<きちたび>兵庫県の旅2024🇯🇵 赤穂に残る弥生人、古墳人、渡来人の痕跡は何を意味するのか?

🇯🇵 兵庫県/赤穂市 2024年5月10日~11日

兵庫県赤穂市は忠臣蔵の街であるとともに、塩の街でもある。

千種川の河口に位置する播州赤穂周辺には、広大な干潟が広がり、潮の干満の差が大きく穏やかな海は塩づくりに適していたのだが、当時最新式だった入浜塩田をこの地に根付かせたのは浅野内匠頭の祖先だった。

日本遺産のポータルサイトには、『「日本第一」の塩を産したまち 播州赤穂』としてその経緯がこう綴られている。

浅野赤穂藩の初代藩主、浅野長直が正保2(1645)年に赤穂の地に入封すると、ここで大規模な入浜塩田の開拓に着手し、浅野家三代で約100ヘクタールの塩田を開いた。

赤穂の入浜塩田は、浅野家断絶のあとも永井家・森家へと引き継がれ、江戸時代を通じて開拓が進められた結果、千種川の東に約150ヘクタール(東浜塩田)、西に約250ヘクタール(西浜塩田)にまで拡大した。この入浜塩田による塩づくりの技術は、瀬戸内海沿岸を中心に各地へ伝えられ、やがて近世日本の製塩を席巻することとなる。赤穂は、専業経営と持続可能な製塩法としての入浜塩田が完成された最初の地なのである。

引用:日本遺産ポータルサイト

赤穂市歴史博物館を訪ねると、忠臣蔵よりも塩の歴史がより詳しく展示されていた。

この博物館の愛称は「塩と義士の館」、つまり塩が忠臣蔵よりも先なのである。

四方を海に囲まれた日本では古代より海水を火で熱して塩をとる製法が発達した。

しかし、海水に含まれる塩分はわずか3%、大量の塩を得るためには膨大な量の薪が必要で自給自足のレベルを出なかった。

それに対し、中世になると海水を砂に撒いて天日で水分を蒸発させ凝縮した塩水を得る塩田法が開発され、これに赤穂藩が目をつけたのだ。

私が子供の頃にはまだ、瀬戸内海沿岸には広大な塩田が広がっていたことがかすかな記憶の中にある。

当時の塩田は入浜式をさらに進めた「流下式枝条架併用塩田」と言って、竹で組んだ枝条架と呼ばれる巨大な櫓のような構造物に塩水をポンプで汲み上げて風の力も使って蒸発を促す製法だった。

しかし1970年代に「イオン交換膜法」が一般化すると瀬戸内海の塩田は急速にその姿を消し、その広大な跡地は工業地帯へと変貌したのだ。

とはいえ、技術は変われど人間が生きるうえで塩は欠かせない。

江戸時代、赤穂の塩は日本一のブランド塩で、江戸や大坂へ塩を輸送する塩回船や北前船が頻繁に運航された。

塩の積み出し港として当時賑わいを見せた港町が、赤穂の東海岸にある坂越(さこし)である。

坂越は、昔の面影を色濃く残す静かな海辺の集落である。

かつての繁栄ぶりをうかがわせるように、石畳が敷かれたメインストリート「大道」沿いには豪壮な白壁の館が立ち並ぶ。

廻船問屋や北前船主の船屋敷、さらには酒蔵などである。

集落の東側は瀬戸内海、西側には千種川を運行する高瀬舟の船着場があり、赤穂の塩以外にも流域の産品がこの港から全国に運ばれていった。

この坂越の沖合には、まるで昔の「ひょっこりひょうたん島」のような形をした島が浮かんでいる。

「生島(いきしま)」と呼ばれるこの島は、古来より神域とされ人の立入が禁じられてきた。

そのため島は今も原生林に覆われて、学術的価値の高い「生島樹林」として国の天然記念物に指定されているという。

私がこの島に大いに興味を惹かれたのは、島への立ち入りが禁じられた理由である。

集落のはずれに立つ「大避(おおざけ)神社」。

生島はこの神社の神域、禁足地という位置づけになっている。

神社の入り口に1枚の案内板が立っていた。

「秦河勝(はたのかわかつ)ゆかりの地 坂越」

秦河勝とは誰なのか?

