<きちたび>中国・瀋陽の旅2025🇨🇳 「清」誕生の都に遺る故宮と軍閥の館、そして日本統治時代の街並みも

🇨🇳 中国/瀋陽 2025年6月27日~28日

中国東北部の中心都市「瀋陽」は、300年近く中国を支配した「清」王朝が生まれた旧都である。

明治時代、日清戦争で日本と戦火を交えたこの王朝は、中国人の大半を占める漢族ではなく中国東北部の辺境で暮らす少数民族「女真族」、後の「満州族」が築いた帝国だった。

6月28日の朝、私は地下鉄に乗って世界遺産にもなっている「瀋陽故宮」に向かった。

最寄駅は地下鉄1号線「懐遠門駅」。

現地では故宮のことを「沈阳方城」と呼ぶらしい。

故宮に向かう沿道には、清朝時代の衣装をレンタルできる貸衣装店が軒を連ねている。

習近平体制の中国では民族意識の高まりと共に「漢服ブーム」が起きているという。

それでなくても有名観光地で写真を撮ることが何より好きな中国人のこと。

故宮周辺でも伝統の衣装に身を包んで写真を撮影する若い女性たちとカメラマンの姿をたくさん目にした。

午前10時。

故宮の入場ゲートには例によって長い行列ができている。

中国はどこに行っても人、人、人。

行列を避けては通れないのだ。

しかし、思いのほかスムーズに列は流れ、10分ほどで正面の門を潜ることができた。

それぞれの建物の前にも行列があるものの、中国の観光地としてはこれでも空いている方である。

入り口に立てられている案内板には日本語の説明もあった。

『瀋陽故宮は、清の太祖ヌルハチ、清の太宗皇太極により建造された清の入関前の皇居であり、清が中原に入った後、副都宮殿と皇帝東巡りの臨時御所であります。中国現存の2カ所古代皇居建築群の一つとして、瀋陽故宮は鮮やかな満民族の特色をもって世界中に名を馳せています。瀋陽故宮は、清の時代の基盤を定めた場所であります。1616年に明の時代の女真健州部のリーダーヌルハチが女真諸部を統一される際に、現在の遼寧省新賓県のハトアラ城で国を建設して「汗」と名付けられ、「大金」地方政権を建立し、1621年に遼瀋地区に入って占領し、1625年に遼陽から瀋陽へ遷都し、町の中で皇居を建てました。1626年に皇太極が汗位を引き継いだ後に建て続け、1636年にこの皇居で正式に即位して皇帝と称され、国号を「大清」と改名されました。1644年に清政権が北京に遷都された後、瀋陽故宮を保護して増築しました。1671年から1829年にかけて、康熙、乾隆、嘉慶、道光諸帝が盛京へ東巡り、祖先の陵墓を祭った際にこの皇居に泊まって、祝儀や祭祀を行なっていました。』

なるほど、初代のヌルハチと2代目ホンタイジは実際にこの宮殿に住んでいたということらしい。

日本で言えば、徳川家が江戸幕府を盤石にしていく時期に重なる。

広大な敷地に入ってまず正面に立つ建物が「崇政殿」。

1635年に完成した建物で、2代目ホンダイジが政務を執った場所だという。

建物内には龍に守られた玉座が。

天井に掲げられた額には「正大光明」と書かれていた。

この言葉は清朝の歴代皇帝にも引き継がれ、北京の紫禁城にある玉座の上にも「正大光明」の扁額が掲げられ、清朝の皇帝は生前に皇太子を正式に指名せず後継者の名を「正大光明」の銘板の裏に隠しとされる。

漢族ではない満州の王朝が3世紀にわたって中国大陸を支配した秘密は、実はこの言葉に隠されているのかもしれない。

宮殿の屋根を彩るのは黄色と緑色の瑠璃瓦。

無数の龍や神獣たちが皇帝を守っている。

こうした色合いは北京の紫禁城にも引き継がれ、清朝時代の建築の大きな特徴となっている。

崇政殿の奥に立つ一際目立つこちらの建物は「鳳凰楼」。

皇帝一族の生活空間だった「後宮」の正門である。

現在は改修工事中ということで実物大の幕で覆われているが、階段の上に聳える三層の建物は故宮の中でも最も高い場所であり、その最上階から皇帝が月を眺めたと伝えられている。

そして、その後宮で最も重要な建物がこちらの「清寧宮」。

2代目皇帝ホンタイジと皇后ジェルジェルの寝室だったというだけに、中国の人々にすごい人気である。

皇帝の寝室というとさぞ豪華かと思いきや、思いのほか質素な作り。

やはり文明ズレしていない遊牧民出身ということなのか?

