🇨🇳 中国/長春 2025年6月29日
アカデミー賞9部門を独占したベルナルド・ベルトリッチ監督の超大作『ラストエンペラー』が公開されたのは1987年のことだった。
幼くして清朝の皇帝となった愛新覚羅溥儀。
辛亥革命、満州事変を経て日本の傀儡満州国の皇帝に祭り上げられ、戦後に誕生した中華人民共和国の下では受刑者として徹底した共産主義思想教育を受けた。
激動の中国史に翻弄され、世にも数奇な運命を歩んだ人物である。

満州国成立後、溥儀が暮らした宮殿が長春の郊外にあるというので行ってみることにした。
長春駅から地下鉄に乗り、「偽満皇宮博物院」を目指す。
「偽満」とは現在の中国での満州国の呼び名である。

長春駅のホームにはスキーリゾートの広告が。
長春の近郊にはたくさんのスキー場が開発されていて、「天定山滑雪場」は市の中心部から車で40分ほどで行ける手頃なファミリーゲレンデのようだ。
2022年の北京冬季五輪をきっかけに、中国ではウィンタースポーツ熱が盛り上がっていて、全国各地にものすごい勢いでスキーリゾートが増えているらしい。

降り立ったのは、その名もズバリ「偽満皇宮駅」。
まだ開業から間がないと見え、駅舎も真新しい。
それにしても、中国にとって屈辱的な「満州国」を歴史から抹殺するのではなく、あえて「偽満」と呼んで愛国教育に利用するあたり、中国政府の懐の深さというか強かさの表れそのものである。

駅前の通りの反対側には長い塀が続いていた。
所々に銃眼を備えた監視所が設置されていて、この塀の中に溥儀が暮らした皇宮があったことは間違いなさそうだ。
ところが、百度地図の案内に従って塀伝いに歩いて行っても、肝心の入り口がない。
私だけでなく中国人の観光客も私同様、スマホ片手にうろうろ迷っているので、どうやら百度地図の案内が間違っているらしい。

地図アプリが示す場所には門はあるが、完全に閉ざされていて、とても観光客が入れる雰囲気ではない。
ただ、門に描かれた紋章は紛れもなく満州国の国章「蘭花紋」。
すなわち、塀に囲まれたこの広大な敷地がかつての満州国皇宮だったことは疑う余地がないだろう。

果てしなく続く塀をあっちに行ったりこっちに戻ったりしながら、ようやく敷地の南側に入り口を見つけた。
誰もいない門を通り、中に入ってみると・・・

そこには最近整備されたらしき建物群があった。
歩く人はまばらで、街路樹もまだ貧弱だ。
偽満皇宮博物院は長春を代表する観光地だと聞いていたが、果たしてここがその施設なのか?

不安になりながら建物群を通り抜けると、急に人の数が増え、立派なゲートがそこにあった。
「偽満皇宮博物院」
歴史を感じさせる門柱に新しい表札がかけられていた。

ゲートを通り抜けると、その奥にもう一つの門があり、その脇に「偽満州国皇宮」と書かれた石が置かれていた。
「偽満」と言ったり「偽満州国」と言ったり、いろいろ使い分けているようだ。
しかし、この門を通るにはチケットを買う必要があり、チケットの購入には身分証明書、外国人の場合はパスポートが必要だった。
普段はパスポートを旅行用のベストに入れて持ち歩いている私だが、この日の長春はとても暑くて、ベストとともにパスポートをホテルに置いてきてしまった。

仕方ない。
タクシーをつかまえ、パスポートを取りにホテルまで往復する。
タクシー代は往復で19.2元(約400円)。
中国では公共交通機関が破格に安いが、タクシーもかなり安いのだ。

地下鉄で来ると裏口から入る格好になるが、タクシーだと堂々と正面ゲートに横付けできる。
大型の観光バスでここを訪れる観光客も多いようで、私のように地下鉄でわざわざ皇宮に来る客は少数派らしい。
だから、駅からの案内がわかりにくかったのかもしれない。

晴れてパスポートを手に入場券を購入しようとすると、なんと65歳以上の老人は入場料免除だと言われた。
ゲートに「老人人票」という項目があったので、これがシニア料金かと早とちりしてしまった。
ここに書かれた「老人人票」は60歳〜64歳が対象で、67歳の私は「65周岁或以上老人」というカテゴリーに入るため「免費」となるらしい。
しかし、年齢を証明するためにどのみちパスポートは必要だったのだが、なんだか損した気がした。

