<きちたび>フィリピンの旅2025🇵🇭 日本人が忘れた「マニラ市街戦」 日本軍が行った組織的な大量虐殺とキリノ大統領の恩赦

🇵🇭 フィリピン/マニラ 2025年4月3日~5日

仕事で何度も訪れたマニラだが、実は観光旅行をしたことがなかった。

だから、マニラで一番の観光名所「イントラムロス」を訪れるのも今回が初めてである。

「イントラムロス」とは、16世紀にフィリピンを植民地にしたスペインが築いた城郭都市のことである。

スペイン語で「壁の内側」を意味する通り、この地区を取り囲む城壁は今も残り、ところどころに開いたゲートを通って塀の内側に入る。

城壁の外側には緑の芝生が広がるゴルフ場。

今では市民の憩いの場となっているこの場所は、海を越えてやってきたフィリピンの支配者たちの変遷を目撃してきた。

その中には、私たちの祖先、日本も含まれる。

ゲートを抜けると、石畳の残るメインストリートが南北に伸びている。

両サイドにはヨーロッパ風の建物が並ぶが、その多くは戦後に建て直されたものだ。

第二次大戦前まではスペイン時代の繁栄を伝える歴史建造物が立ち並び「東洋の真珠」と謳われたマニア。

「イントラムロス」はその象徴だった。

今も残るスペイン時代の建造物といえば、世界遺産に認定されたこの「サン・アグスティン教会」ぐらい。

周囲に並ぶ他の建物とは明らかに違い、特に説明を受けなくても歴史の重みが伝わってくる。

教会の正面には、カトリックの聖人像と獅子の像が同居していた。

キリスト教を知らない東洋人に、ここが聖なる場所であることをわからせるために獅子が置かれたのか?

東洋と西洋が遭遇した時代の空気をこの獅子たちから感じる。

教会の内部に入ると、厳かな空間が広がっていた。

祭壇や天井、床の細かな細工にもスペイン時代の繁栄ぶりがうかがえる。

戦前にはこうした建物がイントラムロスを埋め尽くしていたと考えると、戦争によってそれを破壊した人間の愚かしさを感じざるを得ない。

そんな「サン・アグスティン教会」を過ぎて少し進むと、小さな公園に一つのモニュメントを目にすることになる。

「メモラーレ – マニラ1945」

1945年、マニラを舞台に日米両軍が繰り広げた「マニラ市街戦」で犠牲となった市民約10万人を追悼し、後世に史実を伝えるために、「罪なき戦争犠牲者の墓石」として1995年に作られたのがこのモニュメントである。

作家ニック・ホアキンによる碑文にはこうある。

『罪なき戦争犠牲者の多くは名も分からず、人知れず共同墓地に葬られた。火に焼かれた肉体が廃虚の灰と化し、墓すらない犠牲者もいた。この碑をマニラ解放戦(45年2月3日-3月3日)で殺された十万人を超える男と女、子供、幼児それぞれの、そしてすべての墓石としよう。われわれは彼らを忘れておらず、永遠に忘れはしない。彼らが、われらの愛するマニラの神聖な土となり安らぐことを願う』

このモニュメントを見て、戦争中ここで起きた悲劇をすぐに思い浮かべられる日本人は残念ながら少ないだろう。

悲しいことに私もその一人である。

そうした人たちのために、公園には太平洋戦争中のマニラで何が起きたのかを時系列で示すパネルが展示したある。

私は自分の無知を埋めるために、しばしこのパネルの前に立ち、写真と英語による説明に見入った。

パネルの展示は、戦前アメリカが統治していた1930年代のマニラの写真から始まる。

それはまるで、アメリカ本国ではないかと見紛うばかりの整然とした都会だった。

マニラが「東洋の真珠」と呼ばれた理由もこれらの写真から容易に想像することができる。

太平洋戦争開戦直後、フィリピン攻略を目指す日本軍に対し、アメリカ・フィリピンの合同軍はマニラを「無防備都市」と宣言し、部隊を街から撤退させることによりマニラが破壊することを防いだ。

しかし1944年、アメリカ軍の反攻が開始されると、フィリピン防衛に当たる第14軍の山下奉文司令官は陸軍主力をマニラから内陸のバギオに「転進」させ持久戦の方針を決めるが、大本営陸軍部や海軍はマニラ放棄に納得せず、レイテ沖海戦の生存者なども加えて海軍陸戦隊「マニラ海軍防衛隊」を組織、最後の一兵まで死守することを決める。