それとも満州民族の王朝ということで、今の政府がさほど重きを置いていないということの表れなのか?

民族の歴史は良くも悪くも時の政権の意向によって評価が変わってしまう。

それは古今東西変わらぬ絶対的な真理であり、私たち日本人が教えられる歴史も少なからぬバイアスが含まれていると考えた方がいい。

ホンタイジの時代に築かれた「崇政殿」「鳳凰楼」「清寧宮」が故宮の敷地の中央に南北に連なっているのに対し、その東側広がるエリアは「東路」と呼ばれる。

東路はヌルハチによって築かれた故宮の中でも一番古いエリアだそうで、つまり故宮の原型ということになる。

最初に見た「中路」エリアとはだいぶ趣を異にしていて、正面に建つ「大政殿」を中心として、左右の両大臣と八旗が執務する10の建物「十王亭」が並ぶ。

「八旗」とは清の創始者ヌルハチが組織した社会・軍事組織であり、女真族の強さの源だった。

東路の中心に立つこの「大政殿」はヌルハチが最初に建てた宮殿とされ、「帳殿式」と呼ばれる八角形の独特の建築様式が採用されている。

遊牧民の移動式テント「ゲル」を模しているという。

中国の歴史は太古の昔より、中原に暮らす農耕民族と北方の草原地帯に暮らす騎馬遊牧民が激しいせめぎ合うと栄枯盛衰の歴史、島国の日本とは違い桁違いのドラマチックな歴史だということをこの建物は思い起こさせてくれる。

習近平政権はこうした世界に冠たる中国の歴史を国民に周知し愛国心を鼓舞することに熱心だ。

人類の歴史が始まって以来、アヘン戦争でイギリスに敗れるまで中国は東洋の中心であり続け、世界有数の大国として君臨し続けてきたのは事実である。

若者たちだけではなく、私と同年代のシニア世代も堂々とコスプレに挑戦、故宮を背景に記念撮影に興じる。

こういう服装を見ると、キョンシーを思い出してしまうのは日本人の偏見なのだろうか。

こちらの女性たちはカメラにレフ板まで用意してライブ配信の準備。

こうして有名無名のユーチューバーたちによって、中国人の愛国心や大国意識はますます強化されていく。

広い故宮の敷地の西に位置するのが「西路」。

清の都が北京に移された後に建設されたエリアである。

その中で目に止まったのはこちらの「敬典閣」、清朝皇族である愛新覚羅氏の系譜である「玉牒」が保管された場所だという。

「玉牒」は1661年に初めて編纂されて以来10年に一度改訂され、その写しがその都度厳かに清朝建国の地、瀋陽に運ばれたのである。

ラストエンペラーと呼ばれた清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の名前が示す通り、清朝の王家は愛新覚羅を名乗り、その系譜こそが「玉牒」であった。

すなわち、玉牒は天皇家の三種の神器のように皇帝の正統性を証明する証だったのである。

こうして故宮をぐるっと一周するのにおよそ1時間かかった。

日本語による説明は限られており、英語の説明文を丹念に読み込む程には興味を引くものもなかったのでかなり駆け足で回ったのだけれど、清朝が何世紀にもわたって築いた宮殿だけにそれなりの時間を要する。