ゲートを通り抜け皇宮内に入ると、まず目に飛び込んでくるのがこちらの建物。
「同徳殿」と呼ばれ、日本が溥儀のために建てた仮宮殿で、満州国建国から6年後の1938年に完成した。
アカデミー賞を総なめしたベルトリッチ監督の名作『ラストエンペラー』でも、この建物が実際の撮影に使われた。

屋根瓦に焼き付けられた「弌徳」「弌心」の文字は、満州事変以後よく使われた「日満一徳一心」というキャッチフレーズにちなんだものだという。
「日満一徳一心」とは、日本と満州が一つの心で一体となって、同じ目標に向かって努力すべきであるという意味。
満州国のスローガンとなった「五族協和」とともに、異国侵略に対する日本人の罪悪感を失わせる効果を持ったのだろう。

新宮殿が完成するまでの仮宮殿とはいえ、同徳殿は地上3階、地下1階の立派な建物。
外観は中国建築と日本建築の要素を合体させ、内部には西洋建築の要素も取り入れた折衷主義建築である。
設計は満鉄から満州国政府入りした相賀兼介、施工は戸田組が請け負った。
シャンデリアは異なっているものの、この吹き抜けの玄関ホールは『ラストエンペラー』の中にも何度も登場する。

同徳殿は、皇帝の公務とプライベートを兼ねた宮殿として建てられたため、1階部分は主に政務を行う部屋が並んでいる。
こちらは「謁見室」。
溥儀が満州国や日本の要人と謁見したり、外国の賓客と面会するための部屋だ。
しかし、実際にはほとんど使われなかったという。

2階には、溥儀の寝室もある。
『ラストエンペラー』では溥儀夫婦はこの同徳殿で暮らしていたように描かれているが、史実によれば溥儀がこの部屋で寝たことは一度もなかったらしい。
なぜなら、日本によって建設されたこの宮殿には盗聴装置が仕掛けられていると疑っていたからだという。

こちらは溥儀の応接間。
この部屋も実際に使われることはなかったようだが、それ以上に私が気になったのは、90年も前の建物とは思えないほど調度品がピカピカだったことだ。
今の中国政府が資金を出して、ここを訪れる観光客向けに内装を豪華に修復したということだろう。
目的はズバリ、愛国教育。
日本が溥儀を利用して、中国を侵略したことを中国の人々に印象づける目的がある。

こちらは溥儀の正妻である皇后・婉容のために作られた応接室。
しかし婉容もこの部屋を使うことはなく、代わりに1943年に溥儀の妻(3人目の側室)となった李玉琴が使用したという。
15歳で宮廷に入った李玉琴は自らを「中国3000年の帝国制の最後の犠牲者」と呼んだが、1957年に正式に溥儀との離婚が認められ、ラジオ局のエンジニアと再婚して2001年に亡くなるまでここ長春で暮らしたらしい。
李玉琴が生まれたのは私の父親と同じ年で、現代から見れば遠い昔話のように感じられる『ラストエンペラー』の世界が実はつい一世代前の話であることを彼女の物語は教えてくれる。

では、新たに建造された宮殿「同徳殿」を嫌った溥儀と婉容はどこで暮らしていたのか?

同徳殿の西側に連なる「西院」と呼ばれるエリア、ここに「緝煕楼(しゅうきろう)」「勤民楼」という建物が並ぶ。
日本が建設した同徳殿が完成してからも、溥儀と婉容はこちらの「緝煕楼」で暮らし、その奥に隣接する「勤民楼」で公務を行った。
これらの建物は元々、塩の倉庫と官庁だった「吉黒権運局」の庁舎を改装したもので、溥儀が満州国執政として長春に居を移した際の仮の住まいだったが、宮殿である同徳殿が完成した後も日本の干渉を嫌って転居を拒否した。

満州事変以前に建てられたこちらの建物は、中庭を囲む中国と西洋折衷の造りで、中庭には緑をたたえた樹木が植えられていた。
無機的でいかめしい同徳殿に比べ、こちらの建物の方がはるかに私の好みに合う。
溥儀が転居を拒んだ理由も、単に関東軍による盗聴を恐れただけでなく、慣れ親しんだ中国建築の趣のある緝煕楼の方が快適だったこともあったかもしれない。

「勤民楼」内には、「日満議定書」の調印が行われたテーブルも展示されていた。
日満議定書は、満州国建国から半年後の1932年9月15日に日本と満州国の間で締結されたもので、日本が満州国を独立国と承認する一方で、満州国は領内における日本の権益と日本軍の駐留を認めるという議定書である。
満州国の国務総理として議定書に署名した鄭孝胥(ていこうしょう)は、紫禁城時代から溥儀に尽くした忠臣だったが、関東軍と対立し僅か3年で辞任させられ軟禁状態に置かれたまま亡くなった。

