<吉祥寺残日録>ナウシカにヒントが!2回目のワクチンを完了した日にみた「コロナ新時代への提言」 #210718

今日も東京は真夏日、朝から青空が広がり暑い。

緊急事態宣言下の吉祥寺は、特に人出が減る気配もなく、暑さもまったく気にならないように多くの人が行き交う。

近頃曜日の感覚がなくなっていたが、そう、今日は日曜日なのだ。

私は午前11時半から2回目のワクチン接種の予約があり、11時過ぎには家を出た。

気温はすでに30度を超えていたが、短パンにアロハシャツ、サンダル姿だとさほど暑さも苦にならない。

スーツを着なくて済む今のご身分に感謝感謝である。

かかりつけである「吉祥寺メディカルクリニック」は本来ならば休診日。

今日ここを訪れる人は全員、新型コロナウィルスのワクチンを接種する人たちである。

接種券と予診票を受付に提出し待合室で待っているとすぐに呼ばれた。

前回の接種後の様子を確認しただけで診察は終わり、続いて看護師さんがワクチンを打ってくれた。

同じワクチン、同じ注射器なのに打った時の感覚が1回目とは少し違う。

おそらく針が筋肉のどの部分を通るかによって違いが出るのではと推測した。

1回目はほとんど抵抗なく針が通ったが、2回目はグサっと針が刺さった感覚があった。

前回は接種後に腕の痛みをほとんど感じなかったが、果たして今回はどうだろう?

菅総理の号令の下、日本でもワクチン接種が加速し、最近では1日100万回超えのペースを維持してすでに4000万人がコロナワクチンを接種した。

その効果は明らかで、これまで死者の中心となってきた高齢者で感染者も重症化する人も激減している。

昨夜のTBS「ニュースキャスター」では、イギリスを例に新規感染者数が多くても重症者が増えていないというワクチンの効果にもっと注目すべきと論じていた。

まったく、その通りである。

いまだに新規感染者数の増加ばかりを取り上げて大騒ぎをするメディアも多いが、こうした冷静な論調が増えてくれば、「コロナとの共存」という目指す方向性が見えてくる。

そんな、ワクチン接種が無事に終わった日に、録画していた1本の番組を見た。

BS1スペシャル「コロナ新時代への提言2 福岡伸一×藤原辰史×伊藤亜紗」。

去年8月に放送された番組の再放送のようだ。

気鋭の識者がコロナ時代を生き抜く指針を語る好評シリーズ第2弾。生物学者・福岡伸一、歴史学者・藤原辰史、美学者・伊藤亜紗が人類や世界が向かうべき道を語り尽くす。 宮崎駿による漫画版『風の谷のナウシカ』。マスク姿の人々や猛毒をまき散らす腐海の描写は、コロナ危機に直面する現在の人類と符合する。生物学者・福岡伸一、歴史学者・藤原辰史、美学者・伊藤亜紗が、壮大な漫画版『ナウシカ』で描かれた数々の謎をひもときながら、コロナ後の世界や人類の行方について語る。文明化と自然の関係。潔癖主義や共生がもたらした悲劇。そして、負の歴史を繰り返さないために人類が取るべき選択とは?

引用:NHK

映画「風の谷のナウシカ」は私も何度か拝見したが、漫画版の方はまだ読んだことがない。

しかし、漫画版にこそ、人間(文明化)と自然の関係についてのより深い洞察が詰まっていて、今回のコロナ禍との向き合い方についても多くの示唆を与えてくれるという。

三人の学者が語るコロナ新時代への提言には、なるほどと思える言葉がたくさんあったので、ワクチンを完了した記念にこの番組からそうした発言を書き残しておこうと思う。

まずは生物学者・福岡伸一さんの発言から。

並のSFであれば、これで新しい文明の方向が発見できたということで、ここから人間はもう一度文明社会をやり直すという約束のもとで幕が閉じられるはずなんですが、ナウシカはそこでその神殿を破壊してしまうわけです。これはナウシカの物語を読む人の心に非常に深く突き刺さる大きな謎なわけです。なぜナウシカは約束の場所を破壊してしまって去ってしまうのか?

