<きちたび>中国・北京の旅2025🇨🇳 日本を敗戦に導いた日中戦争!その発端となった「盧溝橋」は現在工事中だった

🇨🇳中国/北京 2025年6月25日

終戦80年の今年、私は日本軍の痕跡を訪ねてアジアを旅している。

2月のシンガポールとマレーシア、4月のフィリピンに続き、今回の目的地は中国である。

日本列島を焼け野原に変えた80年前のみじめな敗戦の歴史を知れば知るほど、すべての出発点が真珠湾ではなく、中国大陸への計画なき侵略にあったことは明らかとなる。

そこで今回の旅では、歴史の教科書でも必ず登場する「柳条湖」と「盧溝橋」を訪れてみることにした。

紛れもなく日本の軍部が引き起こした満州事変と支那事変の発火点である。

まず向かったのは中国の首都、北京。

比較的安い便があったので、今回は日本のキャリア、全日空の往復便を利用した。

東京は朝から激しい雨。

膝を痛めた妻を一人残しての旅立ちはちょっと後ろめたい。

いつものようにプライオリティパスの使えるラウンジで時間を潰す予定だったが、何と満席で入り口に行列ができている。

ダメ元でANAのラウンジに行ってみると、アップグレードポイントを3点使えば利用可能だと言われた。

さすがに一段グレードが高く、お酒も食事も充実している。

特にいなり寿司が美味しい。

ANAの機内食はサラダの野菜も新鮮でハーゲンダッツのアイスクリームまで付き、さすが日本のクオリティの高さを示していた。

とはいえ、やはり地上で食べるいなり寿司には敵わない。

羽田を離陸した全日空機は若狭湾から隠岐島の上空遠飛び、朝鮮半島を横断、気がつくと中国大陸が眼下に見えている。

機内モニターでチェックするとどうやら山東半島の煙台という街らしい。

山東半島は第一次大戦に参戦した日本がドイツから奪い植民地とした縁の深い土地である。

海岸線に造られた街は人工的に計画されたことが上空からでもわかるほどに整然としていて、例によって似たような高層マンション群が林立している。

こうした風景を見ると、中国に来たことを実感させられる。

飛行機は山東半島をかすめた後渤海上空を飛行し、天津から北京へとアプローチする。

天津は、義和団事件後日本軍が駐留した街であり、盧溝橋事件が起きると天津軍は素早く北京に部隊を進め泥沼の日中戦争につながる口火を切ったのだ。

そろそろ着陸の準備。

スマホの時計を北京時間に変更し、中国本土用のSIMカードを挿入する。

最近の海外旅行ではスマホで瞬時に買えるeSIMを利用することが多いのだけれど、中国のネット事情は特殊でそのままだとGoogleもYahooもLINEも使えない。

特にLINEは日本国内との連絡に不可欠なため、中国の強力なファイアーウォールを突破できるSIMカードをあらかじめAmazonで購入した。

8日間で5ギガ使えて1280円。

どんな規制にも抜け道が必ずできるのだ。

そうこうしている間に、現地時間の11時40分、全日空機は北京首都国際空港に着陸した。

北京に2つある巨大国際空港の一つで、全日空を含むスターアライアンス加盟の航空会社の飛行機はすべてこの空港を利用する。

去年北京経由でパリに飛んだ時に利用した中国国際航空の機体がずらりと並んでいた。

当時はまだ日本人のビザなしでの入国が認められていなかったため、少しドキドキする乗り継ぎだったけれど、去年の11月ようやく日本人にもビザ免除が適用になり、それを受けて私も中国旅行を再開したというわけだ。

私たちの飛行機が到着したのはターミナル3のEブロックだったため、まずは無料のシャトルに乗ってCブロックに移動しなければならなかった。

やはり空港はシンプルな方がいい。

心配した入国手続きも特段問題はなく、普通に入国カードに記入して指紋のチェックを受けるだけ、コロナ後初めての中国入国だ。

北京に来たのはいつ以来だろう。

三男がまだ子供だった頃に妻と3人で訪れたのが最後だから、おそらく20年ぶりくらいになるだろうか?

