🇨🇳 中国/北京〜瀋陽 2025年6月26日~27日
およそ20年ぶりの北京を散策した後、次の目的地である瀋陽に向かう。
旧満州、現在の中国東北部の中心都市である瀋陽は、戦前の日本では「奉天」と呼ばれた。
そう、日本の敗戦につながる長い戦争の時代を開いた満州事変の発火点となったのは、この奉天郊外にある「柳条湖」の鉄道沿線だった。
6月26日の正午前、ホテルをチェックアウトした私は地下鉄を使い最近開業したばかりらしい「北京朝陽駅」へと向かった。
ホテルで出ると通りの向こうに一本の超高層ビルが見える。
2018年に完成した北京で一番高いビル「チャイナ・ズン」である。
109階建てで高さは528メートル、中国で5番目、世界でも8番目の高さを誇るこの超高層ビルが立っている朝陽区では近年大規模な再開発が進み、東北部へのターミナル駅「朝陽駅」もこの界隈にあるらしい。
北京の地下鉄網はいまだに開発途上にあり、朝陽駅に停車する3号線は「東四十条駅」までしか完成しておらず、私が宿泊した街の中心部からは5号線、2号線、3号線を乗り継いで40分弱かかった。
地下鉄3号線の北京朝陽駅が開業したのは去年の12月だというから、それまではこの駅に行くのはもっと大変だったようだ。
ただ、私が予約した高速鉄道は14時52分発なので、特に焦る必要もない。
地下鉄から直結の北京朝陽駅はまるで空港のようだった。
中国国鉄が運営する高速鉄道のターミナル駅はどこも巨大だけれど、2020年に開業したこの駅は内装もモダンで出発フロアに向かうエスカレーターはどう見ても鉄道の駅というよりも国際空港としか思えない。
駅に入るためのチェックポイントもまさに空港並み。
中国旅行にはつきものだった行列や混乱も真新しいこの駅に関しては全くなかった。
駅構内に入ると、自分が乗る列車の改札が始まるまで出発ロビーで待つことになる。
大きな電光掲示板にこの駅から出る列車の出発時刻と改札口の番号が表示されている。
私が乗る列車は瀋陽を経て吉林という街まで行くことをここで初めて知った。
改札が始まるのは出発の15分前。
まだ2時間以上時間がある。
私のような客のために、出発ロビーの上階にはたくさんのファストフードレストランが店を構えていた。
ケンタッキーやマクドナルドなど馴染みのチェーン店もあったけれど、私が選んだのは「餃八仙」。
水餃子をメインとするファストフードチェーンらしい。
注文したのは水餃子と燕京ビールで44元、およそ900円である。
「燕京」とは北京の別名で、紀元前の春秋戦国時代、燕という国の都だったことからその名が残った。
ファミリーマートもあったので、中国の鯛焼きアイスとジャスミン茶を買う。
中国でも都会ではコンビニが普及していて、外国人旅行者にとってはやはりありがたい存在だ。
そんなことをしながら巨大なターミナル駅をうろうろするうちに改札の時間になった。
指定された改札口に人が一斉に並び始める。
私はこれまでに何度か中国の鉄道を利用したことがあるが、毎回この改札が押し合いへし合いの大混乱だった。
だから私はすぐに列に並ばず様子を見ていたのだが、北京朝陽駅では整然と入場が進んでいく。
テクノロジーの進化なのか、中国人のマナー向上が要因なのか、おそらくその両方なんだと思う。
私には一つ不安なことがあった。
今回の鉄道旅行にあたり、駅で切符を買うのではなく、中国の旅行サイト「Trip.com」を利用して事前購入を試してみたのだ。
北京朝陽駅発、瀋陽北駅行きの二等車、運賃は予約手数料込みで7889円だった。
上の写真が「Trip.com」発行のEチケット。
これをスマホで示すだけですんなり改札を通過することができるのか、初めの挑戦だけに緊張が走る。
結果的には全く問題なかった。
中国人たちは身分証明書のカードを改札の機械にタッチしてゲートを通過するが、それを持たない外国人は有人のゲートに行き、Eチケットとパスポートを提示する。
係員がパスポートを機械に読み取らせて無事に通過、中国といえども恐るには足りないようである。
中国の高速鉄道は日本の新幹線とほとんど変わらない。
私が予約した二等車が日本でいう普通車に当たり、一等車がグリーン車、ビジネスクラスがグランクラスに相当するようだ。
予約の際に座席指定のやり方が分からず、割り当てられた座席は3列シートの真ん中。
これでは車窓からの写真が撮りづらい。
列車は定刻に出発。
瀋陽に向け
北京の市街地を抜けると、緑の中に立つ近代的なビル群が窓から見えた。
どこまでの住宅が続く東京とは違い、北京を少し離れると緑が増え、近代的な田園都市といった景色が広がるのだ。
10分も経つと、北方に山が見えてきた。
北京は中国の広大な平野の北端に位置するため、北側には山が連なり、その尾根に沿って世界遺産「万里の長城」が築かれている。
すなわち、この山々の北側には遊牧民が割拠した大平原が広がり、この山々が中華民族と北方の騎馬民族の境界線になってきたのだ。
高速鉄道はこの山岳地帯に分け入っていく。
山間の盆地でも各地でビル建設が進められていた。
日本の10倍の人が暮らす中国のこと、大都会では日本では考えられないような大規模開発が行われていることも理解できるが、果たしてこんな山の中にマンションを建設して需要があるのだろうか?
