あれは、結婚して2人の子供が立て続けに生まれ、妻が育児ノイローゼに苦しんでいる時期だった。
購入したばかりの新築のマンションで妻と長男の喘息が悪化し、逃げるように移り住んだのが荻窪郊外の古い古い賃貸住宅だった。
戦後すぐに建てられたような「文化住宅」と呼ばれる小さな平屋の家で、簡素な門と猫の額のような庭も付いていた。
本当にボロボロの家だったけれど、子供たちがふすまをビリビリに破いてしまったり、クレヨンで壁中に落書きしても大家さんは大目に見てくれたので、息子たちはこの家で気持ちの赴くままに走り回り泥だらけになって遊び、いつの間にか喘息の発作も改善していった。
バンコク支局への赴任が決まり、この荻窪の家に住んだのは1年あまりだったのだが、我が家の歴史の1ページを飾る大切な場所だった。

このところあまり頭が痛くならないらしく、妻が珍しく「銀座でも行く?」と声をかけてきた。
結局家でゴソゴソしている間に昼時になってしまい、銀座は断念して近場で何か外食に出かけるということになった。
私は早速店を探す。
どうせならばあまり行ったことのお店をということで、行き着いたのが新居から荻窪行きのバスに乗っていく途中にある鰻屋さんだった。
お店の住所は「杉並区今川」・・・今から約40年前、幼子を抱えて暮したあの荻窪の家の近くだった。

お店の名前は「うな藤」。
夕方予約の電話を入れると、「今日は残り2人前しかないので今すぐ来れるなら用意する」と言われ、慌ててバスに飛び乗ってお店に向かう。
店は井草八幡宮の向かい側、青梅街道沿いにあった。
最寄りの駅からはかなり離れたさほど目立たないお店だけれど、食べログの百名店にも選ばれるほどの隠れた人気店らしい。

私たちがお店に到着したのは午後5時20分ごろ。
入り口には小上がりがあって、奥にテーブル席が置かれている。
まだ席は空いていたが、全部予約で埋まっているらしく、最後に飛び込みで予約した私たちは通路脇の小さなカウンター席に案内された。
私たちが入店した直後、次から次へと客が入ってきて、たちまちのうちに席は全部埋まってしまった。
やはり、地元に愛される人気の鰻屋さんと見える。

うなぎについては、すでに電話予約の際に注文させられたので、日本酒を頼んで鰻が焼き上がるのを待つ。
お酒は「九頭龍」を冷のグラスで、440円。

一緒に出されたお通しは、温泉たまごに甘辛く煮てすりつぶした鰻が添えてある。
細かな骨が舌に当たる独特の口当たりだが、食べたことのない新鮮なお通しだった。

ちびちび冷酒を飲みながら、壁に掲げられたお品書きを眺める。
夏らしいメニューが並ぶが、お通しも出たし、鰻を食べるのが目的なのでこの日は特に注文しなかった。

5時の開店と同時に焼き始めた鰻は、予約客に順番に配られていく。
店内はかなり慌ただしい雰囲気になる。
お酒を飲みながら待つこと25分、私たちが注文した鰻や運ばれてきた。
私は予約の際に店員さんに促された「うな重 特上」(5960円)、妻は一番小さな「うな重 竹」(3030円)である。

こちらが、私が注文した「特上」の鰻。
重箱を埋め尽くす大きさがあり、ふっくらとしていていい感じの焦げ目が付いている。
味は甘さ控えめ、ちょっと大人っぽい味だ。
個人的にはもう少し甘めのタレが好みではあるが、妻は美味しいと言いながら食べている。
歳をとると、コッテリとした高級料理よりも鰻の方が断然ご馳走に。

あっさりとした肝吸いに・・・

美味しい漬物があれば、もう他には何もいらない。
我が家では、吉祥寺時代から三鷹の「八つ浜」が御用達ではあるが、たまにはこうしてバスで荻窪方面に出かけるのも悪くない。
荻窪には昔から鰻の名店がいくつもあって、それを順に巡るのもシニアとなった私たちにはちょうどいい贅沢かもしれない。

