにペインティングしたお店では、トルコ料理やペルシャ絨毯などを扱うところが多く、アラブといっても中東全般、もしくはイスラム教徒の街という印象である。

このアラブ街を抜けてさらに西へ進むと、「ブギス・ストリート」と呼ばれるアーケードが現れる。

ブギスとは、主にインドネシアのスラウェシ島からやってきた人たちのことで、ブギス駅の西側のエリアには昔からブギス人が暮らしてきた。

アーケードの中は、土産物や偽ブランド品、安価な衣料品や雑貨などを扱う店がひしめき、行き交う人々でごった返していた。

聞くところによれば、この界隈はもともと風俗店が多く治安も悪かったらしく、政府の強力な指導の下、若者に人気のアーケード街へと再開発が進められたという。

とはいえ、インドネシア的な印象はほとんどない。

個人的に嬉しかったのは、果物を扱う露店でバンコク特派員時代に慣れ親しんだマンゴスチンなど南国のフルーツが売られていたことだ。

アーケードを抜けても、露店は四方八方に延々と続いている。

この露店に導かれるように北に歩いていくと、交差点の真ん中に中国風の像が出現した。

この界隈では、売られている物も中国っぽい商品ばかり。

チャイナタウンとは離れた場所ではあるが、シンガポール国民の過半数を占める華人は市内の至るところに勢力を張っているのだ。

中国人はとにかく赤と金が好き。

だから華人の多いエリアは派手で年中お祭りのようだ。

この華人エリアから大通りを挟んだ反対側には、インド人街「リトル・インディア」が広がる。

この界隈に来ると、店の人もみんなインド系で、壁面にはインド美人の広告が微笑んでいる。

店にはインドの神様が祀られ・・・

宗教的な儀式に使うのであろうド派手な花飾りが売られていた。

ただ、ブギスストリート界隈のような賑わいはなく、どこかうらぶれた空気が漂う。

そろそろ歩き疲れてきたし、とにかく暑い!

ちょうど時刻も12時を回ったので、この日はインド街でランチを食べることにした。

Googleマップを頼りに、リトル・インディアをぶらぶら、めぼしい飲食店を物色する。

カラフルな建物が眼に止まり、その前の広場がフードコートのようになっているのを見つけたものの、周囲の屋台を覗いてみても食欲がそそられるような食い物はない。

まだ旅行初日なので、変なところで食べて下痢でもしたらたまらない。

そんな時、一軒のベジタリアンレストランを見つけた。

大通りに面した「KOMALA VILAS」。

看板に「estd 1947」と書いてあるのを見て、ここは老舗に違いないと思ったのが決め手となった。

中に入ると、大きな冷蔵庫にさまざまな食材が並び、お客さんもいっぱい。

案の定、すごく繁盛している。

「1人だ」と告げると、2階に上がるように言われ、階段を上がると運良く1席だけ空きがあった。

やはりインド系の人が多く、インド流に手で直接食べている客が目立つものの、中国系や白人の観光客もいる。

メニューを読んでも、馴染みのない料理が多く、よくわからないので写真があるものの中から選ぶことにした。

しばし迷って選んだのは、こちらのクレープのような奴。

「Mysore Masala Dosai」というものらしい。

「Dosai」は南インドの料理で、日本では「ドーサ」と呼ばれることが多いそうだ。

おそらく「ドーサ」はインドの共通語である北部のヒンディー語で、それに対して「ドサイ」はシンガポールに多い南部のタミル語なんだと思う。

しかし、いずれにせよ私が一度も食べたことのない未知の味であることには変わりがない。

ドサイと一緒に注文したマンゴラッシーが先に来た。

1杯5.40シンガポールドルだから、600円ほどだ。

味は日本で飲むのと変わらず、美味しい。

そして、遅れて運ばれてきたのが「Mysore Masala Dosai」。

値段は7.20シンガポールドル、日本円にすると800円ほどである。

でも、「写真とちょっと違う」というのが第一印象。

ひょっとすると、うまく伝わらなかったのだろうか?

しかし、どうせよかわからないものを頼んでいるのだから、たとえ違っていても大差はない。

巻いたクレープみたいなものをめくってみると、中からカレーのようなものが出てきたので、きっと写真の奴と同じものなのだろう。

中にカレーが入っているのに、お皿にも別のカレーのようなものやチーズのようなものが添えられていて、どうやって食べるのが正解なのかさっぱりわからない。

ただ、周りの人たちもいろいろぐちゃぐちゃに混ぜて食べているので、とりあえず右手でちぎって他のカレーをつけて食べる。

反対側にも黄色いペーストのようなものがあり、これがなかなか美味である。

インド人は不浄な左手は使わないと聞いているので、私も頑張って右手だけで食べていたのだけれど、次第に手がべちょべちょになり気持ち悪いので、ギブアップしてスプーンとフォークをもらった。

ベジタリアン専門の店だからか、カレーは総じて辛くなく、あっという間に美味しく平らげてしまった。

やっぱり流行っているだけのことはある。

いきなり、とても珍しくとても美味しいランチにありつけるとは、今回の旅は幸先がいい。

税金が安いことで世界中からお金持ちを惹きつけるシンガポールでも、このところ消費税に当たる「GTS」が相次いで引き上げられていて、現在はほぼ全ての商品とサービスに9%の税金が課せられるそうだ。

それにしても、多様な文化が共存する魅惑的なシンガポールの街はどのようにしてできあがったのだろう?

