🇯🇵 鹿児島県/鹿児島市 2024年11月22日
定年退職後の恒例となった学生時代の仲間たちとの年に一度の団体旅行。
今年の目的地は、同期の女性と後輩の2人が暮らす鹿児島だ。

新水俣駅から九州新幹線に乗り、終点の鹿児島中央駅に到着したのは午後3時を少し回った頃だった。
駅を降りると予想外に近代的な街並みで、駅ビルには観覧車が回っていた。
このところ地価の高騰が地方都市にも波及し各地にタワーマンションが建てられてはいるものの、鹿児島中央駅の駅前はその中でも洗練された印象を受ける。

ホテルに向かって歩いていると、揚げたてのさつま揚げを売る店などもあり、やはり所変われば街の景色も変わることを実感する。

この日宿泊するホテルは駅から5分ほど歩いたところにあった。
「シルクイン鹿児島」
一見普通のビジネスホテルだが、掛け流しの天然温泉があるということでここが初日の宿に決まった。

部屋はごく普通のシティーホテル。
でも特段狭さは感じない。

窓から外を眺めると、ビルの隙間から桜島が見えた。
もうそれだけで鹿児島に来たことが実感できる。

ホテルに荷物を置くとすぐに一人の友人が誘いに来た。
彼は元新聞記者で、一緒に明治維新の英雄たちが生まれた街をぶらぶら歴史散歩することにしていた。
ホテルを出てGoogleマップを見ながら進んでいくと、甲突川にかかる高麗橋の上からでっかい桜島が見えた。
このあたりが、西郷隆盛や大久保利通が生まれ育った場所である。

橋を渡った対岸は「甲突川歴史ロード 維新ふるさとの道」。
川縁の遊歩道から一段下がった公園に立派な石碑が建てられていた。
石碑には『西郷隆盛君誕生之地』と刻まれている。
明治維新の英雄の中でもとりわけ高い人気を誇る西郷隆盛は、文政10年(1828)1月23日にここ下鍛冶屋町で生まれた。

脇に立つこちらの石碑には建立者たちの名前とともに、次のような内容が記されている。
『我らは、同じ郷土に生まれた者として、その人となりや名声を見聞するにつけ、徳の高さを敬い、そして慕う気持ちでいっぱいである。しかしながら、死後10年以上の歳月が流れて、誕生地が跡形もなくなってしまうことを恐れ、、相談のうえ石碑を建て、この地が西郷隆盛の誕生地であることを永遠に伝えることとした。』
西南戦争で賊名を浴びた西郷の石碑建立に尽力したのは、近隣で生まれ育った大山巌や東郷平八郎ら後輩たち、弟の西郷従道や隆盛の子供たち、さらに牧野伸顕ら大久保の末裔も。

この西郷隆盛の碑をスタートして近所を歩くと、歴史に名を残した軍人たちの生誕地が次々に現れる。
最も近いのが大山巌の石碑。
西郷隆盛の従兄弟に当たる大山は、日清、日露の戦争で日本陸軍を率いた伝説の元帥だが、西南戦争では新政府軍の指揮官として西郷と戦った。

一方、大山とは打って変わって質素な石碑が残るのは、日露戦争でロシア海軍のバルチック艦隊を打ち破り国民的英雄となった海軍元帥、東郷平八郎だ。
「陸の大山、海の東郷」と呼ばれた明治の英雄2人は、同じ鹿児島中央高校に面したご近所で生まれ育ったことがわかる。

そこから少し歩いて市電が走る大通りまで出ると、山本権兵衛の生誕地がある。
1898年から8年間海軍大臣として日本海軍の近代化を進め日露戦争を勝利に導いた最大の功労者で、後に2度総理大臣も務めている。
関東大震災の発生翌日に2度目の総理に就任すると、内相の後藤新平を総裁とする帝都復興院を立ち上げ、今ではとても考えられないようなスピードで首都・東京の再建を進めた。
西郷や大山、東郷に比べると知名度は低いが、山本権兵衛は真の英雄の一人だと私は思う。

こうした英雄たちの石碑から少し離れ、甲突川の反対側、駐車場の一角に小さな石碑が立っていた。
『大久保利通誕生之地』
これはちょっと驚きだった。
いくら不人気だからとはいえ、「維新の三傑」と呼ばれ、盟友の西郷と袂を分かちながらも剛腕で新政府の礎を築いた偉人の石碑がこれほどまでに小さいとは・・・。

しかし、それは私の早とちりで、大久保の正式な石碑は西郷隆盛の石碑から甲突川沿いの遊歩道を少し歩いた川沿いにあった。
西郷の石碑と全く同じ大きさで同じデザイン。
この石碑は大山たちによって、大日本帝国憲法が発布されたのを機に1889年、西郷隆盛の石碑と同時に建立された。
大久保は川の対岸高麗町で生まれたが、小さい時にこの下鍛冶屋町に移り、西郷との運命的な出会いを果たす。

