<きちたび>フィリピンの旅2025🇵🇭 若き日に目撃した忘れえぬ「ピープルパワー革命」の現場を40年ぶりに辿る

🇵🇭 フィリピン/マニラ 2025年4月5日

今回の40年ぶりとなるマニラへの旅行の目的の一つは、駆け出しの報道カメラマンだった私が目撃したフィリピン革命の思い出を辿ることだった。

私が降り立ったマニラの国際空港は、今では「ニノイ・アキノ国際空港」と呼ばれている。

この空港で起きた一つの事件、すなわち反マルコスの急先鋒だったベニグノ・アキノ上院議員(愛称「ニノイ」)が国軍兵士によって暗殺された事件が革命の発端となった。

今では「エドゥサ革命」と呼ばれるあの革命とはどんなものだったのか?

現場を歩きながら、その経過を簡単に振り返ってみよう。

きっかけとなったのは、20年にわたってフィリピンで独裁体制を敷いていたマルコス大統領を批判して、民主化運動のシンボルとなっていた最大の政敵ベニグノ・アキノ上院議員(愛称「ニノイ」)がアメリカから帰国した空港で殺害された事件だった。

国家反逆罪で死刑判決を言い渡された後、1980年に獄中で心臓発作を起こし手術を受けるために渡米したニノイ。

術後直ちに帰国するとの約束を破ってアメリカに留まっていたが、大統領選出馬を目指して危険を覚悟で帰国することを決断した。

しかし、1985年8月21日マニラ空港に降り立ったところで制服姿の兵士らに連行されタラップの階段で射殺された。

その様子は同行した日本のメディアによって撮影され、世界に衝撃が走る。

8月31日、マニラ首都圏最大のサント・ドミンゴ教会で行われた葬儀。

200万人が街頭に出てニノイの死を悼み、反マルコス運動がフィリピン全土に拡大していく。

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私がバンコク支局に赴任したのはその翌年1986年の1月だった。

アキノ暗殺事件で国民の激しい怒りをかったマルコス大統領は、野党陣営の体制が整わない間にと大統領選挙を繰り上げて実施すると発表していた。

しかし野党側は、国民の反マルコス気運に推される形で、未亡人であるコラソン・アキノ女史を統一の大統領候補に担ぎ出し、選挙戦は一気に加熱、2月7日の大統領選挙に向けて両陣営の激しい選挙キャンペーンが繰り広げられた。

私もバンコク赴任後直ちに選挙戦真っ只中のフィリピンに向かい、大統領選から革命に至る一部始終を目撃することとなる。

そして迎えた選挙当日。

各地で選挙の妨害や投票箱が盗まれるなどの混乱が報告される中、中央選挙管理委員会はマルコス勝利を宣言する。

しかし、民間で組織された選挙監視団体「自由選挙のための全国市民運動(NAMFREL)」は逆にアキノの勝利を宣言し、同時に2人の大統領が誕生する異常事態となった。

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選挙が終わり、私は日本からタイに到着する妻子を迎えるために、一旦フィリピンを離れバンコクに戻っていた。

ところが、引越し荷物の荷解きも終わらぬうちに再びマニラで大事件が発生。

2月22日、国防相のエンリレと国軍No.2の参謀長フィデル・ラモスらがフィリピン国軍のアギナルド基地に立て籠り、マルコスの退陣を要求したのだ。

この改革派将校による決起は計画的なものではなく、エンリレの下に集まっていたホナサン中佐らの若手将校グループ「国軍改革運動」が企てたクーデター計画が発覚したために行った籠城だった。

エンリレとラモスを支持する兵士は当初わずか数百人に過ぎず、反乱軍鎮圧のため国軍の主力部隊がアギナルド基地に向かうという情報が飛び交った。

バンコクからマニラに到着した私はすぐにアギナルド基地に向かい、基地の前を走る幹線道路「エドゥサ通り」の歩道橋の上にカメラを構え事態の推移を見守ることにした。

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すると、多くの民衆がアギナルド基地に通じる道路に集まり始め、時間の経過とともに群衆が道路を完全に埋め尽くしてしまった。

