ハマスによる電撃攻撃から50日。
ガザではようやく、一時的な戦闘休止が実現しそうである。

仲介役を務めるカタール政府は、日本時間の24日午後2時から4日間の戦闘休止が始まり、ハマスに捉えられている人質のうち女性や子供50人が段階的に解放されると発表した。
しかし、この戦闘休止はあくまで一時的なものであり、ハマス壊滅まで戦争をやめないというイスラエルの意志は固い。
それにしても、と思う。
なぜガザの市民はハマスのような組織を自分たちの代表に選んだのだろう?
そして、イスラエル国民はどうしてパレスチナとの和平を妨げるネタニヤフ政権を選び続けのか?
パレスチナだけではない。
独裁者となったプーチンを今も支持するロシア国民。
自由にものが言えない習近平体制を受け入れ、香港の民主化運動弾圧を支持した中国国民。
アメリカでは来年の大統領選挙でバイデンvsトランプという高齢者対決が再び繰り返されそうだし、日本でも、何もしない岸田総理をもう2年間、国のトップに担いでいる。
政治の世界はどの国を見てもおかしなことばかりだ。
目先の利益にばかりこだわるのではなく、より長期的な平和と安定を求めて、もっと合理的で寛容な世界を作ることはできないのか?
暗澹たる気持ちで、私は日々のニュースを眺めている。
しかし、そんな私の心を逆撫でするように、またもや物議を醸しそうなリーダーが誕生している。
アルゼンチン国民は19日、「奇人」と呼ばれ過激な自由主義を説くハビエル・ミレイ下院議員を新しい大統領に選出した。
ミレイ氏は、自国通貨を無くしアメリカドルに変えることや日銀に当たる中央銀行の廃止を公約に掲げ、自由至上主義のもと福祉を切り捨てる小さな政府を目指すという。
オランダでも22日行われた下院選挙で、反移民・反EU・反イスラムを掲げる極右・自由党が第一党となり、果たしてどんな連立政権が誕生するのか、その行方が注目されている。
分断が進み、寛容さがどんどん失われていく世界。
理性によって己の欲望をコントロールするという人間にしかできない美徳や合理性は、完全にこの世から消え去ってしまったように感じる。

どうして、理性的な社会が失われ、過激な主張を繰り返すポピュリストに人は惹きつけられるのか?
最近、私の心の中にずっと巣食っているそんな素朴な疑問に、一つの答えを与えてくれた番組に出会った。
10月末にEテレで放送された『思考のオルタナティブ 分断を超える哲学 ジョセフ・ヒース』。
NHKのBSで不定期放送され、私のお気に入りである『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』シリーズのスピンオフ番組である。
内容は、「反逆の神話」「啓蒙思想2.0」などの著書で知られるカナダ出身の哲学者ジョセフ・ヒース氏による特別講義、グローバリゼーションの中で分断を深めるアメリカ社会の分析がとても興味深い。
なぜ現代人は合理的な判断ができないのか?
ヒース氏の解説を詳しく引用しておきたいと思う。
番組はまず、自身の著書「啓蒙思想2.0」についてのお話から始まる。
「啓蒙思想2.0」は2015年に書かれた本だ。重要なのはドナルド・トランプがアメリカ大統領に当選する前に書かれたということだ。本のテーマは政治で強くなりつつあった不合理性の勝利と専門家への反抗だ。
国民のために最善の行動をしてきたと自称する技術官僚のエリートたちに対して、大きな反抗というか、大衆迎合的な反抗があった。面白いことにコロナ禍においてもその傾向は顕著だった。専門家やエリートたちが社会にルールや制限を設けていて、さまざまな国でさまざまな程度の反抗が見られた。アメリカはおそらく最も強く反抗を示しただろう。パンデミックの終わりごろでもワクチン接種を受けたアメリカ人はわずか7割だ。つまり国民の多くはシンプルに提供された専門性を拒否したのだ。
専門家に苛立つようになったのには、理由があった。専門家に、家にいろとか、マスクをつけろとか、感染防止のためにああしろこうしろといろいろ言われる。でも多くの人々にとって「家を出てはいけない」と言われるのはちょっと複雑な話だ。「自分がかかったらまた別の人がかかってその人がまた別の人に・・・それで結局大変なことになる」と。わりと抽象的な話をしないといけない。一方、「これは社会をコントロールしようとして全体主義のクーデターを起こすための陰謀だ」とかいう専門性への反抗は、話が本能的で人々の感情に訴えている。だから、多くの人にとって大変魅力的だ。話が複雑になると、公衆空間で注目を集める時に不利になるんだ。
