<きちたび>バルカン半島の旅2024🚌 ボスニアヘルツェゴビナ🇧🇦 サラエボを包囲するセルビア人地区「スルプスカ共和国」に入ってみた

🇧🇦ボスニアヘルツェゴビナ/サラエボ〜パレ 2024年10月30日~11月1日

3年半に及んだボスニア紛争は、1995年12月に調印された「デイトン合意」によって最終的に終わった。

今では考えられないことではあるが、アメリカとロシアが主導し、ボスニア政府の首脳に加えて、敵対する勢力に影響力を持つセルビアとクロアチアの首相も参加して膝詰めで行われた交渉により、ボスニャック人とクロアチア人が主導する「ボスニアヘルツェゴビナ連邦」とセルビア人が主導する「スルプスカ共和国」の境界線が確定されたのである。

地図で見ると、青く示された「ボスニアヘルツェゴビナ連邦」を「スルプスカ共和国」がおむすびの海苔のように取り囲む極めて歪な線引きであることが分かる。

それでも複雑に入り組んだ最前線を整理して、双方に譲歩を認めさせて、ようやく到達した妥協案だった。

特にボスニア最大の都市で首都でもあるサラエボの扱いは難しかった。

周囲の丘をぐるりと占拠し、街の一角も支配下に置いていたセルビア人勢力をどこまで撤退させるのか、アメリカだけでなく後ろ盾となっていたロシアも協力してセルビアに圧力をかけ、ついにこの線引きを確定させたのだ。

冷戦終結直後の1990年代だからこそ実現できた米ロの連携プレーだった。

サラエボ到着後ホテルに荷物を置いた私は、その足ですぐ「スルプスカ共和国」に行ってみようと考えた。

モスタルでタクシーをチャーターしてセルビア人地区に入る計画はうまくいかなかったけれど、首都であるサラエボでは街の中心部からすぐのところを境界線が走っている。

しかもサラエボ空港の近くに、セルビア人地区に通じるバスターミナルがあることもわかった。

ホテル近くのバス停から103番のトローリーバスに乗り、とにかく一度そのバスターミナルに行ってみることにする。

バスはいくつもの停留所に停まり、およそ50分かけて終点の「Dobrinja terminal」に到着した。

そこは紅葉か美しいごくありふれた並木道だった。

最後までバスに残っていた乗客たちが一斉に降りると、みんな同じ方向へ歩いていく。

「Dobrinja」はまだボスニア連邦だが、この先少し行くと「スルプスカ共和国」との境界線があるのだ。

果たしてどんな境界線なのか?

私の好奇心がビンビン刺激されるのを感じながら、とぼとぼと歩く人の群れを追っていく。

Googleマップには「スルプスカ共和国」の境界線も表示されるので、スマホをチラチラ確認しながらバスを降りた道をそのまままっすぐ500mほど進む。

Googleマップによれば、おそらくこの辺りが境界線のはず。

しかし、チェックポイントはおろか、ラインも看板も標識も何もない。

いささか、拍子抜けである。

一つ意味不明な看板があったので、写真を撮って翻訳アプリで調べてみたのだが、どうやら薬局の広告看板のようだ。

ということで、初めて越えるボスニア連邦とスルプスカ共和国の境界線は予想に反して、驚くほど何もない普通の住宅地であった。

しかし、旧市街から来たバスがわざわざ境界線の500メートル手前で止まるように、今でも目に見えない形で住民たちを分断しているのを感じる。

境界線を過ぎるとすぐに古ぼけたバスターミナルが見えてきた。

ここは通常「東バスステーション」と呼ばれ、モスタルからのバスが到着した「中央バスステーション」と区別されているらしい。

サラエボ市街地の西にあるのに「東」というのも違和感があるが、セルビア系住民たちは自分たちが支配するサラエボ郊外のこの場所を「東サラエボ」と呼んだりするので、おそらくそこから来ているのだろう。

ボスニア連邦の町に行く路線バスやクロアチア、スロベニア行きなどの国際バスは「中央」、スルプスカ共和国の町やセルビア、モンテネグロ行きバスは「東」という使い分けになっていて、多くの住民は自分たちに関係ない方のターミナルを訪れることはほとんどないということのようである。

セルビアの首都ベオグラード行きのバスの時刻が書いてある。

1日3往復。

私はサラエボ近郊の町パレまで行って日帰りで戻ってこようと考えているのだが、果たして都合の良いバスはあるのだろうか?