こうして、日本軍の拠点となったイントラムロスや隣接するエルミタ地区、マラテ地区が激しい市街戦の舞台となった。

日本軍による放火やアメリカ軍による砲撃により、イントラムロスの歴史的建造物はことごとく破壊され、文字通り瓦礫の山と化した。

マニラ市街戦について日本で語られることは少ないけれど、実は第二次大戦でアジアにおける最大の市街戦であり、世界的に見てもスターリングラード、ベルリン、ワルシャワに次ぐ規模の大規模な市街戦だったのである。

日本軍はこのエリアの主要な建物に防衛陣地を築く一方、住民の避難などを行わなかった。

そのため、この地区に暮らす市民たちは戦闘に巻き込まれ、日米の兵士以上に多くの犠牲者を出すこととなる。

当時高級住宅地だったこの地区には多くの外国人も居住していたが、彼らも戦闘から逃れることができなかった。

こうしてマニラ市街戦の犠牲者は10万人を超えると推定されているのだが、その犠牲者の中には戦闘の巻き添えになったのではなく、日本軍によって意図的かつ組織的に虐殺された市民が多く含まれることが戦後の調査で明らかになる。

日本軍による大量虐殺はマニラ市内の各地で起きているが、その現場の一つを訪ねてみた。

マラテ地区にある「セント・ポール大学」。

広島市立大学の永井均准教授の著書『フィリピンBC級戦犯裁判』によれば、この大学ではちょっと信じがたいような住民虐殺が起きたという。

1945年2月9日の夕方のことである。官庁街に隣接するマラテ地区のセント・ポール大学で、日本軍による住民虐殺が起きた。1911年に修道女養成を目的として設けられたカトリック系の同大学の建物は、44年9月、日本軍に接収された。日本兵が宿舎や貯納室として利用するためである。9月8日、修道女たちは大学構内の祭具を全て取り払うよう命じられ、転居も強いられた。

マニラ戦の最中、2月9日の早朝に大学構内で米や他の備蓄品の盗難があった(犯人は不明)。発覚直後から、大学を含む一帯、つまりマニラ湾からダート通りにかけて日本軍は警戒を強める。日本軍は、「砲火から保護する」として、近隣住民にセント・ポール大学に集まるよう伝えて回った。正午過ぎ、大学に集まってきた付近の住民たちが屋外で待っていると雨が降ってきた。人々は大学に招かれ、いくつかの部屋を転々とさせられた後、最後に少し広めの食堂に集められた。天井に吊るされたシャンデリアが灯火管制のカバー紙で覆われていることや、そのカバー紙に外窓からつながるひもか電線らしいものに気づいた住民もいた。

夕方5時半ごろ、5人の日本兵が飴やビスケット、アルコール飲料と思われる液体を食堂に搬入した。日本兵は住民中のインド人通訳を介して「この部屋にいれば安全」なこと、一帯の家屋は(市街戦で)破壊されるであろうこと、ここに用意した食料は食べてもよいこと、などを伝えた。空腹だった人々は日本兵が置いていった食料に殺到した。直後、シャンデリアに仕掛けられたと見られる爆弾が爆発し、部屋の中は大混乱となった。人々は爆風で床に叩きつけられ、ある人はパニックに陥って部屋を徘徊した。そのうち外に待機していた日本兵が機銃掃射を始めた。日本兵は窓から部屋の中に向けて、あるいは廊下にいた逃れ出た人たち目がけて手榴弾を投げつけた。爆風で窓や建物の一部が壊れ、そこから人々が逃れ始めた。機関銃やライフルによる銃撃の嵐の中、多くの人が殺された。

セント・ポール大学(とその周辺)での事件で殺害された住民の正確な人数については今もって明らかではない。1945年8月末までに米軍の捜査当局が把握した情報によれば、この時点で身元が判明した被害者は72人、生後8ヶ月の女児から75歳の女性までの老若男女で、国籍別ではフィリピン人63人、中国人4人、インド人3人、アメリカ人2人であり、このほか「約360人と推定される死亡者の身元は判明していない」。