引用:「コロナ新時代への提言2」より

福岡さんは宮崎駿監督がナウシカに込めたメッセージとコロナ問題を重ねながら考える。

キーワードは「ピュシス(自然)」と「ロゴス(言葉・論理)」という言葉。いずれもギリシャ語なんです。「ピュシス」対「ロゴス」これが現在私たちが陥っているこの文明社会の中の人間を捉え直す上で重要な言葉になっている。「ピュシス」としての生命とは、気まぐれだし一回限りだし、本来はアンコントローラブルなものです。しかし、人間という生物はこの「ピュシス」としての生命から初めて一歩外に出た生物じゃないかと私は思ってます。つまり人間は唯一遺伝子の掟から自由になれた種だということができます。生物にとって遺伝子の掟とは何かというと一言で言えば「産めよ増やせよ」ということ、種の存続ということが至上命令であって、そのためには個体の生命というのは種のためのツールでしかないわけです。でも人間という種は遺伝子の命令・束縛に気がついて、これから自由になる方法を選び取ったのです。それが基本的人権の基礎にもなる考え方に到達したわけです。

なぜそういうことになったのかというと「ロゴス」を持ったから。人間だけが「ロゴス」を持った、すなわち言葉を持ったがゆえに文明や社会や経済さまざまな制度を作り出したわけです。そのこと自体は人間を発達させ発展させ社会を推進したわけですけど、しかし私たちは完全に「ロゴス」化された社会で生きることはできないし、完全な「ピュシス」の波にもまれることもできない。つまり、その間でその両者とうまく生きていくしかない。これが本当の意味の自然や環境との共存ということですよね。

引用:「コロナ新時代への提言2」より

福岡さんは生物学者の立場からウイルスについても語った。

ウイルスは本来は我々の生命の一部だし、我々の友だちでもあるし、そう言ったウイルスはこの世界に無数にいるはずなんです。この中でごくわずかなウイルスが発熱させたり免疫系を揺さぶったりして病気をもたらすことが、これまた「ロゴス」によって発見されて病原ウイルスとして我々の知るところとなる。これからだってどんどん新しいウイルスは出現してくるだろうし、いろんなウイルスに我々は出会うことになる。ですから、あるウイルスを完全に制圧したり、撲滅したり、あるウイルスに打ち勝つってことは不可能だし、それをアルゴリズムやサイエンスやロゴスの力でウイルスを完全制圧するということは不可能だと私は思います。

行き過ぎた消毒文化というのが、生きている生命体、あるいは「ピュシス」としての私たちに害をもたらすのではないかと思うんですね。私たちはもともと不潔な生物ですから、様々なものを出しているし、様々なものを受け取っているわけです。ある種の潔癖主義が暴走しないようにするにはどうすればいいか・・・。

パワーを求めないことが真のパワーだということをナウシカが発見したんじゃないかと思います。パワーというのは権力や武力ですが、人間の文明は「言葉・論理・虚構」をロゴスによって発見したことで発展してきました。ロゴスの本質は論理だし、効率性や生産性、アルゴリズムによって達成される最適解ですよね。これはまさに今の社会がAIを使って求めようとしている方向です。このことが行き着く先は完全に制御された暮らしですし、究極のロゴスの神殿。ピュシスとしての我々の生命のあり方を損なってしまうものでもあるのです。

人間は愚かですから、同じ誤りを繰り返してきましたし、これからも繰り返すとは思います。歴史の中で学んだ教訓というものが生かされるとすれば、ロゴス的に走り過ぎたことが破綻してピュシスの逆襲を受けたことが過去何度もあり、このことを思い出して、ロゴス的に行き過ぎた制圧のやり方は必ず破綻してピュシスが炙り出されてくるということを覚えておかなければいけない。