引用:NHK『思考のオルタナティブ 分断を超える哲学 ジョセフ・ヒース』

こうした社会の傾向は、決して今に始まったことではないとヒース氏は指摘する。
たとえば、1994年公開のアカデミー作品賞受賞映画『フォレスト・ガンプ』はその代表例だという。
トム・ハンクス演じる主人公は、純粋な心と恵まれた体だけが頼りの男だが、悩み苦しむ人々を尻目にガンプは意外な成功を収めていく。
「フォレスト・ガンプ」の主人公は極めて知能が低い。彼は1960年代を体験して頭がいい人たちが誤った選択をするのを見てきた。でも彼はシンプルな男だから、正しい選択を常にして幸せに生きる。知的な学問と専門性が、人生の誤った選択をさせてしまうかもしれないという、よくある例え話だ。
「フォレスト・ガンプ」は保守主義の議論のスタイルの例だ。要は、専門性を批判している。ベトナム戦争の後、アメリカでは戦争を専門家のせいにすることが多かった。つまりワシントンにいる高学歴の人たちが壮大で難しい理論を研究していたから、アメリカの戦争努力が阻まれたと。もし戦略をアメリカ軍に任せていたら、アメリカは勝っていたはずだと。「フォレスト・ガンプ」はこの論調に乗っている。
引用:NHK『思考のオルタナティブ 分断を超える哲学 ジョセフ・ヒース』

刑務所から逃げ出すために病を装い精神病院に入った主人公が、看護師たちの行き過ぎた管理に立ち向かう1975年公開の映画『カッコーの巣の上で』。
映画の原作となる小説を書いたケン・キージーは、ヒッピーコミューンのリーダーとしても知られ、当時合法だった合成麻薬LSDを使ったパーティーを開催していた。
ヒース氏は「無律法主義」という用語を使い、キリスト教の教えとの関係に言及する。
「カッコーの巣の上で」は典型的な60年代の映画だ。70年代に作られたものだが、60年代的と呼ばれることの多くは70年代に起きている。1960年代の「カウンターカルチャー」と呼ばれるものの一部だ。
60年代のカウンターカルチャームーブメントで重要なのは、資本主義や国家など西洋社会の特定の組織への反抗ではなく、社会生活を統制するルールがあること自体への反抗を生んだことだ。「無律法的」という用語も使われていた。「無律法主義」というのはキリスト教の古き伝統だ。キリスト教にはこういう考えがある。聖書のどこかでイエスがこう言った。「今まで与えられたルールを忘れなさい。代わりにたった一つの指示を与える。それは私があなたを愛したようにお互いを愛することだ」と。つまり、たくさんのルールで構成される道徳の代わりに愛があればいいと言っている。幸せになるためには、こうしたルールを全て捨てるということだ。これが60年代のカウンターカルチャーの反抗を生み出したのだ。
「セックス、ドラッグ、ロックンロール」というスローガンは、文字通りに解釈された。ルールからの解放の手段という意味で。またその反抗は多くの場合、理性への反抗でもあった。ドラッグは人々が理性による制限から自由になることを可能にした。特に、LSDを飲むことによって理性から自由になれる。60年代のカウンターカルチャーが左翼の思想と結びついたいい例だ。
そして、ここ30年間で面白いことに、左派で起きていたことが右派に移った。今では、こうした無律法主義は左派よりも右派の方でより一般的になっている。
引用:NHK『思考のオルタナティブ 分断を超える哲学 ジョセフ・ヒース』
1970年代、私の人格形成において実に大きな影響を受けた時代だ。
1968年、戦後生まれのベビーブーマーたちが世界中で学生運動に立ち上がり既存の秩序に挑戦し立ち上がった。
左翼思想と結びついた闘争は、当時の大人たちの目には大衆迎合的な「無律法主義」に映ったことだろう。
70年代には、闘争に敗れ東洋の神秘主義に救いを求める者も現れる。
東洋文化は影響を及ぼしたが、それは非常に歪んだものだった。本物の東洋の精神性や文化から直接影響を受けたというよりも、西洋の想像した東洋の精神性や文化から影響を受けていたんだ。西洋の問題は、文化や組織にあるのではなく、西洋の理性にあるのだと思われていた。啓蒙思想の伝統などが問題なんだと。そして突然、西洋の理性の代替案として東洋文化を見つめ直すことが魅力的に見えた。「西洋の理性は直線的で抑圧的でロジカルだから東洋の思想の方がよい」と。だが、多くはただ西洋の理想郷への憧れを東洋の思想に投影しただけだ。こうして私が「理性の穴埋め問題」と呼んでいることが始まった。その人の嗜好によって代替案にのめり込んで、理想郷的な憧れをその代替案に投影するんだ。