この時点で、バスターミナルには1台のバスも停まっていなかった。

建物の中に入ってみる。

誰も客がいない。

冷戦時代にタイムスリップして社会主義国の役所を訪れた時の光景がフラッシュバックする。

チケット売り場らしきブースに女性がいたので「パレまで行きたい」と伝えると、次のバスは午後2時だと言われる。

出発まではまだ50分ほどあるが、他の選択肢もないので何か昼メシでも食べてのんびり待つことにする。

ちなみに運賃は4.50マルク、およそ375円。

通貨は「スルプスカ共和国」に入っても同じだった。

ほとんど人の気配のないバスターミナルではあるが、日当たりのいい日向ぼっこにうってつけのカフェがあった。

「何か食べるものある?」と聞くと、陽気な店員が胸を張って「ボスニアブレク」があると言う。

何だかわからないままに、それとカプチーノを注文する。

運ばれてきたのが、こちら。

「ブレク」というのはオスマン風のパイのことで、中に肉やチーズ、ほうれん草などさまざまな具材を包んで焼いた軽食らしい。

この店のブレクはほとんど具材が入っていないように見えるが、チーズの味がするのでもう溶けてしまったのかもしれない。

それにしても結構な量で、食べ切るのに苦労した。

このブレクとカプチーノで15マルク、約1250円はいささかぼったくりだろう。

昼メシを終え、少し周辺を歩く。

バスターミナルの周りはマンション街で、似たような集合住宅が並んでいる。

しっかりと比較したわけではないけれど、ボスニア連邦側の集合住宅とは微妙に違うデザインのようだ。

2時10分前、1台のバスがやってきて、急にバスターミナルが活気づく。

私はチケットを片手に「このバス、パレに行く?」と聞くが、違うという。

えっ? でも他にバスいないじゃん。

途方に暮れながら、いろんな人に「パレ」「パレ」と声をかけていると1人の男性が「こっちに来い」とばかりに手招きするのでついていくと、バスではなく普通の乗用車に乗れと言う。

これでパレまで行くのか?

これって白タクか?

言葉がうまく通じないため状況が理解できないまま、私は他の女性客2人と共に彼の車に乗り込んだ。

もう出発時刻の2時が迫っていたし、ここであれこれ言っているより誘われるままに相手に身を任せる方がうまくいくケースが多いと言うのが、これまでの私の経験則である。

車はバスターミナルを出ると、スルプスカ共和国側の住宅街を通り、2〜3分走ったところでいきなり止まった。

道端に1台のバスが止まっていた。

どうやらパレ行きのバスはターミナルではなく、ここが出発場所だったらしい。

しかしそんなこと、誰も教えてくれなかったではないか。

時刻はちょうど2時、危うく乗り損なうところだった。

私たちが乗ると同時にバスは発車した。

学校帰りと思われる若者の姿が目立つ。

高校生くらいだろうか?

おそらく先ほどのバス乗り場の近くに学校があるに違いない。

セルビア人地区はサラエボの町外れにあるとはいえ、ボスニアでは貴重な広い平地があるため、スルプスカ共和国側の主要な公共施設はこの界隈に集中していて、山間部で暮らすセルビア系住民の生活を支えているようだ。

バスの窓からも、団地やスーパーマーケットなど、ボスニア側よりも立派な施設が確認できた。

ロータリーに立つ盾のようなモニュメント。

写真をよく見ると「スルプスカ共和国」の紋章が確認できた。

スルプスカ共和国の旗はセルビアと同じ赤、青、白の三色旗にPとCを組み合わせた紋章があしらわれているのだが、このPとCは実はキリル文字で「スルプスカ共和国」を表すイニシャルである。

バスは徐々に上り坂にはいり、視界が開けたと思ったら左の窓にサラエボの街並みが広がった。

中央バスステーション近くにあるサラエボ随一の高層ビルや紛争当時ジャーナリストたちの取材拠点だった旧ホリデーインの建物も間近に見える。

サラエボの中心部からごく目と鼻の先ではあるが、ここは紛れもなく境界線の向こう側、「スルプスカ共和国」のテリトリーなのだ。

Googleマップで確認すると、バスは境界線すれすれを通って、サラエボの南側を西から東へと走っている。

このすぐ目の前にある高層ビルはボスニア側なのか、それともスルプスカ共和国側なのだろうか?

