<吉祥寺残日録>ミラノ・コルティナ五輪2026🇮🇹 4カ所分散の開会式を見ながら感じた「オリンピック精神」衰退の危機 #260207

北イタリアを舞台に冬季オリンピックが開幕した。

「ミラノ・コルティナ五輪」

ちょっとまどろっこしいこの呼び名は、今回の五輪が一都市ではなく、ミラノとイタリアを代表するスキーリゾートであるコルティナ・ダンベッツォの共同開催という形を取り、しかも会場はさらに北イタリアの各地に分散していることによる。

こうした異例の広域開催を象徴的に示したのが、現地時間6日夜に行われた開会式である。

メイン会場となったのはミラノのジュゼッペ・メアッツァ競技場。

ここは元々、インテルやACミランが本拠地として使うサッカー専用スタジアムである。

できるだけ既存の施設を利用して、オリンピックのために巨額の費用をかけて新たな施設は作らない。

それが、今回のオリンピックの最大の特徴なのだ。

そのため、開会式のハイライトとも言える選手入場も、スケート選手たちはミラノのメインスタジアムに登場するものの、スケート選手がいない国はプラカードを持つ女性だけが行進するという寂しいものとなった。

スノーボードやフリースタイルの選手たちはスイス国境のリヴィーニョで、ジャンプやノルディックの選手たちは北東部のプレダッツォで別々に入場ゲートをくぐる。

その様子はメイン会場に中継され大型スクリーンに映し出されるとともに、国際映像では各地の映像をつなぎ合わせて一体感を演出するのだ。

ただ、別会場で選手たちを見守る観客はわずかで、オリンピック独特の高揚感はやはり削がれるように感じた。

そして、アルペンスキーやボブスレーの選手たちはもう一つの開催都市であるコルティナ・ダンベッツォで入場行進を行なった。

ここはヨーロッパ有数の絶景で知られるドロミティ地方の中心都市で、私も一度訪れたいと憧れている町だ。

毎年冬には世界中からセレブが集まる有名なリゾート地とはいえ、所詮は小さな町なので開会式を見ようと集まる観衆の数も自ずと知れている。

二都市共催を示すために、この小さな町でもミラノと同時にイタリア国旗やオリンピック旗が掲揚され、聖火の点灯も行われたのだが、映し出される国際映像を見る限り、オリンピックというより地方の催し物といったスケール感の小ささは否めない。

しかし、こうした開会式になったのには理由がある。

夏のオリンピックに比べ競技人口も限られ、参加する国も少ない冬季五輪は、開催都市に立候補する都市がそもそも少ないのが一番の理由だ。

それに追い打ちをかけるように、温暖化の影響で雪が降るエリアが減り、スキーのメッカと言われるアルプス地方でさえ、人工降雪機なしでは大会が運営できないという。

そのため、できるだけ既存のスポーツ施設を活用したり、展示場に仮設のスケートリンクを作るなどの工夫をして、可能な限り費用を圧縮して金のかからないオリンピックを実現しようとした結果が今回の広域開催となったのである。

だから、開会式の演出も地味に感じた。

イタリアには世界中の人が知る歴史や文化が山のようにあるので、それをモチーフにした演出が目立ったものの、かつては定番だった度肝を抜くような大がかりな装置などを使わず、ダンスや衣装に工夫を凝らしたオーソドックスなショーが大半だった。

それは多分に予算の制約によるものだとは思うのだけれど、トランプ的な自国第一主義が蔓延し、社会にも国際関係にも分断が深まる世界の中で、人種差別の禁止や多様性の重視を広めてきた「オリンピック精神」が衰退しているように私には感じられた。

私がこのブログを始めた2016年、南米で初めてとなるリオデジャネイロオリンピックが開催された。

その時のブログを読み返してみると、『ブラジルらしい鮮やかな色彩とサンバのリズムが会場に溢れ、フィールド全体を使ったプロジェクションマッピングに力を入れたように見える。さて、東京五輪は誰がどんな演出をするのだろうか?』と開会式の印象を記していた。

この頃の私は、人類が自由と民主主義を尊重する世界にゆっくりと歩みを進め、オリンピックが象徴する多様性を認め合う時代がやってくるとまだ信じていたのである。

しかし、この10年で世界は変わった。

それをはっきりと意識しないまま感じていたのか、ブログにこんなことも書き残している。

『一つ印象的だったのは日本選手団のユニフォームが、赤いブレザーに白いズボンに先祖返りしていたことだ。安倍カラーなのか、森組織委員長の意向なのか、いずれにせよ日の丸を強く意識させるものだった。』