建物の2階には玉座が置かれ、この部屋で溥儀3度目の即位式典が行われた。

様々な式典や儀式の後に晩餐会などを催した「賜宴殿」。
列席したのは主に満州国や日本の高官たちだった。
清王朝の再興を夢見て日本と手を結んだ溥儀だったが、国際社会は満州国を独立国とは認めず、名ばかりの皇帝として日本の傀儡として終戦を迎えるのだ。

かつて溥儀が実際に暮らしたこの宮殿は、現在では「偽満皇宮博物院」と呼ばれるだけあって、施設のあちらこちらに展示スペースが設けられ、溥儀の数奇な人生や日本の傀儡だった満州国の実態を伝える博物館となっている。
その展示に沿って、波瀾万丈な溥儀の生涯を辿ってみることにしよう。

愛新覚羅溥儀は日露戦争が終わった翌年、1906年2月7日に北京で生まれた。
父親は清の皇族で、第11代皇帝光緒帝の異母弟にあたる醇親王奕譞(さいほう)だった。
映画で描かれる通り、溥儀はわずか2歳の時に母親から引き離され、紫禁城で宦官たちに囲まれて暮らすことになる。
第12代皇帝宣統帝の誕生であり、彼の数奇な運命の始まりだった。
しかし、なぜ幼い溥儀が皇帝に選ばれたのだろう?

満州族の王朝である清は、太祖ヌルハチによって建国後、代々皇帝の死後、多くの子の中から次の皇帝が指名され世襲されてきた。
ところが第10代の同治帝が12歳で早逝したためその構図が崩れてしまう。
すると、第9代咸豊帝の側室ながら同治帝の生母であった西太后が実権を握り、皇帝選びを差配するようになる。
まず西太后が選んだのは、自らの妹が産んだ3歳の男子、それが第11代光緒帝である。
しかし溥儀が生まれたこの光緒帝の時代には、欧米列強の侵略に加え日清戦争にも敗れ、義和団の乱により清の国力は著しく衰えていった。
こうした帝国の衰退の中で、光緒帝の死後西太后によって新たな皇帝に指名されたのが幼い溥儀だったのである。

皇帝となった溥儀は宦官たちによって養育され、紫禁城の中で実弟の溥傑らとともに成長する。
しかし、その間に城の外では大きな変化が起きていた。
1912年の辛亥革命により中華民国が成立すると、革命に乗じた袁世凱の要求に屈した皇族たちは宣統帝の廃位を決断、およそ300年続いた清朝の歴史が終わったのだ。

溥儀は6歳で皇帝の地位を失ったが、特別の配慮で紫禁城に住むことは認められた。
皇宮博物院には、屋根の上で遊ぶ溥儀の写真などが展示されていた。
成長するにつれ、塀の外の世界に興味を持つようになり、イギリス人教師レジナルド・ジョンストンによる西洋式教育を受けながら、中国や世界の情勢、自らの役割などについて考えるようになる。

1922年、溥儀は2人の妻を娶る。
正妻の婉容と側室の文繡である。
17歳の婉容は清王朝を支える満州人の上流階級「八旗」の家系で、父親は歴代皇帝に仕えた高級軍人、天津のミッションスクールで学び「エリザベス」と呼ばれた才女だった。
一方12歳で側室となった文繡はモンゴル人、結婚時にはすでに生家は没落していたという。

しかし、紫禁城での3人の暮らしは長くは続かなかった。
1924年に起きた「北京政変」により、溥儀たちは紫禁城から追放されたのだ。
北京政変とは、辛亥革命に共感する軍人・馮玉祥によって引き起こされたクーデターで、紫禁城を出た溥儀はイギリスやオランダに保護を断られたため日本を頼り、天津の日本租界で暮らすことになる。

天津で暮らした7年間は溥儀にとって最も自由を謳歌した時代だったようだ。
ゴルフに興じる溥儀。
中国国内の混乱が及ばず多くの外国租界が集まっていた天津で、溥儀は様々な人物と交流を持ち、清朝の復興を真剣に考えるようになるのだ。

また、その当時の婉容と思われる写真も展示されていた。
西洋式の文化的な暮らしを楽しんでいる様子が伺える。
晩年重度のアヘン中毒に陥る婉容にとって、天津は文字通り理想的な暮らしだったのだろう。
その一方で、この時期に溥儀は側室の文繡と離婚している。
文繡の訴訟を受け溥儀は慰謝料5万5千元を支払うが、文繡は溥儀や宮廷内のスキャンダルをマスコミに暴露したため、全ての地位を剥奪されて平民とされた。

