🇵🇭フィリピン/マニラ 2025年4月3日~4日
マニラ空港に到着してまず行ったのが両替だった。

東南アジアでも近頃はキャッシュレス化が進み、現金をあまり使わなくなっているため、シンガポールでは全く両替の必要がなかったけれど、フィリピンでは今でも現金が幅を利かせているらしい。
実際にタクシーも飲食店でも、「キャッシュオンリー」と言われることが多く、まとめて両替しておくと面倒が減る。
街中にもたくさん両替屋やATMの機会があるのだけれど、なんと言っても留置場から詐欺や強盗の指示をする「ルフィー事件」が起きる国である。
どこも胡散臭くて信用ならない。
レートが悪くても空港の正規の銀行でまとめて両替しておいた方が安全だと判断した。
ところが、今時珍しいほど手間がかかり、パスポートのコピーはもちろん、いろいろ書類に記入させられてやたらに時間がかかってしまった。
それだけ、この国では犯罪が多いのであろう。

ちなみに、到着した4月3日のレートは、1ドル=58.60ペソ、私が両替したユーロは1ユーロ=61.35ペソ、そして日本円だと1円=0.3764ペソ、すなわち1ペソ=2.65円。
トランプ大統領が発表した相互関税の税率がフィリピンは比較的低かったということで、今後ペソが強めに推移するとの憶測も出ているが果たしてどうなるのか?

両替を済ませた後は、市内まで行く足の確保。
タクシーよりも配車アプリ「grab」の方が安くて安心と、その乗り場に行ってみると、自分が予約した車を待つ人たちでごった返している。
そんな混雑状況なのでどこを待ち合わせ場所にしていいかわからず、警備員の女性に聞いてみた。
すると女性は私のスマホを受け取り、代わりにやってあげるという。
しかし、私のアプリは日本語表示になっているうえ、運転手との電話がなかなかうまく繋がらない。
すると女性は「このスマホ壊れてる」と言って匙を投げる様子。
フィリピンの人は相変わらず諦めが早いようだ。

そうこうしている間に運転手からチャットが届く。
どこか指定した場所に来いと書いてあるようだ。
それを女性に見せると「これはここじゃなくて出発フロアだ」と言って、エレベーターの方を指差した。
なんだかよくわからないが、とにかくエレベーターで出発ロビーまで行き、そこで再び尋ねると、ターミナルビルの外に出るよう教えられた。
こうして何とか予約した車と巡り会えたが、空港で配車アプリを使うのはちょっと面倒くさい。

飛行機が着陸したのは午後2時前だったが、なんだかんだで結局空港を出たのは午後3時になってしまった。
やれやれと思う間もなく酷い渋滞に巻き込まれた。
空港は拡充されてもアクセス道路は昔のまま。
狭い道路を我先な進もうとする車で身動きが取れない。
ああ懐かしい。
昔からマニラはこうだった。
フィリピン独特の乗り合い自動車「ジープニー」やオートバイにサイドカーを取り付けた「トライシクル」は今も健在、重要な庶民の足となっている。

ホテルに向かう途中にあるフェリー乗り場に立ち寄る。
コレヒドール島行きの船がここから出ると聞いたからだ。
太平洋戦争時アメリカ軍が立てこもった要塞の島である。
しかし、ターミナルビルには誰もおらずチケットを購入することは出来なかった。

チケット購入の目的は果たせなかったけれど、最近開発されたばかりと見られる海沿いの埋立地を見ることができた。
この界隈は私がマニラに通っていた40年ほど前にはまだ海だった場所だ。
真新しい商業ビルや団地が整然と並んでいる。
広い道路を走る車もほとんどなく、とてもあの喧騒のマニラとは思えない再開発エリアを興味深く拝見させてもらった。

こうして少し寄り道はしたけれど、午後4時ごろには予約していたホテルに到着できた。
1912年創業、マニラで最初に建てられた五つ星ホテルの老舗「THE MANILA HOTEL」。
緑と白で統一された外観はコロニアルな雰囲気を感じさせ、とても趣のある建物である。

マニラホテルの素晴らしさは、建物に入ったロビーでさらに感じられる。
フィリピンで革命が起きた1986年、初めてこのエントランスロビーに入った時の感動は今も忘れない。
フィリピンで産出される高級木材マホガニーをふんだんに使った天井、床の石材もピカピカに磨き上げられている。
家具のレイアウトは変わっているものの、ロビーの基本的な造りは40年前と同じだ。