引用:NHK『思考のオルタナティブ 分断を超える哲学 ジョセフ・ヒース』
西洋的な合理主義への反抗。
理性への反抗としての「無律法主義」が、この30年の間に左翼から右翼に移ったとの指摘は、トランプ支持者を見れば一目瞭然であり実に合点がいく。
そして21世紀に入り、そうした精神構造がインターネットの広がりとともにより顕在化する。
分散型ネットワークという発想は、中央集権を嫌う若者たちによって夢想されてきたものであり、アップルの創業者スティーブ・ジョブスもその一人である。
しかし、膨大な情報の中にフェイクが入り乱れる今のインターネット状況は、彼らが目指したものとはかけ離れた化け物のようになってしまった。
インターネットは、60年代カウンターカルチャーの最も重要かつ永続的な産物の一つだと思う。コンピューターに対する古い考え方は、大型汎用コンピューターに対する考えだった。コンピューターは一つの場所にあり、そこに端末でアクセスする。そのため、非常に中央集権的だった。つまり、それぞれの端末がコンピューターとしての機能を持つ「パーソナル・コンピューター」という発想は、60年代の反権威主義の一部だったのだ。そして趣味でコンピューターを使う人たちが、中央集権的な管理なしにお互いのコンピューター同士を接続するというアイデアもまた非常にカウンターカルチャー的なものだったのだ。
従って、インターネットを通じて再生産される価値観もまた、その文化を反映したものになると人々は想定していた。だがその予測は当たらないことがはっきりわかった。つまりカウンターカルチャーはインターネットを生み出したが、インターネットは必ずしもカウンターカルチャーの価値観を伝播したわけではなかったのだ。
50年前、あなたが読んでいた印刷物を思い返してみてください。印刷物になったもののおそらく99%は誰かによって編集されたものだと思う。編集者は多くの点で理性の代弁者のようなものでもある。なぜなら自分が書いたものを熟考することを強いるからだ。一方、今スマホを開き何かを読み始めると、平均的な人にとってそれはおそらく99%は編集されていないものだ。それはコミュニケーションの性質も著しく変えた。なぜなら、そうした編集者たちは私たちが門番と呼んでいた役割をかつて担っていたからだ。そして私たちは、そうした門番が悪者だと思っていた。なぜなら悪用可能なたくさんの権力を持っていたからだ。だが門番が完全にいなくなった今、編集者が有益な役割も果たしていたことがわかった。彼らは大量の反社会的行為、攻撃、憎悪といったものを制限していたのだ。
引用:NHK『思考のオルタナティブ 分断を超える哲学 ジョセフ・ヒース』
門番は悪者である。
インターネットの普及とともに、マスコミを「マスゴミ」と呼ぶ風潮が急速に広まった。
私はその間、マスコミの一員として「門番」の役割を務めていたので、この風潮に戸惑いながら、むき出しの悪意が膨れ上がる様を危機感を持って眺めていた。

ヒース氏は、SNS上で繰り広げられる「キャンセルカルチャー」と呼ばれる現象に言及する。
SNSをやらない私には「キャンセルカルチャー」という言葉は馴染みのないものだが、企業や個人の不祥事や失言を記録を掘り起こし、ネット上で拡散、社会から排除しようというムーブメントのことらしい。
世界的にSNSが普及する中で急速に変容する社会を、ヒース氏は「キャンセルカルチャー」「ネオ・ヴィクトリアン」「オルト・ライト」などの用語を使いながら説明してくれた。
最近20歳になった子供を持っている親として、一つ自覚を持っているのは、彼らの文化の環境のルールが私の若かった頃と比べて全く違うということだ。「キャンセルカルチャー」がその良い例だ。全く新しい現象であり、若者同士の交流に大きな影響を与えている。
まず「キャンセルカルチャー」を政治的なものとして捉えるのはよくある誤解だ。政治的なものではない。左翼でも右翼でも同じ現象が見られるから。そしてそれが社交的な交流のリスクを大きく変えた。
若者、たとえば私の生徒たちにもそれが見られる。お互いを怖がっているのだ。私のことを全然怖がらないし、教授という伝統的な権威には敬意も表さない。本当に怖がっているのは生徒同士だ。録画されているかもしれないし、ネットの集団を動員して攻撃してくるかもしれないからだ。つまり、社会的な環境はより窮屈なルールに統制されるようになった。