当時どうやって市内に向かったのか覚えていないけれど、今では地下鉄「首都空港線」が空港に直結していてすごく便利になった。

首都空港線は京成スカイライナーと同様、空港利用者に特化した路線なので、市内までノンストップ。

車窓には広々とした緑の大地が広がり、時折真新しい団地が現れる。

深刻な不動産不況が伝えられて久しい中国だが、この20年で国土の風景を一変させた開発のスケールとスピードは田中角栄もビックリである。

首都空港線は市内に入ると、地下鉄の乗り換え駅で停車する。

五月雨的に出来上がった東京の地下鉄と比べ、最初に作った全体計画に基づいて一気に建設される中国の地下鉄網は無駄がなく、規格も統一されて合理的な印象を受ける。

私は終点の「北新橋」という駅で乗り換えたのだが、この駅は最新版の「地球の歩き方」にもなっておらず、最近ここまで首都空港線が延伸したものと思われる。

日本のように全てが完成してから開業するのではなく完成したところから速やかに営業を始めるというのが中国のスタイルだ。

大雑把ではあるが、柔軟性があり、スピード感がまるで違う。

たとえ何か問題が発生しても公益のため個人の多少の犠牲は我慢させる。

それが日本との何よりの違いだと感じる。

北新橋駅で地下鉄5号線に乗り換え、ホテル近くの「灯市口駅」で降りる。

中国の地下鉄は日本のような固有の名前がなく基本的に番号なので外国人には利用しやすい。

おまけに北京の地下鉄はクレジットカードのタッチで慣れるため、Suicaのような交通カードをわざわざ買う必要もなく、旅行者にはとても便利だ。

駅からホテルまでの道のりは中国の地図アプリ「百度地図」を利用する。

今回使うSIMカードならGoogleマップも使えるのだが、中国政府はGoogleに対し中国国内での自由な地図作りを許していないため正確性に欠けるのだ。

その点、中国製の百度地図は正確で頼りになるのだが、日本語はもちろん英語変換の機能もないためすべての機能を使いこなせないのが難点である。

地図に従って歩いていくと、ものの5分足らずで予約したホテルに到着した。

地下鉄に近いというのは旅行者として何より重視するポイントである。

今回選んだのは外資系の「ノボテルピース北京」、これが中国名では「諾富特和平賓館」となる。

中国ではホテルのフロントでも全く英語が通じないことが珍しくないため、私は中国を旅行する際にはなるべく外資系のホテルを選ぶようにしているのだ。

ノボテルといえばフランス系のホテルチェーンだが、このホテルの内装は大仰で、どう見ても中国資本のホテルを買収したに違いない。

ホテルに到着したのは午後1時半でチェックインの時間にはまだ早かったけれど何の問題もなくルームキーを受け取ることができた。

このあたり中国人というのは柔軟である。

部屋はさほど広くはないがベッドは大きくて、1泊だけなので全く問題はない。

バスルームはシャワールームの奥に半ば独立した形でトイレが設置されていて、ベッドとの境の壁がガラスになっていた。

一人で利用するので目隠しのロールカーテンを全開にする。

開放感があって悪くない。

部屋に荷物を置くと、すぐに外出する。

晴れると気温は35度以上に上がるようだが、日本に比べると湿度が幾分低いようで木陰が多いせいもあり、さほど暑さは苦にならない。

北京は昔からそうだったけれど、街路樹の多い街である。

街角には古い洋風の建物も残り、その前を五星紅旗がたなびいていた。

今回訪れる場所は、北京郊外にある「盧溝橋」。

1937年7月7日、日中両軍が銃火を交えた盧溝橋事件の舞台である。

百度地図で行き方を調べると、最寄りの灯市口駅から地下鉄5号線に乗り南へ、14号線に乗り換えて今度は西へ、そしてさらに16号線に乗り換えてさらに西へと向かうらしい。

北京の地下鉄網は私が前回訪れた20年前から比べると飛躍的に拡充し、北京中心部をほぼ碁盤の目状に網羅している。

まだ全部が完成しているわけではなく、19号線は営業していても18号線はまだ開業していないといった具合だ。

短期間に一体何本の地下鉄を掘っているのか・・・。

しかも、地下鉄建設は北京だけではなく全国の主要都市で同時に大規模に進められているのである。

さらに中国の地下鉄はすべてホームドアが標準装備。

ホームドアの上部には今いる駅名はもちろん、向かう先の駅名が全部書いてあるので旅人にもとてもわかりやすい。

ホームに等間隔で設置されたモニターには次の電車が後何分で到着するかがリアルタイムで表示されていて、先発の日本の鉄道よりも乗客に優しいシステムになっている。

車両は他の都市で使われるものとほぼ同じ。

プラスチック製の硬いシートだが、その分掃除は楽で、日本に比べると掃除が行き届かない中国でも地下鉄の車両内はきれいに保たれている。

車内には、飲食禁止や禁煙の注意喚起と共に、寝そべり禁止やぶら下がり禁止のマークも描かれていた。

40年前初めて北京を訪れた時、中国人のマナーの悪さに驚いたものだが、習近平体制による徹底したマナー向上運動のおかげで近頃ではビックリするような割り込みや口論は随分少なくなった気がする。