沿線のあちらこちらで建設中のビルを実にたくさん目にした。
同時にこれだけのビルを建てる中国の建設業界の凄まじさにはいつもながら驚かされる。
クレーンが実際に稼働しているのかどうかは通りすがりの旅人には分からないけれど、中国経済を揺るがす不動産不況の一端は、需要を無視したこうした地方での開発が原因なのかもしれないと感じた。
山岳地帯を抜けると、広大な平野が広がった。
ここがかつての満州である。
車窓から見える景色はまるでヨーロッパの田園風景のようで、実に美しい。
畑に植えられているのはヨーロッパの小麦ではなく、コーリャンと呼ばれるとうもろこしに似た穀物なのだろう。
狭い日本から広大な満州に渡った開拓民たちは、この大地を見てさぞ驚いたことだろう。
この広大な大地が日本のものとなる。
貧しい農村で育った青年たちがこの地で途方もない夢を抱いた気持ちもわからないではない。
しかし、開拓民にあてがわれた農地の大半は中国人から安値で強制的に買い上げた彼らの土地だったのである。
大きな街が見えてきた。
瀋陽だ。
瀋陽とは瀋水(現在の渾河)の北を意味し、7200年前にはすでに定住集落があったという。
17世紀、清朝を築いた女真族のヌルハチが後金の都と定めたことからこの街の発展が始まり、現在の人口は900万人を超え、中国東北地方の中核都市へと発展した。
午後6時20分、瀋陽北駅に到着。
北京を出発して3時間半、中国の国内交通はかなり時間に正確なので旅人にはありがたい。
久しぶりに乗る中国の高速鉄道だが、以前に乗った車両に比べノーズが伸びた気がする。
調べてみると、この新型車両は「復興号」と呼ばれる純中国製車両で2017年から運用が開始された。
私が以前乗った「和諧号」から順次入れ替えが進んでいるようだ。
ちなみに「復興号」の名は、習近平思想の根幹をなす『中華民族の偉大な復興』から名付けられたという。
瀋陽北駅の改札は北京に比べてかなり見劣りするものだった。
この地域の中心都市とはいえ、やはり東北部は中国の後進地域だと感じる。
駅を出ると、目の前にビル群が現れる。
瀋陽北駅の周辺は東北地方随一の金融街だという。
それでも北京など中国の主要都市に比べると一昔前のビルが目立つ気がする。
地下鉄に乗り換えてホテルに向かう。
中国の大都市ではどこも地下鉄網が年々整備され、旅行者の利便性が向上している。
北京の地下鉄はクレジットカードのタッチ決済で切符を買わなくても乗車できたが、さすがに地方ではそうはいかない。
前回の中国旅行の際に使い残したコインが初めて役に立った。
目的地の駅を探して路線図をタッチ、ホテルの最寄り駅までは2元、日本円でおよそ40円ほどだった。
「太原街」という駅で降りる。
瀋陽きってのショッピング街の一つである太原街は、旧奉天駅(現在の瀋陽駅)に隣接し、戦前日本によって開発されたエリアである。
地上に出て、百度地図を頼りにホテルを探す。
古い建物と新しいビルが共存する街、それが瀋陽の第一印象だった。
しかし一見真新しい近代的なビルでもよく見ると窓ガラスが埃まみれで汚い。
中国ではよくあることだけれど、どんどん新しいビルを建てるものの、掃除やメンテナンスが行き届かず、日本人の目から見ると残念な印象を受けることが多いのだ。
私が予約していた「沈阳和平艾美酒店(ル・メリディアン・シェンヤン・へピン)」の建物も、日本の建設会社が建てたモダンなビルでまだ新しいのだけれど、全面に貼られたガラスが汚れてせっかくの外資ホテルが魅力半減だ。
おまけに目の前の道路が工事中で、工事用のフェンスがホテルの正面を完全に塞いでいるというのも日本ではなかなか見ない光景だった。
中国では民間事業者が公共工事に文句を言うことはできないのだろう。
それでもホテルに一歩足を踏み入れると、外とは別世界なハイセンスな空間が広がっていた。
さすがはメリディアン、もともとエールフランス傘下のホテルだっただけのことはある。
部屋もシックで、ベッドもゆったり。
とても落ち着いてリラックスできそうなホテルである。
窓の外には瀋陽の街並みが広がっていた。
中でも素敵だったのはバスルーム。
壁も床も石造りで、大きなバスタブと二人で使える洗面台が備え付けられていた。
中国を旅行していて感じるのは、良質なホテルが比較的リーズナブルに泊まれること。
このメリディアンも3泊朝食付きで4万4000円ほど。
地方都市とはいえ、この部屋でこの値段は安いと思う。
チェックインを済ませて一休みすると、もう街には明かりが灯り始めていた。
こうして写真で見る瀋陽の街はそれなりの大都会だけれど、ホテルから見下ろす建物や通りはどこも垢抜けず、北京に比べて薄汚れた印象を受ける。
中国に限った話ではないけれど、中央と地方の格差は旅人の目にも明白だ。
時刻はすでに午後7時半を回っている。
何か食べようと街に出た。ホテル近くのビルの陰に何やら日本っぽいお店を発見、ちょっと覗いてみることにした。
焼鳥専門店「小酌」。
和風と中国風がミックスしたような外観で、入り口の看板には「生魚」と書いてある。
ほとんど人気のないビルの陰、ジブリ映画にでも登場しそうないかにも怪しげな店ではあるが、果たしてどんな焼き鳥が食べられるのか?
恐る恐る店に入ってみることにした。
入り口を入ると客は一人もおらず、中国人らしき店主と店員の二人がカウンターで暇そうにスマホをいじっていた。
私を見て驚いたような顔をした二人だが、店員が私を2階に案内してくれた。
2階にももちろん客はいなかったが、障子の個室があったりそれなりに和風の内装になっている。
壁にはアニメのポスターが貼られ、中国でも日本のアニメはそれなりのファンを掴んでいて、和食のお店を利用する客の中にも日本のアニメ愛好家がそれなりにいることを想像させた。
注文は全てテーブルに貼られたQRコードから行うらしく、私もスマホで読み取り試してみた。
焼き鳥の写真が全部同じなので最初はメニューの読み方がわからなかったが、漢字をしっかり解読するとなんとなくわかるものもある。
「鸡肉丸子串」はツクネ、「鸡皮串」はカワ、「京葱鸡腿肉串」はネギマだろう?
こうした推理クイズのような注文の末に運ばれてきたのがこちら。
私の推理通り、左からカワ、ネギマ、ツクネが並んでいる。
そしてまあまあ冷えたキリンビールを合わせ、これで締めて38元(約790円)だった。
さて、お味は?