こうしておよそ20分かけてサラエボの周りを半周してから、バスはサラエボの東に位置するパレに向かった。

「東バスステーション」はサラエボの西側に位置するが、それより西はボスニア側のテリトリーなので、このバスターミナルを発着するバスはすべてこのようにサラエボを眺めながら東に進むことになるようである。

かなり効率が悪いけれど、戦後30年戦争が再燃することなくきていることを思えば、無理やりでも境界線を決めたことは双方にとって良かったのかもしれない。

サラエボを一歩離れると、そこはもう険しい山と谷が続くボスニアの大地である。

ボスニア紛争の際、双方がサラエボを巡って最後の最後まで激しく争ったのが理解できるほど、この盆地はボスニアでは貴重な平野なのである。

途中、砕石場や製材所くらいしか目につくものはない。

有り余る石と木がセルビア人の生活を支えているのだろう。

30分あまり走ったところでポツポツと民家が見えてきた。

サラエボ盆地とは比較にならない小さな盆地ではあるが、ここに私の目的地パレがあった。

サラエボから10キロほど離れたパレの人口は周辺を合わせても1万6000人ほど。

しかし、この小さな町がボスニア紛争当時にはセルビア人勢力の本拠地となり、「スルプスカ共和国」の首都とされた。

私もセルビア人勢力のリーダーたちを取材するため、ベオグラードからパレに入り、数日滞在したことがあった。

しかし、バスが到着したターミナル周辺は集合住宅が立ち並ぶ町外れで、全く私の記憶を呼び覚ましてくれるものはない。

とりあえず、サラエボに戻るバスを確認してからその後のことを決めよう。

パレに再び行ってみようとは思ったが、特別ここでやりたいことがあるわけではないのだから。

バスターミナル内にある切符売り場で、「次のサラエボ行きを1枚」というと、中にいたおばさんは何も聞くことなくチケットを発券した。

運賃は5.80マルク。

来た時よりも少し高い。

それで、次のバスは何時なんだろうとおばさんに聞くがうまく会話が成立しない。

すると、私の後ろに並んでいた人が「次のバスは3時だよ」と教えてくれた。

「おいおい、15分後じゃないか。さっきパレに着いたばかりなのに」

もう少し遅いバスに変えてもらおうかとも考えたけど、パレで絶対に行きたい場所があるわけではないし、タクシーも見当たらない。

人通りもまばらなこの殺風景な町をあてどなく彷徨うのは時間の無駄ではないか、そう思い直して3時のバスでサラエボに戻ることにした。

「スルプスカ共和国」に入るという目標は達成したし、ボスニア連邦とスルプスカ共和国の境界線についてもある程度のイメージはつかめた。

まずはこれで充分だろう。

そう決めると、残りの15分でバスターミナルの周辺をぶらぶらする。

このあたりは内戦の後から作られた街なのだろうか?

比較的新しそうな建物が多い。

そういえば、サラエボに住めなくなったセルビア系の人たちがパレに移り住んだという話も聞いた。

兵士を募集するポスターだろうか?

