<きちたび>中国・瀋陽の旅2025🇨🇳 最強ロシア陸軍と激突した日露戦争「奉天会戦」!私の先祖が戦死した瀋陽郊外の「柳匠屯」と「万宝山」を訪ねる

🇨🇳 中国/瀋陽 2025年6月27日

我が家には「謎のお墓」がある。

丘に作られた一族の墓地には、今の家を建てた曽祖父と曽祖母の墓を筆頭に、祖父と祖母、伯父と伯母、父と母の夫婦墓が並んでいるのだが、その「謎のお墓」はそこから少し離れた丘の一番高いところに集落を見下ろすように立てられている。

子供の頃、墓参りに連れて行かれる時も、真っ先にその「謎のお墓」に参り、その後に一族の墓地に向かう決まりだった。

その「謎のお墓」については「兵隊さんのお墓」だと教えられていた。

それが何を意味するのか子供だった私には理解できるはずもなく、特別興味を持つこともないまま大人になったのだが、大人になってお墓参りするようになり、「謎のお墓」に眠るのが日露戦争で戦死した大伯父すなわち祖父の兄であることを理解した。

墓石には、大伯父が戦死した日付や地名が漢文で記されていた。

正確には読み取れないのだけれど、明治38年3月5日に夜襲の命令が下り、死屍累々の中で「挺身肉薄」勇敢に戦うも敵の弾雨に倒れ名誉の戦死を遂げたというようなことが書かれているようだ。

そして、大伯父が亡くなったのは日露戦争最大の陸戦と言われる「奉天大会戦」の激戦地「柳匠屯」という村であると書かれていた。

私は「柳匠屯」の地名をGoogleマップで探した。

https://maps.app.goo.gl/TqpAkHoh4Z2M5Xej8

その村は満州の中心都市「瀋陽」の南方にあった。

発音は「Liujiangtun」と言うらしいが、当時の日本人は「りゅうしょうとん」と呼んだのだろうか。

日露戦争当時、この地を支配下に置いていたロシアが強固な防御陣地を構築して鉄壁の守りを固める中、兵力で劣る日本軍は人的犠牲を厭わない中央突破で死中に活を求めたのだが、その最前線となった一つが「柳匠屯」だったらしい。

「柳匠屯」の地名は、日本人の愛読書として知られる司馬遼太郎著『坂の上の雲』にも登場する。

その部分を引用しておこう。

奉天会戦は、個々の正面においてはたして日本軍が優勢であったかどうかは疑問であり、むしろ逆であることが多かった。

たとえばクロポトキンの無用の兵力移動によって全滅の危機から救われた日本軍の攻撃部隊が無数に存在した。

「奇蹟三月七日」

ということが、中央を担当する野津軍のあいだで戦後よく話題になった。

「なぜ三月七日になってロシア軍が消えたのだろう」

という疑問であった。

例の万宝山をもって代表とするロシア軍の強大重厚な防御線(半永久陣地)に対していどみかかった野津軍の場合などとくにそうであった。

「第十師団(姫路)ノ精鋭ヲモツテシテモ、六昼夜肉薄スレドツヒニコレヲ攻陥スルヲ得ズ。多大ノ犠牲ヲ払ヒタリ」

といわれている戦闘がそれである。

柳匠屯も、万宝山ラインの一環であった。

これに対してすでにふれた日本軍重砲隊とくに二十八サンチ榴弾砲がさかんにたたきつづけたが、ロシア軍の防御工事は堅牢でくだくことができず、その火力はすこしの衰えもみせなかった。

砲戦は三日つづいた。

三日後、型どおり歩兵の出幕になり、砲兵の援護のもとに突撃をくりかえしたが損害のみを増し、効果はまったくなく、四日夜になると、この師団全体が尻餅をついたようにして戦闘休止のかたちになった。

これに対して煙台の総司令部が電話線がぶちきれるような怒声をあげた。

「なぜ攻撃せんのか」

これに対し、野津軍参謀長の上原勇作が戦線を整頓しなければどうにもならぬ、というと、総司令部の電話の声がにわかに変わった。児玉源太郎が電話口に出ていた。

「乃木が一所懸命でようとしとるんじゃ。なんとか繞回して奉天へ出てゆこうとしとるんじゃ。奉天の西方までとにもかくにもたどりつきおった。ところがお前、今日あたりから敵がどんどんふえてきおって、難戦もなにも話にならん。乃木をして奉天の側背を衝かしめるかどうかがこの作戦の勝敗のわかれ目じゃ。乃木の荷を軽くしてやれ。野津軍が一歩槍をふかく入れれば、そのぶんだけ乃木が一歩進める。そのために野津軍にどれだけの犠牲を出してもやむをえん。乃木が奉天の西方でつぶれてしまえば奉天会戦はもうしまいじゃ。野津軍だけが生き残っても、日本はほろびるぞ」