入場料は50元、日本円でおよそ1000円ほどだった。

故宮を出た後、歩いて10分ほどの距離にある軍閥の屋敷に向かう。

故宮の外にも民族衣装を見に纏いカメラに向かってポーズをとる女性たちがたくさんいた。

日本の若い女性もコスプレが好きだけれど、どこか恥じらいのようなものを感じられるが、中国人女性の場合、公道で他人に見られるという緊張感や羞恥心など微塵もない。

全員がファッションモデルになった気分で、カメラマンに指示されるままに大胆なポーズを決めるのだ。

これも民族性の違いなんだろう。

故宮から南に数百メートルほど歩いた場所に、一人の軍人の銅像が立っていた。

台座に刻まれた文字は「張学良将軍」。

そう、清朝滅亡後の激動期に満州を一時支配し、日本の関東軍によって謀殺された奉天軍閥の首領・張作霖の長男である。

父の死後奉天軍閥を引き継いだものの満州事変によって本拠地の奉天を追われた張学良は、1936年、共に戦っていた国民党の蒋介石を拘束し対立する共産党と抗日統一戦線を組む国共合作を認めさせる。

しかし、この「西安事件」により張学良は反逆罪で逮捕され、その後は軟禁状態のまま終戦を迎える。

戦後、国民党が共産党との内戦に敗れ台湾に逃れると張学良も台湾に身柄を移され、1980年代に台湾での戒厳令が解除されるまで軟禁状態に置かれた。

張学良が釈放されたのは、逮捕から実に55年後の1991年。

自由の身となった張学良はハワイに移住して、そこで100歳でその波乱の生涯を閉じたのである。

このように、張学良が生まれ故郷の奉天、現在の瀋陽で暮らしたのは人生の前半だけだったけれど、張作霖・張学良親子が軍閥時代に暮らし司令部としていた建物が今では「張氏帥府博物館」として重要な観光名所となっている。

なぜなら西安事件が起きた時期、中国共産党は蒋介石に追い立てられ壊滅寸前の危機に立たされていたからだ。

当時中国を代表していた中華民国政府からすれば西安事件を起こした張学良は国賊ではあるが、現在政権を握る中国共産党から見れば、張学良は第二次国共合作を実現した立役者であり「偉大な愛国者」という評価なのである。

1914年に建設が始まったこの広大な邸宅の中で一番の見所は、厳つい西洋建築が特徴の「大青楼」。

張作霖・張学良親子が寝起きし政務をこなした場所である。

こちらが張学良が生活していた部屋。

大青楼の2階にある。

そしてこちらが彼の執務室。

高級木材をふんだんに使った豪華な作りではあるが、特別驚くことはない。

そして1階は様々な人が出入りする政務の場。

重厚な会議室や・・・

虎の剥製が置かれた応接室などが並ぶ。

張作霖は当初日本軍とは良好な関係を築いていたため、関東軍の将校たちも頻繁にこの館を訪れたに違いない。

しかし、この建物内で私が一番印象に残ったのは、晩年の張学良を写した写真だった。

台湾での軟禁生活を解かれハワイに移住した張学良は家族との穏やかな生活を送っていたようだ。

清朝が崩壊し外国勢力が利権を奪い合う混乱した中国で生まれ、有力軍閥の後継者となり、激動の前半生を送った男は半世紀にわたって自由を奪われ歴史の表舞台から消えた。

しかし長生きすれば何が起きるかわからないのが人生なのだ。

張学良が乗った自動車のレプリカも展示されていた。

ナンバープレートは「奉天 1」。

奉天を支配した軍閥に相応しい番号である。

敷地内には、涼しげな樹木が植えられた中庭を囲むように建てられた中国風の建物もあった。

西洋的な石造りの邸宅よりも私はこちらの建物の方が好きだ。

植えられていた樹木は見たことのない珍しいもので、種子なのだろうか、細長い紐のようなものがたくさんぶら下がっていた。

中国の美意識は西洋のそれとは大きく異なるけれど、やはり不思議な魅力がある。

螺鈿を施した中国家具や窓の細かい細工。

先ほど訪れた故宮よりも綺麗に整備されている印象を受ける。

軍閥といえば野蛮な人たちを連想しがちだけれど、こうした立派な建物を見ると一角の教養を備えた文化人だったことがわかる。

関東軍の青年将校が独断で張作霖の乗った列車を爆破したところから日本が泥沼の戦争の時代に突入していったことを考えると、まさに「バタフライエフェクト」、小さな出来事が思わぬ結果をもたらすことの典型がここ満州で実際に起きたことを全ての日本人が心に刻む必要があると思った。

