🇯🇵 愛媛県/新居浜市 2024年5月26日
松山から自動車道を東に走ると、右手に高い山が見えてなかなか爽快な気分になる。
なだらかな中国山地と違い、四国山地には荒々しい魅力がある。
今も南東方向から南海トラフに沈み込むフィリピン海プレートに圧力をかけ続けられているためだ。

この日の私たちの目的地は、そんな四国山地の山奥にある「別子銅山」。
江戸時代の1691年から採掘を始めた日本を代表する銅山だが、何よりもあの住友財閥、現在の住友グループの礎を築いたのが紛れもなくここ別子銅山なのだ。
銅山は半世紀前の1973年に閉山され、現在はその跡地に観光施設「マイントピア別子」が建てられている。

この施設は、別子銅山の採鉱本部が置かれていた端出場(はでば)地区にあり、道の駅としてお土産物を売っていたりする。
さらに、トロッコ列車に乗って観光坑道を徒歩で見学したり、砂金採り体験ができたりするらしく、週末のこの日は多くの観光客で賑わっていた。

建物の2階はちょっとした博物館になっていて、本物の銅鉱石が展示されていた。
黄色というか金色というか、10円玉で見知った銅の色よりも薄くて美しかった。
ただ、私が別子銅山を訪れた目的は“東洋のマチュピチュ”の異名を持つ産業遺産「東平(とうなる)地区」を訪ねることである。

「マイントピア別子」から東平地区へは、狭く曲がりくねった山道を通るしかない。
係員に聞くと道が危ないのでバスツアーを利用した方がいいと言われ、妻と二人分の切符を買おうとするが次のバスはもう満席だという。
でも、バスが通れる道ならば私のハスラーは問題なく通れるはず。
妻は待っているというので、私一人で東平へと向かうことになった。

係員が言った通り、すごい急斜面。
途中樹木を伐採した場所があり、斜面の角度は45度ほどに見える。
対向車が来れば交わすのも一苦労、一つ間違えば深い谷底に真っ逆さまだ。
貴重な銅を掘るためとはいえ、すごい場所に坑道を掘ったものである。

20分あまりのスリリングなドライブの末、ようやく東平地区に到着した。
標高750メートル。
西日本の最高峰、石鎚山から連なる急峻な山の中腹にへばりつくように、かつての銅山の遺構が残されていた。

明治時代にはこの急斜面を縫うように蒸気機関車が走っていたというから驚きだ。
眼下に見える新居浜平野にまだ官営鉄道が通る30年も前に、この山奥には銅を運び出すための「別子鉱山鉄道が完成した。
それまでは牛車で銅を運んでいたというから、鉄道の完成は別子銅山に飛躍的な発展をもたらした。

斜面を下に伸びる220段の階段を使って、東平地区を見て回る。
この階段がある場所にはかつて「インクライン」と呼ばれたケーブルカーのような運搬装置が設置され、この山で暮らした多くの人たちの生活を支える道だったという。

こちらは「索道基地跡」。
索道というのは、ワイヤーロープを使って物資の上げ下ろしをする輸送手段のことだ。
掘り出された鉱石を下界に下ろすだけでなく、労働者や家族が使う生活物資や機材なども、この広場を通って東平地区に運ばれた。

レンガと石垣でできたこの産業遺産が南米ペルーのマチュピチュ遺跡に似ているということから、「東洋のマチュピチュ」の名が与えられたようだが、本物のマチュピチュに行ったことのある私にはちょっとピンと来なかった。
マチュピチュに似ているかどうかはさておいて、金儲けのためにどんな過酷な環境にも立ち向かった昔の人たちの熱意と執念に、私は遥かに圧倒される。

東平の遺構群の中でも一番大きなこちらの石積みは「貯鉱庫」の跡だという。
掘り出された鉱石は一旦この貯鉱庫に貯められ、索道を使って順番に麓にある下部鉄道の黒石駅まで運ばれた。