全く期待せずにカワからいただく。
塩味が効いていて思いのほか美味い。
ネギマはタレで、これも悪くない。
そして最後にツクネ、期待値が低かったこともあり、とても美味しいと感じた。
中国料理に疲れた胃袋には日本的な味は実際以上に美味しく感じるのかもしれない。
焼鳥屋を出て、夜の太原街を歩く。
歩行者天国になっているこの通りが目抜き通りなんだと思うが、まだ午後8時半にもなっていないのに人影はまばらだ。
ホテルに戻る途中、この時間でも比較的賑わっている一軒のお店が目に止まった。
「米村拌飯」
焼き鳥とビールだけでは夜中にお腹が空く可能性があると思い、この店で何か食べて帰ろうと思った。
天井には「朝鮮族 非物質文化遺産」の文字。
どうやらここは旧満州に多く住む朝鮮族が営むお店のようで、「非物質文化遺産」とは日本で言うところの「無形文化遺産」と言うことだろう。
てっきり和食のように朝鮮料理がユネスコの無形文化遺産に登録されたのかと思ったら、そうではなく、2021年中国の吉林省政府が石焼ビビンパの調理法を「朝鮮族石焼ビビンパ製作技芸(調理技術)」という項目で地域無形文化遺産リストに載せたことを指すらしい。
中国では朝鮮族の文化を多民族国家中国の文化の一部とみなす風潮が広まっていて、韓国ではこの動きに文化侵略だとして反発が強まっているとも聞く。
いずれにせよ、「米村拌飯」はビビンパなど朝鮮族の料理を中心に様々な石鍋料理を提供するチェーン店のようで、中国全土に1000店舗を展開する勢いなのだという。
この日、私が選んだ料理はビビンパではなくグツグツ煮えたぎる「石板肉醤豆腐」。
キムチやワカメスープ、ご飯は食べ放題で17.9元(約370円)、まさに格安だ。
しかもこの麻婆豆腐のような料理、スパイスが効いていてめちゃくちゃ美味しい。
私はすっかりこの店の虜となり、翌日も翌々日もホテルのすぐ前にあるこの店で夕食を食べた。
3日目には看板メニューの石焼きビビンパもいただいてみたが、結果的には初日に食べた石板肉醤豆腐が一番美味しくコスパも良かったと感じた。
一夜明け、翌27日は朝から雨が降っていた。
中国では街に出れば朝ごはんが食べられるお店も開いているのだけれど、中国料理が続くとお腹が疲れてくるため、今回は毎朝ホテルの朝食ビュッフェをつけてもらった。
もともとフランス系である「ル・メリディアン」だけあって、チーズなどちょっといいものを並べていて、この日はヨーロッパ風の朝ごはんをいただくことに。
もちろん中国の料理もいろいろ並んでいるため、結局は中洋折衷の朝食となった。
でも、このホテル悪くない。
朝食を済ませ、瀋陽を訪れた一番の目的地をまず訪ねる。
「九一八歴史博物館」
戦前の日本が長い戦争の時代に足を踏み込むきっかけとなった1931年9月18日に起きた満州事変をテーマにした博物館である。
この博物館は、満州事変の発端となった鉄道爆破事件の現場である瀋陽郊外の柳条湖にあるため、百度地図アプリを使って行き方を検索するとホテル近くのバス停から直通のバスがあることがわかり、とりあえず太原街の一角にあるバス停に向かう。
私が乗るバスは399番。
たくさんのバスが通り過ぎるが、肝心の399番はなかなか来ない。
結局20分ほどこのバス停で待ち続けることになった。
中国のバスは日本とさして変わらない。
あらかじめスマホで百度地図を開き、それを運転手に示して「九一八歴史博物館」まで行きたい旨を伝え、片手にコインを用意して料金を確認する。
どうやら運賃は2元のようだ。
バスは瀋陽北駅近くの金融街を通って北東へ進む。
大通り沿いには高層ビルが立ち並び、東北部随一のビジネス街を言われる瀋陽の新しい顔を垣間見る。
バスは普通の住宅街に入っていく。
1階に商店、上階は集合住宅。
そうした中国ではどこでも見慣れた街並みが続く。
バスが立体交差の交差点を右折する。
交差点には「習近平新時代中国特色社会主義思想」などと中国共産党のスローガンが書かれた大きな看板が立っていた。
後で知ったのだが、この交差点が「柳条湖橋」の交差点だった。
交差点を通過して最初の停留所が目指す「九一八歴史博物館」のバス停だった。
雨足が少し強くなり、慌てて傘をさす。
どうやら博物館は歩道橋を渡った道の反対側にあるようだ。
ところが、歩道橋を渡っていると工事現場が目に入った。
スマホで地図を確認する。
地図ではこの場所あたりに博物館があるはずなのだが・・・?
さらに、注意深く歩道橋から樹木越しに周囲を見回すと、コンクリート製のモニュメントらしきものが見えた。
モニュメントには何やら文字が刻まれて、髑髏のような紋様も確認できる。
「嘘だろう?」
思わず声が出た。
間違いない、ここが私が訪れようとしている博物館なのだ。
それでも諦めきれず、博物館の入り口を探す。
しかし、門は完全に閉ざされて、営業していないことは明らかだった。
まさか満州事変を扱った博物館は閉館されてしまったのか?
いやいや、そんなことはないだろう。
中国政府は歴史教育をとても重視していて、各地に抗日戦争の博物館を建てて無料公開し、愛国教育の重要な拠点としているからだ。
ということは、リニューアル?