そして、東京五輪の招致に情熱を燃やした安倍元総理がリオ五輪の閉会式にサプライズ登場した。

オリンピックは誕生以来、国威発揚の場として多くの権力者に利用されてきたが、安倍さんも東京オリンピックを誘致することで日本人を元気にしたかったのだろう。

そしてこの2016年、オリンピック大国アメリカにトランプ大統領が誕生。

この10年で世界の景色は私の期待したものとは大きく変わってしまった。

2018年、韓国で開かれた平昌冬季五輪では南北朝鮮の接近が注目された。

トランプ大統領が北朝鮮への武力攻撃も示唆する緊張の中で開かれたこのオリンピックでは、時の文在寅大統領の肝煎りで南北合同チームが一つの旗を掲げて開会式で入場行進を行い、北朝鮮からやってきた美女応援団が韓国でも日本でも注目されたものだ。

さらに大きな話題となったのは、金ファミリーとして初めて韓国入りした金与正氏の存在。

開会式では、安倍元総理やペンス副大統領とともにひな壇に並び、複雑な国際情勢と同時に平和の祭典と呼ばれるオリンピックならではの光景が演出されたのだった。

そして、安倍一強と言われ盤石の政権基盤を築いた安倍元総理が我が世の春を世界中に誇示するはずだった2020年の東京オリンピックは新型コロナウィルスの世界的な流行のために台無しとなってしまった。

安倍さんも退任に追い込まれ、菅総理の下で1年遅れで開催された東京五輪には国内で反対論が広がり、次から次へと問題が噴出。

挙げ句の果てには、誘致活動にまつわるスキャンダルにより多くの逮捕者を出す事態となってしまった。

呪われた東京五輪を象徴するように、開会式に出席した天皇もマスク姿だったこと、しかもその開会式が無観客の中で行われたことは、今回ブログを読み返すまで忘れていた。

私はこの前代未聞の開会式についてこんなことを書いていた。

午後8時から国立競技場で始まった開会式。

それはこれまで見てきた高揚感あふれるものとはずいぶん違っていたが、オリンピックの開会式とは何かを考える意味で一石を投じたとも言える。

オープニングのVTRが明け、一人の人物が立っていた。

看護師であり、ボクサーとしてオリンピック出場を目指していた津端ありささん、世界最終予選を目指してトレーニングを続けていたが、コロナの拡大で予選が中止となりオリンピックの夢が絶たれた。

彼女は、コロナに翻弄された世界中のアスリートの象徴なのだ。

7万人収容の国立競技場にこの日入場したのは、五輪関係者数百人だけ。

それだけでも異様なのに、国旗掲揚のセレモニーは「厳粛」を通り越して、まるで「葬儀」のようだ。

富士山をモチーフとしたオブジェと小さなステージだけのシンプルなセット。

これまで見たことのない「寂しい」開会式は粛々と進んでいく。

コロナ禍の異常な世界の中で開かれた異常なオリンピック。

どうせなら、既存のオリンピックの常識を打ち壊し、持続可能なオリンピックの姿を指し示すようなものを提示してもらいたい。

昨夜の開会式も、入場行進以外はグッと時間を短縮し、コンパクトで内容の濃いシンプルなものにして欲しかった。

その意味で、不必要な演出が多くダラダラと4時間近くも続いたのは残念である。

こうして不安だらけの中でスタートした東京五輪だったが、終わってみればたくさんの感動を私の心に残してくれた。

閉会式の後、私はこんなことを書いている。

17日間に及ぶアスリートたちの真剣勝負は、結果のいかんに関わらず多くの感動と希望と人生における示唆を与えてくれた。

一貫してオリンピックの開催を望んできた私としては、とても有意義な時間をくれた世界中のアスリートの皆さんに感謝したいと思っている。

1年の延期、無観客、厳しい行動制限・・・普通じゃない環境の中で「開催されるかどうかもわからないオリンピック」に備えてきた選手たち、どんなに大変だっただろうと思う。

だからこそ、コロナ禍の東京オリンピックは、表面的には寂しくても深い人間ドラマがそこかしこに散りばめられていた。

当初オリンピックを誘致した時には想像もできなかった異例の大会になり、世界中から人と金銭を呼び寄せる皮算用も完全に狂って大赤字になることは必至だが、それでもオリンピックができてよかったと私はしみじみと感じている。

すべてが順調で去年予定通りに大会が開かれ大成功していたとしても、きっとそれは普通のオリンピックであって歴史の中で埋もれていく。

しかしパンデミックの中で行われた無観客のオリンピックというのは今後二度とないだろう。

その意味で、東京オリンピックは間違いなく歴史に深く刻まれて未来永劫語り続けられるのだ。

お葬式のようだった東京五輪の半年後、中国で開かれた冬季五輪の開会式は私に強い印象を残した。

2008年の北京五輪のような露骨な国威発揚がすっかり影を潜め、テクノロジーと巧みな演出でコロナパンデミックからまだ抜け出していない世界に向けて、洗練された見事なショーを見せつけたのだ。