それでも未だにこんなポスターも目にする。

銃や爆発物、ナイフや可燃物を地下鉄に持ち込まないよう呼びかけるものである。

車内のモニターでも動物のキャラクターが危険物を持ち込もうとして警備員に止められるアニメが繰り返し流されているのを見ると、まだまだマナーの徹底は道半ばなのかもしれない。

また車内モニターでは、電動バイクの発火事故や薬物中毒への注意を喚起する動画が流されていたので、当局を悩ます社会問題となっていることがわかる。

日本のように企業の広告が流される代わりに、政府や警察などによるこうした啓蒙動画ばかりが流れるモニター。

私には興味深かったが当の中国の人たちはどう思っているのだろう?

こうして2回の乗り換えを経て、16号線の終点である「宛平城駅」に到着したのは午後3時半すぎだった。

約1時間の地下鉄の旅である。

16号線もおそらく最近開業したばかりと見え、終点間近になるといつも満員の北京の地下鉄もご覧のようにガラガラだった。

宛平城駅の周辺は整然と整備された公園のようだった。

民家はなく人影もまばらだ。

さて、盧溝橋はどっちだとスマホ片手に歩いていると「中国人民抗日戦争記念彫塑園」と書かれて入り口が見えた。

盧溝橋の近くに日中戦争を扱う歴史博物館があると聞いていたのでここが入り口かと思ったが、どうも様子がおかしい。

中国各地に作られた歴史博物館は、日本人が驚くほどに多くの客が詰め掛けるのが普通なのに、このゲートには観光客の姿が全くない。

違和感を感じながら近づくと、警備員が近づいてきて何やら中国語でまくしたてる。

事情はよくわからないけれど、入ったらいけないと言っていることは間違いないようだ。

中国ではとにかくトラブルは避けなければならない。

何人もの日本人がスパイ容疑をかけられ今も収監されている。

何が原因で捕まるかもわからないのが、この国の恐ろしいところなのだ。

地図を頼りに盧溝橋への道を進んで行くと、公園の中にいくつものモニュメントが並んでいた。

中国語なので正確なところはわからないけれど、盧溝橋事件で死亡した兵士たちの名前や経歴が記されているようだ。

この人は盧溝橋事件が起きた時、国民革命軍第29軍の副軍長の地位にあり、1937年7月28日、日本軍との戦闘で命を落としたらしい。

訪れる観光客はいないけれど、このモニュメント周辺の公園を清掃する作業員はたくさんいて、街中よりもずっときれいに掃除されていたのが印象的だった。

さらに進むと、立派な石垣が現れた。

盧溝橋の方向に向かって遥か彼方まで続いている。

これが駅名にもなっている「宛平城」だった。

城壁に沿って歩いていくとたくさんの穴が石垣に開いているのに気づいた。

これって銃痕?