セント・ポール大学事件の叙述は主として、ダグラス・マッカーサー将軍率いる米太平洋陸軍(AFPAC)の戦争犯罪支隊(WCB)が、1945年8月28日付で作成した捜査報告書に拠っている。この報告書は、WCB捜査官のジョゼフ・ティンカム少尉ら法務官3名が、1945年6月から8月にかけて実施した被害者への聴き取りや実況見分に基づいて作成したものだ。マッカーサー軍、正確には南西太平洋戦域総司令部(SWPA)傘下の極東米軍(USAFFE)の法務部局にWCBが設けられたのは1945年4月10日のことである。支隊長にはアルヴァ・カーペンター中佐が就任した。WCBの任務は、日本軍の残虐行為に関する情報を迅速に処理し、結論と勧告意見を付した報告書にまとめ、ワシントンの陸軍省に送付することであった。マッカーサー軍のWCBの活動は、ワシントンの米軍当局が世界規模で展開していた捜査活動の一環という側面もあったのである。

マニラ奪還の直後から専従班を設けて戦争犯罪の調査を行なったアメリカ軍の報告書によれば、フィリピン各地で317件もの残虐行為が日本軍によって引き起こされたと報告されている。

その中には、1945年2月のマニラ市街戦の最中に、マニラ大聖堂やサン・オーガスチン教会、サント・ドミンゴ教会、サンタ・ロサ大学などイントラムロス地区で起きた民間人の大量殺害も含まれている。

日本軍に殺された犠牲者の中には、同盟国や中立国の人たちも多くいた。

2月10日、エルミタ地区の「ジャーマン・クラブ」では日本軍が同盟国であるドイツ人とフィリピン人など約500人を殺害した。

12日には中立国のスペイン大使館が日本兵に襲撃され、大使館に逃れていたスペイン人ら数十人が殺害され放火された。

同じエルミタ地区の広場「レメディオス・サークル」にも、身元不明の遺体多数が米軍のブルドーザーで、地下深く掘られた穴の中に流し込まれたという。

虐殺事件と並んでフィリピンで横行したのが日本兵による強姦事件である。

その象徴的な事件が、マニラ湾に面するエルミタ地区の「ベイビューホテル」で起きた。

アメリカ大使館の目の前に位置するその現場を訪ねてみると、ホテルは戦後に建て替えられ、現在は「BAYVIEW PARK HOTEL MANILA」として営業を続けていた。

事件が起きたのは、マニラ市街戦最中の1945年2月9日から12日または13日までの4、5日間、ベイビューホテル周辺に住む女性数百人が日本軍によって同ホテルや周辺のアパートに監禁され、日本兵たちから繰り返し強姦された事件だ。

アメリカ軍の捜査によると、被害女性はフィリピン人のほか、イタリア人、ロシア人、アメリカ人、イギリス人なども含まれ、日本軍の残虐行為を象徴する事件としてフィリピンでは有名だが、日本ではあまり知られていない。

何度もマニラを訪れていた私も今回の旅行までこの事件のことは知らなかった。

現代史が専門の関東学院大学・林博史教授による『マニラ戦とベイビューホテル事件』には、マニラ市街戦の状況とともに事件の経過が詳しく書かれており、日本軍による戦争犯罪を詳しく理解するため少し長めに引用させていただく。

米軍は 1945 年 1 月 9 日にルソン島北部のリンガエン湾に上陸し、そのうち第 6 軍の第 1 騎兵師団と第 37 歩兵師団がマニラに向けて南下、米軍の最初の部隊がマニラ北部のサント・トーマス大学(民間抑留所として多数のアメリカ人などが抑留されていた)とマラカニアン宮殿にやってきたのは 2 月 3 日夕方だった。日米両軍の交渉により 5 日にサント・トーマス大学の抑留者たちは解放された。パシグ河の北岸にあるマラカニアン宮殿も米軍が占領し、マニラ市中心部を目指してパシグ河の渡河作戦が 7日に実行されることになる。
マニラにいたのは海軍が主力のマニラ海軍防衛隊(司令官岩淵三次海軍少将)であった。マニラ海軍防衛隊の司令部ならびに司令部大隊や海軍第1 大隊・第 2 大隊など海軍部隊の主力で構成されていた中部隊(海軍防衛隊の主力)は、マニラ市の中心部に位置していた。パシグ河の南側で城壁に囲まれたイントラムロスは北部隊の担当であったが、その南から東にかけての一帯は、ルネタ公園や市庁舎、農務省ビル(マニラ海軍防衛隊司令部)、財務省ビル、国会議事堂など政府関係の立派なビルが並んでいる官
庁街だった。マッカーサーが滞在していたマニラホテルはこの地域の海側にある。この一帯に司令部と司令部大隊(大隊長伊地知季久大尉)、その他の付属隊が配備されていた。このあたりのビルがマニラ戦最後の攻防がおこなわれた地域にあたる。