1928年の張作霖爆殺事件に続き、1931年には満州事変、そして1932年には清朝最後の皇帝・溥儀を担ぎ出して満州国の建国へと突き進む。

全て日本による謀略だった。

そして満州国の陰の支配者となった日本は、ここ瀋陽でも独自の都市開発を行った。

その中心となったのが日露戦争によって権益を獲得した満鉄の「奉天駅」、現在の瀋陽駅である。

1910年に開業した満鉄奉天駅の建物は、現在も瀋陽駅の東駅舎として使われている。

赤煉瓦造りの駅舎が東京駅に似ているのは、東京駅を設計した辰野金吾の教え子たちが設計を担当したためだそうだ。

そして満鉄は、この駅の東側を「鉄道附属地」と称して新市街の建設を始めた。

まず駅を起点に放射状に浪速通り、千代田通り、平安通りの3本の広い舗装道路を建設。

上の写真は浪速通りの現在の姿だが、駅から浪速通りを1キロほど進んだ先にはロータリーの「奉天大広場」が作られた。

広場に面して官公庁や銀行、ホテルなどが整備され日本が支配する鉄道附属地の中心として発展していく。

この大広場は現在「中山広場」と呼ばれているが、日本統治時代の建造物が今も多く現存している。

最も代表的なのがこちらの建物。

満鉄直営の「奉天ヤマトホテル」として建設された建物で、現在も「遼寧賓館」という名のホテルとして営業しているらしい。

奉天ヤマトホテルが開業したのは1929年。

ホテルのロビーに入ると、アールデコ調のクラシックな内装で、当時の雰囲気がそのまま保存されていた。

ロビーの壁面にはこのホテルがたどった100年の歴史が写真とともに展示されている。

中国語の説明しかないため詳しいことはわからないけれど、日本統治時代に奉天を代表するホテルだった「大和旅館」は戦後も中国要人が宿泊する最高級ホテルとして使用されたようだ。

こちらは1950年、瀋陽を視察に訪れた毛沢東がこのホテルに宿泊した時の写真である。

このほかホテルに宿泊した著名人のリストの中には、張学良や蒋介石、金日成や鄧小平の名前も見つけることができた。

また奉天ヤマトホテルは満州事変を企てた関東軍将校たちが謀議を重ねた場所としても知られ、事変後調査に訪れた「リットン調査団」もこのホテルに宿泊したという。

日中の近代史を動かした要人たちの多くが出入りしたこのホテルは、まさに歴史の舞台だったのである。

他にも中山広場に面して日本が建設した歴史建造物が残る。

こちらはかつて日本が経営した朝鮮銀行の建物。

現在も銀行として使われている。

こちらは、鉄道附属地の警察業務を担当した奉天警務署だった建物で、現在は瀋陽市の公安局が使用しているそうだ。

こちらは満鉄と並ぶ二大国策会社「東洋拓殖」の奉天支店の建物。

この会社は日本の海外における植民地政策の実行部隊であった。

気のせいか、その壁面に残る傷跡は銃弾の跡のようにも見えるが、果たしてどうだろう?

いずれにせよ、これらの歴史建造物は満州国の建国から日本の敗戦、さらには激しい中国の戦後史を目撃してきたわけだ。

そして中山広場の中央には、群衆を率いる毛沢東の巨大な像が立っていた。

日本統治時代には日露戦争の戦勝記念碑があったらしいが、中国共産党によって毛沢東像に置き換えられたようだ。

そんな日中の複雑な歴史を刻んだ中山広場だが、日が暮れるとおばちゃんたちが集まって大音量の音楽に合わせ踊りの練習を始めた。

それは紛れもなく中国各地で目撃するのどかな中国の日常風景だった。

満鉄の都市開発が始まった頃、旧市街から離れたこの一帯はほぼ無人の荒地だったという。

狭い日本を飛び出して広大な満州で理想の都市作りを夢見た当時の日本人たち。

しかしそれは武力によって無理矢理に奪い取った夢だった。

1世紀の時を経て、異国に残る日本の痕跡「新市街」の賑わいを眺めながら、なんだか不思議な気持ちになった。

女真族が築いた清朝が300年中国大陸を支配したのに対し、日本人が築いた満州国はわずか13年で崩壊した。

この違いは何だったのか?

瀋陽の街は私たちに多くのことを教えてくれているように感じる。

コメントを残す