戦後80年の今年、日本との戦争に関する施設をリニューアルし博物館をさらにパワーアップしようとしているに違いない。
そんな想像を巡らせながら施設の周囲を歩いていると、「閉館通知」と書かれた看板を見つけた。
やはりリニューアル工事のために一時閉館しているようである。
期間は5月20日から7月30日まで。
私が訪れたのが6月27日なので、まんまと閉館中にぶつかったというわけだ。
わざわざ負の歴史を学ぼうと日本からやってきたのに、盧溝橋でも柳条湖でも門前払いになってしまった。
このまま手ぶらで帰るのも癪なので、盧溝橋と同様、せめて柳条湖事件が起きた線路でも見てやろうと思い、地図を頼りに周辺を歩いてみる。
先ほどの交差点にはこんなモニュメントがあり・・・
よく見るとその脇に「柳条湖橋」と刻まれた石板がひっそりと立っているのを発見した。
ここが満州事変の発火点「柳条湖」に間違いない。
ここで柳条湖事件と満州事変について、ちょっと長いが半藤一利著『昭和史』から引用しておこう。
さて満州事変についてお話しします。
昭和4年(1929)、アメリカのウォール街の大暴落に続き、昭和5年のロンドン軍縮条約で、経済的な緊迫から海軍軍人の整理が始まり、陸軍の間では「次は自分たちであろう」という危機感が蔓延し始めていました。しかも第一次世界大戦後の世界は総力戦の時代、つまり戦争は軍人だけでやるものではなく、国民全体が一丸となって戦わねば勝てない時代が来たというわけで、民衆の陸軍軍人に対するなんとなしに冷たい視線、それへの不満が陸軍内部に鬱積してきました。「貧乏少尉のやりくり中尉、やっとこ大尉で百十余円、嫁ももらえん」というようなざれ歌もはやりました。つまり、少尉になっても中尉になっても貧乏で、やっと大尉になっても百十余円の給料じゃあお嫁も来ない、というのです。軍人は冷たい視線を受け、電車に乗る時も軍服を脱ぐくらいだったそうです。
そんな時に、心ある陸軍軍人たちは、現実的に冷静に日本の戦力を見て、第一次世界大戦の荒波をくぐらず、のほほんとしていた日本の軍備がどんどん遅れてきているということを厳しい現実として認識し始めます。たとえば、機関銃でいえばイギリス軍20万丁、ドイツ軍50万丁、対して日本陸軍はわずか千二百丁でした。戦車は英仏35万輌、ドイツ軍6万輌、対して日本は三百輌しかない。しかも修理能力はほとんどなし。火力・機動力ともに列強陸軍からすれば数百分の一の実力でしかない、事実を知れば知るほど、日本の国防はどうなっているんだという焦りが募ってきました。
そんな時、当時中佐の石原莞爾という天才的軍人が登場します。陸軍の学校では超優等で、「陸軍に石原莞爾あり」と、もう一人の永田鉄山と共にその名が喧伝されるほど軍部内では知る人ぞ知る存在でした。この石原が「世界最終戦争論」という世界政戦略の大構想をまとめたのです。簡単にいいますと、第一次世界大戦後、世界にともかく平和が戻ったが、列強はいずれまた次の世界戦争を始める。いろんな組み合わせのもとに戦っていくうちに、最後はソ連、アメリカ、日本が残る。最終戦を前に、日本は戦わずじっと国力と戦力を整えて待っていれば、準決勝でアメリカがソ連に勝ち、決勝は日本とアメリカが戦うことになるだろう、という大予測であり、日本はそれまで余計なことはせずじっと耐えながら国力と戦力を蓄えておくべきという主張でした。当時、石原莞爾は天才的とはいえかなり能天気じゃないのか、と言われたのですが、しかし現実はどうだったでしょうか。冷戦が続いてアメリカとソ連の最終戦が今か今かと思われながら、とうとうソ連が自ら崩壊してしまい、いつの間にかアメリカの添加になった。一方、日本は準々決勝くらいで負けてしまったので参加しなかったものの、石原莞爾の予言も満更じゃなかったのではないか、というのは笑い話ですが。
それはさておき、日本が決勝戦に備えるためにはどうすべきか。それには満州をしっかり確保し、発展させ国力を養う、中国とは戦わずに手を結んで、最終的には中国の協力を仰ぎ、日中共同で満州を育てていく、というのが石原の構想でした。
昭和3年10月、石原莞爾が関東軍の作戦参謀として旅順に赴任します。それからは彼が中心となり、次から次へと作戦構想を文書にして、東京の参謀本部に届けます。骨子のみ挙げてみますと、昭和4年7月、「国運展回の根本国策たる満蒙問題解決案」、つまりこれから満州をどうすべきか、「<対米持久戦に勝つには>(中国の)4億の民衆に経済的新生命を与え(助けてやって)、これによってわが商工業を振興し、なるべく速やかに欧米列強に対し我が工業の独立を完うすることを根本着眼とするを要す」。つまり、中国との貿易と通しての共同作業によって日本の国力を養い、米英に依存している工業をできるだけ早く独立させておくべきだということです。
同年同月の「関東軍満蒙領有計画」は、最終的に満蒙(満州と内蒙古)を日本の領土にしてしまうにはどうすべきか。それには張作霖亡き後の東北軍司令官である張学良を掃討し、武装を解除して満州を平定する。そして軍政下において治安を維持する。満州国民への干渉は極力避け、日本、朝鮮、中国の3民族(のち満州・蒙古両民族を加えて「五族協和」という満州国のスローガンが言われる手前の段階です)の自由競争により産業を育成する。3民族がそれぞれ分担することで満州の経済が間違いなく発展する、と主張したのです。つまり石原は満州を日本の国力・軍事力育成の大基盤としておかねばならないという構想のもとにいろんなことに手をつけ始めたのです。
さらに昭和6年5月、「満蒙問題私見」を発表します。「(のちの世界は)西洋の代表たるアメリカと東洋の選手たる日本との間の争覇戦(最終戦)に依り決定せらるる。即ちわが国は東洋の選手たるべき資格を獲得すべきである」。そのためには早く満州を日本の領有にすることが不可欠である。これによって日本の運命はグンと開ける。そこを戦略拠点にすれば朝鮮半島の統治も安定し、中国に対しても指導的位置に立つことができるのだと。