チェックインを済ませるとすぐにコンシェルジュのデスクに行き、コレヒドール島行きのツアーがないかどうか聞いてみた。
旅行会社に問い合わせた結果、ツアーは可能だが他の参加者がいないため完全なプライベートツアーになり、1人の場合は約10万円になるという。
どうやらコレヒドールツアーは人気がないらしい。
要塞島には行ってみたいけれど、さすがに10万円は高すぎる。
この時点で私の旅行計画は早くも修正を余儀なくされてしまった。

とりあえず、部屋に入って荷物を置こう。
エレベーターに乗り込むと、天井がこれまた凝った細工のマホガニーだった。
これも昔のまま。
ただ、エレベーターが上昇する時変な異音と揺れがあるのは、いくら伝統的と言ってもいただけない。

私の部屋は新館の13階。
新館と言っても1970年代に建てられたもので、40年前にこのホテルに泊まった時にはまさに新館だった。
ゆったりとした部屋にもマホガニーがふんだんに使われ、ベッドも広い。

窓を開けると、目の前にはマニラ湾が広がっていた。
海の見える部屋と言えば聞こえはいいが、右手に見えるのはマニラ港のコンテナヤード。
完璧なリゾート気分とは言えないけれど、遠く沖合には行きたかったコレヒドール島やバターン半島も見え、私にとっては悪いロケーションではない。

広々としたバスルームには、バスタブとシャワーブースが両方揃っていた。
壁も床も石造り。
古き良き時代の高級感漂うバスルームである。

昔に比べれば部屋全体に多少古さは感じるものの、やはりこのホテルは落ち着く。
町中に終日クラクションの音が鳴り響くマニラの喧騒から逃れ、静かに過ごしたい人には今でも最高のホテルだと思う。

部屋に荷物を置き、金庫に財布やパスポートを仕舞うと、まずはホテルの探索に出かけた。
こちらがプール。
南国の木々に囲まれた落ち着いた雰囲気のプールで、さほど大きくはないが、子供用のエリアと私でも足がつかないほどの深さがあるエリアに分けられ、大人がゆったりくつろげるプールになっている。

その奥に進むと、一段上がったところに海に面したテラスが設けられていた。
この場所には昔来たことがなかったので、その後に作られた場所かもしれない。

ここから振り返るとマニラホテルの全体像がよくわかる。
右手の低い建物が5階建ての本館。
マッカーサーはこの本館の最上階で家族と暮らしていたという。

そしてその奥、左手に見えるのが17階建ての新館。
最上階は1フロア貸切のペントハウスになっていて、1986年の革命の際にはアメリカのCBSテレビがこのフロアに大量の機材を持ち込み、数カ月間このホテルに自前のスタジオや編集室を作ってしまった。
日本のメディアとは桁違いなそのお金の使い方に、当時若かった私は度肝を抜かれたことを今でもよく覚えている。

本館の1階には、マニラホテルの歴史を展示した小さなミュージアムが設けられている。
それを知った私はフロントで聞いてみると、ベルボーイが案内してくれた。
部屋は普段閉められていて、見たいという客が現れるとこうして個別に案内してベルボーイがガイドも務めてくれるのだ。

壁にはこのホテルに宿泊した世界中のVIPの写真が飾られている。
中曽根さんや竹下さんら日本の歴代総理大臣の顔も見える。

そして何より目を引くのは、「マッカーサースイート」と書かれたコーナー。
マッカーサーが愛用した椅子や帽子、マッカーサーや同居する家族を写した写真が展示されていた。

そして実際にマッカーサーが暮らしていたスイートルームの写真も見ることができる。
この部屋は当時の様子を再現しつつリニューアルされ、今でもこのホテルを代表する豪華な部屋として宿泊客を迎え入れているという。

この小さな博物館には、革命によって権力から追われたイメルダ・マルコス夫人の肖像画など興味深いものも残されていた。
しかし、私にとって一番印象に残ったのは、1944年、マニラ市街戦により破壊されたマニラホテルの写真だった。

太平洋戦争中、マッカーサーが去ったマニラホテルは日本軍に接収され、米軍による奪還作戦が始まった時、このホテルも戦場と化したのである。
完全に焼け落ちた建物。
今の本館は創業当時のものではなく、戦後オリジナルを模して建て直されたものだったのだ。

館内をひと回りした後はまずはプールへ。
夕方とはいえ、まだ外出するにはまだ暑い。
プールサイドにはジムやスパの施設も整えられている。
とりあえず、ほてった体をプールで冷ましてから部屋に戻った。