そんな平穏な生活を打ち破ったのが、1931年9月に関東軍が引き起こした満州事変だった。
瞬く間に満州全域を支配下に置いた日本は、中華民国や列強の反発をかわすため、庇護していた溥儀に目をつける。
関東軍の特務機関長だった土肥原賢二が溥儀に接触、「満州国元首」への就任を打診した。
この誘いに清朝復興を目指す溥儀は日本こそが組むべき相手だと見定め、日本の特務機関の手引きで隠密裏に満州南部の旅順に潜入する。
そして翌32年3月、満州国の建国が宣言された。

3月9日、溥儀は満州国の「執政」に就任する。
あくまで皇帝就任を求める溥儀に対し、日本は時期尚早だとして皇帝より地位の低い執政を名乗らせた。
「清朝の復辟」にこだわる溥儀と「五族協和」のスローガンを掲げ日本の傀儡と位置付ける日本。
満州国をめぐる両者の思惑は、最初から大きく異なっていた。

満州国建国から2年後の1934年、溥儀は晴れて満州国皇帝に即位、「康徳帝」を名乗る。
首都新京で三度目の即位式に臨んだ溥儀だが、関東軍は「五族協和」の精神に反するとして歴代の清皇帝が着用した満州の民族衣装を身に纏うことを許さず、満州国軍の軍服「大総帥服」を着用させた。
その代わり、即位式に先立って行われた即位を先祖に報告する「告天礼」では、満州族の衣装「龍袍」を身につけることを認め、妥協を図った。
こうして溥儀をコントロールする役目は、天津時代から溥儀のボディーガードを務めた関東軍の吉岡安直が担当し、皇帝就任後は関東軍司令部付きの「皇帝御用掛」として終戦まで日本側の要求を溥儀に飲ませていく。

皇帝に就任した溥儀は1935年4月、国賓として日本を初訪問し昭和天皇の熱い歓迎を受ける。
天皇は東京駅に到着した溥儀を自ら出迎える異例の対応を見せ、二人で同じ馬車に乗り、東京のみならず京都や奈良、広島にも足を伸ばし、歴史上例のない破格の厚遇だった。
初めての外国訪問で見聞を広め新たな国づくりに燃えて帰国した溥儀だったが、待っていたのは厳しい現実だった。

皇宮博物院の展示では、満州国皇帝としての溥儀について次のように説明されていた。
『日本の関東軍に操られ、東北の主権を売り渡し、反動的詔書を発布し、反動的法令の裁可を行い、日本が引き起こした侵略戦争を支持し、日本の植民地支配者を助け、東北人民を惨めたらしく殺害して、民族を裏切る犯罪人になった。』

こうして傀儡ながらも皇帝の地位に返り咲いた溥儀だったが、1945年8月、不可侵条約を破ってソ連軍が満州国に侵攻すると、溥儀は家族や満州国の閣僚、関東軍の上層部と共に新京を脱出する。
そして日本の敗戦が決まった3日後の8月18日、朝鮮国境に近い大栗子で自ら満州国の解散を宣言し、自らも皇帝の位から退位した。
しかし翌19日、日本への亡命のため立ち寄った奉天の飛行場で、侵攻してきたソ連軍によって捕まり、ソ連へと連行されるのだ。

溥儀は中華民国に引き渡されることを恐れ、ソ連に止まることを希望、ハバロフスクなどで5年間の収容所生活を送る。
この間に開かれた東京裁判にも、ソ連側の証人として出廷、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」「満洲問題に関する責任は全て日本にある」と主張した。

1950年溥儀の身柄は、国民党との内戦に勝利した中国共産党が建国した中華人民共和国に引き渡される。
祖国に戻った溥儀は満州にある政治犯収容所に収容され、溥傑や満州国の高官たちと共に徹底した思想教育を受けた。
映画「ラストエンペラー』は、この収容所での取り調べに対し溥儀が自分の人生を語るという形式で物語が組み立てられていたため、映画を観た方には印象深く記憶されているだろう。

模範囚として収容所で過ごした溥儀は、1959年12月、当時の国家主席劉少奇の特赦令により釈放される。
釈放後は周恩来の勧めに従い、北京植物園の庭師や全国政治協商会議の文史研究委員会専門委員を務めた。
さらに1964年には再び周恩来の計らいにより、満洲族の代表として国会議員に当たる政協全国委員にも選出され、1967年に亡くなるまでその職を続ける。
またプライベートでは、1962年に看護婦だった李淑賢と結婚、1年遅れて釈放された弟の溥傑一家と交流しながら穏やかな晩年を送ったという。

