<吉祥寺残日録>「東京ブラックホール」〜バブル時代の最中に生きる人間はバブルを感じない という教訓 #220502

昨夜放送されたNHKスペシャル「東京ブラックホールⅢ 1989-1890 魅惑のバブルの宮殿」を見た。

この不定期のシリーズは今回が3回目。

俳優の山田孝之がタイムスリップして過去の日本を追体験するというドラマ仕立てのアーカイブ番組である。

当時の発掘映像の中に山田の姿を合成しながら、当時のリアルな東京を体感しようという試みだが、この番組からはいろいろな教訓を読み取ることができる。

初回は2017年に放送された初回は「戦後ゼロ年」がテーマだった。

焼け野原となった東京で必死で生きる人たちの姿と共に、「東京のカポネ」と呼ばれ新宿でヤミ市を開いた関東尾津組組長・尾津喜之助や、米をもらえる農家を紹介すると言って次々に女性を殺した連続殺人犯・小平義雄など今はあまり語られることのない時代の顔が次々に登場する。

国民が餓死寸前の状態に追い込まれる中、日本軍が本土決戦のために用意していた金の延べ棒などの隠し資産数兆円分が東京湾から見つかった。

日本がポツダム宣言を受諾した8月14日に鈴木貫太郎内閣は、米軍駐留前に軍などが保有する軍需用物資資材の緊急処分を行うよう通達を出したが、特権を持つ政治家や資本家・陸海軍の将校たちが横領し莫大な利益を得たのだ。

敗戦翌年の正月には軍人が隠していた大量の食糧が見つかり(板橋事件)、5月には外務省でも隠匿物資の山が発見された。

こうした隠匿物資がヤミ市に流れたのだが、大手スーパー「ライフ」の清水信次会長などは進駐軍に取り入って大儲けしたし、のちの総理田中角栄ら土建業者も進駐軍が発注する工事で大金を手にした。

さらに陸軍中将の有末精三はいち早く占領軍諜報部(G2)に食い込み、有末の斡旋によって河辺虎四郎、辻政信、服部卓四郎ら大本営参謀が次々にスカウトされ対ソ連スパイ活動にあたった。

一方で敗戦直後、40万人の占領軍上陸にあたり性犯罪を恐れた日本政府はその防波堤として売春施設を作ることを決定、3300万円(現在の約10億円)の予算をかけて警視総監をトップとする「RAA=特殊慰安施設協会」という管理組織が作られた。

占領軍専用の売春施設では200人の女性が働いていたという。

RAAはキャバレー部も運営し、「東京租界」と呼ばれた占領軍専用施設を次々に作り、日本人のダンサーやバンドマンが出入りし、ここで日本のエンタメ業界の礎が作られた。

この「東京租界の顔役」として恐れられたのが中国人の王長徳。

中国軍のパイロットとして来日し、新橋の国際マーケットや銀座のマンダリンなど東京中にヤミ市やキャバレーを拡大して闇社会に君臨、日本の政界ともつながり戦後のフィクサーの一人となった。

こうした弱肉強食の混乱の中で宗教に救いを求める人も増え、600もの新興宗教団体が生まれる。

一番人気があったのは北村サヨが教祖を務める「踊る宗教」こと天照皇大神宮教だった。

一方で、戦前までは神様だった天皇は全国を回って一般民衆の前に姿を見せるように変わる。

国民が天皇に直接食糧難を訴えると、敗戦翌年の5月24日には2度目の玉音放送が行われたというのは知らなかった。

2019年に放送された第2回は、高度成長期の真っ只中に東京オリンピックが開催された1964年。

東京大改造の名の下に、古い街がどんどん破壊され、日本全国から若者たちが働き口を求めて東京に吸い寄せられた。

オリンピックまでに間に合わせようと危険な突貫工事が横行して、事故も多発し、交通事故の死亡率は世界一となる。

隅田川に行くと佃の渡しがまだ運航していて、水上生活者もまだ多くいたが、臭い工場排水は垂れ流し、バキュームカーが集めた汚物は東京湾外の海に捨てられていた。

立正佼成会の大聖堂が完成したのもこの年だ。

地方から上京した若者が大量に入信し、彼らの不安や孤独を受け止めて創価学会をはじめとする新興宗教が急成長していた。

出稼ぎに行ったまま行方不明となる人も8万人を数え東北の役所は相談者であふれた。

工事現場で怪我をしたり悪徳業者に騙されるケースが多く、貧しさから血を売って生活する者も多かった

売血で集めた血液でライシャワー駐日大使は肝炎を患ったが、この血液は転売され化粧品にも使われていたという。

巨額のオリンピックマネーは闇社会を潤し、この年日本の暴力団員数は18万人と最多を記録した。

面白いのはこの年行われたNHKの世論調査、「今年一番の関心事は東京オリンピック」と回答した人はわずか2.2%しかおらず、「オリンピックに費用をかけるなら他にしなければならないことがたくさんある」と答えた人は58.9%に達した。

