<きちたび>淡路島の旅2023🇯🇵 橋から見下ろす鳴門の渦と関西のリゾートアイランドになった「国生みの島」

淡路島は瀬戸内海最大の島。

では、日本全体では何番目に大きいか?

徳島道を東に向かってドライブしながら友人たちとそんな話になった。

私たちの世代だと、日本最大の島は佐渡島と学校で習った記憶がある。

一人が2番目じゃないというので私がすかさず2番目は奄美大島と応えるが、淡路島も結構大きい気がしてきた。

ネットで調べてみるとなんと11番目、意外な答えに一同驚く。

一番大きいのは本州、以下、北海道、九州、四国、沖縄本島と続き、その次が択捉島、国後島と北方領土の島が並ぶ。

なるほど、私たちが小学校の頃はまだ沖縄が返還されておらず、北方領土についても日本の島としては教わっていなかったのだと気づく。

そして一番大きい島と習った佐渡島は8番目、次がやはり奄美大島で、以下、対馬島、淡路島と続く。

ということで、淡路島が日本で11番目に大きい島だということを学んだところで、淡路島と徳島の間に位置する「鳴門の渦潮」に到着した。

鳴門海峡を見下ろす丘の上に作られた「鳴門公園」に車を停め、大鳴門橋を横切る歩道橋を渡る。

1985年に開通した大鳴門橋は全長1629メートル。

その下がまさに有名な渦潮らしく、海峡を通行する船も速い潮の流れに押し戻されゆっくりしか進めない。

私はこの渦潮を見るために、徳島ルートに参加することを選んだのだ。

橋ができる前は、渦潮は観光船に乗って近くから見るのが一般的だったが、今は時間がかかる観光船には乗らず、大鳴門橋の上から渦潮を見下ろす人が多いようだ。

大鳴門橋にはそんな観光客のために、橋桁の下に「渦の道」と呼ばれる有料の遊歩道が設けられている。

「渦の道」の入り口には「本日の薄潮の巻く時間」と書かれたボードが設置されていて、渦が見られる満潮と干潮の時間が表示されていた。

私は渦潮のことをほとんど知らなかったが、鳴門の渦潮は瀬戸内海と太平洋の干満のズレによって生じるらしい。

私たちが到着したのは、ちょうど正午過ぎ、まさにこれから渦潮が見られそうな時間帯ということである。

入場料510円を支払ってゲートを入ると、目の前に大鳴門橋の橋脚が現れる。

天井部分の上を自動車道が走っているが、橋の開通当時、その下を「四国新幹線」が通る計画が存在した。

その後バブルが崩壊し、需要が少ない四国新幹線計画は凍結。

代わりにこの空間が観光客向けの遊歩道として使われているというわけだ。

遊歩道の金網の向こうには驚きの光景が広がっていた。

海の底の岩が姿を現し、海水がまるで渓流のように激しく流れていたのだ。

私が訪れた時間は干潮時、瀬戸内海の水が紀伊水道に向かって勢いよく流れ出ることによって鳴門海峡に渦潮ができる。

この剥き出しになった海底を見たことで、私の脳裏では渦ができるメカニズムが直感的に理解できた気がしたが、パネル説明もあったのでちゃんと目を通す。

興味深いのは淡路島の周囲を反時計回りに巡る潮の流れ。

月や太陽の引力を受けて起きる干潮と満潮の繰り返しが渦を作るのは理解していたが、淡路島の絶妙な位置が世界有数の渦潮を発生させていることがわかった。

『太平洋から紀伊水道へと入ってきた満ち潮の高い海水面は、鳴門海峡が非常に狭いため通過できず、大阪湾、明石海峡へと回ります。愛媛県側の豊予海峡から瀬戸内海に入ってきた満ち潮と合流し播磨灘へ到達するのに約5時間かかります。そして満ち潮が播磨湾に来る頃には、太平洋側が6時間後の引き潮になっていて、海峡部分で水位差(最大1.5メートル)が生じ、海面の高い満潮側から低い干潮側へ激しい勢いで水が流れ込み(これが渦潮を作る原因)、中央部を流れる速い流れと、その両側の遅い流れとの速度さで渦が発生するのです。』