帰国後私は、映画『ラストエンペラー』を改めて観て、大筋では史実に忠実に描かれていることを確認した。
欧米人が知らない中国の皇帝の物語がアカデミー賞を独占したという事実は、溥儀が歩んだ人生が人種を問わず多くの人の心をとらえる魅力を備えていたことを証明している。
皇帝であろうと、時代の流れに抗して生きることはできない。
人間が武力によって争う時代には、人権も知性も夢や欲望も簡単に打ち破られてしまうことを溥儀の物語は教えてくれる。

同徳殿から奥に伸びる廊下には、満州国時代の白黒写真がいくつも展示されていた。
それはまさしく日本人が武力によって築き上げた幻の国家であった。

最新のロータリーが整備された広々とした道路。
真っ直ぐに伸びた道路に沿って立ち並ぶ石造りの堂々たる建物。
これが日本の手で建設された満州国の首都・新京、現在の長春の90年前の姿だ。

満州国の国会に当たる国務院の建物。
私も実際に訪れたが、東京霞ヶ関の国会議事堂を模したこの建物は、大林組によって建設され1936年に完成した。

お城のような屋根が特徴的な関東軍の司令部。
こちらも大林組が建設を請け負い、溥儀が皇帝に即位した1934年に竣工したと記載されていた。

満州国で使用された勲章も展示されていた。
当然と言えば当然だが、勲章の種類もデザインも日本の勲章にそっくりだ。

日本と同じく「御賜のタバコ」も用意されていた。
金色の箱には、天皇家を表す菊の御紋に代わり、満州国を表す蘭の紋章が描かれている。

清朝の復興を夢見た溥儀。
皇宮内には愛新覚羅家の祖先を祀る「奉先殿」も設けられていた。
大志を抱いて満州に戻った溥儀は、この部屋で先祖に何を語りかけていたのだろうか?

溥儀が使用した御料車も展示されていた。
アメリカの高級自動車メーカー「パッカード社」製だったという。
清朝の開祖ヌルハチの時代は馬が最速の乗り物であった。
一人の人間がどんなに望んでも、技術革新を止めることはできず、時代を巻き戻すことは不可能なのだ。
そんなことを感じながら、80年前まで溥儀が暮らした宮殿を後にする。

偽満皇宮博物院を見学した帰り、隣接する「東北沦陷史陳列館」ものぞいてみた。
「沦陷」とは、敵に占領されるとか陥落するという意味らしい。
ここで言う「東北」とは、中国東北部の意味で旧満州を指す。

中に入るといきなり、共産主義バリバリの壁画に迎えられた。
「艱苦卓絕十四年」
すなわち、並外れて困難な14年間ということで、満州事変から終戦までの14年間を中国共産党の視点から展示した博物館ということらしい。

「前言」と書かれたボードには、中国語、英語と並んで日本語でもこの博物館に込めたメッセージが記されていた。
内容は以下の通り。
『1931年9月18日、日本関東軍は瀋陽において長い間企んでいた「九一八」事変を遂に敢行した。この事変は中国人民の抗日戦争の起点となり、世界反ファシズム戦争の幕開けを告げた。国民党政府は「攘外するには先に安内すべき」という対内的には中国共産党及びその指導する工農紅軍の消滅を企て、対外的には軍の侵略に消極的に抵抗する方針と無抵抗政策を励行していたため、4ヶ月余りの間に中国東北部の素晴らしい山河を日本の侵略者に蹄鉄の下に落ち込ませた。民族滅亡の瀬戸際で、中国共産党は率先して、抗戦の旗印を掲げ、全国人民に日本の侵略者に武装して反抗し、中国人民の抗日戦争を直接指導し、推進するよう呼びかけた。抗戦は東北から全国へ進行する中、東北の抗日軍民は民族の独立と平和正義のため、「白山黒水」といわれる東北の地で日本の侵略者と14年間にわたる決死闘争をし、全国の抗戦を有力的に支援し、全国民の抗戦闘志を大いに鼓舞し、中華民族の抗日戦争の勝利と世界反ファシズム戦争の勝利のために重大な貢献を果たした。』
つまり、中国共産党の歴史観によれば、満州は抗日戦争の始まりの地ということになるらしい。