調べてみると、その理由は19世紀のイギリスの植民地支配に遡るという。

シンガポールの中心部、高層ビルが立ち並ぶ金融街を流れるシンガポール川のほとりに立つ彫像の人物が、多民族が別々に暮らす街を作り上げた。

有名な「ラッフルズ・ホテル」などシンガポール各地にその名を刻むトーマス・ラッフルズである。

19世紀、ジャングルに覆われたほぼ無人の島をイギリスの植民地に組み入れた東インド会社の職員だったラッフルズは、円滑な統治のための都市計画を考えた。

以下は、岩崎育夫著『物語 シンガポールの歴史』からの引用である。

『シンガポールを植民地化すると、ラッフルズはグランド・デザインを作成して計画的な街作りを行った。

基本コンセプトは、シンガポール川河口付近一帯を市街地とし、中心部にイギリス植民地政府機関とヨーロッパ人居住地を配置し、その周囲をアジア人移民の居住地にするというものである。このプランに基づいて、シンガポール川河口を少し遡った北岸のフォート・カニングの小高い丘に総督官邸を建て、その周りに政府機関を建設した。そして、政府機関の付近には、聖アンドリュース教会、イギリス人クラブ、パダンと呼ばれる緑の芝生が美しい大広場が作られ、ヨーロッパ人居住地や商業地とされた。現在、フォート・カニングは都心部の公園に、シンガポール川北岸には国会議事堂、最高裁判所、シティー・ホールなどの政府関連機関の建物が並び、当時の雰囲気をうかがうことができる。

当初、イギリス東インド会社はシンガポールをインド人囚人の流刑地としても使い、1825年に第一陣が到着し、57年には流刑者は3000人にも達していた。イギリスは、植民地政府機関、道路や橋、聖アンドリュース教会などの建設に、これらの囚人を働かせる。彼らは刑期を終えると自由身分になり、シンガポールにとどまることが許されたので、大半が残り、自由労働者として働くか、小さな商売を始めた。』

『ラッフルズは、アジア人移民に対しては民族別に居住地を指定し、棲み分ける政策を採った。中国人には、シンガポール川南岸の沼地を埋め立てた地域(チャイナ・タウン)、インド人には、その西のシンガポール川に面した一帯を割り当てた。ラッフルズが上陸した時、シンガポール川北岸付近に住んでいたマレー人は当地を追い立てられ、中国人居住地の少し南に新しい居住地が与えられた。シンガポール川北岸のヨーロッパ人居住地の北側も移民の居住地とされ、アラブ人、マレー人、インドネシア・スラベシ島出身のブギス人の順番で割り振られ、さらには、アラブ人街の西の一角もインド人居住地とされた(現在、この地域は「リトル・インディア」と呼ばれるインド人観光街である)。

なぜ、ラッフルズはアジア人移民者に自由に居住地を選ばせたのではなく、民族別に居住地を指定したのだろうか。それは、異なる民族間の争いが起こるのを防ぐこと、多様な民族が社会的に交わることで、イギリス植民地支配への不満が一つになることを懸念したことにあった。それぞれの移民集団をまとめて住まわせて住民自治を行わせ、相互にバラバラの状態にしておく政策が採られたわけで、これはイギリスが得意とした分割統治であった。

移民者が増えると市街地が拡大し、すでに1850年代に、街の中心部から少し内陸部に入った果樹園一帯が開発されて、ヨーロッパ人の新居住地となっていた。ここが、現在シンガポール最大の目抜通りのオーチャード通りである(オーチャードは果樹園の意味)。中国人も、移民者が増えてチャイナ・タウンが手狭になると、シンガポール島東部のカトン一帯に新たな居住地が与えられた。そして、島の内陸部に居住地が拡がると、イギリスは道路網の開発・整備を進め、これも1850年代に、市街地のシンガポール島南端を起点に、島東端のチャンギ、北端のセレターやウッドランズ、西端のジュロンにいたる、放射線状の幹線道路が建設された。

1965年の分離独立後、政府の綿密な計画に基づいて街作りや島全体のインフラ開発が行われるが、これはすでにイギリス植民地時代に始まったものなのである。』

その日の夕方、ようやく少し涼しくなった街に出て、ホテル近くのアラブ街で晩ごはんを食べることにした。

選んだお店は、サルタンモスクの正面に伸びる「Bussorah St」に店を構えるトルコ料理のお店。

「スルタン・ターキッシュ・レストラン」

まあ、観光客目当てのお店だろうが、モスクの前に椰子の木が並ぶこの雰囲気は夕暮れ時にはとても魅惑的だ。

夕方になると店にはみ出すようにテーブルが並べられるのだが、私は運良く最前列の席を確保した。

人気のお店らしく、さまざまなな顔をした人たちが楽しそうに会話を楽しんでいる。

今回の旅で初めてのディナー。

何を食べようか?