だから私は今の若い人たちを「ネオ・ヴィクトリアン」と呼んでいるんだ。彼らが向かっているのは19世紀の対人交流スタイルへの回帰だと感じている。19世紀には人々は極めてフォーマルなエチケットや交流の様式を持っていたのだが、それは20世紀の間にゆっくりと損なわれ、人々は日常的な交流においてよりカジュアルで形式ばらない形になった。たとえば古典的だが、デートに誘うときに男の子が女の子のところに行って、「一緒にアイスクリームを食べに行きませんか?」という感じであからさまな恋愛感情を直接女性に向かい表現する。それは19世紀には許されなかったことだ。つまり、あからさまに誰かに恋愛感情を表現するという考え方は、20世紀の非公式化の一部だった。しかしアメリカでは非常に多くの若者が、男の子が女の子に近づいて面と向かってデートに誘うことは許されない、あるいは気味が悪いと考えている。それは彼らの考えでは、そのためのアプリがあるからだ。つまりデートをしたいなら、Tinder などのアプリを使うべきなのだ。現実世界は人々がロマンチックな興味を表現する場所ではないということなのだ。
この10年間で、「オルト・ライト」と呼ばれる本質的には右翼のカウンターカルチャー運動が台頭してきた。そしてそれはキャンセルカルチャーの台頭や社会生活の中で若者が“ヴィクトリア主義”を強めていることとも結びついている。
アメリカ人は日常的な交流を支配するために、ますます多くのルールを作っている。しかし、ネット上では完全に無制限だ。ネット上では匿名性を保ったまま、何をやっても何を言っても何の結果も伴わない。そのため反社会的な行動がオンラインコミュニティーに大量に移行しているのだ。つまり、ステレオタイプの14歳の少年は、学校に行っても基本的に一日中何も言わない。そして学校が終わると、彼らは家に帰りいきなりネット上のコミュニティーにアクセスし、突然その14歳の少年は文字通りモンスターになるのだ。彼は人種差別的で女性差別的な罵倒を絶えず浴びせ、有害で辛辣な状態になる。
しかしネット上で起きていることに人々が警戒心を強めるにつれて、現実社会はより懲罰的になる。起きていることをコントロールすることはできないが、コントロールしたいという強い欲望があるからだ。それは社会環境で起きていることに対する一種の反応なのだ。
引用:NHK『思考のオルタナティブ 分断を超える哲学 ジョセフ・ヒース』
えっ? 今ってこんなことになってるの?
SNSをやらない私には、ものすごく新鮮な驚きだった。
もちろんみんながみんなそうではないだろうが、確かに今の若者は電話をかけない。
相手の時間を邪魔するのはルール違反と考えるからだろう。
だが、「デジタルネイティブ」と呼ばれる今の若い世代が19世紀の行動規範に逆戻りしているという指摘はものすごい驚きであり、そういう視点を持って今後の社会情勢を見ていけば、新たな発見もあるかもしれない。

社会の抑圧からの逃避は、アメリカでのオタク文化の流行に繋がっているとヒース氏は指摘する。
それを象徴するのが、日本の高校を舞台とする「ハイスクールファンタジー」の人気ぶりだそうで、どうやらちょっとエッチな学園ものらしい。
オタクに関して一般的に言えることだが、外国人にとって日本のサブカルチャーが特に魅力的なのは、昔からずっとあるその極端さ故だと思う。それは抗議の形でもある。しかしそれは政治的価値という点ではなく、ただ反発や拒否を表す、本質的に左翼的でも右翼的でもないものなのだ。
興味深いのは、外国人が日本の高校をなぜそれほど魅力的に感じるのか、ということだ。日本文化について、最も早い時期になされた観察の一つは、セクシュアリティーの問題をめぐる羞恥心が非常に少なかったということだ。西洋文明、キリスト教と日本が最初に接触した時から日本文化にはそのような側面があった。文化的な輸出、特に若者のセクシュアリティーに目を向けると、日本のハイスクールファンタジーはアメリカ人が言うようにセクシュアライズされている。若者のセクシュアリティーについてよりオープンなのだ。西洋社会とキリスト教社会はセックスに関する問題に関しては常に潔癖主義的だ。ハリー・ポッターを思い浮かべてください。ハリー・ポッターの登場人物はみんな恋愛関係に発展するけど、あの映画にはセクシュアリティーがない。一方、日本の文化は一貫してセクシュアリティーの問題に対してオープンなのだ。
