<きちたび>中央アジアの旅2023🐪 キルギス🇰🇬 冷戦期の社会主義国を思い出させる首都ビシュケクの宿「NAVAT HOTEL」

シルクロードと面影を求める旅行者にとってキルギスの首都ビシュケクは決して魅力的ではないかもしれない。

でも、私は気に入った。

この街には、背後に迫る山脈の迫力と昔取材した冷戦時代の社会主義国の静かさが残っているからだ。

この街に到着後少し散歩に出ると、昔ながらのモニュメントの多さに驚かされる。

かつて社会主義の偉大さと労働者の英雄的な団結を示し建てられた巨大で権威的なモニュメントの数々は、冷戦の終結後多くの国で時代遅れとみなされて姿を消していった。

しかしビシュケクでは街の中心部をそうした過去の遺物が埋め尽くしているのだ。

こういうものを見て嬉しくなるのは私だけかもしれない。

でも1980年代までは世界の半分でこうしたモニュメントがせっせと作られたのだ。

この街には社会主義の象徴だったあのレーニン像もそのまま残っている。

30年以上前に目撃した光景が冷凍保存されたような街なのだ。

そんなビシュケクの中心に位置するのが、アラトー広場。

様々な国家行事が行われるこの広場には北京の天安門広場によく似た権威的な威圧感が演出されている。

高さ45メートルの国旗掲揚台、その隣には民族の英雄とされるマナス王の騎馬像が立つ。

マルクスが提唱した共産主義の理想はいつの間にかこうした権威主義に取って代わられ、ついには社会主義の良い面が消えて権威主義だけが残ったように見える。

アラトー広場の南側には、広場を取り囲むようにこれまた威圧的な巨大建造物が左右対称に建てられていて、これまた天安門広場とそっくりだ。

社会主義国家の最大の問題点は個性を完全に封殺しようとしたことにある。

学生時代、社会主義が持つ階級のない社会にシンパシーを感じたこともあったが、実際の社会主義国を取材するようになって、街を覆う権威主義とあまりにひどい官僚主義を目の当たりにして若き日の理想と幻想は跡形もなく砕け散ったのを思い出す。

広場の北に立つのは「国立歴史博物館」。

天安門で言えば故宮、紫禁城にあたる位置にキルギス人の歴史を展示しているというわけだ。

私が図書館で借りてきた「地球の歩き方」には閉館中と書いてあったが、リニューアルを終えてちゃんと営業していた。

この博物館の展示内容については改めて別の記事に書くつもりだが、ここでは博物館から見える見事な山容についてだけ書いておきたい。

博物館は広場より一段高いところに建てられていて、博物館の入口前に立つと正面にある金色のドームの向こうに雪をたっぷりと残した山脈が見える。

Wikipediaによれば「イリ・アララト山脈」と書いてあるが、これも天山山脈の一部だという。

私はビシュケクに到着した時から、山がよく見えるスポットを探し歩いた。

その結果、山が一番綺麗に見えるところにアラトー広場を建てたに違いないと勝手に結論づけた。それならば博物館の上の階からはもっと良く見えるはずだと思い、翌朝博物館を見学した際、南側の窓がどうなっているかをチェックしたのだ。

最上階にあたる3階に上がると、南側が大きなガラス窓になっていた。

ところがあろうことか、わざわざメッシュをはめて視界を遮ってあるのだ。

何というバカなことをするのだろう。

これこそ官僚主義の最たるもの、誰か偉い人が何らかの理由でこの窓を塞ぐように一言言ったら、あっという間に誰も望まないような結果が生まれ、それが至上命題のように見直されることなく続くのだ。

このように隠されると、どうしても覗きたくなるのが人情。

私は柱とメッシュの隙間にスマホのカメラを合わせて、山をまっすぐ見据えるマナス王という写真を撮りたかった。

この日は山に雲がかかり山脈の全体像は見られなかったが、この角度から見ると、この広場が建設される時、山脈のあるピークを基準として設計されたのだということが想像できた。