展示内容は、満州事変に先立つ日清戦争から始まっていた。
左上の写真は日清戦争後の下関条約調印の様子で、この条約により日本は朝鮮半島の支配権を清に認めさせるとともに、台湾や遼東半島の権益と多額の賠償金を獲得した。
さらに、満州が戦場となった日露戦争や中国進出へと方針転換した1927年の東方会議についても触れられている。

続いて、関東軍の誕生と1928年その関東軍による張作霖爆殺事件など、満州事変に至る経緯が紹介されている。
左上の人物は当時満州を支配していた軍閥・張作霖、そして右上の小さな写真が張作霖を爆殺した関東軍の河本大作大佐である。

そしていよいよ1931年の満州事変。
「中国東北を侵略する口実を探すため、日本は万宝山事件、中村大尉事件を利用して大騒ぎし、中国政府に抗議するとともに国内でヒステリックに戦争を煽動した」と、満州事変があたかも日本が国家ぐるみで開始した戦争だと説明している。

その上で、満州事変を次のように評価する。
『日本は「満蒙を先に占領する」という戦略目標を達成するために、綿密な計画と入念な準備を経て、西洋諸国が深刻な経済危機に陥り、そして蒋介石が反共内戦を起こしたというタイミングを利用して、1931年に「九一八」事変を起こし、中国東北部に侵入し、それを占領した。日本のこの行動は、中国侵略の局部戦争の始まりであり、世界反ファシズム戦争の初の戦果ともいえる。』
すなわち、日本では関東軍の青年将校たちによる独断専行で始まったと認識されている満州事変は、中国全土の占領を狙った計画的な全面戦争の始まりに過ぎないとの解説なのである。

戦闘は瞬く間に満州全土に拡大し、その様子を誇らしげに伝える日本の新聞も資料として展示されていた。

そして当時のポスターも。
「日露戦後二十九年 満蒙は輝きに満つ」
背中に銃を背負い馬にまたがる兵士の姿は、広大な満州の大地を駆け巡る日本軍人の自信と希望を表しているように見える。

そして満州国に関する展示に続く。
日本語の解説には・・・
『日本帝国主義は中国東北部を直接日本の地図に併合したくないわけではなかったが、このようにすると、世界各国の人民、特に中国人民のより強い反対を受けることを恐れていた。利害を吟味した結果、日本の侵略者は傀儡政権をでっち上げ、「中国で中国を制する(以華制華)」の政策を実行することを決定した。このようにすれば、国際世論を混乱させ、侵略行為を隠蔽することができ、また中国東北部を長期的に占領するという目的を達成することもできる。』
左上の写真は溥儀を出迎える関東軍の南次郎司令官。
その下の人物は溥儀の通訳を務めた外交官・林出賢次郎で、彼が残した膨大な記録には関東軍が溥儀をコントロールした様子が詳細に記録されているという。
そして右上に関東軍の司令部の写真と並んでいる人物は、溥儀の御用掛を務めた吉岡安直である。

さらに展示は、お決まりの残虐な日本軍に移る。
銃剣で住民を殺害する写真には次のような解説が添えられていた。
『日本と満州国軍は東北抗日聯軍を包囲する過程で、極めて残酷な手段を用いて抗日戦士を「剿殺(皆殺し)」にした。』
ここで使用される「剿殺」という表現は、山賊や盗賊、害獣を根絶やしにする際などに使われる言葉だという。

さらに残虐な写真が続く。
切り落とされた夥しい数の人間の頭が晒されている。
この写真の出典は不明だが、次のような解説がなされていた。
『暴力的な統治を実行するのは日本軍国主義が中国の東北部で植民地支配を行う主要な手段である。日本関東軍は絶えず暴力統治を強化し、偽満州国政権内に巨大な偽満州国軍、憲兵と警察、特務システムを設立した。そして、日本関東軍の統一指揮により、偽満州国の軍、警察、憲兵及び特殊部隊は、関東軍に協力し、抗日武装を「討伐」し、抗日戦士を迫害し、抗日民衆を弾圧した。更に各種のスパイ活動を行い、多くの残酷な大惨事と暴行を犯した。』

さらに、満州の資源を奪い、中国人の農民から土地を取り上げたと満州国の経済政策についても糾弾している。
昭和恐慌に喘ぐ日本の農村を救う目的で日本人の移民を大量に満州に送り込んだ「満蒙開拓団」。
日本では、敗戦後の悲惨な逃避行で知られるが、中国では土地を奪われ村から追放された中国人農民の悲劇として語り継がれている。