この石原の大戦略を受けて昭和6年6月、参謀本部は「満蒙問題解決方策大綱」を作ります。つまり関東軍の作戦計画に基づきながら、参謀本部も満蒙問題への国策としての解決案を決めたのです。内容を簡単に申しますと、いきなり植民地にするのは無理なので、まずは満州に親日の政権を樹立する。そのためには皇帝を置く(のちに清朝の末裔の溥儀がなるのですが、この案には石原莞爾は猛反対します)。こうして一応は独立国の形にしてやって、その後に領有するという方針です。注目すべきはその終わりの方に、この大方針を実行に移すにはどう考えても内外の理解が必要であると述べていること。その「内」とはマスコミを指します。この辺から、マスコミが軍の政策に協力しないと、つまり国民にうまく宣伝してもらえなければ、成功しないということを軍部は意識し始めます。張作霖爆殺事件以降の、陸軍の目論見が全部パーになってのは、反対に回ったマスコミに煽られた国民が「陸軍はけしからん」と思ってしまったのが原因だと大変に反省したからです。ゆえに今度何かをやる時はマスコミをうまく使おうじゃないか、というので、ここから先はマスコミ対策が参謀本部の大仕事となり、新聞社及び普及しつつあったラジオ、日本放送協会への働きかけが、いろんな形でどんどん強くなっていきます。
以上、石原莞爾の大構想があり、それに基づく参謀本部の大構想がある。これが満州事変につながっていく背景だったのです。
ただマスコミ工作以前に、これらの大構想が練られている間、国内においては新聞雑誌で満蒙問題が盛んに論じられ、「満蒙は日本の生命線である」と叫ばれていました。この言葉はそもそも、当時満鉄(新京⇄大連間を走っていた南満州鉄道)の副総裁でのちのち外務大臣松岡洋右が、昭和4年8月に京都で行われた「第三回太平洋問題調査会」で満州問題を権威のように語って獅子吼したために、非常に流行ったのです。それがまた議会で叫ばれ、高らかにうたいあげられた。強硬派の代議士、森恪が松岡演説を受けて「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線である」とぶちました。この数字は日露戦争で使った金、戦死者で、そうまでしてやっと手に入れた満州は、まさに日本が守り抜くべき生命線である、というわけです。これが今後、日本の大スローガンになるのですが、面白いもので、うまいスローガンがあると国民の気持ちが妙に一致して同じ方向を向くんですね。
雑談ですが、150年前の旧暦6月4日(新暦7月8日)にペルリが浦賀に来てから慶応4年に明治政府が成立するまで、1853年から68年まで15年間のいろんな文献や書状などを見ていますと、皆がやたらに「皇国」という言葉を使っている。なるほどそれがあの頃のスローガン、幕末の尊王攘夷時代のキャッチフレーズであったのですね。
それが昭和初めは「生命線」「二十億の国費」「十万の同胞の血」だったわけです。こうなると国民感情がピタッと一致してしまうんですね。今も日本は「ふつうの国」だの「再軍備」だの言ってますが、うまい言葉が見つからなくて国民感情は一致しないようです。
さて当時は強硬派だけでなく、戦後の首相で当時の奉天総領事、吉田茂が「対満政策私見」でこう言っています。「我が民族発展の要地たる満蒙を開放せられざる以上、財界の恢復繁栄の基礎なりがたく、政争緩和すべからず。これ対支、対満蒙政策の一新を当面の急務となさざるをえざる所以なり」。つまり、満蒙問題の解決なくして経済的な恢復も繁栄もない、政治上の争いも緩和できない。ここでいう満蒙の開放とは、つまりは日本の支配下に置く、つまり植民地にするということであって、吉田茂でさえ当時はこう言っていたのです。
要するに、日本の国民感情は満蒙の植民地化へ向かいつつあった、そんな世の中の大きな動きに乗って陸軍は「時機が来た」と思ったのです。そんな折、6月27日、発表は8月17日ですが、中村震太郎大尉という人が、スパイ容疑で中国軍に殺される事件が起きました。さらに7月2日、満州で中国の農民と朝鮮人農民が衝突する万宝山事件が起きました。これでますます国民感情も猛り出してゆきます。
では新聞はどうか。この頃はまだ、満蒙問題は武力で解決すべきではないと非常に冷静に対処していました。
そしてこの事態を一番憂慮していたのは昭和天皇であり、先ほどの宮中グループでした。昭和天皇は、昭和6年(1931)4月に発足した若槻礼次郎内閣(第二次)の陸軍大臣南次郎大将を呼んで6月4日、「軍は軍規をもって成り立っている。軍規が緩むと大事を引き起こす恐れがある。軍紀を厳正にせよ」。つまり、軍は非常に厳しい規律でもって成り立っている、それが緩むととんでもない事態が起きるが、どうもそれが最近緩んでいるようである、引き締めるように、と命じました。また若槻首相に対しても、「満蒙問題については、不穏な言動が盛んだが、日中親善を基調にすることを忘れないように」と言っています。これらはもちろん、背後に西園寺、牧野、鈴木、一木らの側近の意見があったでしょう。
ところが、軍部はこれら反対論を屁とも思わず、ますます陰謀の傾向を強めていきます。宮中グループは軍部を改めてガツンと抑えなくては、と9月11日、天皇が南陸軍大臣を再度呼びつけ厳しく注意します。万宝山事件といい、中村大尉事件と言い、誠に困ったことであるが複雑な事情もあろう、よくそれを究明しなければならない、全て非は向こうにある、という態度で臨んでいては円満な解決はできない。とにかく軍規を厳重に守るように、明治天皇の作った軍隊に間違いが起こっては申し訳ない、と申し渡しました。
さすがの陸相もこれにはこたえて「もっともです」と応じ、さらに同じ日に西園寺さんも念を押すように「満蒙といえども支那の領土である以上、こと外交に関しては、全て外務大臣に任すべきであって、軍が先走ってとやかく言うのは甚だけしからん」ときつく叱りました。南陸相は「この問題に関しては、若槻総理からもたびたび小言を受け、陛下からもご注意があった。誠に恐縮千万であります。西園寺公の言われることはいちいちごもっともで、責任をもって注意いたすつもりであります」とかなんとか、どうもムニャムニャ答えたようです。西園寺さんはそれを聞きながら、「まるで暖簾に腕押しのようでまことに困った。たった今、甘酒を飲んできたというような顔をしてしきりにいろんな事を言ったが、じつに頼りないことおびただしい」と言ったと、原田熊雄日記には書かれています。
陸軍としては、しきりに弁明しながらも従うつもりはなかったらしいのですが、ただ南陸軍大臣は案外気が小さかったようで、これはこのままでは済まないぞ、と思い始めたようです。というのも当時、南陸相、参謀総長金谷範三大将らを中心に陸軍は、関東軍の方針を是認し、その作戦計画に基づいて9月28日に謀略による事件を起こし、それを契機に満蒙領有計画を強力に推し進めると決めていたからです。これには異論も多くあるようです。「共謀」ではなく、むしろ「抑制」に努めていたという学者もいますが、どうもそうとは思えない節が多々あります。