そんなことを思いながらさらに進むと・・・

今度はさらに大きな穴が。

穴の近くにはプレートが設置してあり、『“七・七事変”弾坑遺趾』と書かれていた。

中国では盧溝橋事件のことを「七・七事変」と呼ぶ。

この砲弾の跡は紛れもなく盧溝橋事件後に起きた武力衝突の際、日本軍が撃ち込んだものらしい。

当時、宛平城には中国の軍隊と市民が立て籠もり、それを日本軍は攻撃して強制的に退去させたとされる。

盧溝橋事件について事前に調べた資料には宛平城に遺る砲弾の跡のことは書かれていなかったため、現場で初めて知る歴史の痕跡に強く心を動かされた。

宛平城の南側に真新しいゲートがあり、閉まっていたが中を垣間見ることができた。

先ほど入場を断られた「塑像園」のようだ。

広大な敷地に点々と巨大な彫刻のモニュメントが並ぶ。

よく見ると、日本の侵略によって苦しむ人々や抗日の兵士たちの群像ばかりである。

中国で昔からよく見る国威発揚のためのモニュメントであり、これはわざわざ見る必要もない。

この施設、終戦80年に合わせて新たに作られたのかもしれない。

それにしてもこの整然と整備されたエリア、お掃除する人たちはたくさんいるのに肝心の観光客がいない。

まるで北朝鮮にでも迷い込んだような錯覚を覚える。

随分歩いてようやく宛平城の反対側にある正門にたどり着く。

警備員が立っているが、車やオートバイ、通行人も出入りしているので、私も入ろうとすると止められた。

中国語だからよくわからないが、「どこへ行く」と言っているらしい。

英語で「入れないの?」と聞いても全く通じない。

とりつくしまもなく追い払われていくすぐ横を中国人たちが堂々と門を入っていく。

中国では、こうした意味不明なことがしょっちゅう起こる。

忍耐力を養ううえでは最高かもしれない。

恨みがましくその場を離れると、私が訪れたかった「中国人民抗日戦争紀念館」の案内板があった。

どうやら盧溝橋事件と日中戦争を扱うこの歴史博物館は、宛平城の中にあるらしい。

今回の旅を計画した時、第一の目的地は柳条湖と盧溝橋にある2つの歴史博物館だった。

しかし最近、故宮など北京の主要な観光施設はどこも事前の予約なしでは入ることができなくなり、この「抗日戦争紀念館」もやはり事前予約が必要だった。

そこでアプリからの予約をトライするもうまくいかず、ホテルにチェックインした後、スタッフに頼んで予約してもらおうとしたのだけれど、その女性スタッフ曰く「今は休館のようだ」とのこと。

仕方なく直接現地にやってきたわけだが、どうやら工事で休館しているのは事実らしい。

だから、中国とは思えないほど周辺に観光客の姿かないわけである。

やっと事態が理解できた。

休館ならば仕方がない。

せめて盧溝橋だけは見ておこうと思ったのだが、何とこちらも工事中、道路沿いにフェンスが張られ近づくことさえできない。

私はどうやら最悪のタイミングて盧溝橋に来てしまったようだ。

あまりにも悔しいので、このまま手ぶらで立ち去るわけにはいかないと工事用フェンスの上から中を覗き込むと「盧溝橋」と書かれた真新しい白い石碑が置かれているのが見えた。

この石碑、汚れひとつ付いていないところを見ると、今回の改修工事で新たに設置されたものかもしれない。

習近平政権は国威発揚を目的に、巨費を投じて中国の歴史的遺産の再建や整備を行なっていて、そうして手を加えられた場所は何となくテーマパークのようでありがたみがなくなってしまう。

盧溝橋もきっとピカピカの観光地に生まれ変わるのだろう。

盧溝橋と博物館目当てにはるばる北京までやってきたのに、ほとんど成果なく立ち去るしかない。

重い足取りで地下鉄の駅に向かう道すがら、盧溝橋と思しき橋の絵が描かれた囲いがあった。

何か無粋な施設をこの囲いで隠しているのだろうが、それを見てふと思った。

「そうだ、正面ゲートは工事で閉まっていても川岸のどこかに盧溝橋が見えるスポットがあるかもしれない。

テレビ報道の世界で長く生きてきた人間として、取材対象物を撮影するスポットを探す経験だけは人一倍積んできているのだ。

百度地図で周辺の地理を確認し、後は己の勘を頼りに盧溝橋が見えるスポットを探す。

すると、かなり大回りにはなるが盧溝橋の南にかかる橋にたどり着くことができた。

案内板には「盧溝橋南路」の文字。

この橋から盧溝橋が見えるかもしれない、そう思った。

橋の下を「永定河」が流れていた。

北京の「母なる川」とも呼ばれるこの川は、日本の河川とさほど変わらないくらいの川幅で、案の定、この橋の中ほどまで進むと北側に盧溝橋の姿を見ることができた。

盧溝橋は全長266メートル、11のアーチが連なる石橋である。

この橋が完成したのは女真族の王朝「金」の時代、1192年のことだという。

大変歴史のある美しい橋だが、残念ながら背後に無粋な近代的な橋ができてしまい、この位置からでは盧溝橋がまるで目立たない。

もっと近くに行くルートはないか?

周囲をキョロキョロしていると数人の中国人が、川辺を歩いて盧溝橋の方向に歩いているのが見えた。

すかさず私も橋の袂にある階段を降りて彼らが歩いていたら道を辿ることにする。

迷いながら進んでいくと、盧溝橋を監視するような位置に獅子の像が置かれていた。

かのマルコ・ポーロに『世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ』と称賛された盧溝橋の欄干には501体の獅子の彫像が刻まれているという。

思わぬ工事でそれを見られなかったのは残念だったけれど、その代わりに一般の観光客が目にすることのないこちらの獅子像が見られたのだからまあ良しとしよう。

そこからは川に沿って遊歩道が整備されていて、

盧溝橋のすぐ近くに近づくことが可能なようだ。

遊歩道の先には貸しボート屋のテントがあり、盧溝橋をバックに記念撮影には興じる中国人グループがいた。

通常ならば正門から入った多くの観光客で賑わうのだろうが、工事の影響で開店休業状態が続いているらしい。

紆余曲折の末にたどり着いた盧溝橋。

確かに歴史を感じさせる石橋ではあるが、やはり日本人にとって盧溝橋といえば戦争のイメージがつきまとう。

昭和12年、西暦でいえば1937年7月7日、この橋の近くで演習中の日本軍部隊が一発の銃声を聞いたところから泥沼の日中戦争は始まった。

誰が撃った銃声だったのか、今でも日中で見解が異なり専門家の間でもさまざまな説が提起されているものの真相は未だ明らかになってはいない。

満州事変のきっかけとなった柳条湖事件は明らかなる関東軍による謀略だったが、盧溝橋の場合、誰かそれを明確に計画した者はおらず、むしろ謀略でなかったが故にその後の対応もチグハグになってしまった面もあったようだ。