フィリピン社会に強い影響力を持つカトリック教会の枢機卿が、反乱軍を守るようラジオを通じて国民に呼びかけたことに応じた現象だった。

私たちはいつ戦車部隊が現れるかとヒリヒリするような緊張感の中で一夜を歩道橋の上で過ごしたが、結局心配された軍同士の衝突は起きなかった。

23日の昼になってベール参謀総長が海兵隊に出動命令を下すが、群衆によって基地に近づくことができず、修道女らが装甲車の前に立ちはだかり兵士たちを説得した。

マニラ滞在3日目。

配車アプリ「Grab」を利用して良心的なタクシーを探したうえで、まずは革命の名称にもなった「エドゥサ通り」に向かう。

エドゥサ通りは、マニラ首都圏を半円形に貫く交通の大動脈である。

まず最初に車を止めたのは、エドゥサ通りとオルティガスアベニューとの交差点、反乱軍の鎮圧に向かう海兵隊を市民が取り囲み阻止した現場だ。

かつての記憶は薄れているものの、この40年の間に鉄道や道路が立体交差する複雑な交差点になっていた。

この交差点を見下ろすように、「平和の女王」と呼ばれる巨大な聖母マリア像が見守っている。

ここは革命を記念して1989年に建立された「エドゥサ聖堂」。

革命ではフィリピン国民に大きな影響力を持つカトリック教会も反乱軍を支持し、シン枢機卿らが市民に対してエドゥサ通りに集結するよう呼びかけた。

あの革命はカトリック教会にとっても偉大な勝利だったのだ。

マリア像の足元には、次のような文字が刻まれていた。

「フィリピン国民はベニグノ・ニノイ・アキノのために死ぬことを厭わない」

こうして市民の思わぬ抵抗によって反乱軍鎮圧が滞ったマルコス大統領は、翌24日、非常事態を宣言する。

反乱軍に対する空爆の許可を求めるベールに対し、マルコスはこれを拒絶、その間にも軍内部で反乱軍に寝返る兵士が続出していた。

こうした一連の動きは日本をはじめ世界中にリアルタイムで報道され、「ピープルパワー」という言葉が一躍流行語となる。

エンリレとラモスに率いられた反乱軍が立て篭もった「キャンプ・アギナルド」基地にも行ってみた。

エドゥサ通りに面した広大な敷地を持つこの基地は、フィリピン軍の総司令部であり、道の反対側には国家警察の本部である「キャンプ・クラメ」基地がある。

もしも市民がこれらの基地を取り囲み鎮圧軍を阻止しなければ、軍同士による激しい戦闘となり多くの犠牲者が出たことだろう。

アギナルド基地の外側には、ピープルパワー革命を記念するモニュメントが立てられていた。

それはまるでフランス革命を描いた「レミゼラブル」のワンシーンのようである。

あの時、何万、何十万という数の市民がこの基地の周辺に集い、実際にこうして連帯して声を上げ、いつ現れるかもしれない鎮圧部隊の恐怖と闘いながら命をかけて反乱軍を守ったのだ。

そして、そんな群衆と共に私もこの場所でヒリヒリする時間を過ごしていた。

傍には、暗殺されたニノイの銅像が立っている。

政敵であるニノイの命を奪ったことが結果的にはマルコスの政治生命を縮めた。

20年にわたってフィリピンを支配した独裁者の末路は、意外なほどにあっけなかった。

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運命の2月25日。

この日私は終日、大統領官邸であるマラカニアン宮殿にいた。

この日の午前、コラソン・アキノがマニラ首都圏サンファン市にある社交場「クラブ・フィリピーノ」で独自に大統領就任式を開く。

これに対抗するようにマルコスもマラカニアン宮殿で大統領就任式を催し、宣誓後、一家揃って宮殿のバルコニーに姿を現し、イメルダは集まった支持者やメディアの前で歌まで披露した。

2人の大統領が並立する異常の状況の中、マニラでは真偽不明なさまざまな噂が飛び交った。

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大統領就任式が終わっても、宮殿の前ではマルコス派の兵士たちとアキノを支持する市民が対峙していた。