しばしメニューと格闘する。

肉のグリルがメインのお店だが、量の少ないものという私のリクエストを聞いて、店の女の子が選んでくれたのがこちら。

「フムスチキン」とパン、そしてミントティーという組み合わせだ。

中東で広く食べられているひよこ豆のペースト「フムス」は私の好物である。

しかし、鶏肉と一緒に一つのプレートに盛られた料理をいただくのは初めてだ。

値段は18.90シンガポールドル、およそ2200円と少しお高めだけれど、グリルの盛り合わせは40ドル以上するので、シンガポールとしてはこれでもリーズナブルな方なのかもしれない。

トルコ風?のパンにフムスをつけていただく。

これならハズレもなく、胃にもたれる心配もないだろう。

日が暮れてくるにつれ、向かいのショップに飾られたアラブ風の照明が艶めかしく輝きを増す。

やはり旅先の食事は、味だけでなくロケーションも重要である。

ミントティーは、1杯2.90シンガポールドル(約330円)と値段は手頃だけれど、期待したほど美味しくはなかった。

欲を出してポットで注文しなくて正解だと思う。

食事を終え店を出ると、空の色が私の好きな群青色に変わっていた。

一人旅に出ると、少し早めにレストランを探して、空が青から黒へと変わる時間を楽しむのが私のスタイルなのだ。

知らない街が一番美しく見える瞬間なのである。

レストランからホテルに戻る途中、賑やかな鐘の音が聞こえてきた。

ホテル近く、中国の鍋を食べさせる店の前で、若い男女が龍踊りを披露している。

何かのお祝いなのか、お祭りなのか、お店が依頼したものなのか?

詳細はわからないが、大勢の観客が龍踊りに見入っている。

少し歩くだけで、多様な文化に出会える街って、なんだかワクワクする。

イギリスの植民地が引き寄せたアジアからの移民たち。

その子孫たちは、イギリスが去りシンガポールが独立国になった後も自らのルーツがもたらした文化を守ろうとしている。

単一民族神話を信じ移民に厳しい日本にとって、シンガポールの多様性は一つの参考になると思った。

こうしてイギリス人が各民族を分断しようとしたシンガポールだが、独立後、リー・クアンユー首相率いる新政府、人民行動党政権はさまざまな形で民族の融和を図ろうと試みているという。

その一つが、大規模な公共住宅の建設と住民たちの割り振りである。

再び『物語シンガポールの歴史』から引用させていただこう。

『1959年に人民行動党政権が誕生した時の緊急課題の一つが、公共住宅建設にあった。1960年に住宅開発庁を創設すると、翌61年に「住宅建設5ヵ年計画」を作成して大規模な住宅建設を開始し、毎年計画を上回るハイペースで住宅建設を進めていった。当初は、都心部のスラムを壊して低階層公共住宅が建設されたが、都心部の土地が不足し、かつ人口が増えると、シンガポール島郊外の農地や荒地を開発して、10階や20階建てなど高層公共住宅からなる、数十万人規模のニュータウンが島内の各地に建設された。

この結果、国民の公共住宅入居率は、人民行動党政権が誕生した1959年の8.8%から、マレーシアから分離した65年に23.2%、80年に68.5%に増え、2000年には88.0%にも達した。現在、国民10人のうちほぼ9人が公共住宅に住んでおり、アジアでこれに次ぐ公共住宅入居率は香港であるが、45%ほどでしかない。

注目されるのは、公共住宅が種族融和政策を推進するためにも利用されたことである。公共住宅の入居部屋の位置は、入居者が自由に選べるのではなく、政府は意図的に、華人家族とマレー人家族とインド人家族が隣り合わせになる入居政策を採った。もちろん、三つの民族の人口比率が大きく開いているので、すべての入居者にこの原則を適用するのは不可能である。実際には、各地の公共住宅団地の入居者の民族比率を、国民人口比率のそれに合わせて上限とし、特定の公共住宅団地に特定の民族が集中しないようにしたのである。

イギリス植民地時代には、民族による棲み分け政策が採られたが、人民行動党はそれとは一転して、意図的に異なる民族の混住政策を進めたのである。』

シンガポールを歩くと、必ず外壁に番号が描かれた高層住宅を見かける。

世界トップクラスの人口密度を大量の公共住宅を建設することによって解決し、ついでに最大の政治課題だった民族問題の改善に繋げようとした強かさ。

日本人が学ぶことがこの国にはたくさんあると感じた。

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