証拠と言ってはなんですが、8月1日に剛毅をもってなる本庄繁大将を関東軍司令官に任命し、その月の中旬、軍司令官、参謀長に次ぐナンバー3である関東軍の高級参謀、板垣征四郎大佐が東京に出てきて、軍事課長永田鉄山大佐、補任課長岡村寧次大佐、作戦課長今村均大佐、作戦部長建川美次少将といろいろ極秘の会談をもっている。ということは、「関東軍はやりますよ」ということの打ち合わせではなかったでしょうか。いや、打ち合わせそのもので、永田鉄山以下、東京中央の陸軍省及び参謀本部の主要人物に全ての作戦計画を綿密に話しているんですね。
そして板垣はとんぼ返りですぐに満州へ戻り、8月下旬に本庄繁大将が旅順に赴任した際、「何か突発事件が起きた時、陸軍中央にどうすべきかの請訓を仰ぐか、あるいは独断専行しますか」と問うている。本庄は板垣を見据えて「私は軍司令官としてはあくまで陸軍中央の指示に従うつもりではある。が、独断専行を決するに躊躇するものではない」と答えた。板垣は、ああこれは噂どおり剛毅な男だ、この人なら大丈夫そうだ、と安心して9月28日にいよいよ決行のつもりで準備を進めました。
作戦計画はまことに明確です。満鉄の鉄道を爆破するのです。そうすれば、関東軍司令部条例第3条により、関東軍は合法的に出動できるのです。肝心なのは線路爆破を完璧な隠密行動にしなければならない、ということでした。外部の人間を使うわけにはいかない。自分たちの手で確実に実行しなければならないと決めました。張作霖爆殺失敗の二の舞は許されない。それだけに計画は慎重の上にも慎重を期しました。
ところがです。9月11日、天皇陛下と西園寺さんに叱られた南陸軍大臣がへなへなとなって、「これはだめなんじゃないか、このまま突っ走ると大変なことになるのではないか、内外の理解の“内”のほうのトップである天皇陛下以下の側近たちが猛反対となれば、計画は延期したほうがいいのではないか」ということになったのです。
9月14日、南は金谷参謀総長と相談し、関東軍に思いとどまるよう、電報では意を尽くせないので建川作戦部長を満州に派遣する事を決めます。建川も板垣らとは十分相談しているので今更ストップには賛成はしかねたでしょうが、命令ですから、飛行機で行けば速いものを、しぶしぶ東京駅から汽車に乗ってゆっくりと、これは「おれが着くまでにやってしまえよ」という意味なのかはわかりませんが、とにかく出発します。途端に、東京にいた参謀本部のロシア班長、橋本欣五郎中佐が関東軍司令部に「事暴かれたり、ただちに決行すべし」「建川奉天着前に決行すべし」「内地は心配に及ばん、決行すべし」という3本の電報を、もちろん暗号で打ちました。
受け取った関東軍司令部は、決断に迫られます。軍司令官、参謀長たち主な幹部は司令部のある旅順にいて、奉天にいたのは板垣征四郎、石原莞爾、特務機関花谷正しょうさ、憲兵分隊長三谷清少佐、駐在分隊長今田新太郎大尉らでした。建川が奉天に止めにやってくるというので彼らは密会し、来る前にやろうか、それとも話を聞いてから決めるか、ずいぶん揉めたようです。しかし、決行か中止か決められなかったという。
9月16日夜、板垣以下メンバーがもう一度集まって、酒を飲みながら、それこそ石川啄木の詩「はてしなき議論の後」のごとく改めてやり合ったようです。
17日午前3時になって、板垣が「こうなったら運を天にまかせて割り箸を立てて決めようじゃないか」(鉛筆でやったという説もありますが)、ともかく右へ転んだら中止、左に転んだら決行、ということでやってみたら、右へ転んだらしいんです。ということは中止ですね。石原莞爾の日記にも、「午後9時半より機関にて会議。建川来る秘電有り。午前3時まで議論の結果、中止に一決」とあるんです。ですから一度はやめようと決定したようなのです。
ところが軍人には困った性分がありまして、騎虎の勢いというか、一度立てた計画を反故にすることは忍びないらしい。やはりここまで来たらやってしまおうじゃないか、と今田新太郎や三谷清ら若い強硬派の声が高く、再び「やるか」という空気になったようです。
そして18日午後7時に建川が奉天駅に着くと、建川は大酒飲みですから板垣と花谷という酒豪がすぐに迎えに行き、料亭菊文へ連れて行ってふにゃふにゃと、こんにゃく問答のごとくごまかしたという説もありますが、説き伏せたとも言われています。
もっとも、その時には今田新太郎ら実行部隊は、28日の予定を十日間早めて今晩にでも、とすでに奉天郊外の柳条湖付近で爆薬を仕掛けるなど準備を着々と整えていましたから、建川がどう出ようがやるつもりだったのです。とにかく、黙ってやるわけですから、「あとはあなたに任せるよ」と板垣に言い置いて、石原莞爾はすぐに旅順に戻り本庄司令官らの説得に備えました。板垣は、建川を飲みつぶしてしまいます。余談ですが、本庄繁のあだ名は「沢庵石」、ずしっと重くて決めたらテコでも動かないからです。また三宅光治参謀長は「ロシア飴」。軍部きってのロシア通なのですが、ロシアをやっつけろという際にはヌルヌルになってしまうからです。そして板垣さんは「午前さま」。午前にならないと酒盃を離さないほどの酒豪でして、それで建川はつぶされてしまったのです。
午後10時20分、柳条湖付近の鉄道が爆発しました。
板垣は菊文から瞬時をおかず飛び出し、11時過ぎには第29連隊長と独立守備歩兵第二大隊長を呼びつけて「張学良軍の攻撃である。奉天城、北大営を攻撃せよ」と断固として命令を下しました。つまり、鉄道爆破は中国軍による日本軍への不法な攻撃である、よってただちに張学良軍の本拠を攻撃して占領せよ、というのです。全ては独断であって大元帥の命令なしで下したのですから、厳密にいえば「統帥権干犯」、陸軍刑法に基づけば死刑です。ここに満州事変が始まります。
旅順の関東軍司令部は、第一報が届くと「すわ事件」と本庄司令官以下がただちに奉天へと出発します。この際、本庄を三宅参謀長、石原莞爾らが囲んで、一つは奉天作戦の後はハルピンまで進みましょう、二つは関東軍は全力をあげても一万余しかいないが、張学良軍は奉天付近だけで二万、満州全土では二十五万の大軍。これでは抑えきれないので、朝鮮にいる日本兵の越境による援軍を、と頼みます。この越境援軍に関しては、石原莞爾がすでに朝鮮軍の作戦参謀神田正種少佐と打ち合わせ済みでした。本庄は以前、いざという時には独断専行もやぶさかではない、と答えた手前もあってか黙って聞いていたようです。
深夜1時7分、陸軍中央に奉天発第205号電が届きます。
