<きちたび>中国南京の旅〜過去を知り、未来に目を向ける!南京大虐殺記念館と日本

🔶「旅したい.com」から転載

<中国>過去を知り、未来に目を向ける!南京大虐殺記念館と南京の日本

🇨🇳中国/南京 2017年5月 3泊4日

南京といえば、どうしても日中戦争での「南京事件」のことが思い起こされ、日本人にとってはちょっと気が重くなる地名です。

しかし南京は中国の古都であり、訪れるべき価値のある場所がたくさんあります。避けて通るのはもったいない。私はちゃんと過去にも向き合った上で、今の中国を楽しむことをオススメしたいと思います。

私は南京滞在中、日本人だという理由で不快な思いをすることはありませんでした。むしろ南京の街を歩くと、日本の商品もいろいろ見かけました。過去から逃げず、未来に向けた旅をしませんか。

南京大虐殺記念館

南京を旅するからには、ぜひ訪れたかった場所がありました。

南京大虐殺記念館、正式名称は「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」。「南京事件」をテーマにした博物館のような施設です。広島や長崎の原爆資料館が日本人から見た原爆の記録であるように、この施設は中国人の視点から南京事件を現代に伝えるものです。

IMG_4359

いわゆる南京事件については、今なお論争が続いています。

日本側からすれば異論がある表現も多々あります。ご興味がある方は、ぜひ日本で出版されている書物やネットの情報と比較しながら、80年以上前に起きた戦争の悲劇について思いを馳せていただければと思います。

地下鉄2号線の「云錦路」という駅で降りて2番出口を出ると、目の前に目的の記念館はあります。

広大な敷地に建つモダンな建物。入場は無料です。

IMG_4360

手荷物検査を受けてゲートを抜けると、まず屋外の彫刻群が並んでいます。

「殺された息子は帰ってこない。生き埋めにされた夫は帰ってこない。強姦された妻は溺れる悲劇。ああ、なんということだろう」

中国語と英語でメッセージがつけられています。

それでも、一つ一つメッセージを読みながら進む私の横を、中国人観光客たちがまったく関心を示さずに通り過ぎていきました。

遭難者30万人

この記念館は、抗日戦争終結40周年を記念して1985年にオープンしました。

建物の中に入ると、南京事件の犠牲者を偲ぶ大きな部屋が作られていました。

IMG_4407

天井には「遭難者300,000」の文字。「遭難者」とは「死者」の意味で、中国側は南京事件の死者数を30万人と主張しています。日本側の研究とは大きな開きがある数字ですが、ここでは既成事実になっていました。

正面のスクリーンに犠牲者の写真が次々に浮かび上がります。

IMG_4405

犠牲者一人一人の名前と殺害場所も表示されます。

日本国内には「南京大虐殺はなかった」と主張する人もいますが、こうした一つ一つの「事実」を前にすると虚しさを感じます。私たち日本人も、謙虚な気持ちで訪れたい施設です。

IMG_4413

両サイドの壁面には、犠牲者の名簿が刻まれていました。

沖縄・摩文仁の丘にある「平和の礎」を思い出します。戦争は、国境を越えてたくさんの悲劇を作り出します。

IMG_4415

犠牲者の写真も展示されています。多くは青年の写真です。

南京陥落後、日本軍は軍服を脱ぎ市民の中に紛れ込んだ便衣兵の掃討作戦を進めました。その過程で大量虐殺が行われたと言われています。この青年たちが兵士なのか市民なのか、混乱の中で見極めるのは困難だったでしょう。

IMG_4417

中には老婆や子供の写真もあります。

補給ができない日本軍は現地での物資調達を命じ、これが兵士と市民の接触を生み、略奪や強姦を誘引したとされます。

南京への道

IMG_4419

南京事件に至る歴史の展示に移ります。

中国語、英語と並んで日本語の説明文も施されているので、時間をかけて読んでいくと戦争が拡大する経緯を知ることができます

IMG_4464

私がじっくりと説明書きを読みながら見て回っている間に、観客の数がどんどん増えてきました。日本の戦争博物館をこんなに多くの人たちが見に来ることは考えられません。

これはちょっと驚きでした。

IMG_4467

いよいよ展示は、日本軍による南京攻略へと移ります。

「日本軍の空襲は南京城に巨大な災難をもたらした。1937年8月15日から10月15日までのわずか二ヶ月間、日本軍が南京で65回の空襲を行い、最後の時は90機以上の航空機を投入した。空襲された南京城内は満身創痍となり、至るところで死体が転がり、多数の公共施設や工場、及び一般庶民の家屋がひどく破壊された。」

IMG_4475

一方、日本軍の侵攻に押され、大量の難民が南京に流れ込みました。

IMG_4501

「1937年12月10日午後、日本軍中支那方面軍司令官松井石根は、正式に南京を総攻撃するという指令を出した。中日双方の軍隊は、南京城の東・南・西の郊外で壮烈な戦いを始めた。」

IMG_4505

「占領後の光華門周辺の光景」

IMG_4510

「1937年12月12日、日本軍歩兵第四十七連隊の決死隊が中華門に総攻撃をかけた」

街の南、中華門・雨花台方面でも日本軍の攻撃が続きました。

「雨花台は南京城南に当たる中華門外の天然障壁で日本軍の主な攻撃の目標でもある。雨花台を防衛する第八十八師団は松濤抗戦で重大な損失を蒙ったが、まだ回復する間がないうちに南京防衛戦に加わった。1937年12月9日と10日に<日本軍主力である第六師団、一一四師団は火力を集中して、なんども攻撃したが、全て撃退された。敵味方とも死傷が甚大だった。12月11日<戦況が一層激しくなって、日本軍は何度も山頂に攻撃し何度も撃退され、大きな代価を払わされた。12月午前10時、雨花台は敵の手に落ちてしまった。」

IMG_4511

「日本軍部隊が中華門の城壁の上で「万歳」を叫んでいる様子」

IMG_4518

1937年12月13日、首都南京が陥落しました。

「1937年12月12日の夜、日本軍は南京城南の中華門を攻め落とした後、城壁に沿って東と西の方へ侵入していった。13日払暁、相次いで光華門・中山門・和平門等の城門を占領した日本軍は南京城に入り掃討を行ない、そして南京の陥落を宣言した。日本では、国中が南京占領を祝った。」

IMG_4520

そして南京陥落の後、大虐殺が始まったのです。

1件のコメント 追加

コメントを残す