大久保の業績を記したパネルには『無二の友を敵としても』というタイトルがつけられていた。
大久保内務卿が庁舎に入ると、雑談はやみ、あたりは水を打ったように静まり返った・・・・
子煩悩な私生活とは裏腹に、政治家としての大久保利通は厳格さにも凄みがあったといわれています。幕末激動期に西郷との絶妙のコンビで明治維新を成し遂げ、新政府樹立後は天才的な政治手腕で近代国家の建設に着手。親友西郷と真向から対立しても、その信念を貫き通しました。
大久保は、1830年(天保元)下級役人ながら琉球館付役を勤め、学識豊かな利世を父として高麗町で生まれ、まもなくこの下鍛冶屋町に移りました。3つ年上の西郷とは薩摩独特の郷中教育の中で、兄弟以上の信頼で結ばれていました。
「郷中教育」とは、郷中(ごじゅう)と呼ばれる小さな地区の自治組織に属する6歳以上の男子が対象となり、年長者が年少者に教えるという薩摩独自の教育法である。
不必要に大人が関与せず、若者のリーダーに後輩たちを指導を委ねるこのシステムにより、西郷と大久保の下に多くの有為な人材が育ったのだ。

さらに、甲突川に沿って歩いていくと、高見橋のたもとに大久保利通の立派な銅像が立っていた。
添えられた文字は大久保の座右の銘「為政清明」。
「政治を行うものは,自らの心も態度も清く明るくならなければならない」というこのメッセージによって、大久保は権力の頂点に立った自らを戒めたのだろう。
古今東西を問わず、政権は腐敗によって内部から腐っていく。
今の政治家たちにもぜひ贈りたい言葉である。

鹿児島の友人に教えられて、大久保像の裏側を注意深く観察する。
すると大久保の足元に何かがあることに気づく。
大久保は明治11年、改革に不満を抱く不平士族に路上で暗殺されたが、その時一緒に命を落とした車夫と馬が大久保像の足元にひっそりと添えられているのだ。

高見橋の乗り場から市電に乗り、市役所前まで移動する。
社内の吊り革には「灰ニモマケズ」と書かれ、『火山大噴火と地震に備える』と題した講演会のポスターも貼られていた。
鹿児島は桜島と共存する町。
やはりちょっと他の街とは違っている。

市電を降りて少し歩くと、石垣とお堀が見えてきた。
ここが通称「鶴丸城」、薩摩藩77万石の中核をなすお城であるが、天守閣は最初から築かれなかった。
後ろに聳える「城山」に籠城のための山城を持ち、そのほか藩内各所に中世式の山城を配置する「外城制」により、島津の殿様がいる鶴丸城の守りを固めた。
薩摩藩は人口の実に26%が武士だったといい、半農半士の生活をしながらそれぞれの城を守り、幕府の隠密も薩摩に入ると生きては帰れなかいと恐れられた。

鶴丸城を横目に城山に入っていくと、西南戦争の際に追い詰められた西郷が一時身を潜めたとされる「西郷隆盛洞窟」がある。
熊本、宮崎と各地を転戦した西郷軍は最後この城山に戻って押し寄せる新政府軍に対して籠城戦を挑む。

西郷率いる薩軍は勝手知ったる城山に強固な堡塁を築いて抵抗するが、もはや戦況の流れを変えることはできなかった。
そもそも日本最大の士族反乱と言われる西南戦争でも、反乱軍の数は2万から3万人。
これに対して新政府軍の兵力は8万から10万人といわれ、最新鋭の武器を装備していた。

西郷はこの小さな洞窟に籠り、最後まで生き残った兵の指揮に当たる。
しかしこの頃には薩軍の数は、「人斬り半次郎」と呼ばれた桐野利秋や、大久保が自らの後継者と見込んでいた村田新八らわずか350人ほどに減っていた。
そして明治10年(1877)9月24日午前4時、3発の砲声を合図に征討軍の総攻撃が始まった。
西郷もこの戦闘で、股と腹に銃弾を受ける。

洞窟から500メートルほど下った住宅地の一角に、大木と共に石碑が立っていた。
「西郷隆盛終焉の地」
石碑の前に
ズドン、ズドン! 2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を撃ち抜きました。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。「晋どん、もうここらでよか。」 東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。
岩崎谷の銃声がやみ、西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令山縣有朋中将は「翁はまことに天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷したということです。
こうして西郷の死により、7ヶ月に及んだ西南戦争は終わり、武士の世も完全に終わったのである。