「・・・暴戻なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、わが守備隊を襲い・・・」
このように全て作戦計画通りに進めました。ところが、です。本庄らが奉天に着いたと同時くらいの午後6時頃、金谷参謀総長からの電報が届きます。「不拡大方針に確定した、軍の行動は必要度を越えることなかれ」とありました。余計な攻撃をするな、という中央からの命令ですね。打ち合わせ済みなのに、関東軍には思いもかけないことだったでしょう。実は東京ではこれもすったもんだがあった結果であったわけです。
ただちに本庄軍司令官は心変わりします。「速やかに停戦するように、ハルピン進攻などもってのほか」というわけで、そう決めたら沢庵石は動きません。石原莞爾は気抜けして「ああ、わがこと成らず」と嘆息して畳の上にひっくり返ったらしく、頭のいい人というのは諦めも早いのですね。
すると板垣がむくと起き上がって、「石原、ハルビンがだめなら隣の吉林省へ進軍してはどうか」と言うのです。このへんが板垣のすごいところで、これに応じて石原も起き上がり「そうか、吉林省は奉天を守るために確保する必要がある」と元気を取り戻します。吉林省は満鉄からすごく離れているから駐留権はない。しかし、そこで暴動が起これば、在留邦人の安全確保のため出兵できる。結果として奉天付近が手薄になったことを口実に、朝鮮軍の越境増援を要請できる。そうなるとさっさと次の作戦計画を作り上げて、作戦部長の建川を口説きます。建川は止めにきたにも関わらず、計画に感心し、三宅参謀長も賛成します。
これでまた息を吹き返し、20日、本庄と建川の会談になりました。建川は本庄を口説いたようです。停戦するわけにはいかない、攻撃を仕掛けた以上は反撃もあるのだから、奉天を守るくらいのことはしないと、などと言ったのでしょうが、さすが沢庵石の本庄はそれでも動きません。建川も諦めて帰ってきます。
そこで幕僚全員が同日夕方、本庄に談判したのですが、依然として動きません。夜中の12時前ごろでしょうか、皆追い返されてしまい、石原莞爾は「これでおしまい」と今度こそ諦めたようです。しかし一人だけ司令官室から戻ってこない人がいました。午前さまこと板垣征四郎です。
何を考えたのか居残った板垣は、本庄と向かい合って黙って睨めっこしているらしい。そして午前3時頃、戻ってきた板垣は石原を起こし、「おい、すんだぞ」と言ったそうです。沢庵石を動かしてオッケーを取り付けたのですね。つまり、ここで本庄さんが意地でも動かなければ、満州事変はポシャったのですが、板垣という剛の者(この東北人は足の裏を針で刺したら三日たって「痛い」と言ったという話もあるくらいで)の鈍重にしてかつ粘り強さによって、21日未明、再び関東軍は息を吹き返したのです。
攻撃準備を整えていた関東軍の進撃は、かなり急でした。中国軍が無抵抗主義をとったためもあり、思うように軍の展開ができたのですね。
一方、日本国内では、この日の朝刊が(当時の朝日新聞と東京日日新聞(現在の毎日新聞)がダントツの部数でした)ともに俄然、関東軍擁護に回ったのですよ。繰り返しますが、それまでは朝日も日日も時事も報知も、軍の満蒙問題に関しては非常に厳しい論調だったのですが、20日の朝刊からあっという間にひっくり返った。たとえば東京朝日新聞ですが、19日の論説委員会で、これは日露戦争以来の日本の大方針であり、正統な権益の擁護の戦いであるということが確認され、20日午前7時の号外は「奉天軍(中国軍)の計画的行動」という見出しで、特派員の至急報を国民に伝えます。これはほかの新聞もほぼ同じで、つまり軍の発表そのものであったということです。
「十八日午後十時半、奉天郊外北大営の西北側に暴戻なる支那軍が満鉄線を爆破し、わが鉄道守備隊を襲撃したが、わが軍はこれに応戦した云々」
とあり、「明らかに支那側の計画的行動であることが明瞭となった」と書いています。よく読めば少しも「明瞭」ではないのですが、これがそのまま大変な勢いで国民に伝わります。
どうしてこうなったか、これは一つにラジオのおかげだと思うんです。19日午前2時半ごろに電報通信社からの第一報が入ったのを受け、午前6時半からのラジオ体操を中断して、「9月18日午後10時30分、奉天駐在のわが鉄道守備隊と北大営の東北陸軍第一旅団の兵とが衝突、目下激戦中」と伝え、この後もどんどん臨時ニュースを流すもんですから、新聞も負けじと勇ましい報道を始めたのです。ちなみに当時約65万だったラジオの契約者数は、これを契機に月平均6万ずつくらい増え、昭和7年3月には105万6千に達したといいます。ラジオの時代に突入したわけで、その影響で新聞も「号外」を連発するようになる。つまり「号外」戦となり、どんどん読者を煽っていくことになるのです。
一方、関東軍としては、敵は満州全土を合わせれば20倍以上いますから、朝鮮軍に出てもらわないとどうにも成らない。軍隊を国境を越えて動かすには、統帥命令によらねばならない、大元帥すなわち天皇の命令がないとできません。そのため金谷参謀総長がお願いに行きますが、大元帥すなわち天皇は「まかりならん」の一点張り。侍従武官長が間に入って取りなしても会ってもくれず、何度もすごすご引き下がってくる。神田正種作戦参謀ら朝鮮軍は国境線の鴨緑江まで来て待っているのですが、東京からの許可が下りない。そこで、朝鮮軍の立派な髭を生やした林銑十郎司令官がここでも独断で越境命令を出したのです。21日午後、混成第三十九旅団の兵隊1万人以上が一気に鴨緑江を越えて満洲に入りました。大元帥陛下の命令なくして軍隊を動かしたということは大犯罪で、これも陸軍刑法に基づけば死刑なのですが。
一方、同日夕方頃にその知らせを受けた陸軍は、大変なことになったと慌てますが、智恵者がいて、「閣議で決めてもらおう」ということになり、22日午前10時から閣議が開かれます。若槻総理大臣も、林久治郎奉天総領事よりかなりの情報を得ていた幣原喜重郎外務大臣も「事件は全く日本陸軍の計画的行動によると思われる」といった電報を受けていますから、「とんでもない」と南陸軍大臣を吊し上げます。以下は、幣原さんが南さんに厳重抗議をした言葉です。
「はたして原因は、支那兵がレールを破壊し、これを防御せんとした守備に対して攻撃してきたから起こったのであるか。すなわち正当防衛であるか。もし然らずして、日本軍の陰謀的行為としたならば、わが国の世界における立場をどうするか。・・・この上はどうかこれを拡大しないよう努力したい。即刻、関東軍司令官に対して、この事件を拡大せぬよう訓令しようと思う」
