🇯🇵 広島県/尾道市→愛媛県/今治市 2024年5月24日
左官工事に合わせて計画した四国行き当たりばったりの旅、広島県の尾道に立ち寄った後、いよいよ橋を渡る。
本州から四国まで橋で渡るルートは3つ。
東から淡路島を通る「神戸・鳴門ルート」、瀬戸大橋と呼ばれる「児島・坂出ルート」、そしてしまなみ海道と呼ばれる「尾道・今治ルート」だ。
明治時代から四国の人々の悲願だった本州をつなぐ橋。
ルート決定の過程では激しい誘致合戦と政治的な駆け引きが行われた。

3ルートのうち一番最後、1999年に全面開通したのが広島県の尾道と愛媛県の今治を結ぶ通称「しまなみ海道」である。
全長は59.40キロと3ルートの中では2番目だが、橋梁部の総延長で比較すると9.50キロと3ルートの中で最も長い。
その代わり途中、瀬戸内海の中でも最も島が密集する芸予諸島の6つの島(向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島)を通過するため、島から島へとアイランドホッピングしながら多島美を堪能できるのがこのルートの特徴である。

もともと宇高連絡船で結ばれていた最短距離の岡山・香川のルートや巨大市場である関西エリアに近い兵庫・徳島ルートに比べて、ニーズという点で見劣りした。
しかし、どこにも知恵者がいるもので、3ルートで唯一自転車道が併設されたことを巧みに利用することを思いつく。
橋の開通当初からサイクリングに目をつけたのだ。
そもそも、しまなみ海道にだけ自転車道が認められたのは、比較的人口の多い複数の島々をつなぐことから、地域住民の生活道路としての役割が重視されたためだったが、1970年代にサイクリングブームが起きると、これを集客に役立てようと地元自治体が中心となってさまざまな施策を講じていく。
レンタサイクルを整備し、サイクルイベントを開き、住民参加型でモデルコースを作り、日本で初めてブルーラインによるルート標示を導入した。
さらに、自転車道の無料化を国に何度も陳情し、試験的な無料での運用が現在も続いている。
つまり、自転車でしまなみ海道を走っても通行料は徴収されないのだ。
そして愛媛県知事が台湾の世界的な自転車メーカー「ジャイアント」社に直接売り込むなど世界に「サイクリストの聖地」をアピール、2014年から始まった国際サイクリング大会「サイクリングしまなみ」をきっかけに世界的なサイクリングロードとしてしまなみ海道が知られるようになる。
地元自治体の熱意があればここまでやれるんだ。
「しまなみ海道」はある意味、日本の地方創生のモデルケースになりうるだろう。

この「しまなみ海道」を渡ってどこに行くか?
行き当たりばったりの旅で私が目的地に設定したのが、因島にある小さな山城「因島水軍城」だった。
しまなみ海道が通る芸予諸島といえば、昔は瀬戸内海の交通を支配した「村上海賊」の拠点。
瀬戸内海のほぼ中央にまるで関所のように連なる芸予諸島には、彼らのネットワークが張り巡らされていた。

かなり急な石段を登っていくと、『“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島』と書かれた日本遺産のパネルが立っていた。
『戦国時代、宣教師ルイス・フロイスをして“日本最大の海賊”と言わしめた「村上海賊」。理不尽に船を襲い、金品を略奪する「海賊(パイレーツ)」とは対照的に、村上海賊は掟に従って航海の安全を保障し、瀬戸内海の交易・流通の秩序を支える海上活動を生業とした。その本拠地「芸予諸島」には、活動拠点として築いた「海城」群など海賊たちの記憶が色濃く残っている。尾道・今治をつなぐ芸予諸島をゆけば、急流が渦巻くこの地の利を活かし、中世の瀬戸内海航路を支配した村上海賊の生きた姿を現代において体感できる。』
しまなみ海道に沿って、芸予諸島に設けられた村上海賊ゆかりの日本遺産構成文化財は全部で42。
ほとんど学校でも習わなかった瀬戸内海のダークヒーローの実像を知りたくて、わざわざ水軍城に立ち寄ったのである。

とはいえこの因島水軍城、実はその歴史は浅く、昭和58年12月に築城されたものらしい。
水軍のふるさと因島にふさわしいものをと歴史家の監修のもと再現されたもので、二の丸は展示室、隅櫓は展望台、本丸は水軍の資料館として一般に公開されている。
どうやら村上海賊の菩提寺である「金蓮寺」の住職が音頭を取って作った資料館ということのようだ。