今でこそ廃墟しかない東平地区だが、大正から昭和5年までは別子銅山の採鉱本部が置かれ、5000人がこの斜面に張り付くように暮らしていた。
さらに奥地の別子山地区から鉱山鉄道で運ばれた銅鉱石はこの東平に集められて山を下される、すなわちここが別子銅山の交通の要だったわけだ。

東平地区にあるこちらのトンネル。
なかなか趣のある石造りのトンネルだが、中には、閉山まで使われていた作業車両が展示されている。

こちらは「600Bローダー」。
鉱石などを掬い取って、鉱車に積み込む機械である。
ブルドーザーと同じ役目だが、動力源には圧縮空気が使われたという。

こちらは「かご電車」。
戦前の1938年から操業が停止された1973年まで、山を貫くように掘られた4キロの坑内を走り、労働者を運搬した。
銅山で働く人以外も無料で乗車できたそうで、この山で暮らす人たちにとって重要な交通手段だったそうだ。
ただ、実物はとても小さく、中はさぞ窮屈だったろうと想像する。

この東平地区の昔の繁栄ぶりを私たちに教えてくれるのが、小さな博物館「東平歴史資料館」である。
入場は無料で、「マイントピア」発のバスツアーに参加すると、ガイドさんから詳しい説明が聞けるようだ。

ただ、ガイドさんの説明を聞かなくても、展示されている写真を見れば、当時の暮らしを想像することはできる。
切り立った山肌に並ぶ住居。
まるで落武者の里のようだが、私がまだ子供だった昭和の時代にはまだ日本各地に炭坑や鉱山があり、山から山へと渡り歩く鉱山労働車の人たちも多くいた。
銅の精錬に欠かせない薪炭用の木材や坑道の坑木を調達するため、周辺の樹木はことごとく切られ禿山になっていたこともこの写真から見てとれる。

別子鉱山鉄道の写真も展示されていた。
文字通り岩肌を削り無理やり通した山岳鉄道だ。
この写真だけ見るとまるで昔のアルプスかアメリカ横断鉄道のようで、とても日本の鉄道とは思えない。

こうした苦労の末、別子の銅や黒いダイヤと呼ばれた石炭など、国内で生産される鉱物資源は日本の高度成長を支えた。
何もない山奥に村が生まれ、大勢の人が全国から集まり一時的な繁栄を謳歌したのだ。
しかし、相次ぐ事故に加え安い外国産の資源が流入することで、こうした鉱山の街は廃れ、後には荒れ果てた山だけが残った。
別子銅山で使用する大量の木材の切り出しと煙害により禿山になった別子の山々を再生するために、住友財閥は大規模な植林に乗り出した。
それが今の「住友林業」の始まりだと聞いたことがある。

別子銅山から山を下り瀬戸内海にぶつかる位置にある新居浜は、住友財閥の企業城下町として発展した。
その新居浜の市街地を見下ろすように建つこちらの洋館は「日暮別邸」。
住友家第15代当主友純により明治39年に建てられた別邸だ。
もともとは、新居浜沖に浮かぶ四阪島にあり、銅の製錬所を見通せる場所に建設されたと言われる。

明治に入り、西洋の技術を取り入れて別子銅山の増産とともに精錬所も山から浜に移された。
すると精錬所から出た大規模な煙害が発生、住友はその対策として製錬所を瀬戸内海に浮かぶ四阪島に移転する決断を下すが、逆に被害の範囲を拡大する結果になってしまったのだ。
そのため当主自らが四阪島に別邸をたて、煙害克服の陣頭指揮にあたったというのである。

こうして、昭和14年になってようやく煙害問題は完全解決された。
別邸に置かれた冊子には、こんなことが書いてあった。
『問題の本質的解決を追求し続けた先人たちの取り組みは住友の事業精神そのものということができます。また、その姿勢は今日の住友グループ各社に連綿と受け継がれ、四阪島が住友の歴史を語る上で上で欠くことのできない地であるといわれる所以でもあります。』

四阪島にあった日暮別邸は老朽化のため、2018年、住友グループ20社が協力して新居浜市内の瀬戸内海を望むこの高台に移築され、「日暮別邸記念館」として一般公開されることになった。
入場は無料だが、入口で名前と住所を記入するよう求められ、その際に住友の関係者かどうかの回答欄があった。
それを見る限り、どうやら来訪者の半数以上は住友関係者のようである。