引用:「コロナ新時代への提言2」より

Embed from Getty Images

20世紀の戦争と農業の関係を見つめてきた歴史学者・藤原辰史さんはネット上にこんな言葉を書き込んだ。

『人間という頭でっかちな動物は、目の前の輪郭のはっきりした危機よりも、遠くの輪郭のぼやけた希望にすがりたくなる癖がある。私もまた、その傾向を持つ人間のひとりである』

確かに、楽観主義的な私にもそうした面が多分にある。むしろ一般の人よりも強いかもしれない。

そんな藤原さんは、歴史から得られる教訓について語る。

不安にかられているとき、とても分かりやすく、単純なメッセージというものを求めがちだと思うんですね。そもそも第一次世界大戦は5年間続いた長い戦争と認識されていますけど、実は始まった当初はすぐに終わるだろうという楽観的な希望がありました。ドイツではヴィルヘルム2世が「クリスマス前には戦争が終わり、兵士の皆さんを家庭に戻します」ということを公的に言っていたわけです。しかしそれは大いなる裏切りだったわけです。クリスマスどころか1918年まで戦争が続いてなかなか戦争が終わらない。アジア太平洋戦争でも、敗退していてもそれを「転進」という言葉を使って人々に発表していった。歴史というのは常に為政者や権力を持っている側の人たちが、曖昧な言葉や人々がふとすがってしまうような言葉、わかりやすくてうっとりするような言葉に警戒しなくてはいけないと思います。人種主義にはそういう甘いメッセージが組み込まれているわけです。設定として「あなたは正しい」ということなんです。それが危険なのはその「正しいあなた」を点検する自分が消えていってしまうわけです。本当は自分たちの頭で考えて、「これは敗退なんだ」ということで次なる方策を考えていかなければいけないんだけど、その構造の回転の中に巻き込まれてしまう。それを常に点検し続けなければならないということを今回の新型コロナウィルスが教えてくれたと私は思います。

引用:「コロナ新時代への提言2」より

コロナをめぐる国際情勢は、戦争に似ている。

歴史を振り返ると戦争は常に「排除」を生んできた。

「勝ち負け」という大きな目標は、非常に強い力ですよね。「勝つためなら」という理由のために様々な犠牲が払われることが日常になってくる。「勝ち」ということに少しでも足を引っ張るような人たちを「非国民」という言葉で非難して、攻撃していたわけです。そういう風な排除というのが戦争になると出てくる。一つの場所にみんなが石を投げているからそこに向かって投げようというようなことが危機の時代になってよく見えるようになった。いわゆる「自粛警察」と呼ばれるもので私が思い浮かべるのは、ナチ時代に非常に多くの私服の監視人というのがいて、普段は普通に生活を送っているんですが、何かまずい言動があった時には報告する。これはナチスにとっては非常に都合がいいわけです。それに便乗する形で、人々の間の監視装置が発達していったり、最終的には自分の頭の中に監視装置が出てくる。これは今起こっていることであるとともに、これはかつてのナチズムや戦時下の国々で行われたことに似通っているなと違和感は感じますね。

引用:「コロナ新時代への提言2」より

Embed from Getty Images

私は知らなかったが、ナチスは動物保護法や自然保護法を成立させ、「自然との共生」を訴えたのだという。

農学者でナチス党員だったコンラート・マイヤーが提唱したもので、彼はナチスの農学のトップに立ち、「これからのドイツの農業は化学肥料を与えすぎないように、むしろ有機質肥料を使いながらサスティナブルにやっていこう」と主張した。

動植物との共生を謳ったナチスだが、そこに他民族との共生は含まれていなかった。

このコンラート・マイヤーという農学者の頭の中には、人間はある人間とは共生できないという風な人種主義がこれが普通に並存していた。高貴な性質を持ったアーリア人に含まれない人種とかそうでないドイツ人は排除される。結局ナチスというのはユダヤ人の虐殺を「ガス殺」によって殺していくわけです。つまり消毒をするための薬品によってユダヤ人を虫のように殺していったということは、ある何かを象徴していると思います。