しかしいずれにせよこの「運命の一発」とその後の対応により、満州事変後国際的な孤立に陥りながらも一応の安定を取り戻しつつあった日中関係は一気に全面戦争へと突き進み、日本はその膠着状態を打開するため東南アジアへと作戦を広げて望まぬ太平洋戦争に突入することになるのである。

盧溝橋事件とは何だったのか?

聞いたことはあっても詳しくは知らない戦争の始まりについて、半藤一利さんの著書『昭和史』から少々長めに引用させていただくことにしよう。

少し脱線しますが、それまでわが日本国は「日本帝国」「日本国」「大日本帝国」など、天皇陛下のことも国際的には「皇帝」「天皇」などいろいろ呼び方があって統一されてなかったのですが、昭和11年4月18日、外務省が日本を「大日本帝国」と呼称することに決定しました。この言葉そのものはどうってことないのですが、そう決定することで国民は「大日本帝国」つまり「日本は大なる国である」と思い込むようになっていく。日本は昭和8年に国際連盟を脱退して国際的に孤立しているのですが、この時になって「大日本帝国」と称したことは、なんとなく閉塞的な現状を打破したい、そんな国状を物語っているように思います。

という大前提と状況のもと、昭和12年7月7日にいわゆる盧溝橋事件が起きたのです。北京郊外の盧溝橋で銃撃があって、日中両軍(当時は中国を支那と言っていました)日支両軍が銃火を交えたという第一報が届いた時に、時の総理大臣近衛文麿は「まさか、また陸軍の計画的行動ではなかろうな」と、また海軍次官山本五十六中将は「陸軍の奴らは何をしでかすか判ったものではない。油断がならんよ」と言ったといいます。つまり上の方の人たちが、事件の第一報を聞いた時点で、陸軍の陰謀だ、また満州事変と同じようなことをやったな、と思ったのは事実のようです。

実は現在も、盧溝橋事件そのものは真相がわからないままなんです。日本側は間違いなく中国軍が撃ったのだといい、中国側つまり今の共産党は間違いなく日本軍が撃ったのだという、また当時の蒋介石軍は後に共産党が一枚噛んでいたのだとも主張して、真相はわからないのです。まったくの偶発的で、むしろ意図しなかった形で戦争が起きてしまった。というわけで、明らかになっているところだけ話しますが、普通「運命の一発」と言われますが、決して一発ではないのです。

当時、天津というところに日本の駐留軍がいました。これは1901年、義和団事件(北清事変)で清国が列強に助けを借り、日本、イギリス、アメリカ、その他の国が義和団に対抗するため、という名目で北京に籠城した結果、各国は中国にいる自国の民衆を保護するための軍を駐屯させることを条約で決め、日本は天津に、たいした数ではなかったのですが、駐屯軍を置くことになりました。その後、清国が潰れても、中国に統一国家ができていませんから、そのまま軍隊が居座っていたのです。ふつう駐屯軍は一連隊(二千人)程度なのですが、どさくさ紛れに日本はどんどん増やし、事件当時、今や「駐屯軍」ではなく「天津軍」といえるくらいで、一旅団(一師団の半分ですからだいたい六、7千人近くいたようです。出たり入ったりがありますから正確な数は微妙なのですが。

昭和12年7月7日午後10時過ぎ、盧溝橋付近でその日本の天津駐屯の第一旅団第一連隊第三大隊が演習をしていました。第三大隊を指揮するのは一木清直少佐(後に太平洋戦争で一番最初にガダルカナルに上陸して全滅した部隊に部隊長です。昭和史ではいろんな場面で同じ人が顔を出します)で、その第三大隊に西の方、つまり北京の方角といいますか、同じように夜間演習をしている中国軍側から数発の実弾が撃ち込まれてきたのです。続けてさらにまた十数発が撃ち込まれました。「運命の一発」どころか、かなりの数なんですね。

