<きちたび>リトアニアの旅1990🇱🇹 ソ連崩壊の序章、バルト三国の独立を加速した共和国最高会議選挙

🇱🇹リトアニア/ビリニュス 1990年2月20日~26日

ベルリンの壁が崩壊した翌年、私は報道番組のディレクターとして社会主義陣営の盟主ソビエト連邦の各地を1か月かけて回った。

その最初の目的地は、バルト三国のリトアニア。

東ドイツ、チェコ、ルーマニアと、東ヨーロッパ諸国が革命によって次々と社会主義から脱する中、民主化の波はゴルバチョフのソ連にも波及し、その急先鋒となっていたのがリトアニア共和国だった。

当時は、ソビエト連邦内の一つの共和国に過ぎなかったリトアニアだが、中世のリトアニア大公国は現在のベラルーシやウクライナ、さらにポーランドやロシアの一部も勢力下に置くヨーロッパ最強の国家だった。

ところが18世紀になると、ロシア、プロイセン、オーストリアによる「ポーランド・リトアニア分割」が行われ、国土の大半はロシア帝国に併合されてしまう。

ロシア革命後一時的に独立を回復したが、第一次・第二次大戦中はロシアとドイツに翻弄され、1944年ソ連軍の侵攻により今度はソビエト連邦に飲み込まれてしまったのだ。

ソ連崩壊直前のリトアニアを取材した当時のメモをもとに、当時の様子を振り返りたいと思う。

2月19日(月)

前日にモスクワ入りして、あのいかめしいウクライナホテルに宿泊。朝5時ごろ目が覚めると、小雪が舞っていた。

9時半、マカロチキンが迎えに来て、彼の勤務先であるノーボスチ通信社に行く。

ソ連の国営通信社だったノーボスチは、新聞のプラウダ、テレビのゴステレと並ぶソ連国営メディアの中核だったが、ゴルバチョフのグラスノスチを受けて業務を拡大し外国メディアに対して通訳やコーディネーションを提供する役割も担っていた。

およそ1か月にわたる取材コーディネーション代として2万ドル、我々に同行する通訳などの宿泊費など諸経費で4万ドルで契約書にサインをする。責任者のスミルノフ氏は演説好きで、会うたびに滔々と演説をぶつので困る。

17時、ドルショップに行き、ロシア人がかぶる毛皮の帽子を購入。一番安い26ドルのものを買う。

ウクライナホテルに戻り、1000ドルをルーブルに両替する。1ドル=6ルーブル。ノーボスチ通信の為替レートは1ルーブルが1.6ドルだったので10倍も違う。一体この国はどうなっているのだろう? ところがウクライナホテルには100ルーブル札がないらしく、全て10ルーブル札の束で渡された。この札束を取材先で持ち歩くのか・・・。

19時、通訳のマカロチキンは来たが、もう一人のボルコフが来ないため出発が遅れる。ようやくオンボロバスに乗り込んで空港の国内線ターミナルに到着したのは21時だった。ボルコフが全てチェックインの手続きをやってくれたが、彼らはほとんど荷物を運ぼうとしない。

ソ連では飛行機が飛ぶ1時間前に機内に乗り込んで待つという変な習慣があるという。マカロチキンに理由を聞くと、それはパラドックスだと答えた。

24時、「ヤコブレフ」という飛行機でリトアニアの首都ビリニュスに向かう。席は早い者勝ちだ。

25時、ビリニュスに到着。時差はモスクワと1時間ある。雪はなく多少暖かい。しかし予想通り迎えの車が来ておらず、20分ほど待っても来ないので白タクで行こうと指示をする。

26時すぎ、ホテル・リエトゥヴァ着。今度は5つ予約した部屋が4つしかないというので、マカロチキンら2人が怒り出した。私とカメラマン、VEの日本人3人はそれぞれ部屋があるから早く寝たかったが、マカロチキンは部屋がなければ仕事ができないと大騒ぎし唖然とする。いろんな国で様々なコーディネーターと付き合ってきたが、客の都合を無視してこんなにあからさまに不満を言う人間に会ったことがない。やはり社会主義国の公務員はやはり特権階級ということなのだろう。