その後伝説となった1964年の東京五輪も、実は開催前には多くの国民が冷めた目で見ていたのだ。

それでも開幕2ヶ月前には東京市長の呼びかけで市民200万人が動員され東京の浄化作戦が展開され、通りの清掃だけでなく風俗店の取り締まり、傷痍軍人の募金や乞食行為も禁止された。

こうして10月10日、ついに東京オリピックが開幕。

ところが大会期間中の16日に、五輪不参加の中国が初の核実験に成功したというニュースが飛び込んでくる。

日本各地で放射能のレベルが急上昇し、東京で100倍、高知で500倍、新潟では1000倍を記録、作家の松本清張はその時の心境をこう書き残した。

「中国の核実験の爆発で瞬時にオリンピックが色褪せて見えた。世界はひとつでなかったことがわかった」

それでも10月23日に行われた女子バレーの決勝戦は日本中を熱狂させ、東京五輪を象徴する伝説となるのだが、この試合の裏には私の知らない事実がいろいろ眠っていることを知った。

オリンピックの2年前、大松監督率いるニチボウ貝塚は、モスクワで開かれた世界選手権で優勝、世界一を花道に選手たちは引退して結婚するつもりだったという。

ところが、どうしても金メダルが欲しい日本はオリンピック種目ではなかった女子バレーを強引に東京五輪で採用させた。

選手たちの引退の決意は固かったが、「辞めるとは非国民だ」と多くの投書が届き選手たちも大松監督も引退を取りやめざるを得なかったのだ。

さらに開会式前日、突如北朝鮮選手団が帰国してしまい、女子バレーの参加チームが5つになってしまった。

競技開催には最低でも6カ国の出場が必要なため、急遽韓国チームに参加を打診し、なんとか女子バレーの開催を死守したのだ。

1兆円を注ぎ込んだ東京オリンピック、決して中国のことを笑えないなりふり構わぬ「国威発揚」の舞台だった。

作家の遠藤周作はオリンピック後の東京をこう書いている。

「東京の真中にたってせっかく作った新道路やホテルに弱々しい午後の日があたっているのを見ていると、なにか空虚なものを感じる。あのやかましい東京がまるで気抜けしてボンヤリ座っているみたいだった。東京さんよ、これから君は何をたよりに生きていくつもりか」

建設ブームにわいたオリンピック景気が終わり不況が始まり、政府は戦後初の赤字国債を発行した。

東京オリンピックは「東京一極集中」の始まりだったが、この時代、東京の平均年齢は29歳、若者たちが街にあふれていた。

そして昨夜放送された第3回のテーマは「バブル時代」。

前の2回が私が生まれる前や子供の頃のお話なので、私自身にはさほど実感がなかったが、1980年代後半のバブル時代といえば、私もすでに社会人となりリアルタイムであの数年間を経験している。

番組を見ながら、「あの頃私は何をしていたんだろう?」などと自分史を振り返ったりした。

番組は1989年1月7日、昭和天皇崩御の日から始まる。

私はあの日、警視庁記者クラブの記者として警視庁と皇居を行き来しながら、テレビからCMが消えた不思議な日を取材していた。

こんなナレーションが流れる。

「1986年から1989年まで続いた『バブル』。それは日本経済が世界の頂点に立った束の間の繁栄の時代だった」

私のイメージする「バブル時代」は1990年前後だったが厳密には違うらしい。

1995年からの5年間で、土地の資産額は2倍、日経平均株価は3倍にまで急上昇した。

企業は本業そっちのけで「財テク」に走り、私が取材した事件も登場した。

1989年、川崎市の竹やぶに2億円を超える現金が捨てられていた通称「竹やぶ事件」、通販会社の社長が税務調査が怖くて遺棄したものだった。

その後起こった公明党絡みの現金遺棄事件も取材した。

今から思えばバブルそのものだが、当時はまだ「バブル」という言葉がメディアを賑わせることもなく、私もそのようなトーンで原稿を書いた記憶がない。

番組では、全国紙3紙で「バブル」という言葉が使われた回数を数え、興味深いデータを導き出した。

竹やぶ事件が起きた1989年には1年でわずか3回、1990年になると200回に増え、1991年には無数に紙面に踊ったというのだ。

バブルの最中、人間はそれをバブルだとは感じないものなのだ。

この頃、日本企業は技術力で世界をリードし、「24時間戦えますか」が流行語となった。

私は警視庁クラブ記者から夜の報道番組のディレクターとなり、毎晩タクシーで家に帰る生活となったが、とにかくタクシーを確保するのが大変だったことをはっきり覚えている。