しかし南さんは例によってふにゃふにゃしているうちに、すでに朝鮮軍は国境を越えて満州に入ってしまったことをバラしてしまいました。すると、ここが昭和史の困ったところ、情けないところなのですが、若槻首相という、道理のわかったはずの人が、「なに?すでに入ってしまったのか。それならば仕方ないじゃないか」と言ってしまったというのです。この若槻首相の一言が閣議を決定し、「朝鮮軍を放っておくわけにはいかない、予算として特別の軍事費を出す必要がある」ということになります。
天皇は、大元帥陛下としては、参謀総長にきつく「戦争の拡大はまかりならん、朝鮮軍の越境は認めない」と言っているのですが、閣議の後、若槻首相が「閣議が全員一致で決定し、越境した朝鮮軍に特別軍事予算をつけた」と奏上してきたことに対して、すでに説明しましたように、日本の憲法において内閣が一致して決めてきたことについてはノーと言わないことになっていますから、やむを得ないと、認可してしまいます。
陸軍は大喜びです。22日午前から午後にかけて、天皇が認可した、予算が出た、と激励の電報を次々に現地に送りました。これを受けた関東軍は命令を出します。「ハルビンの形勢ますます不穏。ハルビン総領事より政府に出兵の要請あり。軍は速やかにハルビン救援の準備を整えんとす」というわけで、ハルビン攻略作戦が始まりました。
改めて天皇に会いに行った金谷参謀長に、さすがに「今回のことは非常にけしからんことではあるが、閣議が一致して決めたことはやむを得ない。しかし私はあくまで拡大に反対であるから、戦争を早く終わらせるように」と天皇は命令するにとどまります。
23日の朝刊は「朝鮮軍の満州出動」と大々的に報じました。「閣議で事後承認」、これは正しいですね。また「軍と政府がぎくしゃくしている印象を内外に与えるのは大変良くない、政府が勇断に欠けているがごとき印象を与える結果となったのはもっと愚である」とまで書き、軍部の後押しをしました。この時から大衆が軍を応援し始め、強気一方になって「既得権擁護」「新満蒙の建設」といった新スローガンも生まれ、一瀉千里に満蒙領有計画が推進されていくのです。
事変後、1週間も経たないうちに、日本全国の各神社には必勝祈願の参拝者がどんどん押し寄せ、憂国の志士や国士から血書血判の手紙が、陸軍大臣の机の上に山のように積まれたというんですね。南陸相は「日本国民の意気はいまだ衰えぬ、誠に頼もしいものがある。この全国民の応援があればこそ、満州の曠野で戦う軍人がよくその本分を果たしうるのである」と喜色満面に新聞記者に語ったほどです。これが事変直前に天皇にきつく叱られ、青菜に塩でフニャフニャになった人の言葉なんです。
こうして「この全国民の応援」を軍部が受けるようになるまで、繰り返しますが、新聞の果たした役割はあまりにも大きかった。世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日の大新聞を先頭に、マスコミは競って世論の先取りに狂奔し、かつ熱心極まりなかったんです。そして満洲国独立案、関東軍の猛進撃、国連の抗議などと新生面が開かれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていき、民衆はそれらに煽られてまたたく間に好戦的になっていく。それは雑誌「改造」(昭和6年11月号)で評論家の阿部慎吾が説くように、「各紙とも軍部側の純然たる宣伝機関と化したと言っても大過なかろう」という情況であったんです。マスコミと一体化した国民的熱狂というものがどんなにか恐ろしいものであることか、ということなんです。
そして昭和7年3月には満洲国が建設され、9月8日に本庄軍司令官以下、三宅参謀長、板垣高級参謀、石原作戦参謀らが東京に帰ってくると、万歳万歳の出迎えを受け、宮中から差し回しの馬車に乗り、天皇陛下にこれまでの戦況報告をします。黙って聞いていた天皇は尋ねます。「聞いたところによれば、一部の者の謀略との噂もあるが、そのような事実はあるのか」。これに対して本庄は「後でそのようなことを私も聞きましたが、関東軍は断じて謀略などやっておりません」と抜け抜けと答えました。天皇は「そうか、それならよかった」と言ったようです。後で聞いた石原莞爾は「ずいぶんいろいろなことを天皇の耳に入れる奴がいるな」とつぶやいたという話もあります。つまり“君側の奸”どもは許せん、というわけです。
すでに申しましたように、この人たちは本来、大元帥命令なくして戦争を始めた重罪人で、陸軍刑法に従えば死刑のはずなんです。それどころか本庄軍司令官は侍従武官長として天皇の側近となり、男爵となる。石原莞爾は連隊長として一旦外に出ますが、まもなく参謀本部作戦部長となり、論功行賞でむしろ出世の道を歩みました。字義どおり、「勝てば官軍」というわけです。
昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります。
私は鉄道の線路を探した。
事前のイメージでは、上から鉄道を見下ろすイメージだったのだけれど、現場に行くと鉄道は高架の上を走っているようだった。
そこにあったのは共産党のスローガンだけ。
満州事変に関する説明や日本を糾弾するようなメッセージは見当たらなかった。
それでも94年前のこの場所で、少数の若い軍人たちが企てた謀略がきっかけで、その15年後には日本列島が焦土となり、多くの人命を失われたあの悲惨な敗戦がもたらされたと思うと、小さな出来事が思いもかけない悲劇を生む歴史の恐ろしさを改めて痛感せざるを得ない。
ちょうどその時、一本の列車が柳条湖を通過していった。
太平洋戦争が始まった12月8日、沖縄戦が終結した6月23日、広島に原爆が投下された8月6日、長崎原爆の8月9日、そして8月15日の終戦の日。
日本には戦争のまつわる多くの記念日があり、戦後のメディアはその日に合わせて戦争に関する報道を行なってきたため、多くの日本人がその日付を記憶している。
しかし、柳条湖事件の9月18日や盧溝橋事件の7月7日、南京大虐殺の12月13日という日付がすんなりと出てくる日本人は多くはないだろう。
人間は被害の記憶は語り継ぐが、加害の記憶はすぐに忘れてしまう、または意図的に忘れようとする生き物なのだ。
そしてまた、同じ過ちを繰り返す。
雨足が一段と激しくなった。
私は柳条湖の鉄橋の下で20分ほど雨宿りしながら、地面に打ちつける雨の音を聞いていた。
