<吉祥寺残日録>雨の井の頭公園を歩きながら1970年代の「吉祥寺大改造」を想う #220828

今日は気温がグッと下がって、朝から雨が降っている。

朝ごはんを食べた後、久しぶりに雨の公園をお散歩しようと思ったら、珍しく妻が一緒に行くという。

このところバラバラで行動することが増えていたので、「行こう」と応じて一緒に家を出た。

日曜日だが、雨の井の頭公園は人影もまばらだ。

雨脚は強まったり弱まったり。

昨日の暑さは消え去り正午の気温が22度、ひんやりとした空気が気持ちいい。

御殿山の山野草エリアには「センニンソウ」の白い花が咲いていた。

夏はつる草の季節。

後から成長し、先に育った植物を覆い隠して太陽を独占する。

しかし我が物顔ではびこるつる草の間から首を出して花を咲かせるしぶとい植物もある。

「ツルボ」の花だ。

植物の世界は多様性豊か、個性を活かしてそれぞれが生き残りを図る中で、自然と調和が生まれてくるから不思議である。

住みたい街ランキングの常連である吉祥寺の住みやすさも、どこか似ている。

雨の井の頭公園を散歩しながらそんなことを考えた。

いろんな地方や国々から集まった人たちが自由にそれぞれの生き方を表現し、それが混じり合って多様な文化が生まれる。

しかも時代と共に街が変貌を続けているのも、自然界に似ていると思った。

実は昨日、武蔵野公会堂で開かれた「武蔵野映像祭り」というイベントに顔を出した。

10年前から吉祥寺で始まった「ムービンピック」という映像祭の新しい試みとして、地元を記録した映像を発掘して上映するという企画に興味を持ったのだ。

武蔵野市が制作した2本の記録映画が上映された。

1本目は私が生まれる前の年1957年に制作された『武蔵野』という作品。

そしてもう1本は私が上京してくる前年の1975年制作の映画『太陽に輝くまち吉祥寺』である。

どちらも今から見れば時代がかった記録映画で、音楽の使い方も垢抜けない。

内容もいかにも行政が発注し、いろんな有力者に気を遣った形跡がうかがえて面白い映画ではないのだが、そこに映し出される昔の映像にはところどころ「へえ」と思わされる部分もあった。

1950年代の吉祥寺は、駅の北口に駅前通りがあって商店街の人混みの間をかき分けるようにバスが走っていた。

写真では何度か見たことがあるが、動画で見るとなかなかのカオスである。

しかし逆に全てを受け入れる柔軟さと人々の圧倒的なエネルギーが画面から溢れ出していて、今の日本が失ってしまった貪欲さや生命力を感じた。

井の頭池で戦後行われた花火大会の映像もあった。

米軍施設で暮らすアメリカ人との盆踊りの映像も面白かった。

まだ敗戦から10年あまりしか経っていないこの時代、空襲で焼け出され吉祥寺に住み着いた人々のバイタリティがこの街の原点だったことを痛感した。

一方、1960〜70年代の吉祥寺。

革新市長・後藤喜八郎の時代、高度経済成長の流れに乗って、副副都心化を掲げて吉祥寺の改造計画が推し進められる。

戦後無秩序に開発された駅の北口を整備するために、住民との話し合いを進め、広い道路の建設が行われた。

現在の吉祥寺大通り、公園通り、本町新道、元町通り、そしてサンロード商店街。

これらはこの再開発によって生まれた通りである。

そして再開発の中心として建設されたのが、現在「コピス吉祥寺」になっている建物。

武蔵野市開発公社によって建設された「F&Fビル」は「フーチャー&フーチャー」の略だったそうで、立ち退きを余儀なくされた地元商店が入居するとともに伊勢丹百貨店の誘致にも成功した。

さらに新設された大通り沿いには、同じ頃、近鉄百貨店や東急百貨店も相次いでオープンし、一足先に開業した南口の丸井と合わせ、吉祥寺の回遊性がこの時に実現したのだ。

驚くのは、吉祥寺の特徴であるこの回遊性は偶然生み出されたものではなく、後藤市長の「回遊性の高い街づくり」構想をベースに計画的に作られたことである。

これは立ち退きにより不利益を被る商店主に対する武蔵野市の配慮だったかもしれない。

しかし結果的に、大型施設を四方に配置したこの回遊性が多くの人を周辺地域から呼び寄せて、中小の小売店や飲食店も繁盛させることになる。

特に流行に敏感な若者たちが吉祥寺に集まるようになって、個性的な店が生まれ、他の街とは違う吉祥寺の雰囲気が誕生したのだ。

今はもう、伊勢丹も近鉄百貨店もなくなり、ヨドバシカメラやチェーン店が増えてしまったが、それでも街の回遊性は変わらず、駅近にある井の頭公園の存在と相まって吉祥寺独特の居心地の良さを残している。

考えてみれば、1970年代半ばの大改造から半世紀、吉祥寺の骨格はほとんど変わっていない。

それを安定と見るか、停滞と見るか。

現在の市長さんは再開発にはほとんど関心がないようだが、そろそろ何か新たなチャレンジをしなければ吉祥寺はやがて普通の街になってしまうだろう。

パリが常に新しいものを取り入れて新陳代謝するように、吉祥寺も昔の人たちの先見性にただ乗っかっているのでは面白くない。

どうせ昔の映像を発掘し見直すのであれば、先人たちのエネルギーもしっかりと受け継いで吉祥寺ならではのチャレンジをしてもらいたいなどと感じた次第である。

<吉祥寺残日録>後藤新平と東龍太郎、東京を生まれ変わらせた2人のリーダー #211214

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