🇧🇦ボスニアヘルツェゴビナ/サラエボ 2024年10月30日~31日
サラエボ旧市街のメインストリート「フェルハディア通り」に引かれた一本のライン。

そこには「SARAJEVO MEETING OF CULTURES」という文字が刻まれている。
東西の文化が出会う場所。
サラエボを象徴するこのラインは、写真好きな中国人観光客たちの格好の撮影ポイントになっていた。

このラインに立って西の方向を眺めると、教会の尖塔を中心としてヨーロッパ風の街並みが続いている。
1878年からこの街を統治したオーストリア=ハンガリー帝国時代の名残りである。

オーストリア風な街並みの中心に立つのが「イエスの聖心大聖堂」。
オーストリア=ハンガリー帝国時代の1889年に建てられたカトリックの教会だそうだ。

この教会の周囲で目についたのが、ザクロのジュースを売るスタンド。
大きなザクロが美味しそうに並んでいて、注文するとその場で絞って生ジュースを作ってくれる。

サラエボに到着した日はあまり食欲がなく、ちょうどいいと思って1杯試してみることにした。
プラスチックのカップに入ったジュースが1杯7マルク(約580円)。
予想したよりも高かったけれど、ビタミンたっぷりの酸っぱさがお腹に心地よい。

しかし、そんなヨーロッパ風の建物をバックに今も残るこの「ラテン橋」の上で事件は起こった。
1914年6月28日に起きた「サラエボ事件」。
サラエボ訪問中だったオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニア系セルビア人の民族主義者ガヴリロ・プリンツィブによって暗殺されたのだ。
オスマン帝国の勢力が衰退した当時のバルカン半島は、ドイツ・オーストリア系の汎ゲルマン主義とロシア・セルビア系の汎スラブ主義がぶつかり合う対立の最前線であり、事件を起こした青年はボスニアのセルビア併合を目指す「大セルビア主義」の信奉者だった。

第一次世界大戦はここから始まった。
橋のたもとに設けられた博物館の壁には暗殺されたご夫妻の写真が飾られていて、世界各地から訪れるツアー客たちがその写真の前でガイドの説明を聞く光景が終日見られる。
ヨーロッパの片隅で起きたこの一つの暗殺事件がまさか人類初の世界大戦の引き金を引き、4年にわたりヨーロッパ全土を戦場に変えてしまうとは、犯人の青年はもちろん世界中の誰も想像していなかったに違いない。
一人一人の強い想いが絡まり合うと、時に誰も望んでいない悲劇が歴史を呑み込むことがあるのだ。

ファルハディア通りに引かれたラインに話を戻そう。
この線の上に立ち、反対側の東の方向を見ると、街の様相が一変する。
ヨーロッパ風の厳つい建物に代わり、トルコ風のバザールが広がるのである。

店先まで商品を積み上げたエキゾチックなお店がひしめく。
こまめに見ていくといかがわしい品物が多くて特に欲しい物も見当たらないのだけれど、そんな怪しい店がたくさん集まるとなぜか魅惑的な場所に見えてしまうから不思議である。

サラエボの街を作ったオスマン帝国時代を偲ばせる細い路地にはテーブルと椅子が並べられ、地元の人も観光客も屋外でお茶を飲む。
10月末のこの季節、日差しが当たる昼間にはポカポカしてとても気持ちがいい。

イスラム教徒が多いサラエボでは、お酒の代わりにスイーツを食べながらお茶を飲み、家族や親しい友人と語り合うことが社交の中心なのである。
ショーケースには日本では見慣れないスイーツの数々が並ぶが、どれが口に合うやら見当もつかない。

こうしたトルコ風な旧市街の中核となるのが「バシャチャルシヤ」と呼ばれる広場周辺。
広場の真ん中に立つ木造の建物は「セビリ」と呼ばれる水飲み場だ。
この「セビリ」を取り囲むようにティーハウスや土産物屋が立ち並び、観光客の溜まり場にもなっている。

中東のバザールでは必ず見かける銅製品が売られているが、荷物になるし実用的でもないので全く興味をそそられない。
若い頃にはよくこうしたバザールを彷徨って商人たちとの値切り交渉を楽しんだものだが、今ではそんな気力もなければ物欲もなくなってしまった。
人間の好奇心というものは、歳を取れば取るだけ、いろんなものを見れば見るほどすり減ってしまうものらしい。
それが悔しくて、「ボスニアヘルツェゴビナ」のロゴが刺繍された帽子を買うことにした。
20マルク(約1670円)の安物だがゴルフの時にでも使えるだろうと思って買ったのだけれど、パリでその帽子をかぶっていたら、若いカップルに声をかけられた。
2人はボスニア出身だったらしく、ボスニアと書かれた帽子を被った東洋人がパリを歩いているのがよほど面白かったようだ。

サラエボでの晩ごはんは、そんな「バシャチャルシヤ」の一角にあるレストランで食べた。
何と発音するのかわからないが、「Dženita」という路地裏の店である。
店内はすでに一杯で、屋外のテーブルに腰を下ろす。
こんなことも想定してダウンを着てきたが、日が暮れると一気に寒くなってくる。

最初の夜はお腹が空いていなかったので、スープとビールだけ注文した。
店員さんオススメの「ベゴバ チョルバ」という名のスープは、別名「ベイのスープ」とも呼ばれ、野菜、肉、オクラがたっぷり入ったボスニアの定番スープだという。