2月20日(火)

朝、マカロチキンたちの部屋問題はまだ解決していない。理由は金ではないかというので、ドルで払って部屋が取れるならそれでいいよと伝えると喜んでいた。

10時半、サユディスの事務所。

サユディスはリトアニア語で「運動」を意味し、1988年にペレストロイカ、グラスノスチ、民主化を支持する知識人によって結成された。

バルト三国の併合の根拠とされた独ソ不可侵条約に抗議し、89年8月にはビリニュスからエストニアのタリンまで600キロにわたる人間の鎖によって独立の意思を示し、世界的に注目される運動となった。

サユディスのオフィスはビルの3階、通りに面して候補者たちのポスターが貼られていた。すでに他のテレビ局がインタビューの順番待ちをしている。我々も事務所の様子と幹部のチュパイティス氏のインタビューを撮る。

ゴルバチョフがいたからできたが、彼は言葉だけの変化で、我々は真のペレストロイカをやり自分たちで決めたいのだと語った。法律的な独立は明日にでもできるが、重要なのは経済的な独立でそれには2〜5年はかかるとの見通しも示す。でもリトアニア人は働き者だから実現できるだろうと述べ、西側との関係強化をはっきりと打ち出した。

12時、ホテルで昼食。ビュッフェスタイルで1人4ルーブル。およそ百円だ。

14時、ノーボスチのリトアニア支局員アンタナス氏をピックアップして、民主党の中央委員ペチェルナス氏の自宅へ。古びたアパートの一室には、共産党が禁じていたキリスト像や宗教画があり、部屋中本で埋まっていた。

今回の選挙は、共産党やサユディスのほかにも、民主党、社会民主党、キリスト教民主党、タウチニンカイなど複数の政党が候補者を擁立し、ソ連初の歴史的な複数政党による選挙が行われる。

反ソ連の運動を行い5年間刑務所に服役したペチェルナス氏は、共産党員も含まれるサユディスから離れ、共産党員のいない進歩的な政党を作ったという。2つのスローガンは独立と民主化だが、独立後のことは誰にもわからないと語った。

15時半、サユディスから立候補しているオペラ歌手のアンバラザイティテさんの演説会を取材。5000人が働く家具工場のホールに労働者を集めて開かれた。演説の後、リトアニア語での質疑応答が続き、サービスで歌も披露して喝采を浴びていた。演説会終了後にインタビューすると、子供の頃シベリアに送られた自らの経験を語り、独立は当然で昔に戻りたいと述べた。

20時、ビリニュス市内の協同組合レストランで夕食。石畳の小道に面した洒落たレストランで市内随一との評判。冷えたビールがあり、イクラのパンケーキなど料理もうまい。これもペレストロイカの成果だが、当日予約だとルーブルは使えずドル払い。タバコもバルコニーで吸う決まりだ。

2月21日(水)

8時、フロントで国際電話を頼むと15分で通じた。本社と連絡して星送り(衛星回線を使った映像素材の伝送)の時間を確認。

リトアニア国営テレビ局に行き、星送りの時間を確認し、オペラ歌手の映像や徴兵拒否者のデモの映像などのダビングを依頼する。

10時半、ビリニュスの中央デパートを見学。入口では電線の入ったストッキングを直す道具を販売していた。店内には物は結構あり、平日なのに客がいっぱいだ。ただし宝石売り場には商品がない。文房具売り場にはなぜかボディービルダーのカレンダーが並んでいた。エスカレーターの前にはなぜか必ずおばさんが座っている。

昼食後、市内の映像を撮影。アイスクリーム屋が繁盛していた。1本20カペイカ、およそ5円。ビリニュス市内は人々のファッションもモスクワに比べて華やかで明るい印象だ。