一人当たりのGDPで日本は初めてアメリカを抜き、ついに世界一豊かな国になったと日本人は浮かれていた。

1989年の世界時価総額ランキングでは世界上位50社の中で日本企業が実に32社を占め、山手線の内側の値段でアメリカ全土が買えると言われた。

今から思えば、これがバブルでなくて何なのと思うが、当時はまだ「バブル」という言葉もその意味を知らなかったのだ。

この年行われた政府の世論調査では、「日常生活の中で悩みや不安を感じていない」と質問に対し、51%の国民が感じていないと回答した。

この質問は継続的に行われているが、感じていないが過半数となったのはこの時の調査だけだという。

今でこそバブルはいけないこととして記憶されているが、当時の日本人は結構幸せだったんだと感じる。

私は1986年から88年までバンコク支局に赴任し、東京の熱狂とは距離を置いていたが、それでもこの2年間に為替は1ドル240円から120円になったと記憶している。

バンコクで購入したカローラが、2年乗って同じ金額で売れたのも急激な円高のおかげだ。

私が1985年に購入したマンションは確かに3倍に値上がりし、それを売って一戸建てに買い替えたのは1990年だった。

子育てのために一戸建てに引っ越そうと思っていたがどんどん値上がりし1億円以下で買える物件などほとんど見つからなかった。

それで何とか8000万円台の物件を見つけて購入を決断したのだが、その物件は今3分の1以下に値下がりし、マンションの値上がり益を大きく超える損失を被った。

バブルだからといって我が家の生活はそれほど大きく変わらなかったが、私にとってのバブル体験といえば何を置いてもこの住宅の買い替えであった。

あの頃不動産業者は物件を見ることもなく、場所と大きさのデータだけで売り買いを繰り返していた。

私のマンションも、一戸建ての販売業社が買い取ってくれた。

賃貸に出したままの状態で値段も購入時のほぼ3倍だったが、それと引き換えに購入した一戸建ては容積率オーバーの違法住宅で業者はそれを説明しなかった。

今なら完全な告知義務違反だが、当時は売れれば何でもありのご時世であり、騙される方が悪いという時代だったのだ。

一方この頃、原宿の歩行者天国では「オウム真理教」が街宣活動を始めていた。

急成長していた「オウム真理教」には高学歴の若者が次々に入信したが、カネが幅を効かせる世の中に違和感を抱き、豊かさを捨てた禁欲生活に救いを求めた。

バブルの崩壊は、1990年と共にやってきた。

正月明けから株価は大きく値を下げ、3月には3万円の大台を割り込んだ。

日本最大手の野村證券は必至で買いに回ったが、株価の値下がりに歯止めがかからない。

売りを仕掛けたのはウォール街だった。

日本では浸透していなかった裁定取引を駆使して巨額の利益を得ていたのだ。

1990年と今を比較すると米ナスダック指数が42倍、アップル株は267倍になったのに対し、日経平均はまだバブルの最高値を超えられないでいる。

一時1ドル=70円台を記録した為替相場も、ここにきて急速な円安が進み、1988年の水準に戻ってしまった。

「悪い円安」という言葉が定着し、「円安=株高」の方程式も崩れ、日本経済の弱さが意識されて専門家の中には「1ドル=500円もあり得る」というとんでもない説も流布されている。

東京オリンピック後に始まった赤字国債に頼った財政の悪化はついに昨年末、国債発行残高1000兆円の大台を達成した。

日本国民1人あたり808万円。

「あれは国の借金ではない」と強弁する政治家も多いが、もし日銀が金利を上げればたちまち国債の償還費が跳ね上がり、政策に使える予算を奪っていく恐ろしい時限爆弾なのだ。

「未曾有のコロナ危機」という言葉を安易に使い、バラマキ政治を続ける日本政府に反省の色は伺えない。

国民もメディアも、黒田日銀が継続した異次元の金融緩和がこの先何をもたらすのかわかっていない。

コロナバブルが弾けた時、「バブル時代の最中に生きる人間はバブルを感じない」という教訓を日本人はようやく噛み締めることになるのだろう。

<吉祥寺残日録>コロナバブルいよいよ終焉? アメリカの金融引き締めでマネーは逆流するのか #220127

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