ボスニア政府のマークが入っているので、おそらく政府軍への加入を促すものだろう。

しかし、ポスターはぐじゃぐじゃになっていた。

これが単なる経年劣化なのか、それとも政府軍に反発するセルビア人による意図的な行為なのか、私には判断しようがないが、なんとなくこの国の特殊性を象徴しているようにも感じた。

バスターミナルの中でも、サラエボとの違いを感じた。

案内板の文字がセルビアやロシアと同じキリル文字に変わるのだ。

サラエボ市内では表示はすべて普通のアルファベットなので意味は分からなくてもおおよその発音はわかるが、キリル文字だとちんぷんかんぷんである。

帰りのバスは来る時とは違い、サラエボ市内を走っているのと変わらないいわゆる路線バスだった。

なんとなくパレの街にはそぐわない気がする。

パレを出発して来た時と同じ道をバスは戻っていく。

当然、来た時と同じ「東バスステーション」に行くものだと思っていたら、サラエボ手前のトンネルを抜けるとどんどん下り坂を降りていった。

気がつくと、そこはサラエボの旧市街。

私が宿泊するホテルのすぐ近くを通り過ぎる。

まだパレを出てから20分しか経っていない。

まさか、パレとサラエボ中心部をダイレクトに繋ぐバスがあるとは思わなかった。

境界線を跨いでこうしたルートが作れるのであれば、わざわざ町外れの東ターミナルに行く必要などないではないか。

私は少々混乱した。

その2日後、ホテルをチェックアウトする前に少し時間があったため、再びセルビア人地区に行ってみようと思った。

この日は朝から濃い霧が立ち込めていて、丘の斜面に沿って立ち並ぶ住宅の存在を覆い隠していた。

あの斜面のどこからが「スルプスカ共和国」なのか?

そんな素朴な疑問を解消してからサラエボを去ろうと思ったのだ。

ホテルを出て、第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」の舞台である「ラテン橋」を渡り、そのまま南に向かって歩く。

川を渡るとすぐに上り坂が始まり、どんどんその傾斜を強めていく。

この辺りには、壁に銃弾の痕が残る家も多い。

山の上に陣取ったセルビア人民兵にやられたのだろう。

少し登ると、片側1車線の自動車道を渡る。

ひょっとすると、パレに行く際にバスで通った道だろうか?

しかし、Googleマップで確認するとここはまだボスニア連邦側のテリトリーになっている。

ホテルを出てから15分。

上り坂はますます急になり、霧も漂い始めた。

こんな坂の上と下で戦争をして、その間を霧がしばしば視界を遮るなんて想像するだけで気味が悪い。

さらに登っていくと、ボスニアの旗と共に慰霊碑のようなものが現れた。

どうやらここから先は墓地のようだ。

墓地に挟まれた道をひたすら登る。

汗が吹き出してきて、着ていた服を1枚また1枚と脱いでいく。

この先には冬季オリンピックの会場となった山があるようだ。

歩き始めて30分。

何もないところにボスニアの旗が立っていた。

Googleマップによれば、この先が「スルプスカ共和国」との境界線になるらしい。

霧が少し薄くなり、太陽の光を感じるようになった。

ちょうどこの辺りが境界線のようだ。

しかし、そこにはやはり何の目印もなく、セルビア側の旗もなかった。

その代わり、霧の向こうにぼんやりと何か大きな構造物が見える。

照明が焚かれていて、クレーンの影のようなものも確認できる。

一体あれは何だろう?

そのまままっすぐ登っていくと、嘘のように霧が晴れていき、青空が広がった。

あの霧が境界線だったのか?

「スルプスカ共和国」で待っていたのは、近代的な複合レジャー施設だった。

おそらく最近整備されたばかりと思われ、まだ一部で工事が続いている。

先ほど霧の中に見えた巨大な黒い影の正体は、山頂に建設中のリゾートホテルのようだ。

霧が晴れればサラエボの街を見下ろす最高のロケーションである。

将来この山の上に滞在してサラエボ観光を楽しむという観光客のニーズは確かに見込めるかもしれない。

ボスニアヘルツェゴビナの中に存在する「スルプスカ共和国」というもう1つの「国家」。

それはサラエボを覆う霧のように曖昧な存在ではあるが、確実に存在している。

その分断と共存の微妙なバランスの上に成り立っている今の平和を守るために、人々はあえて矛盾を追及せずに多少の不便さは飲み込んで日々の暮らしに集中しているように見えた。

各地で起きる民族紛争解決の一つのモデルになるとすれば、それぞれが生活するエリアを分けて無用な接触を避けるということだろうか?

答えの見えないモヤモヤしたものを感じつつ、再び境界線を越えてサラエボの街に戻った。

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