スプーンですくうと、中からトロトロの鶏肉と野菜が顔を出す。
さらっとしているが味は深く、旅で疲れた胃袋にはぴったりのやさしいスープである。

そして、スープ以上に美味しかったのが一緒に運ばれてきたピタパン。
柔らかくて適度に塩味が効いていてスープとの相性は抜群だ。

さらに、「サラエボ・ビール Sarajevsko pivo」も悪くない。
苦味もしっかりあってかなり本格的なビールである。
これはオーストリア時代の遺産なのかもしれない。
これで合計9マルク、およそ750円なら大満足だ。

ということで、次の日もまた同じ店に行った。
この日も店内は満席で、前日と同じ屋外の席に座った。
店内を見ると前の夜に見た顔もチラホラ。
どうやら常連さんの多い店のようだ。

この日注文したのはパプリカの肉詰め「プニェネ・パプリケ Punjene paprike」。
セルビアでもクロアチアでもボスニアでも、民族を越えて広く愛されるバルカン半島の伝統料理だそうだ。
見た目の通り、くり抜いたパプリカにひき肉を詰めて煮込みサワークリームと共にいただく一品で、見た目通りの味がする。
いい感じのスープもお皿に溜まるので、あの美味しいピタパンと一緒になめるように食べ尽くす。
美味しかったけれど、この日は一段と寒さが身に染みて、食べ終わると早々にホテルに引き上げた。

そうそう、ホテルといえば、私が宿泊した「ホテル・アート」の食堂も一風変わっていた。
朝食付きだったので朝ごはんを食べにおりると、食堂は地下にあると教えられた。
地下に降りる階段を降りていくと、タイルのモザイク画が印象的な地下空間が現れた。
ここで朝ごはんを食べるのかと思ったが、朝食会場はさらに下に用意されていた。

朝食ビュッフェ自体はそれほどユニークなものではなかったけれど、このホテルの地下空間は一見の価値がある。

ひょっとすると、わざわざ寒い思いをして外の店に食べに行かなくても、この地下食堂でディナーを食べてみてもよかったかもと後になって少し後悔した。
果たしてどんな料理が食べられたのか、試してみたかった。

スレブレニツァへのツアーの帰り、「Yellow Fortress」という昔の砦に連れて行ってもらった。
西にサラエボを見下ろす丘の上に立つこの場所は夕日を楽しむスポットとしてしられ、夕方になると大勢の人が集まってくる。

私たちが到着した時、今まさに西の山陰に太陽が沈む瞬間だった。
四方をぐるりと丘に囲まれたサラエボの街。
ここから見ると、盆地の様子が手に取るようにわかる。

盆地の底の平らな部分にはイスラム教徒のボシュニャク人が暮らすが、それを取り囲む丘の斜面にはセルビア人たちの住宅がある。
実におかしな街だ。

そして、ツアー会社のオフィスには、内戦当時のサラエボの絵地図が貼ってあった。
旧市街からミリャツカ川を渡って数分も歩くと、両軍が睨み合う最前線だったのだ。
国連部隊が駐留し中立地帯となっていた空港のあたりだけボシュニャク人たちが往来できるエリアが少し膨らんではいるが、そのすぐ東のエリアではセルビア人勢力の部隊が川岸まで占拠していたことがわかる。
ここはまさに、当時私たちジャーナリストの定宿となっていた「ホリデーイン」のあたりである。
だからスナイパー通りだったんだ。
この地図を見て、今更ながらに当時のサラエボを理解できた気がした。

サラエボの街を歩いていると、探さなくても戦争の爪痕に遭遇する。
「サラエボ=戦争」と反射的にイメージしてしまう私にとってそれは意外な光景ではなかったけれど、よく考えてみるともう終戦から30年になるのだ。
日本で言えば1975年、私が17歳の頃にこんな戦争の傷跡を街角で見つけることがあっただろうか?

綺麗に整備された公園を歩いていると、突然戦車の周りで武器を構える兵士たちのモニュメントに出くわしたりする。
ボシュニャク人にとってサラエボを守り抜いた兵士たちは英雄に違いないが、彼らと戦ったセルビア人は今もサラエボを取り囲む丘の上で暮らしているのだ。
知れば知るほど私たちには想像がつかない非現実的な状況が戦後30年、変わることなくこの町では続いている。

兵士のモニュメントがある公園を抜けて北に進むと大きな墓地がある。
昔、内戦の取材に訪れた時に、ここには来たことがあった。
連日サラエボの各地で発見される大量の遺体を埋葬するため、サラエボオリンピックの会場が仮設の墓地となったのだ。
手作りの墓標が並んでいたスタジアム周辺の土地は、30年が経ち正式に整備され戦争の犠牲者たちが眠る美しい墓地へと生まれ変わっていた。

イスラム教徒たちのお墓には三日月と星のシンボルと共にアラビア文字が刻まれている。
注目すべきは墓標に刻まれた年。
生まれた年はまちまちだが、亡くなった年はみんな1994年で揃っている。

キリスト教徒の墓もたくさんある。
23歳で亡くなったこの青年の墓には銃を手に微笑む姿が刻まれていた。
彼は果たしてセルビア系だったのか、それともクロアチア系だったのだろうか?

東西の多様な文化が出会う町、サラエボ。
その不幸な面が眠るこの広大な墓地を、平和の象徴であるオリンピックシンボルが今も見下ろしている。
多様な文化が出会うことで新たな価値が生まれるが、同時に人間は変化や異質なものを容易に受け入れられない生き物だということをこの墓地は示しているように感じた。