『秦氏は百済から渡来して帰化した弓月君(ゆづきのきみ)を祖とし、土木、養蚕、機織などの技術を発揮して、大いに栄えた古代氏族です。その中でも秦河勝は、飛鳥時代前半(6世紀末〜7世紀半ば)に聖徳太子に仕え、山背国葛野郡太秦(現在の京都府京都市右京区太秦)に広隆寺を創建したことで有名です。

大避神社の縁起によれば、秦河勝は聖徳太子死後の皇極3(644)年9月12日に、蘇我入鹿の乱を避けて海路で坂越に漂着し、千種川の開拓を進めたのち大化3(647)年に坂越の地で没したと言われています。坂越湾に浮かぶ生島には、秦河勝の墳墓と伝える古墳が今も残されています。』

つまり、生島が禁足地となっている理由は、渡来人である秦河勝の墓が島にあるためだというのである。

秦氏はもともと中国系の渡来人で広隆寺は京都最古の仏教寺院、そして現在の京都はもともと秦氏の拠点だった土地で、平安京遷都にも秦氏が深く関わっていたと考えるのが自然だ。

さらにこの大避神社に祀られているご祭神も秦河勝なのだ。

死後、秦河勝は神となって地元では「大避大明神」と呼ばれている。

『生島を禁足地とし、島内に祭礼の御旅所を擁する大避神社は大避大明神(秦河勝)を祀る神社で、養和元年(1182)にはすでに有力な神社でした。旧赤穂郡(現赤穂市、相生市、上郡町)には大避神を祀る神社がかつて28以上あり、古代から中世にかけて旧赤穂郡と秦氏との密接な関係が古文献等からも判明しています。

大避神社の祭礼は、秦河勝が坂越に漂着した日を祭礼日として始まったもので、「坂越の船祭」(国指定重要無形民俗文化財)は、瀬戸内三大船祭の一つに数えられています。』

私が日本史を習った頃、渡来人についてはごく簡単にしか教わらなかった気がする。

だから秦河勝のことは正直ほとんど知らないが、赤穂周辺では神として崇められるほど影響力を持った存在だったようで、この時代の渡来人についての認識を改めなければならないと感じた。

大避神社には奉納された古い額がたくさん飾られているのだが、海の安全を祈願するものと並んで多かったのが芸能に関係する額である。

秦河勝について調べると、彼が「芸能の神」としても広く信仰されていることを知った。

世阿弥も『風姿花伝』の中で、『上宮太子(聖徳太子)が秦河勝に「六十六番の物まね」を作らせ、紫宸殿で舞わせたものが「申楽」の始まり』と伝えており、秦河勝はのちの猿楽や能楽の祖と位置付けられているのだ。

そして、観阿弥・世阿弥の親子は自らを秦河勝の子孫と称していたらしい。

無料休憩所ともなっている「旧坂越浦会所」では、毎年10月第2日曜日に催される「坂越の船祭」の様子をビデオで見ることができる。

大避神社の氏子たちが年に1回、船団を組んで生島に設けられた御旅所まで詣でるこの祭礼は後継者不足で徐々にその規模を縮小しているようだが、私たちが当たり前に日本文化だと信じるものの多くが渡来人によってもたらされたことを知るには、坂越は訪れるに値する場所だと感じた。

坂越を出て、北に10キロほど車を走らせると「東有年・沖田遺跡公園」がある。

赤穂市の北部に位置するこのあたりでは縄文時代後期(約3500年前)から室町時代(約600年前)にかけての遺構や遺物が数多く見つかっているが、中でも弥生時代と古墳時代の住居が復元されていて、その違いを見比べることができて興味深い。