この児玉の電話によって野津軍(第十師団)はふたたび五日早暁から敵の堡塁群へ強烈な大攻勢を再開した。

その戦闘の惨烈さは、いちいち描写するに堪えがたいものであった。第十師団のうち、歩兵第十連隊(姫路)と歩兵第四十連隊(鳥取)は、ほとんど連隊のかたちをなさないまでに潰滅した。たった一日の攻撃で損害千百人であり、前線の第八旅団長(少将大谷喜久蔵)とその隷下の両連隊とのあいだに相互に伝令が何度も出たが、ことごとく途中で戦死するというありさまで、ついに夜に入って退却せざるをえなかった。

六日は攻撃休止。ところが七日になると、敵のほうが沈黙してしまったのである。不可解ながらクロパトキンの命令によるものであった。

瀋陽に行ったら、ぜひ柳匠屯を訪れてみたい。

そう考えていた私は、満州事変の発火点となった「柳条湖」をぶらぶらした後、近くの「合作街」という駅から地下鉄に乗り、柳匠屯を目指すことにした。

柳匠屯は小さな村なので地下鉄など通っていないが、最寄りの「創新路」という駅まで直通で行けることがわかったからだ。

瀋陽の中心部を縦断して北から南へ。

ただ、創新路駅から柳匠屯までの行き方は着いてから探すしかない。

創新路は地下鉄4号線の終点だった。

まだ完成して間がないらしく駅のホームもピカピカだ。

乗客の大半は途中の駅で降り、この駅で降りる客は私を含め、数えるほどしかいない。

駅を降りると、やはり雨。

中国では見慣れた同じ形の高層マンションが何本も並んでいた。

小さなタクシーらしき車が客引きをしていた。

私は百度地図を見せながら「柳匠屯に行きたい」と運転手に身振りで伝える。

運転手の言い値80元(約1650円)で交渉成立、私は狭い後部座席に乗り込んだ。

発信したこのタクシー、甲高いモーター音がする。

どうやら中国製の電気自動車らしい。

とても小型でパワーもないが、この辺りのタクシーはなぜかこの電気自動車が目立つ。

少し走ると、住宅がなくなり広々とした農村風景が広がった。

運転手はスマホの地図で道路を調べながら走っている。

観光地でもない柳匠屯村に行く客などそうはいないのだろう。

道路の両側に広がる畑ではトウモロコシのような作物が栽培されている。

おそらくこれが、満州の主要穀物コウリャンなのだろう。

コウリャン畑の向こうに小高い丘が見えてきた。

平坦な平野が広がるこの界隈で唯一周囲が見通せる高台である。

おそらくあの丘が「万宝山」、日露両軍が奪い合った激戦地に違いない。

創新路の駅から20分ほど走って、目的地の柳匠屯に着いたのは午後1時半ごろだった。

相変わらず雨が降り続いている。

運転手が道端に車を停め、私に何かを指し示す。

彼が指差す方向を見てみると、道路の脇に小さな石碑が置かれている。

刻まれた文字は「柳匠」、おそらく柳匠屯の屯が土に埋もれてしまったと推察される。

道路に沿って続く柳匠屯の村は、あまり豊かそうには見えない中国の普通の集落だった。

雨のせいもあってか人影もまばら。

運転手が村人を捕まえて日露戦争の痕跡はないかと聞いてくれているようだが、誰も何も知らないようだ。

村の周囲は見渡す限りのコウリャン畑。

今から120年前、日本はこの地で国家の存亡をかけてロシア軍と戦った。

大山巌率いる日本軍の兵力は24万人、迎え撃つクロパトキン率いるロシア軍は36万人。

この万宝山あたりを中心として戦線は東西60キロに及び、世界史的に見てもナポレオン戦争以来となる史上空前の陸戦だった。

奉天会戦での死傷者数は日本側が私の大伯父を含めて7万人、ロシア側が捕虜を含めて8万とされ、この地で暮らしていた中国人住民にも大きな犠牲が出たという。

中国が当事者ではないとはいえ、戦史に名を残すほどの大会戦の痕跡がどこかに残っているのではないか?

