集団虐殺

いよいよこの記念館の主題「日本軍による南京での大虐殺」という展示コーナーです。
「南京占領後、日本軍は武力で「中国を屈服」させ、三ヶ月で中国を滅ぼすという目標を達成するために、兵を使って無辜の人々への虐殺をほしいままにし、恐怖をばらまき、計画的に大規模な虐殺を敢行した。身に寸鉄も帯びない平民たちと武装を手放した中国軍人は日本軍によって集団虐殺され、その犠牲者は19万人余にも達した。また、日本軍によって個別分散虐殺された死体は慈善機構によって埋葬され、その死体は15万体以上にものぼった。被害者人数は合わせて30万人以上にも達する。」

昼近くになり、入場者はますます増えてきました。先生に引率された生徒たちの集団も次々にやってきます。
薄暗い展示コーナーは、すごい混雑になってきました。

1937年12月13日に始まった南京事件。
記念館では事件をジャンル分けして展示されていました。最初は「集団虐殺」です。

「南京で日本軍は生き残った中国兵を捜索した。しかし、「捕虜は保護せず全部処理しろ」という命令を出し、国際条約に公然と違反して、その捜索過程で、又確保した捕虜までもほしいままに大量に虐殺した。同時に、日本軍は「捕虜殺戮を拡大化」し身に寸鉄も帯びない無辜の庶民を大量に虐殺した。中国南京戦犯裁判軍事法廷の調査によれば、日本軍の南京での集団虐殺は計28件あり、虐殺された人数は19万人余りになる。」
東京裁判からの引用も、その根拠として示されていました。
南京戦犯裁判軍事法廷判決書からの引用も・・・

「殺戮人数:「・・・わが捕らえられた軍民が日本軍に機関銃で集団射殺され、且つ、証拠をなくす為死体も燃やされた者は、単耀亭を含めて19万人余もある。それ以外に、個別分散に殺戮され、死体が慈善団体によって埋葬されたものは15万余ある。犠牲者総数は30万人以上に達している。」 破壊の規模:「陥落の初期は、中華門に沿って下関河岸に至り、どこでも激しい炎が立ち上り、城の半分が殆ど灰燼と化した。」 強姦事件の件数:日本軍が城を占領した後、至るところで強姦事件を引き起こし獣欲を満たしていた・・・12月の16、17の両日だけで、日本軍に蹂躙されたわが国の女性は千人を超え、しかもその方法の異常さと残虐さは、歴史上かってないことであった・・・およそ南京に残った婦女は皆危険にさらされていた。」
そして大量虐殺は軍の方針だったとしています。

日本人の証言
中国側の主張を裏付ける根拠として展示されている資料の多くが、日本語の記録だったのは驚きました。

元日本従軍記者、佐藤振寿著『従軍とは歩くこと』より。
佐藤氏は東京日日新聞のカメラマンとして従軍取材を行った人のようです。
「1937年12月14日 兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には5メートル平方、深さ3メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちていった。 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。・・・ 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだった。」

「この一組の写真は日本軍第十六師団従軍記者「画報近代百年史」雑誌社の不動編集長が撮影したもので、1953年始めて本雑誌の15集に掲載された。左上は刑場に護送された中国捕虜、右上は日本軍が捕えた中国軍人を刑場へ処刑のために連行していく写真である。中左はバラバラになった子供の死体である。野良猫が死体にまたがっている。下図は射殺の瞬間である。」

「昭和二十年(1945年)十二月八日、日本で発行された『毎日新聞』。侵華日軍が南京市民二万人を殺した内容が記載されている。」

「漢中門外の秦淮川辺で日本軍に惨殺されたあと焼却された南京市民の死体。『村瀬守保写真集・私の従軍中国戦線』より」
村瀬守保氏は、1937年7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影しました。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を転戦したようです。

こちらも村瀬氏撮影の写真です。
「揚子江の沿岸には、日本軍に殺された南京大虐殺犠牲者の死体が山のように積もっていた。」
村瀬氏が南京で撮影した写真は、「虐殺」か「戦死」か論争の的となっています。ただ、村瀬氏の写真を否定する人たちの主張には私はまったく同意できません。今となっては、村瀬氏から話を聞くことはできないので、真相を確かめることは難しいですが、記者ではなく兵士として戦場を回った日本人が撮影した写真の価値は極めて高いと思いました。
生存者の証言

「彼らは集団虐殺の歴史を証言する」と題された中国人生存者の証言も展示されている。

藩開明さん。
「1937年12月13日、私は南京二条巷の家の前で焼き芋をしていた。急に、何名かの日本兵が駆けて来て、弁解もさせずに、私を捕まえた。手に人力車を引いたあとがあり、頭に帽子を被った跡があった為、日本兵は、私を中国兵と認定した。当時、鼓楼にある日本大使館に連れられて、二日間閉じ込められた。 16日午後2時頃、他の民間人300人あまりと日本軍に後ろ手で縛られ、長江付近の煤炭港に連行された。午後四時から、集団虐殺が始まった。300人あまりは三組に分けて銃殺された。私は一組目だった。銃声が響いたとたん、目から火が出て、気絶してしまった。日本兵は銃剣で死体の山の中の息が残っている人を突き刺し始めた。銃剣が近寄ってくるのが目に見えたが、急に左腕に激しい痛みを感じて、また気絶した。 夜10時頃、寒くて目が覚めた。その時の月光は明るかったが、私は生きているのかどうか分からなかった。「私は人間か、それとも化け物か」と自分に聞いた。自分の耳を力強く引っ張って、ちょっと痛い感じがしたので、未だ生きていると思った。頭を上げて見ると、死体の山にはまだ何人か生きている者がいた。「兵隊さん、助けて、私はまだ死んでいない、縄を解いて助けてくれ。」と私は言った。私達は互いに縄を解いて、それぞれ四方に散った。」

暗い展示室からいきなり明るい部屋に出ました。
「2006年に発掘された犠牲者の遺骨坑」と題された施設だ。
こんな説明文が添えられていました。
「1984年と1998年、江東門で前後2回に渡り、南京大虐殺の犠牲者の遺骨が発見され、それぞれ本館の犠牲者遺骨陳列室と「万人坑」遺跡内に陳列された。2006年4月、本館の新館工事現場で三回目の南京大虐殺の犠牲者の遺骨が発見された。この遺骨を保存、展示するために、関連機関により、まず全体的に移動させ、それから全体を回復させる案が制定され、遺体が発見された場所そのままに新館の展示ホールに陳列することになった。」

骨には数字とアルファベットの記号が振られていました。
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