また、満州国で行われた日本語教育や神社の建設、さらに映画などを通じた日本文化の拡散も、中華民族の文化を破壊する植民地政策だと非難している。
『日本軍国主義は中国の東北部で文化の専制統治を実行し、「協和会」の設立を通じて、各種の大衆団体の活動を制御し、思想の洗脳を行なった。偽満州国の総務庁に「広報課」の設立によって、文芸、新聞、出版、通信、放送などの事業を全面管理し、民族の思想文化を破壊した。学制改革を通じて、奴隷化教育を推進した。「建国神廟」「建国忠霊廟」を建立することによって、宗教的抑圧を行い、中国東北部の民衆を「亡国奴」にさせようとした。』
これは紛れもなく日本が画策した重要な政策であり、人気女優李香蘭の主演映画などを積極的に制作した国策映画会社「満映」の理事長を務めたのが、右下の人物、甘粕正彦だった。

こうしてそれなりに興味深く博物館の展示を見た最後にはこんなメッセージが記されていた。
『歴史というのは最高の教科書であり、最高の思考をはっきりさせてくれる薬でもある。』
確かにその通りと思ったのも束の間、中国共産党の公式見解のような言葉が続き、私は一気に白けた気分になった。
『この先の道のりに向けて、全国各民族の人民は中国共産党の指導の下、マルクス主義、毛沢東思想、鄧小平理論、「三つの代表」という重要思想、科学発展観、習近平新時代における中国の特色社会主義思想を指導としている。中国の特色ある社会主義の道に沿って、「四つの全面」という戦略的配置に基づいて、偉大な抗戦精神を発揚し、人々が心を一つにし、風雨にも負けず、中華民族の偉大な復興という「中国の夢」を実現するために努力し、奮闘しよう。』
何だか、日本が満州国で行おうとした洗脳と同じ匂いがする。

もう一つ、この博物館で印象に残ったのが、長春に配属されていた日本軍「第100部隊」に関する企画展示だった。
サブタイトルは「中国を侵略する日本軍 第100部隊細菌戦罪証陳列」となっていた。
細菌戦といえば731部隊が有名だが、「第100部隊」という名は私は聞いたことがない。

日本語による説明はこうだ。
『日本の侵略者は中国侵略戦争実施中、国際公約に公然と違反し、中国の土地で生物兵器である細菌兵器を開発、使用し、細菌作戦を行い、更には生きている人間を使って各種の実験を行い、中国軍民は数多く殺され、大きな被害を被った。日本軍が中国で行った生物兵器の実験と細菌戦は、世界の歴史においてもまれな戦争犯罪である。日本政府と軍部は、中国に対して実施した細菌戦に直接関与した。吉林省長春市に駐屯していた日本軍第100部隊は、日本軍細菌部隊の中でも重要なものであった。その部隊は、生きている人間や動植物などを利用して多種にわたる病原性細菌実験を行い、細菌戦薬を開発し、細菌兵器を生産し、細菌戦を実施した。』
さらに・・・
『国際連盟は1925年6月17日に、「窒素性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書(ジュネーブ議定書ともいう)を採択した。37の署名国の一つである日本は、第2次世界大戦中に生物化学兵器を大規模に使用した唯一の国となった。中国を侵略する日本軍は中国で膨大な細菌兵器実験と細菌作戦体系を確立し、有史以来最も野蛮で残忍な細菌戦実験を長期的にわたり行っていた。細菌戦の実施は、日本の中国侵略戦争の重要な一部であった。14年間に及ぶ中国に対する侵略戦争において、細菌戦は一貫して日本の重要な作戦手段であった。』

上の写真が長春に建設中の「満州第100部隊」本部の写真だという。
『1936年、関東軍体制内に細菌兵器および防疫事項を専門に研究する部隊「関東軍防疫給水部」と「関東軍軍馬防疫工場」を設立した。1941年、秘密保持措置を強化するために、この二つの部隊は対外的に「満州第731部隊」、「満州第100部隊」と呼んだ。』
つまり、「関東軍防疫給水部」が有名な731部隊であるのに対し、第100部隊は「関東軍軍馬防疫工場」、表向きは重要な移動手段として日本から満州に送る軍馬の衛生管理などを担当する部隊だったらしい。

しかし、中国側の主張は異なる。
『生きた人間を用いて、各種実験を行ったことは、日本軍細菌戦部隊の最もおぞましい暴行である。当時は「生体実験」と呼ばれていたが、より毒性の強い病原性細菌を培養するために、被害者から標本を取っていた。日本軍の第100部隊も生きた人間を使った細菌兵器の実験を行った。』
そして・・・
『日本軍の第100部隊は多種にわたる細菌兵器を研究し、そして侵略戦争に備えて大量生産し、日本軍の細菌部隊に供給した。高橋隆篤はハバロフスク裁判で、「100部隊が生産した細菌兵器の大部分が中国浙江省の戦場で使用された」と供述している。』