18時、リトアニア共産党本部。イデオロギー担当のキルキラス氏にインタビューする。彼はリトアニアの人たちに不人気な共産党の名前を夏までに捨てると公言した。社会民主党と合体して社会党になる可能性があるという。

2月22日(木)

10時、ビリニュスの南、ポーランド系住民が多く住むシャルチニンカイ市へ。共産党地区委員会に自治権要求運動の話を聞く。この頃の共産党の主張は、独立ではなくソ連という枠内での自治権獲得だ。この町の学校ではポーランド語の授業も行われていた。1988年の終わり頃からリトアニア語の公用語化が始まったことを受け、ポーランド人は平等ではないと感じ批判を始めた。そして1989年9月にこの地区をポーランド人のものとする宣言を行ったが、リトアニア国会はこの宣言を批判し違法とした。リトアニアの共産党とサユディスはともにリトアニア人優先なので、この地区では共産党から分派した「夜の党」への支持が9割に達しているという。

ソ連からのリトアニア独立という単純な図式に収まらない複雑な民族問題がここにはある。

集団農場コルホーズから独立し個人経営を始めた農家も取材した。ショースタックさん夫妻は牛21頭のほか鶏やガチョウを飼い、32ヘクタールの畑で牧草、ジャガイモ、麦を栽培している。これらはこの年の正月に国営農場ソフホーズからもらったものだという。土地は無料、牛は1頭1000ルーブルで、銀行は5万ルーブル貸してくれる。トラクターは1万ルーブルする。土地をもらえるのは年1回。夏には牛肉6トンを2万ルーブルでリトアニア政府に売る契約を結び、ミルクを売る契約も結びたい。個人で農業をやることが昔からの夢だったので、今は収入が全て自分のものとなりハッピーだ。もちろん不安もあって、材料を国から買うときの値段や税金が心配だと語った。

のインタビューを撮影して帰ろうとすると、マカロチキンに呼び止められ、ソ連人の家でお茶を断ると大変失礼になるというので、お茶ぐらいはと応じる。結局、ウォッカを一気飲みさせられた。しかしウォッカは思ったより飲みやすく、寒くなってきたのでちょうどよかった。また、奥さんの手作りのハムやピクルスも絶品。いずれ店を開きたいとの言葉も頷ける。ちなみにこの日初めて青空が広がった。

17時半、ホテルに戻り翌日の星送りに備え映像素材の荒編(ざっくりと編集すること)を始めるが、機材が故障し編集ができなかった。仕方なく荒編を断念し、9本のテープを架け替えながら伝送する離業に挑戦することにして寝る。

2月23日(金)

朝、レポートを収録して、10時からの星送りがスタート。滑り出しは順調だったが、東京に届いた映像が乱れて使えないと言われ、オリジナルテープを取りに戻るハプニングもあり、30分の時間内に必要な映像を全て送ることができなかった。

再度国際回線を手配して何とか放送には間に合った。

18時、徴兵拒否者の集会を取材する。兵役義務は18〜20歳の2年間でその後は予備役となる。去年「若いリトアニア」という赤軍に反対する組織ができた。ソ連軍の駐留に反対し、14〜24歳の1000人が加入、カウナスに本部を置き週1回集会を開いているという。

夜は外貨のみ利用できるバーで一杯やってからホテルのレストランで食事。セミヌードのショーがあった。

2月24日(土)

ソ連の行方を占うリトアニア共和国最高会議選挙の投票日の様子を朝から取材する。

10時、週末に開かれるビリニュス郊外のブラックマーケットから取材スタート。市場の周辺は車、車、車、人、人、人。ポーランドからの商売人が多い。中央アジアのタシケントから来たピーナッツ屋もいる。「SANKEI」というブランドのいかがわしいラジカセが1800ルーブル、ジーンズは300〜350ルーブル。