そんな思いで地図を丹念に調べていくと、「日俄会戦碑日本碑」の文字を地図上に見つけた。

私は「ここへ行きたい」と運転手に告げ、スマホの地図を見せた。

運転手は自分のスマホでその場所を確認したうえで、車を北へ走らせた。

その記念碑が立っていたのは、村に向かう途中に見たあの小高い丘の上だった。

石造りの階段が整備されているものの、訪れる人が少ないのか階段には雑草が生い茂り荒れ果てた様子である。

でも私にとっては大伯父がこの地で戦死した証のような気がして、小躍りするような気持ちで階段を駆け上がる。

丘の頂上に建てられたこの記念碑には「奉天会戦第四軍戦跡」と書かれていた。

第四軍は日露戦争が始まった1904年6月24日に編成された部隊で、司令官は鳥羽伏見の戦いから日清戦争まで数々の武功を挙げた猛将・野津道貫大将、参謀長には後の陸軍大臣・上原勇作が就き、ロシア軍の防衛ラインの中央を突破する任務が与えられた。

大伯父が所属した第10師団も日露戦争では第四軍に組み入れられ、ロシア軍の主力が立てこもるこの万宝山を奪還するため、決死の突撃を命じられたのだ。

戦後日本によって建てられたこの記念碑は、今では瀋陽市の史跡となっていた。

近くにはロシア側の記念碑もあるようで、120年前中国の支配権を争ってぶつかり合った日本とロシアによる大戦争の痕跡は、皮肉なことに被害者である中国の手によって辛うじて保護されているのだ。

丘のてっぺんから見下ろすと、四方になだらかな傾斜が続くのみ。

ここから奉天、すなわち瀋陽まではただ広大な平野が広がっているだけである。

かつて旅順を訪れた際、あの有名な二百三高地も訪ねたが、今では花見の名所となっていて驚いたことがある。

人命無視の突撃命令で多くの兵士が死んだ二百三高地同様、ここ万宝山を奪取するために私の大伯父はその命を投げ出した。

戦死する前、大伯父もこの丘の景色をじっと見つめていたのだろう。

ひょっとすると故郷岡山の景色と重ね合わせたかもしれない。

ふと見ると、丘の中腹に幾つかの墓石が立っているのに気づく。

墓はみんな北の方角、すなわち奉天の方を向いていた。

祖国を離れ、見知らぬ満州の地で強国ロシアの大軍勢を前に大伯父は何を考えたのだろう?

西欧列強の侵略から国を守るためにアジアの一等国を必死で目指した明治の日本。

しかし国力をつけるに従い、朝鮮半島から満州、さらには中国、東南アジアへと自らが侵略者へと変貌していく。

記念碑が立つ丘を下りタクシーに戻る際、石段の入り口に立つ鳥居に文字が刻まれているのに気づいた。

「耻辱碑」、すなわち恥辱の碑ということらしい。

脇には「勿忘国耻(国の恥を忘れるなかれ)」、「振兴中华(中華振興)」と書かれており、どう見ても日本人が建てた鳥居ではなさそうだ。

日露戦争の勝利は日本人にとっては独立を守り通した栄光の歴史かもしれないが、戦場となった中国の人たちからすればまさに「恥辱」の歴史なのだろう。

日本はどこで道を誤ってしまったのか?

日露戦争を指揮した将軍たちは戊辰戦争からの生き残りであり、戦争のプロ。

国力に応じた戦略を駆使しながら引き際もわきまえ、アメリカを通じて講和の道を模索していた。

しかしそうした死地を何度も潜り抜けてきた百戦錬磨の老兵が去り、昭和の戦争では実戦経験のない若いエリート軍人たちが暴走した。

国を守るという本来の目的を逸脱して、謀略の限りを尽くしてこの地に「満洲国」という傀儡国家を作り、それでも飽き足らずに中国との泥沼の全面戦争に突入していくのである。

軍人たちの慢心と、それを止められなかった政治家たちの無責任と事なかれ主義、そして戦勝気分に酔って戦争を煽った民衆の過剰な愛国心の高まり。

日露戦争から120年、太平洋戦争から80年。

リアルな戦争を知る世代がほとんどいなくなった日本で、再び危険に満ちた過剰な愛国心が高まっている現状を憂いながら、大伯父が戦死した万宝山を後にした。

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