窓から海を眺めると、大きな夕日がマニラ湾に沈もうとしていた。
私は窓辺の椅子に座り、しばし夕日を眺める。

南国の夕日は赤い。
バンコクに赴任した時、その大きくて赤い太陽によく見とれたものだ。
マニラの夕日はとりわけ有名で、誰が決めたか「世界三大夕日」というものにも選ばれているとか。
ちなみに残りの2カ所はバリ島と日本の釧路だそうで、いかにも釧路の人が勝手に作った日本人が好きな「世界三大◯◯」のような気がするけれど、マニラの夕日はなかなか見応えがあるのは事実である。

夕日が沈むのを見届けてから街に出た。
明かりが灯ったマニラホテルもとても魅惑的だ。

マニラホテルは「リサールパーク」という大きな公園に面していて、巨大な国旗掲揚塔のてっぺんでフィリピンの国旗がたなびいていた。
この国旗はスペインからの独立を勝ち取った1898年に制定された歴史あるものだ。
しかしフィリピンの独立は長くは続かず、1907年には米西戦争でスペインを破ったアメリカに占領され、この国旗も掲揚が禁止されてしまう。
公園の名前となっているホセ・リサールはスペインからの独立を主張し処刑されたフィリピンの英雄だが、スペイン、アメリカ、日本の支配を受けたフィリピンが真の独立国となるのは第二次大戦後の1946年のことである。

夕暮れ時、リサールパークには多くの人が集まってきて、ジョギングしたり友人とおしゃべりしたり思い思いに時間を過ごしていた。
昼間の暑さが嘘のように、この時間は気持ちのいい風が吹いている。
40年前マニラに来ていた頃は仕事だったせいもあり、こうしてのんびり街を散歩することもほとんどなかった。

リサールパークの南側に広がる「エルミタ地区」に行ってみる。
40年前にはゴーゴーバーのネオンが煌めくマニラ随一の歓楽街だった。
私たちメディアが常宿にしていた「マニラ・ヒルトン」から近いこともあり、仕事を終えた後、よく同僚たちとマビニ通りやデルピラール通りに飲みに行ったものだ。

しかし、40年経って様子は一変していた。
軒を連ねていたゴーゴーバーは姿を消し、街は暗くなった印象だ。
もともと治安が悪く、スリやひったくりか横行して、私も闇の両替屋に騙されまんまと金を取られたこともあった。
そんなエルミタ地区の浄化作戦を歴代の政権が推し進めた結果が今のこの暗い街ということらしい。
でも道端には人がごろから寝ていて、物乞いに来る子供たちもいて、決して治安が良くなったようには見えないのだが・・・。

かつて泊まっていたヒルトンを探してリサールパークの周辺を歩く。
現在マニラヒルトンは空港近くにできた再開発地域に移ったことは知っているが、あのホテルの跡地は今どうなっているのか、個人的な興味があったからだ。
共同通信のマニラ支局があったため、日本のメディアの多くが常宿としていたかつてのヒルトンホテル。
あれだけ長期間滞在していたのに、その正確な場所を思い出せない。
確か公園のはずれだったという微かに記憶を頼りに彷徨うがなかなか見つからない。
代わりに鉄道が走る高架を見て、マニラの変貌を感じる。

しばらくうろうろした後、ちょっと怪しい建物を見つけた。
暗くてよく見えなかったけれど、大通りに面したビルの裏側に灯りの消えた廃墟のような建物があった。
ビルの形状から「あれだ!」と感じた。

近づいてみると、間違いない。
昔泊まっていたマニラヒルトンである。
建物の周囲には工事用のフェンスが張り巡らされ、誰もいないビルは不気味に今もそこに建っていた。
40年前もピカピカというわけではなかったので、取り壊されるのか、それでも補修して新たなホテルに生まれ変わるのだろうか?