資料館には、村上家に伝わる具足や古文書などが展示されている。
ただ、私は村上海賊についてほとんど知識を持っていないので、基礎的な情報が書かれたパネルの方が役に立った。

村上海賊はここ因島の他に、能島、来島に本拠を置く三家からなっていたという。
14世紀中頃から瀬戸内海で活躍した村上海賊の三家は、連携と離反を繰り返しながら、戦時には海の武士団として、平時には船の警護や水先案内人、さらには商人や漁師としてこの海域で活動していた。
三家はそれそれの判断で周辺地域の守護大名との関係を築き、毛利水軍の主力として織田信長の水軍を破ったこともあった。
しかし、豊臣秀吉が天下を統一し1588年に海賊停止令を出すと、その活動は取り締まりの対象となり瀬戸内海での自由な活動を奪われるのである。

江戸時代になると、来島村上氏は海を離れ九州の大名に取り立てられる一方、因島と能島の村上氏は現在の山口県、三田尻の港に拠点を移して毛利藩の御船手組として海に関わることになる。
それでも、芸予諸島周辺の愛媛県や広島県には今も村上姓の人が多く住んでいて、今治を地盤とする衆院議員の村上誠一郎氏や関ジャニ∞改め「SUPER EIGHT」の村上信五さんも村上海賊の末裔なんだという。
「海賊」にも関わらず、今も地元の人たちに愛されるご先祖様なのだ。

この水軍城の資料館では思わぬ出会いがあった。
それは資料館で流されていた村上海賊のストーリーを映像化した「日本遺産」の番組である。
これはテレビマンだった私が最後に企画したシリーズ番組の1本。
「日本遺産」という新プロジェクトを立ち上げたばかりの文化庁の担当者に働きかけて、認定自治体を巻き込んで番組化と共に、地域が広報活動にも利用できる仕組みを整えたのだ。

あの番組制作を開始したのは2015年。
10年近く経った今も私たちが作った番組がこうして活用されていることを知り、驚くとともにとても嬉しい気持ちになった。
私が主に担当してきた報道・情報番組は、速報が命の生放送が中心で、どんなに頑張って掴んだとくダネも時間が経てば価値を失ってしまうからだ。
久しぶりに「日本遺産」の公式ポータルサイトにアクセスしてみると、そこにも私たちが企画制作した映像がたくさん使われていた。
自分が関わった仕事が目に見える形で残っているというのはかくも嬉しいものなのか。

水軍城の視察を終え、再びしまなみ海道を辿って大島に渡った。
能島村上氏の本拠地があった能島を見たいと思ったからだ。
対岸から望む能島は、平べったい小さな島だったが、ドローンで撮影すると三角形の特徴的な形をしていて、村上氏はここに本丸、二の丸、三の丸、出丸などを持つ能島城を築き、狭い海峡を通過する交易船の警護と水先案内をして通行料を徴収していた。
スタッフが撮影してきた能島の映像を見て、一度自分でこの場所を訪れたいと思っていたのだ。

瀬戸内海の干満に合わせ、この海域では激しい潮の流れが起きる。
普段とても穏やかに見える瀬戸内海が、ここでは渦を巻き、遠目にも川のように海水が流れるのが見えた。
いくつもの島々がひしめき合う芸予諸島の特殊な地形が、瀬戸内海きっての海の難所を作り出し、この海域を知り尽くした村上海賊に繁栄をもたらしたのだ。
能島の近くには、今治市が設置した村上海賊のミュージアムがあり、私一人なら絶対に訪れたかったのだが、あいにく海賊には全く興味のない妻が一緒だったので、遠目に能島を眺めるだけで四国へ渡った。

四国の玄関口、今治の中心部には、巨大な船のスクリューが据えられていた。
日本最大の造船会社「今治造船」は、来島村上氏の本拠地である今治沖の来島を望む入江で明治に創業した「檜垣造船」をルーツとする。
戦前、この地域の6つの造船会社が合併する形で「今治造船」という社名が誕生したが、その中には2つの「村上造船」も含まれていた。
“日本最大の海賊”と呼ばれた村上海賊の痕跡は様々な形で今も生き続けているのだ。

そして、今治のホテルにチェックインすると、ロビー内に自転車置き場が設置されていた。
しまなみ海道の開通により、海賊が活躍した芸予諸島は急速に船から自転車にシフトチェンジが進んでいるらしい。
海賊と造船と自転車。
知れば知るほど、興味がそそられるエリアである。