夕方になりあたりが暗くなるに従って民衆の数は膨れ上がる。

興奮した群衆たちはマラカニアン宮殿に突入する構えを見せゆっくりと守る兵士たちに接近、すると兵士たちは威嚇射撃を繰り返すようになる。

暗い夜空に銃声が轟くたびに群衆は走って逃げ、またしばらく経つとジリジリと宮殿に近づいていく。

そんな兵士と市民の緊迫した睨み合いが続いていた夜9時ごろ、宮殿から1機のヘリコプターが飛び立った。

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「大統領が逃げた!」

誰からともなくそんな噂が流れ、気がつくと宮殿を守っていた兵士たちの姿が消えていた。

それを見た群衆は暗闇の中、宮殿を取り囲む金属製の高いフェンスをよじ登りマラカニアン宮殿になだれ込み始める。

私はそこまで撮影したテープをタイ人の助手に託し、代わりに助手が持っていたVTRデッキとライトを受け取った。

そこからはたった1人、人波に押されるままに前進し気がつくと宮殿のフェンスが目の前にあった。

高さ3〜4メートルはあっただろうか?

まだコンプライアンスなどという面倒な言葉もない時代、私は迷いもなく群衆とともにフェンスを登ろうと金属の柵に手をかけた。

周りの人たちも重そうなカメラとデッキを抱える私を見て外国メディアだと分かったようで、何人もの人が私の足を支え、機材と私の体をフェンスの上に押し上げてくれた。

フェンスの上からの眺めは圧巻だった。

後から後から大勢の人たちがフェンスによじ登り、歓喜の声を上げながら宮殿内へと雪崩をうって飛び降りていくのだ。

「これが革命というものか!」

私は文字通り、歴史的な瞬間を目撃している。

テレビ局に入ってそれまで感じたことのない興奮だった。

フェンスの上からのショットを一発撮影するとすぐに、私も群衆の後を追って総重量20キロを超える機材とともに飛び降りる。

その時はまだ27歳、我ながら若かったと思うが、それでも地上に着地した時に足がつったことを覚えている。

宮殿の建物はすでに市民たちに占拠されていて、バルコニーから投げ捨てられたさまざまな書類がまるで紙吹雪のように夜空を舞っていた。

マルコス大統領の肖像画を見つけた人々はそれを踏みつけ、最後には火をつけて燃やそうとしていた。

その場にどれくらいの時間止まっていたのだろうか?

気がつくと宮殿の敷地はすでに人で埋め尽くされ身動きも取れない状態になっていた。

撮影したテープをすぐに東京に送らなければならない。

私は10キロ以上あるカメラを両手で頭上に持ち上げたまま、群衆をかき分けながら出口の方に歩いた。

すでに入り口の門も開放されていたため再びフェンスを越える必要はなく、大通りまで歩いて止まっていたバイクの運転手に金を握らせて後部座席に乗せてもらい臨時支局のあったホテルまで夜の道をぶっ飛ばした。

その日東京ではフィリピン情勢の特番を組んでいて、私が撮影した映像はすぐに伝送されて革命の瞬間を捉えた映像として日本中に速報されたのだ。

今回の旅でも、マラカニアン宮殿は是非とも訪れたい場所であった。

タクシーに乗って宮殿に向かうと、マラカニアンに通じる道路にチェックポイントが設けられ、通行が完全に制限されていた。

革命直後、新大統領に就任したコラソン・アキノはマラカニアン宮殿を市民に開放したが、今では再び大統領官邸としてフィリピン政治の中枢に返り咲き、現在そこの主人は追放されたマルコスの長男、フェルディナンド・ロムアルデス・マルコス・ジュニア(通称ボンボン・マルコス)なのだ。