アラとは白、トーが山を意味すらようで、その名前からもこの広場の設計者の意図は明らかな気がする。

ところが博物館の2階まで降りてくると、何と窓にメッシュの目隠しがなくなっている。

広場に面した小さなバルコニーまであるではないか。

私はバルコニーに出られないからと取手をひねってみたが、鍵が閉まっていた。

それでもガラス越しに広場全体が見渡せる最高のポイントである。

しかしモニュメントではなく山が見たい人間にとっては、なぜ3階も同じくオープンにしてくれなかったのか不満でならない。

ビシュケクのは街が好きと書いたくせに文句ばかり言っているようだが、私が妙に懐かしさを感じたのはこの街の静かで穏やかな雰囲気である。

もちろん道路の渋滞も酷くうるさいのだが、お金の匂いがしない落ち着いた営みが感じられるのだ。

冷戦時代の東ベルリンがそうだった。

欲望と退廃が支配していた西ベルリンと比べると、物はないし近代的な建物やネオンサインもなかったが、緑が豊かで静かでみんな平穏に暮らしている印象を受けた。

多くの人は公務員で働かなくても失業する心配もなく、西側に比べれば給料はずっと安かったものの生活に必要なものは安く買えた。

みんなが等しく貧しく、人との競争を強いられることのない社会だったのだ。

ベルリンの壁が崩壊して、一時は東の市民たちも自由に熱狂したが、やがて自由の代償として競争に勝たねばならないことを知り、いつまで経っても豊かになれない不満から昔の方が良かったと多くの人が嘆いたものだ。

そんな豊かではないが、静かで平穏な暮らしがこの街には残っているように感じたのだ。

権威主義的な過去の建造物はそのままだが、アラトー広場ではセグウェイを楽しそうに乗り回す若者や子供たちがいて、今では昔ほど規制は厳しくないようだ。

古いものを壊して新しい都市開発をするお金がないために、過去の遺物が今も残るだけで、市民の暮らしは以前とはだいぶ変わったんだろう。

そうした文脈でいえば、私がビシュケクで泊まったホテルも何かの公的施設だったかもしれない。

何といってもロケーションがただの民間のホテルとは思えないからだ。

このホテル、決して高級ホテルというわけではないのになぜか街の中心部に広がる公園の一角にある。

先ほどのアラトー広場にも公園の中を歩いてすぐの距離だ。

夜、多くの市民がたむろする「ツム百貨店」周辺の繁華街からも近く、私が見た限りどの一流ホテルよりもロケーションでは負けてない。

それでいてホテルのロビーに入ると、民芸調のソファーが置かれ、全体に木の温もりを感じる作りになっているのだ。

部屋も落ち着いたら感じ。

天井の照明も煌びやかで、シルクロードのイメージでまとめられている。

すっかりロシア風に作り変えられてしまったこの街でオアシスのように、私にとってはここだけがかつての東西交易を感じさせてくれる場所となった。

私の部屋は1階で公園を歩く人が気になって窓も開けられなかったけど、3階は特別な作りになっているようで、ここはかつてソ連時代に建てられた迎賓館のような施設だっのではないかと想像した。

近代的なホテルではないが、1泊1万円ちょっとでこのロケーションは悪くないと思った。

夕食もやはりホテルから歩いてすぐの公園内にあるお店に行った。

黒ビールで有名なあの「ギネス」の名を冠したビアパブ「Guinness Pub Bishkek」。

結構流行ってるいた。

注文したのは、ビールとソーセージ。

イシククルの宿であまり美味しくない料理を3食食べた後なので、何か食べ慣れたものを口に入れたいと思ってこの店を選んだ。

ビールはギネスをはじめヨーロッパの有名なビールが並ぶ中、あえてロシア産のラガービールを選んだ。

「GARATS」という銘柄で、あまりキレはないが冷えているので問題ない。

なぜか他のビールよりも圧倒的に安く、250円ほどだった。

この季節の中央アジアは昼間は30度を超える暑さになるのだが、夜になると気温も下がる。

湿度が低くて虫もいないので、夜野外での食事は本当に気持ちがいい。

こういうお店に来られるのは一部の人に限られるのかもしれないが、やはりこの街は嫌いじゃないと思いながらビールを飲み干した。

中央アジアの旅2023🐪

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