この時、第三大隊第八中隊135名のうち一人の兵士の行方がわからなくなったのです。弾に当たって戦死したんじゃないかという疑いが出てきました。演習は空砲ですから、そこに実弾が撃ち込まれて一人戦死となると一大事です。中隊長の清水節郎大尉は問題視し、不明の一人を探そうとします。ところが、この兵隊さんは実は立小便をしに脇へ行っていただけで、15分か20分後には隊に復帰しているのです。ですから何でもない話なのですが、その報告がないままに「一名行方不明」というので、夜11時過ぎの真っ暗な中、当の兵隊さんも一緒になって不明の一人を探すという馬鹿げたことをやっていたんですね。実弾が撃ち込まれたことについては、清水中隊長から直ちに一木大隊長に報告はあったのですが、とにかく兵隊を捜せというのでごたごたしていますから、一木大隊長から連隊司令部への報告がかなり遅れたのです。そこへ午前3時半頃、西の方からまたまた銃弾が撃ち込まれました。さすがの一木大隊長も部下に捜索の中止を命じ、「中国側からの敵対行動は確実なり」と第一連隊司令部へ報告しました。二度、実弾を撃ち込まれていますからそう思わざるを得ない、この銃撃が行方不明の兵隊が無事とわかってからの報告なのか、捜している最中だったのかは定かではないのですが。第一報を受けた連隊長牟田口廉也大佐(この人がまた、太平洋戦争においていたるところに出てきます。シンガポール攻略戦で勇名を馳せ、インパール作戦で強引な作戦を行なったりの問題人物です)が、直ちに命令します。

「敵に撃たれたら撃て。断乎戦闘するも差し支えなし」

まさしく抗戦命令です。こういう命令は、本当はその上の旅団長にきちんと知らせる形をとって、統帥命令といいますか、天皇命令にしないまでも、参謀本部命令にしないといけないのですが、牟田口さんは独断命令を一木大隊長に下したのです。これが午前4時20分頃でした。

困ったことは、これで直ちに戦争が起こってしまったと一般的に書かれやすいことです。つまり「運命の一発」で日中戦争が始まってしまったと。しかし必ずしもそんな無謀なことにはならないのですね。

ちょうどその時、視察のために現地を離れていた旅団長の河辺正三少将が天津に戻ってきます。7月8日午後になって牟田口連隊長が意気揚々としてやって来て、こういう次第で断乎抗戦を命じましたと報告すると、河辺旅団長は怒ることもなく同調したというのです。これはどうも間違いないらしい。戦後、私が牟田口さんに会って話を聞いた時に彼も明言していましたし、残された記録からもどうやらそうらしい。牟田口さんはこう言いました。

「盧溝橋事件の際、私の連隊が独断で敵を攻撃したが、当時の河辺旅団長は私の独断を許され、旅団命令で攻撃したように取り繕っていただいた。私は当時、旅団長の処置に非常に感激した」

しかし、河辺旅団長は戦後、そんなことを許した覚えはないとやり合っているのですが。いずれにしろ牟田口さんが強引に命令を出したのは事実のようです。しかし先に言いましたようにすぐ戦争が起きたわけではなく、なんとか戦争にならないようにという動きは当然、双方から出るのです。特務機関(北京にいて部隊とは異なり外交折衝的な動きをする人たちが間に入り、中国側もここで大戦争が起こっては大変だというので交渉に応じます。そして演習をやっていた中国軍は少し後ろへ下がる、日本軍も後ろへ下がる、ということで衝突回避の動きが始まり、微妙なところはありましたが一応これが成功し、9日午前2時、日中両軍の間で停戦協定が成立します。

ですから一時、両軍の間に緊張は走ったものの、一応これでお終いになるはずでした。

ところがなぜ、盧溝橋事件が起こってしまったのか。ここが不思議なんです。

最初の弾丸数発、その後の十数発については、現在の調査の範囲では、意図的か誤射かはわからないが中国軍側が撃ち込んだのは間違いないようです。国民政府軍が近くで演習中で、日本軍のいる方に撃ち込むつもりはなく、別の目標に対するはずのものが飛んできたと。いずれにせよ損害もないのだし、部隊の方向にシュッシュッと飛んできたような話ですから、停戦協定が成立すれば終わるはずなんです。

ところが問題は牟田口連隊長でした。独断命令を出すくらいの人ですから、停戦協定を知らされ承知しながらも「中国側が協定を守るはずはない。危険性はかなり高い。その時に遅れをとってはいけない」と部隊に前進を命じたのです。

すなわち10日朝、一木少佐の第三大隊に木原義雄少佐が指揮する第一大隊を加え、中国軍主力が配置されていると思われる宛平県城に向かって、一度後退したはずの軍が再び前進を始めました。