この官庁街の南側がエルミタ地区、エルミタの東側がパコ地区、その南側がマラテ地区になる。エルミタはアメリカ植民地下で発達した地区で、社会的知的エリートがたくさん住んでおり、ドイツクラブやスペインカジノ、イギリスクラブなど欧米系のクラブがいくつもあった。またフィリピン大学やフィリピン総合病院、赤十字ビルが大きな面積を占め、海側には高等弁務官官邸(現在は米大使館)や陸海軍クラブもあった。ベイビューホテルはこのエルミタ地区の西側、高等弁務官官邸の向かい側にあ
るホテルだった。日本軍の配備については後でくわしく検討するが、このエルミタ地区には、中部隊のうちの海軍第 2 大隊(大隊長稲政博海軍大尉、第 4 から第 6中隊)が配備され、後に第 5 大隊(大隊長木下進大尉)もここに加わった。 エルミタの東側のパコ地区には海軍第 1 大隊(大隊長清水常吉大尉、
第 1 から第 3 中隊)が配備された。
マニラとその周辺、ならびにルソン島における日本軍の状況については省略するが、マニラの防衛を担当していたマニラ海軍防衛隊(海軍の第 31特別根拠地隊を主力)の総人員は、その指揮下の陸軍部隊を合わせて 2万 2600 名程度と推定される。ただベイビューホテル事件との関連で見ると、司令部と司令部大隊などが 2000 名余り、第 1 大隊 1000 名弱、第 2大隊 1200 名余り、第 5 大隊約 420 名、その他 350 名程度、合計約 5000名がこのあたりに配備されていた。なおその後、米軍に包囲されて後退してきた兵員も少なくないと思われるが、その人数はよくわからない。
こうした中部隊のほか、イントラムロスを含む北側の地区には北部隊、南側には南部隊などがいた。これらの地域でも特にイントラムロスでは凄惨な住民虐殺が繰り広げられたが、ベイビューホテル事件とは直接関わりはないので省略する。
2 月 7 日に米軍は、市街地の北側を流れるパシグ河を東側から渡河、パコ駅周辺など市街地の東側の地区で激しい戦闘がおこなわれた。10 日に米軍はパコ駅を占領、11 日にはパシグ河にうかぶプロビソール島(発電施設がある)を占領した。米軍はマニラ市の東側を回りながら南下し、12日には南側のニコラス・フィールドを占領、その日のうちに北東南の三方からマニラ市街地を包囲した。ここにマニラ海軍防衛隊は東方山中の日本軍主力との連絡路を断たれ、逃げ場を失ったのである。

米軍がパシグ河を渡河し、いよいよマニラ市内への侵入が迫ってきた 8日、日本軍はイントラムロスで住民のなかから男たちを集めて、イントラムロス内の北端にあるサンチャゴ要塞に連行していった。この男たちは翌日以降、日本軍によって虐殺されることになる。またイントラムロスでは
女性や子どもたちも教会などに閉じ込められ、後に多くが虐殺されることになる。
7 日または 8 日の正午に、マニラ海軍防衛隊の岩淵司令官が直率する中部隊の海軍第 2 大隊からと思われる命令が出されている。そのなかに、「比島人を殺すのは極力一ヶ所に纏め弾薬と労力を省く如く処分せよ 死体処理うるさきを以て焼却予定家屋爆破家屋に集め或は川に突き落とすべし」という内容が含まれており、フィリピンの民間人殺害が計画されていたことがわかる。
9 日の午後、エルミタ地区において米軍の砲撃を受けて火災があちこちで発生した。日本軍が火をつけたという証言もある。いずれにせよ火災が迫ってきたので家から逃げ出した人もいれば、日本兵が家に入ってきて、外に出ろと命令したために外に出た人もいた。欧米系の住民などはエルミタ地区の東側にあったドイツクラブに逃げ込んだ人たちもいたが、多くは西側の大通りデウィ・ブルーバードのそばにあるファーガソン広場に集められた。すでに夕方になっており、そこには 1000 人あるいはそれ以上の
住民が集められていたようだが、くわしい人数はわからない。
ファーガソン広場に集められる前に、日本兵から、「アメリカ軍はどこにいる」、「ゲリラのメンバーか」などの尋問を受けたという証言もある。日本軍は米軍あるいはゲリラが潜入していることを疑っていた
と思われる。