すっかり日も暮れて、夕食の待ち合わせ場所に向かって歩いていると、大通りにこんな看板が立っていた。
「西南戦争の銃弾跡」
もう薄暗くなった中で、銃弾の跡を探す。

言われなされば気づかないだろうが、確かに石垣にしっかりと複数の弾痕が残っている。
政府軍による攻撃の激しさを物語る貴重な歴史の痕跡だ。

弾痕が残るこの石垣こそ、反乱軍の拠点となった「私学校」があった場所だ。
大久保と対立し鹿児島に戻った西郷は明治7年、鶴丸城に隣接する厩跡を利用して、陸軍士官養成を目的とした私学校を開いた。
不平士族の暴発を防ごうとしたものだったが、結局は西郷でも抑えきれず、私学校の若者たちと運命を共にする道を選んだ。
今は、石垣の中は鹿児島医療センターになっているが、門にははっきりと「私学校」の文字が刻まれていた。

夕暮れにライトアップされた鶴丸城の前を通り過ぎ、大通りを歩いていくと・・・

右手に西郷隆盛の巨大な像が見えてきた。
有名な上野の西郷さんとは異なる軍服姿の西郷像である。

西郷さんたくさんの木々で囲まれた斜面の上に立っていて、座右の銘であるていた。
故郷の城山で最期を迎えた西郷さんを象徴しているのか?
いずれにしても、鹿児島の人にとって西郷隆盛は今も特別な存在であることをこの巨大像が物語っている。

西郷さんの銅像から少し歩けば、鹿児島随一の繁華街「天文館」に辿り着く。
江戸時代に、西洋文明を進んで取り入れた島津重豪公が1779年に天文観測や暦の作成などを行う施設「明時館(別名天文館)」を建てたことが名前の由来だとか。
かつて「明時館」のあった場所には、天体観測をする島津重豪と天文学者の水間良実の像が設置されていた。

待ち合わせの時刻まで多少まだ余裕があったので、軽く一杯飲んで待とうということになり、路地裏の居酒屋に入った。
「大衆酒場 分家 無邪気」
とりあえず目についたのでこの店を選んだが、入ってみると雰囲気のある良いお店だった。

さつまあげをつまみに生ビールを一杯。
さすがに本場のさつまあげは美味い。

そして午後7時、他の仲間たちも集まって総勢10名での夕食が始まった。
場所は天文館商店街の外れにあるホテル「南洲館」。
外観はごく普通のホテルだが、ここでしか食べられない名物の鍋があるという。
2つのテーブルに分かれ、それぞれ大きな鉄鍋と桶に盛られた野菜が運ばれてきた。
直径60センチある鍋には「熊襲鍋」と書かれていて、野菜のメインはレタスである。

大鍋にたっぷりのスープが注がれる。
『創業91年を誇る鹿児島の老舗ホテル「南洲館」の西元料理長が、毎朝手づくりしている特製スープは、昆布(利尻産)とかつお節(鹿児島県産の最高級本枯れ節)をベースに7種類の野菜をじっくりとコトコト5時間以上も煮込んでいます。野菜の旨味はたっぷりの特性スープは飲み干したくなる程のおいしさです!』
このスープがとにかく絶品なのだ。

この絶品スープで野菜を煮て、良きところで最高級ブランドである「かごしま黒豚」を丁寧に乗せていく。
緑のレタスの上で赤い豚肉が並ぶ光景はちょっとした花園のようでとても美しい。
黒豚に火が通ったところで肉で野菜を包むようにしてお椀にとりスープと一緒にいただく。
これが、とてつもなく美味しい。
柚子胡椒などで味変しながら黒豚をどんどんおかわりしながらバクバク食べていく。

そして、肉も野菜も食べ尽くしのを見計らって、シメのラーメンが投入された。
鹿児島は細麺。
スープと絡んでこれまた絶品なのである。
この「南洲館」の名物鍋は、鹿児島特選黒豚しゃぶ「くろくま」と呼ばれている。
「全国お国自慢鍋コロシアム」で、全国各地の名だたる名物鍋料理を抑えて日本一に輝いたことがあるのも納得の美味しさだった。
食べログ評価3.24、私の評価は3.80。

「くろくま」を満喫した後は、元銀行員で全国くまなく旅行している友人が「天文館に素晴らしい焼酎バー」があるというので訪れてみた。
さすが焼酎の本場。
見たこともない焼酎がずらりと並ぶ。
こちらの「たかたろう」は、奄美大島の東に浮かぶ喜界島で作られた黒糖焼酎。
「たかたろう」とは喜界島の古い方言で、〈梅雨明けの空に立ち昇る入道雲〉を意味するという。

もう1杯、「六代目百合」は鹿児島の西に浮かぶ甑列島で作られた芋焼酎。
「百合(ゆり)」という名の由来は、甑島の特産「鹿の子百合」と、百合(ひゃくごう)つまり一斗樽一本を単位として製造していたことを重ね合わせたものだそうだ。
蔵元の塩田酒造はその名の通り、現在6代目が受け継ぐ老舗で、こうした蔵があちこちに残っているのが薩摩焼酎の奥深さである。
今年の旅行は幹事が入念に準備してくれたおかげで、初日から充実した旅となった。
2日目以降も2台の車に分乗して、濃密な旅が続く。
「Hotel&Residence 南洲館」
電話:099-226-8188
https://nanshukan.co.jp/food/