そして午後4時頃、今度は明らかにその日本軍に向けて、数発の小銃弾がぶち込まれてきました。指揮所で報告を受けた牟田口連隊長は「やっぱり敵は、協定を守るつもりはない」と強引に第一大隊・第三大隊に攻撃命令を出しました。少しの躊躇もありません。そこへ河辺旅団長がやって来て、「また独断命令か!」と言ったかはわかりませんが、ものすごい形相で睨みつけました。牟田口も強気の人なのでぐっと睨み返します。ここでまた歴史に「もし」はないとはいえ、その時「なんということをするか、直ちに命令を取り消せ、ばかもん!」とやっていたら、従わざるを得なかったのですが、なぜか河辺旅団長は一言も喋らなかったというのです。ただ睨み合ったままでした。

当時の連隊の副官、河野又四郎さんが戦後、この時の異様な状況を手記に書いています。

「旅団長は顔面蒼白、今にも一喝するかと思わるる相貌となった。両者相対する距離わずか三メートル。恐ろしき剣幕に私は圧倒され、<これは困ったことになった。両者の考え方は相反す。一つは向戦的、他は避戦的、これでは今後が・・・>と苦渋に満つる思いであった。 両者睨み合うことわずか二、三分ではあったが、私には長い長い時間があった。旅団長は遂に一言も発せず踵を返して旅団司令部に引き返された。日はなお高し」

牟田口連隊長の独断命令を河辺旅団長が無言のまま認可したのです。部隊は命令に従って攻撃を開始しました。この瞬間に日中戦争は規定の事実として始まり、日本軍は攻撃に次ぐ攻撃で、宛平県城を奪取し、中国軍を完全撃破します。

少し余談になりますが、なぜ牟田口さんがこう無茶というか独断的で野心的であったのか。この人は、酒にも女にも強い軍人らしい軍人と非常に有名でしたが、実は皇道派と目される人だったのです。自分では陸軍中央にいて当然のごとく出世街道を歩くはずが、二・二六事件後の人事刷新で、戦争の起きていない中国の天津軍などという安穏なところに送られたのは、彼にいわせれば「左遷」であり非常に不満だったのです。当時48歳、何か殊勲を上げて、飛ばされた無念を晴らしたいという思いがまだあったのではないでしょうか。こういう人が連隊長であったというのが不運といえば不運なんですね。

盧溝橋事件は当然のことながら、東京裁判で取り上げられました。大体において検察側は、日本軍の無謀なる攻撃、策略的な仕掛けについて糾弾が厳しく、当時、北京駐在武官だったアメリカのバレット大佐も次のように証言しています。

「中国軍に対する日本軍の態度は傲慢で、攻撃的であり、多くの場合、その行動は中国の主権に対する侮辱と、直接の冒瀆であったと思う。私の考えでは、7月初週の、宛平県城付近で行われた日本軍の夜間演習は、挑発的なものであった」

日本側は、牟田口さんはじめ、当時まだ生き残っていた関係者がこれに対し、最初の一発は中国軍が誤って撃ち込んだ可能性があるとしても、二度目のものは明らかに、このまま治っては困る中国の抗日派学生か、あるいは共産分子の仕業だとして、

「これは、中国学生か、共産分子らしいとの風聞を耳にした。いずれにせよ、日中両軍の衝突を誘発せんとする第三者の陰謀があったように考えられる」

と抗弁しました。実際、現在でも多くの日本人は、共産党員と北京大学の学生が密かに組んで、中国共産党の指導のもと、日本と国民党両方に弾丸を撃ち込んで戦争をさせたと信じているようです。当時、北京にいた人によりますと、この夜、学生たちが爆竹を鳴らしたりデモをかけたり様々なことが行われたのは確かなようです。

一つ面白いことを付け加えておきますと、次のような話もあるのです。東京裁判で陸軍の裏切り者として糾弾された元陸軍少将の田中隆吉(上海事変で、愛人の川島芳子を使って中国人に金を渡し、日本人のお坊さんを殺させたとんでもない曲者です)が、戦後の手記『裁かれる歴史』で変なことを書いています。彼の同僚の茂川秀和少佐が盧溝橋事件翌日の7月8日、天津の芙蓉館の一室でこう語ったというのです。

「あの発表をしたのは共産系の学生ですよ。ちょうどあの晩、盧溝橋を隔てて、日本軍の一個大隊と中国側の一団が各々夜間演習をしていたので、これを知った共産系の学生が双方に向かった発砲し、日華両軍の衝突を引き起こさせたのです」