ファーガソン広場に集められた住民は、午後 7 時か 8 時ごろ、日本軍によって、男たちだけのグループと女性・子どもたちのグループに分けられた。男たちは、広場の周辺の家々に収容されたようであるが、女性と子どもたちは広場のすぐ北側にあるベイビューホテルに連れて行かれ、各部屋に 20-30 人ずつくらいに分けて入れられた。監禁された女性と子どもの全体の人数は、数百人と見られるが、よくわからない。ベイビューホテルの元経営者の証言によると、ここは約 150 室あるホテルで、10 階ほどの
ビルだった。
女性と子どものグループのなかから、若い女性たちだけ 20 数名が別に選別され、ベイビューホテルの南隣、ファーガソン広場に面しているコーヒーポット Coffee Pot というレストランに連れて行かれた。そこには数人の日本軍将校と思われる軍人が酒を飲んでおり、彼女たちにもウィスキーを飲ませようとした。そこで 1 時間ほどいた後、彼女たちもベイビューホテルの 3 階あたりの一室に監禁された。夜の 9 時ごろだったと見られる(この 20 数人の女性たちをコーヒーポット・グループと呼んでおきたい)。その部屋には家具はなく、床にマットレスだけがあったという。各部屋ともに明かりはなく、ホテルなのでバスルームはあったが水は出ない状態であり、いずれも真っ暗な部屋に何十人かが押し込められた状態だった。
コーヒーポット・グループの部屋には、しばらくして数人の日本兵が入ってきて、懐中電灯などで女性たちの顔を照らして出て行った。それから数分後、何人かの日本兵が入ってきて、懐中電灯やろうそくで女性の顔を確認し(身体を丸めて顔を隠そうとしている女性がいれば髪の毛をつかんだりして顔を上に向けさせて)、目ぼしいと思われる女性を引きずり出していった。そしてホテル内の別の部屋に連れて行き、一人あるいは複数の将校や兵士たちが強かんをおこなった。その後、女性は兵士によって元の部屋に戻されるか、あるいは放置されたため自分で戻った。このグループは、最初から日本軍が若い女性だけを選び出していたので、ほとんどの女性が被害にあった。
そうした事態はコーヒーポット・グループだけに起きたのではなかった。ほかのグループは、年配の女性から子どもまでの女性たちと男の子どもらで構成されていたが、かれらのいる部屋にも日本兵がやってきて、懐中電灯やろうそくの明かりで若い女性を探し、引きずり出していった。これらのグループでは一部屋に 20-30 人がいたが、そのうち数人の若い女性が被害にあった。
このようにして、9 日の夜は女性たちを恐怖のどん底に陥れたまま過ぎていった。