ちなみに、帰り際に「うな藤」のメニューを確認すると、『甘みと脂が乗った国産極上うなぎ』と書かれていた。
看板メニューの「うな重」は、安い方から妻が注文した「竹」が3030円、次が「松」で4630円、その上が私が注文した「特上」で5960円、そして最上級の「藤」が8820円となっていた。
「特上」で重箱がいっぱいだったので、「藤」だとどんな鰻が入っているんだろうと余計なことを考えた。
このほかに、少し割り増しにはなるが「ひつまぶし」が竹、松、特上の3種類、さらに「季節のコース」も用意されているようだ。

会計の際、壁に飾られたたくさんのサイン色紙が目にとまる。
地元の人だけでなく、どうやら各界の有名人にも愛される名店ということらしい。
荻窪に向かう青梅街道沿いには、まだまだ隠れた名店が潜んでいそうな気がした。

食事を終えたのは、午後6時10分過ぎ。
外はだいぶ暗くなっていて、小雨も降り出した。
「昔住んでいた家のあたりぶらぶらして帰る?」と妻に聞くと、歩きたいと言う。
新居に引っ越した後、私は自転車でこの界隈を走ったことがあるが、妻にとっては40年ぶりに訪れる杉並区今川である。

幼い2人の子供を遊ばせるために妻がよく訪れたという「今川児童館」は今もあった。
建物はかなり古ぼけていて、おそらくあの当時のまま大きくは変わっていないのだろう。
しかし、私たちが暮らしていた木造の賃貸住宅は当然のことながらすでになく、その場所がどこだったのか、おおよその検討はついても特定することはできなかった。

家のすぐ近くにあって長男が短期の入院をしたことがある「荻窪病院」は、当時気味が悪いほどボロボロだったが、建て替えられて見違えるようにきれいになっていて、敷地の一部にはマンションも建っていた。
そして一番驚いたのは、こちらの公園。
広々とした空き地が広がる「桃井はらっぱ公園」は、私たちがいた当時には存在しなかった。
この辺り一帯が再開発されたらしく、公園の向こうには何棟もの大型マンションが立ち並んでいる。
「ここって昔何があったんだろう?」
二人で記憶を辿ってみるが一向に思い出すことができない。
それどころか、この周辺で通った店とか思い出の場所もほとんど思い出せないのである。
おそらく、それほど子育てに精一杯で他のことをする余裕が全くなかったんだろうと思う。

公園の入り口に建てられた案内板には、こう書かれたいた。
『この地は、かつて中島飛行機(株)の原動機工場が建ち、国産第1号の飛行機用エンジンをはじめ、当時世界に名を轟かせた零戦のエンジンも設計・製造されました。戦後、幾多の変遷を経て日産自動車(株)荻窪工場となりましたが、その間日本のロケット第1号も開発されています。その後工場の移転、跡地は売却されることとなりました。』
なるほど、そう言われると、確かに日産の工場があった気もする。
私は当時ラッタッタに乗って通勤のために荻窪駅と自宅の間を往復していたが、どの道を通っていたのか、どこにバイクを止めていたのか、今となっては何も思い出せない。
妻に比べれば何十分の1ほどの負担だったとは思うが、私も慣れない仕事と子育てに追われて一杯一杯の日々だったに違いない。
当時は二人とも必死に生きていたはずだが、今となってはいい思い出である。

青梅街道まで出て、バスに乗って家に戻る。
バス停で時間があったため、目の前にある「荻窪八幡神社」に入ってみた。
今から約1100年前の創建で、源頼義が奥州征伐の際に戦勝を祈願した場所と伝わるそうだ。
中島飛行機といい、奥州の戦いといい、今でこそ私が関心を寄せる歴史ではあるが、若き日の私には全く目に入ることもない通りすがりの風景だったに違いない。
人は、自分の興味のないものは目に入ったとしても認識しないものである。
40年という時を隔てて同じ場所を見ると、自ずと見えるものも違ってくる。
それが歳をとるということであり、人生の面白さでもあるのだ。
食べログ評価3.59、私の評価は3.50。
「うな藤」
電話:050-5597-5326
営業時間:11:00 - 14:00 / 17:00 - 21:00
定休日:水曜
https://www.unafuji.com/