これを聞いた田中中佐は、茂川少佐が常々、北京の共産系の学生と親交があることを思いつき、まさかとは思いながら、

「やらせた元凶は君なんだろう」

と聞くと、茂川少佐は顔を赤らめてこれを肯定した、というのです。となると、またしても日本陸軍の謀略ということになるんですが、とにかく田中隆吉という軍人は信用ならない人ですからね。それに当の茂川少佐が戦後になってインタビューに答えて、「あれは面倒くらいからそうだと言ったまで」と否定しています。

何が裏側で起きているのか、何がこの事態を引き起こさせたのか、まさに「運命の一発」と言われる所以ですが、様々な謀略や悪感情、互いの不信の念が絡み合っていて、何かがあればやろうという状態であったんですね。日本の内地でも先に話しましたように「どうか戦争が起きませんように」と作家が願うような空気があり、火をつければバアっと燃え上がる情勢だったということです。

いずれにしろ日中戦争がこうして始まりました。まずは上海を中心にして激しい戦闘が行われます。後に日比野士郎という作家が『呉淞(ウースン)クリーク』という作品でその時のことを書いています。中国軍の兵力は強力で、寡兵の日本軍は苦戦の限りを尽くします。日本本土の指導層では、応援をすべきだ、いや戦争を拡大してはならないと激論が戦わされました。

しかし、上海にも北京にも日本の居留民がたくさんいますから、当然、その人たちを保護することが日本政府の大命題になります。議論はありましたが、翌11日、はや総理大臣近衛文麿は、朝鮮と満州から二個師団、さらに内地から三個師団を送ることを決定します。ものすごい速さでの決断です。日本の「中国何するものぞ」的な考えというか、対中国一撃論に「お坊ちゃん総理」の近衞さんが乗っかってたちまち臨戦態勢を敷いたわけです。

11日の近衛声明です。

「今次事件はまったく支那側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」

そう簡単に「疑いの余地なし」といえる状況ではないのに、こう断言してしまいます。

当時「支那事変」と言いましたのは、宣戦布告をしていないから「事変」なんですね。戦争になるのはずいぶん後で、太平洋戦争が始まった時に宣戦布告をして「日中戦争」になるのです。日本は中国の後ろ盾になっているアメリカ、イギリスから多くの物品を輸入していましたので、「戦争」となるとたちまち対米英貿易に大きな支障をきたしてしまうのです。ですからできるだけ「小競り合い」で済まそうという目論みもあった訳です。

ただ近衞さんが最初から「一撃論」的態度ですから、事態は拡大の一途です。上海から戦闘が始まり、大軍を送り込んでやっとこ撃破すると、中国軍は当時の首都・南京へ後退して行き、日本軍は追撃を重ねます。また北部では中国共産軍と日本軍が戦う全面戦争になります。日本としては、首都を落とせば勝利であるという「古典的」な戦争論のもと、とにかく南京目指して進撃してゆきました。

そこでいわゆる「南京事件」が起こるのです。どうして起こったのか、非常に難しい問題ですが、日本軍はともかく急いでいました。根底には対中国一撃論があり、早く首都を落としてケリをつけよう、ガンガン叩けば中国などあっという間に両手を挙げるという勢いでした。

要するに止めようと思えば止められる戦争だったということだ。

しかし、これを機に中国侵略をさらに進めようとした輩が各方面にいて、ことさらに騒ぎを大きくして自らの手柄をあげようとした結果が泥沼の全面戦争に繋がった。

満州事変から敗戦まで、「15年戦争」という呼び方もされるけれど、ずっと戦闘状態が続いていたわけではなく、引き返すタイミングも何度かあった。

もしも盧溝橋事件が起きなければ、もしその際に戦争不拡大を徹底できていれば、歴史は変わっていただろう。

盧溝橋事件の際に主戦論を掲げ戦線拡大に導いた人物たちは、その後も様々な場面で暗躍することになる。

つまり、少数の過激思想の持ち主により日本は危うい選択を繰り返し、それを止める指導者がいなかったことが日本の悲劇へと繋がったのである。

盧溝橋のほとりに立ち、およそ90年前にこの地で起きた不幸な歴史に思いを巡らせた後、地下鉄の駅に戻る途中、道端に厳重なフェンスに囲まれた遺物を目にした。

それは戦争当時に築かれたと思われるトーチカ。

この中にこもっていたのは中国軍兵士なのか、それとも日本兵だったのか?

詳しい説明は見つからなかったけれど、中国政府が輝かしい抗日戦争の記憶としてこのトーチカを保存しようとしていることはうかがえた。

戦後80年に合わせてリニューアルしている盧溝橋と抗日博物館がどのような内容になるのかはわからないけれど、日本人にとっては間違いなく正視するのが厳しい展示内容となることだろう。

それでも、私たちの先祖がこの地で何をしたのか、知る努力は放棄してはならないと私は思うのだが・・・。

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