10 日の早朝、ようやく日本兵による襲撃が収まると、女性たちは助けを求めてホテル内を動き始めた。9 日の晩も含めてその後の数日も、日本兵たちは日中は米軍との戦闘のためにホテルには居らず、夜になると集まってきたようで、日中は、住民が逃げ出さないように玄関などに若干の警備兵がいただけで、ホテル内の各フロアーでは住民は比較的自由に動き回ることができたようである。
各部屋に分けて入れられていた住民たちは、このままではいけないと相互に連絡を取り合い、多くの住民たちは 2 階のダイニングルームに集まってきた。ここに 200-300 人ほどが集まってきたと見られる。大勢で集まっていた方が安全だと考えたからである。娘が被害を被った何人かの母親たちは相談し、日本軍の隊長を探して、あのようなことを止めさせるように頼むことにした。日本軍将校とのやりとりは後で紹介するが、この努力は無駄に終わった。
コーヒーポット・グループの女性たちは、早朝になり日本兵がやってこなくなると、助けを求めてホテル内で母親や家族を探して部屋を出た。家族を見つけて、その部屋で匿ってもらったり、あるいはダイニングルームで家族に合流した。この早朝の時点で、コーヒーポット・グループの女性たちはばらばらになったようである。
この日になってようやく、わずかな水とビスケットなどの食糧が配られたようである。
10 日の午後、日本軍は、フィリピン人だけを選び出して、ベイビューホテルの北側のブロックにあるアルハンブラ・アパートメントに連れて行った。その人数は 100 人から 200 人くらいと見られる。また一部のフィリピン人は、ベイビューホテルとアルハンブラの間にあるミラマー・アパートメントに移された。ミラマーに移動したのは 11 日という人たちもいた。したがってベイビューホテルにはフィリピン人以外の欧米系女性と子どもたちが残されることになった。ただし、日本軍は外見によってフィリピン人であるかどうかを判断していたようであり、必ずしも厳密に分けられたわけではなかった。ベイビューホテルに残ったフィリピン人もいたし、フィリピン人の列に入れば釈放されると考えてアルハンブラあるいはミラマーに移された欧米系女性もいた。
この 10 日の夜には、昨晩と同じように日本兵がそれぞれの部屋やダイニングルームにやってきて、暗闇の中を懐中電灯やろうそくで若い女性を連行し強かんする行為が続けられた。アルハンブラとミラマーのアパートでも同じように日本兵の襲撃を受けた。人々は若い女性たちをできるだけ部屋の奥にうずくまらせて毛布などで覆い、年配者らがその上から覆いかぶさるようにして若い女性たちを守った。女性を連行しようとする日本兵に対して、時には激しく抵抗して阻んだこともあったが、日本兵に殴られたり銃剣を突きつけられ、阻めなかったことも少なくなかった。不幸中の幸いとも言えるかもしれないが、連行に抵抗する人々を殺害するようなことはなかったようである。
なお同じエルミタ地区では、9 日にドイツクラブや赤十字ビルにも住民たちが集められていたが、この 10 日に日本軍によって集団で虐殺されている。これらのビルには欧米系住民が多数逃げてきており、数百人が虐殺された。日本の同盟国であるドイツのクラブに逃げれば大丈夫だと判断したようだが、日本軍は連合国、同盟国、中立国を問わず、白人をすべて敵とみなして殺害したようである。
11 日も同じように日中は日本兵は戦闘に出て行き、夜になると同様の行為を繰り返した。ただ 9 日と 10 日の夜に比べると日本兵の数も減ってきたようである。

12 日の夕方近くになり、ベイビューホテルで火事が発生した。米軍の砲撃によるものと見られる。人々は逃げようと 1 階に殺到するが、警備兵に止められてしまった。しかしホテルを管理していた日本軍将校は、住民たちの嘆願を聞き入れて逃げることを認めたため、人々は逃げることができた。同じころミラマーでも火災が起きたが、ベイビューホテルと同様に逃げることが許された。
13 日の午後にはアルハンブラでも火事になり、人々は逃げることが許された。
こうして 12 日と 13 日に、監禁されていた数百人の女性と子どもたちは逃げ出し、エミルタ地区の残されていた家々や、北隣のルネタ公園とその周辺の建物に隠れて生き延びようとした。その中で米軍の砲撃や日米両軍の戦闘に巻き込まれたり、あるいは日本軍によって殺されたケースも少なくなかったが、18 日から 20 日ごろにかけて、一部は 22 日ごろに、逃げていた住民は米軍に保護されて助かった。
米軍は 17 日にエルミタ地区の東南にある総合病院を解放しエルミタ地区に進入しはじめ、22 日の時点では、フィリピン大学のリサール・ホールに立てこもった一部の日本軍を残して、エルミタ地区のほとんどは米軍支配下に入っているので、その間に逃げていた住民たちは保護された。
その後、米軍は 23 日にイントラムロスに突入して 25 日までに同地区を占領、日本軍は官庁街にある政府関係のいくつかのビルに閉じ込められ、3 月 3 日までにその抵抗も終了した。

それにしてもなぜ、日本軍はこのような無慈悲な虐殺事件を引き起こしたのか?