ナチス研究者のブロイエルが、ナチスのことを「清潔なる帝国」と呼んでいる。清潔志向にとりつかれた政治集団だったと言ってます。別の民族は穢れを持っているから他の人が私たちの民族共同体に入ってくることこそ穢れであると。無駄だとか邪魔だとかいうものに対して一斉に消したくなることが20世紀に起こってきているわけです。人間の人間に対する潔癖なクレンジングと、人間以外の生物に対する潔癖なクレンジングと両方リンクして進められていくと思うんですね。みんなが潔癖主義に走ってしまう。潔癖主義というのはいつも感染しますから、感染の中でだんだん自分たちの行動を狭めてしまう。

純粋なモノ、清潔なモノを求める志向というものはたとえば農業のテクノロジーの段階でも出てきている。例えば培養肉というものは屠殺のステップを外してきれいな肉をすぐその場で実現する技術だと思う。食べ物や農業というものもきれいなもの美しいものとして私たちは消費するようなテクノロジーがどんどんできてきているが、福岡さんが言うように、人間は穢れと清潔さを両方持つ存在なのです。上水と下水の間にあるのが人間で、きれいすぎる人間観を見直していくのがコロナ禍で私たちが見つけようとしている人間観なんだと思います。人間と人間にしても、人間と自然にしてもそう簡単には共生できないという前提にもう一度立ってみるというのが悪循環から逃れることだと思います。私たちは決定的に穢された世界を生きていくしかない。どういう風にノイズと共にあるということを考えさせられた。きれいすぎる生態・調和を夢見てしまうことはすごいディストピアだと思っています。自分の違和感に正直になること、対立を対立として受け止めてヒントを得て新しい社会を見つけていく。思考停止をしてはいけない。

引用:「コロナ新時代への提言2」より

もう一人登場する美学者の伊藤亜紗さんは、「排除なき共生」を可能にするのは「利他性」ではないかと言う。

ナウシカは聞き上手ですよね。みんなが敵だと思っている存在も尊重する。勝手に想像しない、思い込みで判断しない。そもそも自分じゃない別の人ををコントロールすることはできないという前提からこの問題を考えないと、人に押し付けたり、強制するってことになっちゃうと思うんですよね。知り合いの全盲の人が「目が見えなくなってからはとバスに乗っているようになった」と言うんです。時間がかかっても自分で感じたいと思うんですよ。でも自分で世界を認識する前に介助者さんがいろいろ言ってくれるんです。ありがたいんだけど、なんか窮屈。いつも障害者を演じさせられているっていう感覚がとても辛かったと言う。「利他」ってむしろ、してあげるとかやってあげるということよりも、待つことだったり、自分の中にスペースを作ることかなと。スペースを作るってことは相手をコントロールしないということだと思うんです。

引用:「コロナ新時代への提言2」より

「障害を持つことは、自分の体が人間であり自然でもあると認識すること」と伊藤さんは言った。

Embed from Getty Images

歴史学者の藤原さんが良い「ロゴス」として紹介していた言葉も書き残しておきたい。

コロナの発生源とされる中国武漢で都市封鎖された街で毎日日記を公開していた作家の方方(ファンファン)さんがネット上に発表した言葉である。

『ひとつの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない。それは弱者に接する態度である』(2020.2.24 方方日記)

コロナ禍の非日常的な生活は私たちに様々な気づきを与えてくれた。

緊急事態宣言が出ても人々が行動を抑制しなくなった今、改めてコロナウイルスが私たちに教えてくれたことを見つめ直すときが来ているのかもしれない。

<吉祥寺残日録>天安門事件31年 コロナで世界に広がる言論統制 #200604

1件のコメント 追加

コメントを残す