海峡幅1340メートルという鳴門海峡の狭さがこの場所に日本一の渦潮を発生させる原因だったのだ。

月に2回の大潮の時期には水位差が大きくなり、中でも3月下旬から4月下旬は1年で最も大きな渦潮が観察できる時期なのだという。

遊歩道には所々ガラス張りになっている場所があり、渦潮が発生する様を真上から観察することができるようになっていた。

おお、これはなかなかの大迫力。

鳴門海峡の渦潮は春秋の大潮の時期には時速20キロ以上の急流となり渦潮の大きさも最大20メートルになるそうで、イタリアのメッシーナ海峡、カナダのセイモア海峡と並んで「世界三大潮流」と呼ばれるのも納得の光景である。

世界的にも珍しいほどの急流が複雑にぶつかり橋の下で大小の渦ができる。

大きな渦を狙って観光船が波間に揺れながらゆっくりと進んでいく。

船からはどのような光景が見えているんだろうか。

今回は時間の関係で観光船に乗ることは断念したが、いつか時間がある時に船からの眺めも確かめてみたいと思う。

「渦の道」で渦潮を堪能した私たちは、大鳴門橋を通って淡路島側に渡り、高台に作られた「道の駅うずしお inうずまちテラス」へ。

今年3月から2年間、「道の駅うずしお」のリニューアル工事が行われる間、新設された臨時駐車場のテラスで仮営業が行われていた。

仮営業と言っても、このテラスは大鳴門橋を間近に見る絶好のポジションにあり、暑さを吹き飛ばす強い風が吹いていた。

この日は月曜日ということもあり、橋を渡る車の数も道の駅を訪れる観光客も少なく、のんびりと鳴門海峡の景色を楽しむことができた。

売店の前では淡路島名物の立派なタマネギが販売されていた。

「蜜玉」という名のタマネギは4個で700円と値は張るが、1個1個がとても大きくてスーパーに並んでいる普通のタマネギの2倍はありそうだ。

あまりに立派なので、妻にお土産に買おうと思い、この日泊めてもらう友人宅にもこれをお土産にすることにした。

この日のランチは、道の駅で売られていた「あわじ島バーガー」。

主役は厚さ8ミリの淡路島産玉ねぎのカツ、それに淡路牛、トマトを合わせて作った「あわじ島オニオンビーフバーガーセット」は、オニオンリングとドリンクとセットで1550円とちょっとお高めだ。

「島クラフトコーラ」をドリンクに選んだが、これは失敗。

その代わり、淡路島のタマネギを使ったオニオンリングは最高に美味しく、プラスマイナス0といったセットであった。

屋外のベンチで食べていると、強風で包み紙が吹き飛ばされそうになり、ゆっくりバーガーを食べる余裕がなかったのは残念だった。

ランチを食べ終わると、鳴門海峡を離れて淡路島の内陸部へ。

友人が案内してくれたのは「おのころ島神社」。

古事記・日本書紀に登場する「国生み神話」に登場する「自凝(おのころ)島」にまつわる神社のようで、日本の国土と八百万の神々を産んだ伊弉諾(イザナギ)と伊弉冊(イザナミ)を祭神にいただく。

ただ、由緒正しい神社という風情に欠け、ピンク色の大鳥居がちょっと怪しい。

古事記・日本書紀に記された「国生み神話」とは如何なるものなのか?

神社本庁のホームページには次のように説明されている。

遠い昔、日本の国ができる前のことです。

澄み渡った高い空の上に、高天原たかまのはらという神々のお住まいになっているところがありました。

ある時、神々は下界に新しい国を造ることをご相談になられました。そこで伊邪那岐命いざなぎのみこと伊邪那美命いざなみのみことの二柱の神さまに国作りを命じられ、天の沼矛あめのぬぼこという矛を授けられました。

二柱の神さまが、天の浮橋あめのうきはしという大きな橋の上に立ち、下界の様子を眺めてみますと、国はまだ水に浮いた油のように漂っていました。

さっそく二柱の神さまは、神々より授けられた矛を海水の中にさし降ろすと、海水を力いっぱい掻き回し始めました。

しばらくして矛を引き上げてみると、どうでしょう、矛の先より滴り落ちる潮が、みるまにも積もり重なって於能凝呂島おのごろじまという島ができあがりました。

そして二柱の神さまはその島に降りたつと、天の御柱あめのみはしらという大変大きな柱をたて、柱の回りを伊邪那岐命は左から、伊邪那美命は右から、それぞれ柱を廻りあいました。