高橋隆篤は関東軍の獣医部長を務めた人物で、日本軍による細菌戦の戦犯12人を裁いた1949年のハバロフスク裁判で25年の刑を言い渡され、シベリア抑留中に病死した。
高橋に関するボードには、次のように記されている。
『細菌兵器の生産量を増やすために、関東軍司令部獣医部長の高橋隆篤は第100部隊に第二部の第六分部を設置し、細菌兵器を専門的に生産するよう命じた。
高橋隆篤の供述
1941年9月、私は第100部隊長の若松大佐に鼻疽菌、炭疽熱菌、錆菌の生産を命じた。1944年3月、私はまた彼に牛疫菌と錆菌の代わりとなる菌の生産を開始するよう命じた。』

ハバロフスク裁判では、高橋の他にも第100部隊に関わった日本人が証言しているらしい。
『ハバロフスク裁判で日本軍第100部隊技術者の三友一男は、病原菌の効能を把握するために、生きている人を使って細菌実験を行ったと供述した。』
『ハバロフスク裁判で日本軍第100部隊技術者、獣医中尉の平桜全作は、生きた人を使って細菌効果実験を行った状況を供述した。』

ハバロフスク裁判はソ連単独で行われた軍事法廷で、冷戦の激化によりその詳細は明らかになっていない。
そのため、供述の信憑性には議論があるところだが、日本軍による細菌兵器開発や人体実験は731部隊に限ったものではなかったようだ。

この展示によれば、関東軍傘下の731部隊と100部隊の他にも、中国派遣軍司令部の下には北京の第1855部隊、南京の第1644部隊、広州の第8604部隊があり、さらに南方軍司令部の下にはシンガポールの第9420部隊が存在したという。
各部隊は多くの支部を持ち、最終的には陸軍参謀本部の指示を受けて活動していたらしい。
私が知らない情報を目の当たりにして、少し驚いた展示であった。

『1939年5月11日、日本とソ連は中国とモンゴル国境のノモンハン地区で交戦した。ノモンハン戦役とも呼ばれる。作戦期間中、日本軍の第731部隊は初めて細菌兵器を使用して、交戦区のハルハ河、フールステ河などの水源地に炭疽、チフス、コレラ、ペストなどの烈性伝染病菌溶液を投下し、河川と水源を汚染させ、ソ連軍とモンゴル軍に伝染病を感染させ、その戦力を消耗させた。1939年8月30日、関東軍司令官だった植田謙吉は日本軍の第100部隊にこの戦役に人員を派遣し参加するよう命じた。』
『中国を侵略する日本軍が中国で細菌戦を実施した地域は、東北、華北、華中、華南及び西南を含む広大な地域に広がっている。無数の民衆が疫病の流行に苦しみ、毒菌に骨を食われるような苦痛を受けた。中国を侵略する日本軍が中国人民に対して犯した残酷非道な細菌戦は罪悪のものであり、戦争期間中に日本軍が犯した極端な反人道的暴行の典型的な愚行である。』
『1944年4月、関東軍司令部は100部隊獣医中尉であった平桜全作に遠征隊への参加を命じ、北興安省の各地域における家畜の数、牧場、貯水池、道路や家畜の病状などを偵察した。1945年3月、日本軍の第100部隊は平桜全作をハイラル特務機関の別働隊として派遣し、家畜500頭を購入し、興安北省中ソ国境で「放牧」した。それらの家畜を利用して牛疫菌に感染させる準備を行い、対ソ連細菌戦を発動した。』
日本が侵攻した中国では様々な病気が流行していて、どれが人為的でどれが天然のものなのか見分けることは難しい。
中国側の主張を全面的に信じることはできないものの、劣勢に立たされた日本が細菌兵器に活路を求めた事は間違いなく、その規模は私がイメージしていたよりもかなり大きそうだということを今回知ることとなった。

満州国は、日本人が手にした歴史上最大の「海外領土」だった。
しかしその実態について、私たちはほとんど知らない。
学校でも教わらない「幻の国家」なのだ。
しかし満州で権力と財力を築いた岸信介や児玉誉士夫が戦後日本の黒幕となり、その影響力は安倍晋三を通じて今も厳然と残っている。
戦後80年の今年、中国では満州事変や731部隊など日本による戦争犯罪を扱った映画が次々と公開され大ブームとなっている。
私たち日本人ももう少し、満州や戦争の歴史を学ぶ必要があると痛感した旅であった。