どんな国威を発揚するような演出があるだろうと見始めた昨夜の北京オリンピックの開会式。

私の予想は完全に裏切られた。

とてもシンプルで、洗練されていて、テクノロジーと人間味が適度にミックスされた素敵なセレモニーだった。

メインとなる選手の入場行進を式の前半に持ってきて、選手たちも観客席で式典を座って楽しめるような「おもてなし」も考えられていた。

昨年行われた東京オリンピックの史上最悪の開会式を見た後だけに、全てにおいて日本は負けたと実感させられる開会式だった。

習近平さんがオリンピックの開会を宣言した後、たくさんの市民が一列に並び同じペースで歩いていく。

中には中国人だけでなく外国人の姿を見える。

そして「共に未来へ」という今大会のスローガンが映し出された。

さらに、オリンピック旗掲揚の前に行われた演出。

バックには、ジョンレノンの名曲「イマジン」が使われ、世界平和をアピールする。

そして、「より速く、より高く、より強く」というオリンピックのモットーと共に、「togather 一緒に」というメッセージが超大型スクリーンに描き出されるのだ。

「くさい」と言えば確かに「くさい」が、それが比較的サラッとしていて悪い気がしない。

かつては欧米諸国の専売特許だった人権や共生というメッセージだが、今では排外主義や自国ファーストの声にかき消され、欧米諸国から人権問題を常に問われていた中国が「共に未来へ」というメッセージを発するようになったこの皮肉。

こんな時代が来るとは、トランプ以前には想像もしなかった。

そして近代オリンピック発祥の国で開かれた2024年のパリ五輪。

フランスが世界に見せつけた「スタジアムから飛び出した開会式」は、セーヌ川やエッフェル塔、ルーブル美術館などパリの名所を見事に取り込んだ壮大なスケールの一大エンターテインメントだった。

ロシアによるウクライナ侵攻があり、ガザではイスラエルによる破壊が続いていた。

セーヌ川に浮かんだ1台のピアノが静かに「イマジン」を演奏する演出が私の心に強く残った。

オリンピックは今後も「平和の祭典」「人類共存の象徴」であり続けることができるだろうか?

ミラノ・コルティナ五輪が開かれるイタリアでは、「ICE OUT」と叫ぶ抗議活動が活発化しているという。

アメリカでトランプ政権が行なっている強硬な不法移民摘発の動きに抗議するものだ。

この摘発に当たっている「ICE=米移民・税関捜査局」がこのオリンピックに職員を派遣することに抗議しているという。

ヨーロッパでは、同盟国にも一方的に関税をかけたり、グリーンランドの領有を執拗に主張するトランプ政権に強い不満が蓄積している。

アメリカの変容は、自由や多様性を重視しているヨーロッパの人たちの価値観を強く刺激し、ヨーロッパ発の「オリンピック精神」にも重大な亀裂を生みつつあるように見える。

開会式のひな壇にはアメリカのバンス副大統領の姿もあった。

2028年の夏季オリンピックはアメリカのロサンゼルスで開催される。

その時の大統領は依然としてトランプさんだ。

予測不能なトランプさんのこと、オリンピックについてもどんなことを言い出すやら全く想像がつかない。

バッハさんからIOCを引き継ぎ初の女性会長となったジンバブエのカースティ・コベントリー会長は、理想が失われる世界の中で果たしてオリンピック精神を維持発展させられるのか?

いきなり重い課題が突きつけられている。

ミラノの聖火はスタジアムではなく、街の中心部にある歴史的建造物「平和の門」で点灯された。

『フランスが世界に示した「スタジアムから飛び出した開会式」が、今後オリンピックの標準となるかもしれない。』

予算削減の要請からかもしれないが、パリ五輪の際に私が書いた「予言」は今回の聖火点灯で一部現実のものとなったのである。

しかし、オリンピックで一番大切なのはもちろん開会式の演出ではない。

この日のために鍛え抜いてきたアスリートたちの真剣勝負を世界中の人が同時に見て、自国の選手を応援すると共に他者の健闘も讃え、そこから何かを感じることだ。

オリンピックのような世界共通のポジティブ体験は、私たちが暮らす地球上には他に存在しないのだから。

私は誰がなんと言おうと、オリンピックが好きだ!

そしてオリンピックが世界に広めてきた価値観やメッセージにも強く共感している。

SNS社会が世界の分断をどれだけ深めても、オリンピック精神だけはしぶとく生き残ってくれることを私は強く願う。

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