そして出会ったところで「ああなんと、りっぱな男性だこと」、「ああなんと、美しい女性だろう」と呼び合い、二人で多くの島々を生みました。

はじめに淡路島、つぎに四国、隠岐島、九州、壱岐島、対島、佐渡島をつぎつぎと生み、最後に本州を生みました。

八つの島が生まれたところから、これらの島々を大八島国とよぶようになりました。 これが日本の国土のはじまりです。

引用:神社本庁ホームページ

つまり、日本列島はまず最初にこの淡路島から始まったということである。

神社の絵馬に「日本発祥の地」の文字が記されているのはこうした神話があるためなのだ。

貧相な本殿の前には「鶺鴒石(セキレイイシ)」という石が置かれ、紅白2本の紐が石から伸びていた。

案内板の説明はこうだ。

『伊弉諾命(イザナギノミコト)・伊弉冊命(イザナミノミコト)はこの石の上につがいの鶺鴒が止まり、夫婦の契りを交わしている姿を見て夫婦の道を開かれ、国産みをされたと言われています。その鶺鴒の仕草は、現在も神前結婚式での三三九度の仕草に受け継がれています。縁結びの起源としても有名です。是非、良縁をお結びください。』

イザナギとイザナミが鶺鴒から性交の方法を習ったという話は日本書紀の中にあるそうだ。

鶺鴒が尾を振る仕草は古代の人たちにセックスを連想させたのだろう。

「おのころ島神社」は国生み神話を利用して後世の人が縁結び・安産の神として伊弉諾・伊弉冊を祀ったちょっとインチキな神社に違いないと私は判断した。

これに対して、淡路島の中部に建つ「伊弉諾神宮」は由緒正しい淡路国の一宮であり、古事記・日本書紀に記載がある神社としては最も古いものなのだそうだ。

神社のホームページを見ると、次のようなことが綴られている。

『古事記』・『日本書紀』には、国生みに始まるすべての神功を果たされたイザナギ尊が、御子神である天照大御神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に、「幽宮」を構えて余生を過ごされたと記されています。その御住居跡に御神陵が営まれ、そこに最古の神社として創始されたのが、伊弉諾神宮の起源です。地元では「いっくさん」と別称され日之少宮、淡路島神、多賀明神、津名明神と崇められています。

引用:伊弉諾神宮ホームページ

伊弉諾・伊弉冊は天皇家の祖神とされる天照大御神を含む八百万の神々も産んだ。

そして古事記・日本書紀は、天皇が神の子孫として日本列島を治める正当性を表すために、天武・持統天皇時代に書かれた史書である。

伊弉諾神宮の鳥居をくぐるとすぐに「さざれ石」が置かれていた。

「君が代」に詠われるあの「さざれ石」である。

でも、なぜ淡路島だったのか、私の脳裏に強烈な疑問とともに次々に妄想が湧き上がる。

古事記や日本書紀は明確な意図を持って書かれた神話である。

そこには天皇家の出自にまつわるヒントが詰まっていると私は考えている。

おそらく伊弉諾と伊弉冊が最初に産み落とした淡路島は天皇家にとって重要な場所だったに違いない。

朝鮮半島か中国大陸からやってきた天皇の一族が最初の拠点とした場所が淡路島だったのかもしれない。

そこから四国へ、続いて隠岐や九州、壱岐対馬などに次々に一族が移り住んだと考えると疑問が解ける。

本州が8島の最後だったことも、大和に都を置くまでのプロセスと考えればしっくりくる。

もちろん国生みの神話は作り話であって史実ではない。

しかし、そこには天武天皇とその妻である持統天皇の意思が反映されていて、当時持統天皇を支えて実権を握っていた権力者・藤原不比等の意図が間違いなく投影されているはずだ。

伊弉諾・伊弉冊の子である天照大御神が自分の孫を地上に遣わした「天孫降臨」の神話も、当時の後継争いの中で孫に権力を譲ろうとした持統天皇の執念が込められていると言われる。

そういう風に考えれば、淡路島は朝鮮半島からやってくる人たちから見れば、瀬戸内海の一番奥、大阪湾の守りを固める絶好の位置にある。

淡路島は、大阪平野や奈良盆地を支配する者にとって重要な防衛拠点だったに違いない。

神社の境内には、2本寄り添うように立つ「夫婦大楠(めおとのおおくす)がある。

樹齢約900年とされるこの楠にはこんな説明板が添えられていた。

『伊弉諾神宮の御祭神は伊弉諾大神伊奘冉大神で夫婦の正道の掟てを定められた皇祖の大神様です。元は二本の「楠」がいつしか根を合わせて一株に成長したもので、ご神霊が宿り給う御神木と信仰されており、淡路の古地誌にも「連理の楠」と記されています。岩楠神社には蛭子大神を祀り、夫婦円満、良縁縁結、子授け、子育ての霊験あらたかと崇敬されています。』