今の感覚ではとても理解できない謎である。

マニラを奪還したアメリカ軍はイントラムロスで日本軍の作戦命令書(大陸至急命令)を発見した。

「比島人ヲ殺スノハ極力1ヶ所ニ纏メ弾薬ト労力ヲ省ク処分セヨ。死体処理「ウルサキ」ヲ以テ焼却予定家屋爆破家屋ニ集メ或ハ川ニ突キ落スベシ」

フィリピン人を殺す時には弾薬と労力を節約するため1カ所に集めて処分し、死体の処理も家屋とともに爆破したり川に流したりせよ、という命令である。

林教授の文書にもあったように、住民の中にアメリカ軍に情報を流す者やフィリピンゲリラの協力者がいると疑い、日本軍は組織的に「背後の敵」となる恐れがあると見なした住民たちを皆殺しにする道を選んだと考えられる。

それは、住民に紛れ込んだ便衣兵を処分するという目的で行われた南京大虐殺や中国に協力する反日分子を検証するとしたシンガポールでの華人虐殺と全く同じやり方だ。

セント・ポール大学で起きた不可思議に感じる虐殺事件も、「疑わしき者、危険性のある者は全て事前に処分する」という当時の日本軍の論理を考えればごく当たり前の命令だったのかもしれない。

こうした日本軍による残虐行為は当然のことながら、フィリピン国民に激しい怒りを残した。

中でも日本占領下の「暗黒時代」の象徴としてフィリピン人から忌み嫌われた場所がある。

イントラムロスの最北端にある「サンチャゴ要塞」。

もともとはスペインが築いた要塞で、フィリピン独立運動の英雄ホセ・リサールも処刑前に収監された場所だが、日本がマニラを占領した3年半の間、ここは悪名高き憲兵隊の本部として使われた。

ここにはいくつもの地下牢があり、反日とみなされたフィリピン陣はここに連行され、激しい拷問を受けた。

さらにマニラ市街戦が始まると、イントラムロス地区に暮らしていた住民のうち男性だけが選別されてサンチャゴ要塞に収容され、その多くが餓死したり病死したりして命を落としたという。

一部の地下牢は川の水位が上がると牢の中に水が流れ込む仕掛けになっていて、地下牢の床は今も一部ジメジメしていた。

その地下牢だった場所は今では観光コースになっており、アメリカ軍がサンチャゴ要塞で撮影した解放直後の凄惨な写真も展示されていた。

フィリピンは50万人以上の日本兵が死んだ日本にとっても悪夢の戦場だったけれど、日本の軍政下に置かれたフィリピン人にとっても主食のコメも取り上げられ飢えに苦しんだ悪夢の時代だったのである。

1946年に独立を達成したフィリピンは、次のような理由を挙げて日本人の入国を拒否することを宣言する。

「日本軍の占領がフィリピン各地の都市や町、そして我が国の無防備な市民に与えた破壊的な影響は、フィリピン人の記憶に極めて生々しく、それゆえ、フィリピン国内に広く見られる強い反日感情は、今日、そして近い将来も日本人のフィリピン入国を許す段階にはない」

冷戦激化によりアメリカが日本の復興に舵を切った1950年、賠償請求権を放棄する方針をアメリカから伝えられたフィリピンはこれを断固拒否し、約80億ドルの賠償を要求する。

こうした厳しい反日世論の中で始まったBC級戦犯に対する軍事裁判では69人に死刑判決が下され、「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文司令官ら17人の死刑が執行された。

1951年ごろから日本国内での戦犯支援運動が活発化、サンフランシスコ講和条約が発効した翌年にはフィリピンで囚われている戦犯が書いた歌詞をもとに作曲された「あゝモンテンルパの夜は更けて」がヒットして、戦犯たちの減刑帰還を求める世論が高まった。

フィリピン国内の厳しい反日世論と戦犯たちへの恩赦を求める日本からの要求、さらにアメリカからの圧力の板挟みとなり、苦しい選択を迫られたのが当時のフィリピン大統領エルピディオ・キリノだった。

今回の旅行前、キリノ大統領の記念碑が東京の日比谷公園にあると知り、見に行ってきた。

日比谷公会堂近くの一角にひっそりと立つこの記念碑には、1953年7月、病気治療のために渡米する直前、日本人捕虜の恩赦を決断したキリノ大統領の声明が記されている。

私は、フィリピンで服役している日本人捕虜に対し、フィリピン議会の同意を必要とする大赦ではなく、行政上の特赦を与えた。

私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦すことになるとは思いも寄らなかった。私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に未永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。やはり、我々は隣国となる運命なのだ。