引用:NHK『思考のオルタナティブ 分断を超える哲学 ジョセフ・ヒース』
外国人から見ると、日本社会は性におおらかと見えるようだ。
海外の無修正のヌード写真に憧れた世代としてはいささか違和感のある指摘ではあるが、女性の権利意識が高く、女性を性の商品のように扱うことを嫌う欧米の男性から見れば、日本のサブカルチャーはかつての春画のように「セクシュアリティーにオープン」な国と映るのだろう。
人間はもともと非合理的なものなのだ。
勉強して努力しなければ、理性で自分をコントロールできない。
そしてヒース氏は、こうした人間の非合理性を利用するのがいわゆるマーケティングだと指摘する。
彼は著書「啓蒙思想2.0」の中にはこんな記述がある。
『20世紀後期のブランド・マーケティングへの移行は、広告を効果的にするには、必ずしも消費者の合理性に訴えるまでもないという発明に基づいたものだ。実のところ、商品を買う理由を与える必要などはない。ブランドとは信頼であり、信頼はひたすら感情的で直感的なアピールによって育まれる。かくして、広告はどんどん消費者の合理性をまったく無視しようと努めている。これの何より明白な証拠は、広告に占める言語の量が着実に容赦無く減っていることだ。』
今世紀に入り、マーケティングという言葉を聞くことがずいぶん増えたと思っていたが、こういうことだったのか。
インターネットの普及につれ、街から本屋が減って久しい。
スマホの登場により、情報の詰まったホームページやブログよりも、短いフレーズや写真で発信するSNSや動画がマーケティングの主流となった。
長い文章を書くにはそれなりに勉強も必要だが、主観的な短文ならば誰でも簡単に発信できる。
そして、こうしたマーケティングの手法は商売だけでなく、政治の世界でも重要度を増しているのだ。
商業社会では人々の非合理性に対し強い動機を持つものが見られる。その非合理性によって損をすることが確実な選択肢を与えることが可能になるからだ。もしあなたが非合理的で私が十分に賢ければ、私はあなたのお金を全て奪う方法を見つけ出すことができるだろう。だから多くのビジネスモデルが基本的に人々の非合理性を利用するのは自然なことなのだ。
特に民主主義社会では、人々の感情を揺さぶって専門性へ反抗させるのは簡単なことだ。専門家に反抗するというのは、ほとんどの場合良い広告戦略になるし、選挙の良いスローガンにもなる。専門性に対する大衆迎合的な反抗を生かすのは魅力的なんだ。
合理的であるためには注意を払う必要がある。そして注意は負担が大きく難しい。常に合理的でいることは不可能なんだ。だが日本の伝統的な美意識の一部は合理性への負担を軽減している面がある。美的なシンプルさによって、より集中し注意を払うことができるということがある。もっとシンプルに、そのためにはモノを減らすことも必要だ。そこで登場したのが近藤麻理恵だ。持ち物を全部捨てて本当に好きなものだけを残す。それもまた、シンプルを目指す動きの一部なんだ。
唯一の長期的な解決策は、合理性にとって敵対的でなくなるように環境を変えることだと思う。直感は悪い結果より良い結果をもたらす可能性が高い。つまり解決策は自分の頭だけにあるのではなく、より合理的になるように努力することだ。私たちは集団として間違った判断をしないよう環境を変えていかなければならないのだ。
引用:NHK『思考のオルタナティブ 分断を超える哲学 ジョセフ・ヒース』

「こんまり」こと、近藤麻理恵さんの名前が思わぬところで出てきてびっくりした。
確かに、アメリカでもこんまりさんの片付け術は大人気だと聞いたことがある。
1970年代、ベトナム戦争で傷ついたアメリカで東洋の神秘主義が人気になったように、社会の分断が深まり混迷する今のアメリカでこんまりさんが注目されるのは、こういう文脈なのかと腑に落ちた。
第二次世界大戦のような大惨事を経験しなければ、人間は理性に目を向けない生き物なのかもしれない。
今後ますます、世界中で大衆迎合的な政治家や陰謀論的な非合理的な言説が勢いを増す気がする。
ヒース氏の指摘は、そうした社会を読み解くヒントを与えてくれたように感じた。
<吉祥寺残日録>私が生きた時代👀 ドキュメンタリー番組『世界サブカルチャー史』で辿る「アメリカ闘争の1960年代」 #220818