イザナギとイザナミは「夫婦の正道の掟」を定めた皇祖の大神様と定義されているらしい。

「夫婦の正道の掟」とは聞き慣れない言葉だが、きっと神道の世界では広く使われていて、保守派の政治家たちの家族観にも影響を与えているのだろう。

また境内の別の場所には「ひのわかみやと陽の道しるべ」と記された石碑が立っている。

神社のホームページを見ると、「陽の道しるべ」について次のような説明がなされていた。

伊弉諾神宮を中心にして、まるで計算されたように、東西南北には縁ある神社が配置されていることは実に不思議です。神宮の境内には、太陽の運行図として、このことを紹介する「陽の道しるべ」というモニュメントが建っています。神宮の真東には飛鳥藤原京、さらに伊勢皇大神宮(内宮)が位置しており、春分秋分には同緯度にある伊勢から太陽が昇り、対馬の海神(わたつみ)神社に沈みます。そして夏至には信濃の諏訪大社から出雲大社、冬至には熊野那智大社から高千穂神社へと太陽が運行します。

引用:伊弉諾神宮ホームページ

ちなみに、「ひのわかみや」とは伊弉諾のこと。

伊弉諾は太陽の神格を持ち、「日之少宮(ひのわかみや)」とも呼ばれるのだ。

そして伊弉諾神宮を中心として、皇室ゆかりの神社が規則的に配置されているとする「陽の道」にも興味が湧いてくる。

そういえば、皇祖神とされる天照大御神も太陽神であった。

父である伊弉諾から太陽の神格を受け継いだのだろうか?

国生み神話の中心地「伊弉諾神宮」から少し車を走らせると淡路島の西海岸を貫く県道31号線に出る。

夕日の名所として「淡路サンセットライン」とも呼ばれるこの道路沿いには、おしゃれな飲食店や商業施設が立ち並ぶ。

関西に住む友人は「東京で言えば湘南か三浦半島のようなところ」と説明した。

海の向こうには兵庫側の街並みが望め、古代史の世界から一気に現代の海浜リゾートに引き戻された感覚があった。

次の目的地は1995年に起きた阪神・淡路大震災の記憶を伝える「北淡震災記念公園 野島断層保存館」である。

震災が起きた時、私はパリ支局に赴任していたため直接の取材経験はなく、神戸の街が燃え高速道路が倒れる衝撃的な映像がフランスのテレビで流れるのをただ呆然と見つめていた。

私たちが訪れた際、高校生らしき若者たちが学校の行事として大挙して施設に集まっていた。

この地震では神戸の被害があまりに大きかったため、どうしてもそちらに目が行ってしまうのだが、淡路島北部でも野島断層が長さ10キロにわたって動き、最大で1.2メートルの縦ずれと2メートル近い横ずれを生じさせた。

中でも、ここ旧北淡町小倉地区では断層が地表にまで現れた。

野島断層によって引き裂かれたアスファルト道路、畑の中に伸びる断層崖。

それらが同じ場所で、あの時のままの状態で保存されている。

プレートには「国指定天然記念物」の文字。

ちょっと違和感を覚える。

この施設で、私が一番印象に残ったのは野島断層の断面である。

斜めに走る亀裂の左右で地質が全く異なることは素人が見てもわかる。

「これが断層か」と思う。

日本列島に暮らす人間として各地に断層が走り、それが多くの直下型地震を引き起こすことは理解しているものの、実際の断層を目にする機会は全くなかった。

そういう意味では、日本人は一度はこの施設を訪ね、野島断層の段面を自分の目で確かめた方がいいと思った。

恐怖というよりも、強い現実味をその断面から感じるのだ。

古代から現在まで、淡路島のさまざまな側面を知ることができた今回の旅。

淡路島の北端と神戸市を結ぶ明石海峡大橋が見えてきた。

全長3911メートル、去年までは世界最長の吊り橋であった。

それにしてもやはり大きな島である。

とても半日では見て回ることはできない。

なぜこの島が日本列島の始まりだったのか?

その答えを求めて再び訪れることもきっとありそうである。

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