思い出のヒルトンホテルを探し当てて、少しスッキリした気分でリサールパークに戻る。
公園の正面に立つのはフィリピンの英雄ホセ・リサールの記念碑である。
リサールは海外留学経験のある医師であり、決して武装闘争の戦士ではない。
しかし、フィリピン独立を主張する彼の著者に刺激された若者たちによって、スペインに対する独立運動が巻き起こったのだ。

夜の公園は、市民の憩いの場。
多くの人が走っている。
年中暑いフィリピンでは、あまり人が走っているのを見たことがなかったけれど、最近では健康志向の高まりもあり、夜こうしてジョギングしている人が増えたようだ。
これも高度成長の表れであり、治安改善の成果かもしれない。

人の流れに従って公園の奥に進むと、多くの人が池の周りに腰かけて何かを待っていた。
カップルの姿が目立つが、家族連れも多い。
突然スピーカーから音楽が流れ始めたと思ったら、噴水のショーが始まった。
BTSのヒット曲に合わせて、噴水が色を変えながら夜空に吹き上がる。

小さな女の子たちが音楽に合わせて踊り出した。
陽気なフィリピンの女の子たちは昔からダンスが大好きである。
政治の季節だった1980年代、こうしたのどかな風景はあまり見たことがなかった。
貧富の差は相変わらず大きいけれど、平和な市民生活が定着しつつある。
そんなことを感じさせる夜のリサールパークだった。

マニラホテルに戻ったのは午後7時半を回った頃だった。
マニラホテルの周辺には手頃なレストランがないため、この日はホテルで晩ごはんを食べることにした。
マニラホテルには高級レストランがいくつもあるが、私はエントランスロビーでピザを注文した。
昔はこの場所で食事などできなかったと思うけれど、今では比較的リーズナブルな値段でアラカルトの軽食を食べられるようになったみたいだ。

私が選んだのはホテルオリジナル、その名もズバリ「PIZZA MANILA HOTEL」。
トマト、モッツァレラ、ラグーナチーズ、チョリソ、オリーブを使ったこんがり焼き色のついたピザで、値段は680ペソ。
日本円でおよそ1740円だ。
そして、フィリピンといえばやはりサンミゲルビールは外せない。

イベントの参加者でごった返していた昼間の賑わいが嘘のように、夜のロビーには宿泊者だけ。
静かになったロビーでは、室内楽の生演奏が披露される。
美味しい日本のピザに比べれば野暮ったい素朴なピザだったけれど、豪華なシャンデリアの下でクラシックを聴きながらいただくピザはまた格別の味わいがあった。

食事の後、ロビーの奥にある「TAP ROOM」という名のバーに行ってみた。
歴史を感じさせる扉の向こうには、古き良きイギリスのパブを彷彿とさせる空間が待っていた。

渋いカウンターの向こうでバーテンダーがシェイカーを振っている。
私も何かホテルのオリジナルカクテルでも飲もうと思い、店員さんにオススメを聞いた。

彼が薦めてくれたのが、こちらの「MACARTHUR COCKTAIL」(マッカーサーカクテル)。
クアントロー、ラム、卵白、ジンジャービターズにフィリピンでポピュラーな柑橘カラマンシーを加えたホテルのオリジナルカクテルだ。
お酒の種類は多少異なるが、ラムと卵白、柑橘を使ったカクテルはマッカーサーの名と共に各地に残っていて、彼がこのカクテルを愛したことは嘘ではないらしい。
実際飲んでみると、マイルドながらキレがあり、とても美味しいカクテルだった。

このバーでは、フィリピン人アーティストによるライブも楽しめる。
この日の出演はソウルフルな歌声の女性シンガー。
やはりフィリピン人歌手は本当に歌が上手い。

翌朝。
この日は雲がかかっていて、対岸のバターン半島が見えなかった。

夜食べたピザがボリュームがあって、さほどお腹は空いていなかったけれど、朝食付きのプランなので、1階のカフェに朝ごはんを食べに出かける。

とても種類豊富なビュッフェで、洋食、中華、韓国料理のほか、地元フィリピンの料理やイスラム教徒向けのハラル料理も並んでいた。
軽めに済まそうとホットケーキやスモークサーモンから食べ始めたのだけれど、次第に調子が出てきて・・・

中華やフィリピン料理にも手が伸びる。
恐る恐る1匹だけ皿に取った地元の小魚が、日本のメザシに似た味がして一番美味しかった。

そして最後の締めはパパイヤとパイナップル。
期待したほど美味しくはなかったが、まあ南国のフルーツはハズレが少ない。

朝食後外出して、戻ってまたプールで泳ぎ、チェックアウト時間の正午ギリギリまで楽しませてもらった。
今回の宿泊代は朝食込み1泊2万円ちょっと。
欧米のバカ高いホテルに比べれば、はるかにリーズナブルだと思う。
日本人にはマニラの街はいささかうるさすぎるので、喧騒に疲れたらマニラホテルに逃げ込むのがオススメだ。
ノスタルジックな空間が疲れた心を癒してくれるだろう。