日暮別邸からは、新居浜にある住友グループの工場群を見下ろすことができる。
住友金属鉱山・住友化学・住友重機械工業・住友林業の4社は、住友グループの中でも特別に「新居浜4社」と呼ばれ、別子銅山とともに生まれた企業なのだそうだ。

新居浜でもう一ヶ所私が訪れたのは、こちらの豪邸だ。
「旧広瀬邸」とその敷地内に立つ「広瀬歴史記念館」。
どちらも、幕末から明治にかけて別子銅山の支配人として近代化を推し進めた広瀬宰平の足跡を今に伝える場所だ。

明治政府の進める殖産興業の功労者として「東の渋沢、西の広瀬」と呼ばれた広瀬宰平。
ただ彼は住友家に仕えた総理人であって、住友家の人間ではない。
しかし、住友関係者にとってはとても重要な人物らしく、住友グループのホームページには広瀬宰平の業績が詳しく書かれていた。
中でも、明治維新の混乱の中、支配人として別子銅山の接収を拒んだ功績は極めて重要らしい。
住友家は、長崎からオランダ・中国に輸出する棹銅を生産していた。当時、銅の輸出は幕府の銅座によって管理されていたので、住友の産銅・製銅事業そのものが国策の事業であった。言い換えれば、別子銅山の事業は、国益とは何かを考えさせるものでもあった。
引用:住友グループ広報委員会
広瀬は銅の流通を通じて、幕府の衰弱・欧米列強の侵略等、日本の置かれた危うい状況を知ることができた。事実、慶応2(1866)年には松山に来航した異国船を見に行き、いよいよわが国も大変だぞと肌身で感じた。
また、広瀬は単なるデスクワークだけで昇進した経営者ではなかった。幼少の頃から別子の山に住み、坑内へもたびたび入りながら、莫大な鉱脈の眠る宝の山であることを現場の人間以上に知悉していた。いわば「別子の申し子」ともいうべき経営者であった。
それゆえ広瀬は、慶応4(1868)年2月、別子銅山の接収に訪れた土佐藩(現在の高知県)の川田小一郎に対して、真っ向から理論闘争を挑んだ。別子銅山は確かに幕府領であるけれども、住友家が発見し、独力で経営してきたものである。しかるに、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反することである、と訴えたのである。
広瀬の国益思想は、同じ「」(そうもうのじん)である川田の心を動かし、両者の出願によって同年三月、新政府から正式に別子銅山の継続経営が許可された。川田は後に三菱の創設に参画し、日本銀行の総裁となった人物であるが、当時はまだ下級役人であった。しかし非凡な才能をもつこの両者の出会いが、その後の住友発展の契機となったのである。
そうして守り抜いた別子銅山にフランス人技師ラロックを雇い入れ、政府に頼ることなく自力で近代化を進めた。
あの標高1000メートルの山中に日本初の山岳鉄道を通したのも広瀬である。
しかし同時に、別子銅山の深刻な煙害問題を引き起こしたのも彼であり、明治27年住友家の総理人を辞任した。

単に別子銅山の支配人や住友家の総理人にとどまらず、関西財界の重鎮として五代友厚とともに多くの企業を立ち上げ、明治という時代を駆け抜けた広瀬宰平。
新居浜に残る旧広瀬邸の広大な敷地は、広瀬の権力と財力のほどを感じさせる。
しかし彼の独裁ぶりは現代の企業ではいささか厳しいかもしれない。
明治日本の財閥を支えた鉱山開発と、急速な工業化がもたらした深刻な公害。
別子銅山には、近代日本が歩んできた歴史が凝縮されているように感じた。
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」(そうもうのじん)である川田の心を動かし、両者の出願によって同年三月、新政府から正式に別子銅山の継続経営が許可された。川田は後に三菱の創設に参画し、日本銀行の総裁となった人物であるが、当時はまだ下級役人であった。しかし非凡な才能をもつこの両者の出会いが、その後の住友発展の契機となったのである。