午後は、リトアニアで最大の商業施設「ビリニュス中央デパート」で女性の副店長ヴィルティエニャさんのインタビュー。リトアニアの独自通貨「リタス」を夏にも発行する話が進んでいて、ルーブルを使ってしまいたいからという理由で買い物ブームが起きているという。宝石売り場に商品がないのもそのためだそうだ。リトアニアの製品は品質がいいから他の共和国の人たちも買いたがるが、物を作ったリトアニアの人に買ってもらいたいため、去年7月からパスポートがないと商品を買えなくした。デパートは国営をやめるという。

17時、ホテルに戻りインタビューを切り、選挙関連の会見をチェックしつつ原稿書き。深夜まで東京と連絡。

2月25日(日)

開票の結果、141の選挙区のうち90の議席が決まる。

サユディス72議席、共産党18議席で事前の予想通りサユディスの圧勝となった。

50の選挙区については再投票。50%獲得した候補者がいなかったか、または投票率が50%二届かなかった場合に再投票となる。

選挙結果を受けて17時から星送り。今回はスムーズに送れる。

20時、市内の国営レストランで夕食。ビールがなかったため、いつものレストランに買いに行く。しかし店のボーイに文句を言われた。

2月26日(月)

ホテルで今後の取材予定を相談する。

17時、ホテル発。ホテル代は我々日本人は1泊180ドル、ロシア人は20ルーブルだというのだが、この格差、本当だろうか?

昨日まで使っていたドライバーの1人が昨日事故を起こし、人を轢き殺したという。はねられた人は9メートルも飛ばされ、頭はぐしゃぐしゃになったが、その男が酔っており急に飛び出してきたという理由でドライバーには全くお咎めなし。金も払わなくていいという。一般的にソ連では、車1台あたりの交通死亡事故は西側先進国の6倍にもなるそうだ。ドライバーに過失がある場合には懲役4年、もしもドライバーが酒を飲んでいた場合には刑期は10年となる。

18時50分、ビリニュス発。

21時モスクワ着。

この選挙で圧勝したサユディス。初めての非共産党員の最高会議議長となったヴィータウタス・ランズベルギスは、我々がビリニュスを離れた2週間後の3月11日、リトアニアの独立回復を一方的に宣言した。

ソビエト連邦が発足して以来、共和国が連邦からの独立を宣言したのはこれが初めてであり、これが翌年12月のソ連崩壊の序章となった。

もちろんソ連政府は独立宣言を認めず直ちに経済封鎖に踏み切る。国際社会もしばらくは様子見で、アイスランドが初めてリトアニアの独立を承認したのは翌年2月になってからだった。この間、KGBの特殊部隊がビリニュスのテレビ塔を攻撃し市民13人が死亡するなど緊張が続いた。しかし、1991年8月にゴルバチョフ大統領が保守派に軟禁されるクーデターが失敗に終わると、ソビエト連邦の結束は急速に失われて、9月6日、ついにソ連政府がリトアニアの独立を承認する。

その後のリトアニアは、1993年にはデパートの副支店長が言っていた通り、独自通貨リタスを導入、翌年には計画経済から自由経済へと移行した。

またソ連軍を引き継ぐ形で駐留していたロシア連邦軍も同じ93年に全て撤収し、2004年に念願のNATOとEUへの加盟を実現、文字通り西側の一員となったのだ。

かつてソ連を構成していたウクライナにロシアが軍事侵攻する中で、いち早くNATO入りを果たした意味をリトアニアの人々は今まさに実感していることだろう。

しかし、ロシアが本気で侵略する気になれば、小国リトアニアに自力で争う方法はないだろう。

強大な隣国が覇権主義を強める時、どのようにして自国の安全と自由を守るのか?

バルト三国の置かれた状況は決して日本人にとっても他人事ではないだろう。

<きちたび>エストニアの旅2019🇪🇪 ソ連からの独立を勝ち取った「歌う革命」

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