運転手は検問で身分証明書を預け、代わりに通行許可証を受け取ってゲートを抜ける。

こちらが、マラカニアン宮殿。

正確に言うと、大統領が執務する宮殿の正門はこの先なのだが、そこに通じるホセ・ラウレル通りはブロックされていて、一般人が入るのは難しそうに見える。

私はそこでタクシーを降り、少し歩くことにした。

一帯の交通を制限しているため、走っている車はわずかで、歩いている人はほとんどいない。

こちらの建物は、マラカニアンの敷地内に建つ「マビニホール」と呼ばれる政府機関が入る建物らしい。

私がよじ登ったと思しきフェンスの高さは、やはり3〜4メートルはありそうだ。

このフェンスが革命時のままかどうかはわからないけれど、私の記憶の中にあるフェンスのイメージとの間に齟齬はない。

そんなことを考えながら写真を撮影していると、警備していた兵士から声をかけられた。

「写真撮影はダメだ」とジェスチャーで警告している。

私は「わかった」と手を挙げて合図をし、少し離れた場所からもう1枚だけ写真を撮ってからその場を離れた。

事前に申請して許可を得れば、マラカニアン宮殿を見学できるツアーもあるようだが、まあこうして許可なく現場を歩くことで感じられる雰囲気もある。

それにしても、民衆の革命によって追われた独裁者の息子が40年経って大統領に返り咲くとは想像もしなかった。

フィリピンの持つおおらかさなのか、有名人に惹かれる国民性なのか。

久しぶりにマラカニアンを訪れたことで、あの日の情景が改めて心に蘇った。

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あの夜私が撮影した映像は、他社より良かったと東京のデスクから散々褒められた。

その言葉に気をよくしたのも束の間、ズボンに入れていた財布がなくなっていることに気づく。

マラカニアン宮殿で人ごみをかき分ける際にすられたに違いない。

決して治安がいいとは言えないフィリピンのこと、いつもならば財布はすぐにホテルの金庫に預けるのだが、この時はバンコク到着後ほどんとホテルにも戻らずずっと現場を駆け回っていたため、30万円の仮払金が入った財布をそのままズボンのポケットに入れていた。

ショックだった。

それでも、支局長が会社に事情を説明してくれて、始末書1枚で盗まれたお金は会社が補填してくれた。

今となっては、それもいい思い出である。

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後で知ったところでは、アメリカがマルコス政権に見切りをつけ、半ば騙すようにして米軍のヘリコプターに大統領夫妻を乗せたということらしい。

マルコス夫妻は強固な支持基盤であるルソン島北部に向かうと思っていたが、ヘリコプターは米軍のクラーク基地に飛び、そこから空軍機に乗り換えて問答無用でハワイに亡命することとなった。

こうして20年に渡りフィリピンを支配してきたマルコス体制はあっけなく崩壊したのだ。

その後、マラカニアン宮殿からはイメルダ夫人が残した大量の靴が見つかるなど、しばらくの間、数々の話題を提供し続けた。

残された書類から、日本政府との間で交わされた不透明な政府開発援助の実態も明らかとなり日本国内でも政治スキャンダルに発展。

そして我々メディアの人間にとっては、史上初めてテレビで生中継された革命として記憶されることとなる。

1986年のピープルパワー革命の記憶は、マニラの街のあちらこちらに今も遺っている。

宿泊したマニラホテルの近くには、革命の主人公となったニノイとコリー、アキノ夫妻の銅像が立っていた。

その後、二人の息子であるベニグノ・アキノ3世も2010年から6年間、フィリピンの大統領を務めた。

しかし、アジアの国としては比較的、民主主義が機能しているフィリピンでは、革命後6年間の大統領任期は守られており、アキノの後任には剛腕で知られたドゥテルテ大統領、そして2022年からはボンボン・マルコスが第17代の大統領に就任した。

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専制主義よりも民主主義の方がいいけれど、民主的に選ばれたリーダーがいつも優れているとは限らない。

むしろトランプさんのように常識はずれの方が国民に人気が出たりするものだ。

フィリピンでも、麻薬戦争を掲げ問答無用でギャングたちを殺したドゥテルテ前大統領の人気は以前として高い。

しかしそんなドゥテルテ氏も、国際刑事裁判所(ICC)からの逮捕状を受けて、マルコス政権の下で逮捕され身柄をオランダに送られた。

マニラの街を走っていると、至る所に貼られた選挙ポスターを目にした。

5月にはマルコス大統領の信任を問う中間選挙が行われるからだ。

曲がりなりにも民主主義を守るフィリピン。

でもその行く末はまだまだ予断は許さない。

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