私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなし得たことを幸せに思う、私を突き動かした善意の心が人類に対する信頼の証として、他者の心の琴線に触れることになれば本望である。人間同士の愛は、人間や国家の間において常に至高の定めであり、世界平和の礎となるものである。

この声明にあるように、キリノ大統領は戦争中、日本軍によって妻子を殺害された過去を持つ。

反日感情を抱く多くのフィリピン国民と同じく日本軍に対する怒りを抱えながらも、戦後の複雑な国際情勢や将来の日本との関係を考慮し、戦犯たち全員の帰国を彼は決断したのである。

『フィリピンBC級戦犯裁判』には、1945年2月に起きたキリノ大統領の家族の悲劇が次のように記されている。

キリノ家の悲劇は、2月9日の午後、コロラド通り506番地のキリノ邸が米軍の砲撃で一部破壊されたため、妻アリシアの発案で近所に住む彼女の母コンセプシオン・シキアの家に避難する途上で起きた。現場はコロラド通りとカリフォルニア通りの交差点である。シキア邸は同じコロラド通りに面する近所であった。キリノ家にとって不運なことに、シキア邸の向かいにあった米国人ウォルター・プライスの旧宅が日本軍の防衛拠点の一つになっており、しかも日米の激しい戦闘をかいくぐってのことゆえ、文字通り命を賭した避難となった。

アリシアらが長男トマスと次女ビクトリアの先導で決死の逃避を試み刹那、2歳の三女フェを抱えたアリシアと長女ノルマの二人が日本兵に狙撃される。アリシアとノルマの二人は即死。フェはアリシアの手から地面に投げ出され、しばらく泣いていたが、近づいてきた日本兵の手で刺殺された。キリノ本人は、次男アルマンドと自宅で食糧や貴重品を選別し、これらを運び出してから家族と合流する手はずだったため、幸か不幸かこの惨事を直接目にはしなかった。

2月10日の朝、シキア邸にたどり着いたエルピディオは失意の底にあった。再会した長男や次女、そして義理の妹の夫ビセンテから、妻子の非業の死を告げられたからである。キリノ自身も、通りに残されたままの3人の変わり果てた姿をシキア邸から目の当たりにした。彼は3人の遺体を回収しようと試みたが、砲撃や銃撃がやまず、ひとり三女フェの血まみれの遺体を回収するのがやっとだった。この幼子の小さな遺体には銃剣で突かれた傷跡があった。キリノはフェの遺体を自ら木製のトランクに納め、シキア邸の庭に仮埋葬した。危急存亡の秋にあって、キリノには悲しみに浸ることさえ許されない。やがてシキア邸にも火の手が及び、そこを離れなければならなかったからだ。妻と長女の遺体は後日、親族が引き取るまでの数日間、道端に放置された。

いくら博愛精神を持つキリスト教徒とはいえ、キリノ大統領の心の中には日本に対する強い怒りがあったに違いない。

しかし戦後の国際情勢の変化とフィリピンの将来を考え、何年もの葛藤の末に105人の戦犯全員に恩赦を決断した。

この決断は当然日本人を歓喜させ当時は大きく報道されたものの、今となってはどうだろう?

どれほどの日本人が、日本軍がフィリピンで犯した戦争犯罪とそれを許したキリノ大統領の英断を記憶しているのだろう?

いつまでも過去の恨みを抱くのことは、新たな時代の友好関係構築を阻害する。

とはいえ、加害者の側が歴史と向き合わず過去の過ちを忘れてしまうことは、被害者の側からすれば看過できない問題であり、それは立場を変えて広島、長崎のヒバクシャたちの心情を考えれば容易に理解できるはずだ。

大切なことは、負の歴史ともしっかり向き合い、自ら学び、そこから教訓を得ようとする姿勢である。

キリノ大統領が味わった怒りと絶望と苦悩、そして揺れ動いた末に決断した赦し。

戦争という絶対悪が地球上からなくならない中で、平和な未来を築くためのヒントが彼の決断には込められている気がする。

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