<きちたび>両国国技館で一日中大相撲を観戦する① 国技館はワンダーランドだ

相撲の歴史

正面入り口に掲げられた「国技館」の看板。

私が入場したのはまだ、午前11時前。この時間にやってくる人はまばらだ。

本当はここですぐに自分の席に向かい、始まったばかりの序の口の取組などを見ていたのだが、土俵に関係する内容は長くなるので別の記事に譲り、ここでは国技館で私が面白いと感じたことをまとめて書くことにする。

たとえば、こちら。

あまり注目する人はいないが、エントランスロビーには、相撲の歴史を描いた4枚の絵が描かれている。

まずは、「国譲りの力くらべ」。こんな説明書きが添えられている。

『 相撲、力くらべの起源としてよく知られている神話が、和銅5年(712)に編纂された「古事記」に載っています。

皇室の祖、太陽の神とされる天照大神は、葦原中国(日本の古称)を譲るようにと大国主命に迫りましたが、なかなか事がすすみませんでした。そこで天照大神は建御雷神を遣わしました。稲佐の浜(島根県出雲市)に降り立った建御雷神に対し、大国主命の子である建御名方神は力くらべを望みました。両者の力くらべは建御雷神が勝利し、国譲りは平和に行われました。この話は、大和朝廷による国家統一の過程を神話にしたものと考えられています。』

「野見宿禰と当麻蹴速」。「のみのすくねとたいまのけはや」と読む。

『 養老4年(720)に完成した歴史書「日本書紀」に載っています。当麻村(奈良県葛城市)の当麻蹴速は剛力の持ち主で、強い者と力くらべをしたいと言っていました。これを聞いた垂仁天皇は、まわりの者に蹴速と並ぶ人物がいるかと尋ねました。すると出雲国(島根県)に野見宿禰という者がいることがわかりました。出雲国からやってきた宿禰は、垂仁天皇7年7月7日に蹴速と対戦し勝利しました。勝った宿禰は蹴速の土地を賜り、垂仁天皇に仕え、今でも相撲の神として祀られています。』

続いては、「相撲節」。「すまいのせち」と読む。

『 相撲節とは、天皇が宮中で相撲を観覧する儀式のことで、奈良時代にはじまり平安時代に制度化され、400年に渡って催されました。朝廷の権威を示し、作物の豊作を祈る行事で、舞楽なども伴う毎年7月に行われる古代国家の一大イベントとして隆盛を極めました。

相撲を披露したのは全国から集められた相撲人たちです。上京した相撲人は、本番の前に行われる「内取(うちとり)」(稽古)で実力がはかられ、最強のものは「最手(ほて)」、次に強いものは「脇」と呼ばれました。当日は約20番の取組が行われ、現在と異なり土俵は存在しなかったため、勝負は相手を投げる、あるいは手や膝を地面につかせることで決着しました。「まわし」ではなく前を覆う部分の幅が広い「とうさぎ」が使用されており、現在の大相撲とはだいぶ様相が異なりますが、髪をつかむことや相手を殴ることが禁じられ、勝負がもつれた場合「論」(物言い)が行われるなど、一定のルールができあがりました。相撲節の開催により、人々が見て楽しむ競技としての相撲が成立したのです。』

なるほど、これは知らなかった。

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