こちらが弥生時代の竪穴住居。

現地の案内板には次のような説明が書いてあった。

『東有年・沖田遺跡では、弥生時代のムラはたいへん広い範囲に広がっていました。この遺跡公園のある場所でも弥生時代後期(約1900年前)の竪穴住居跡7棟や、壺棺(子ども用の棺)などが見つかっています。

弥生時代の竪穴住居は、上から見ると丸い形をしているのが特徴で、また中央には穴を掘っただけの簡単な炉がつくられています。』

この遺跡では竪穴住居の中に自由に入ることができる。

その第一印象は、予想していたよりもずっと内部が広いということだった。

大型のものは直径12メートルもあり、これが通常サイズの住居数棟に1棟の割合で立っているため、村の有力者たちの住居だったと考えられている。

一方こちらが隣接して復元された古墳時代後期の竪穴住居だ。

『この遺跡公園となっている場所では、古墳時代後期(約1400〜1500年前)の竪穴住居跡22棟、高床倉庫と考えられる掘立柱建物跡1棟が密集して見つかり、当時の集落の中心部分であったことがわかりました。

竪穴住居は上からみると方形で、弥生時代の円形から大きく変わっています。1辺が3.9m程度の小さなものから、8mをこえるたいへん大きなものまで見られますが、そのほとんどが、4本の柱と北側の壁際に造り付けられたカマド、さらに貯蔵用と思われる穴を持っているので、住居内部のつくりに一定の決まりがあったようです。』

こちらが、住居内の北側に設置されたカマドだ。

弥生時代からはだいぶ進化したことがうかがえる。

弥生時代から古墳時代にかけての歴史は、文献資料が乏しいため未解明の謎が実に多い。

この時代、中国大陸や朝鮮半島では戦乱が絶えず、多くの人が海を渡って波状的に日本列島に逃れてきたと考えられる。

瀬戸内海は、北九州や山陰と並んで、そうした渡来人たちが侵入する重要なルートだったであろう。

かつては大陸から渡ってきた弥生人が日本列島にいた縄文人と混血して現代の日本人につながる古墳人になったというのが定説だったが、最新の研究では弥生人とは異なる渡来人が大量にやってきて、彼らが古代人として私たちの直接の祖先となったという説も登場している。

この住居の変化を単なる流行の移り変わりと見るか、新たな民族の到来と見るか、実に興味深いところである。

さらに、「東有年・沖田遺跡公園」の東2キロほどのところにもう一つの遺跡「有年原・田中遺跡公園」がある。

ここには弥生時代後期のものとみられる2基の大型墳丘墓が復元されている。

墳丘墓の上部には盛り上がった棺の周りに大型の壺や器台が並べられ、当時の儀式を再現している。

こうした土器は墳丘墓の周溝から出土したものだが、現在の岡山県にあたる吉備地方で多く用いられたもので、この墓に葬られた人たちが吉備と強い繋がりを持っていたことをうかがわせているという。

また2つのうちより大きな方の「1号墳丘墓」には祭祀の場となる突出部が見られ、のちにヤマト王権のシンボルとなる前方後円墳につながる特徴を備えている。

現在の私たちに直接つながるとされるヤマト王権の成立過程を解明する上でも興味深い遺跡である。

こうした遺跡が集中している有年地区は、瀬戸内海から山一つ隔てた内陸にあり、千種川とその支流の長谷川によってできた自然堤防帯に位置している。

吉備も大和も、同じく瀬戸内海から山一つ隔てた盆地にその中心を構えていて、古代人が便利な海辺ではなくあえて少し奥まった盆地を選んで住んだかを考えてみると、私はどうしても防衛上の理由に思い当たる。

大陸から逃れて日本列島にやってくる人たちの中には、戦争に敗れて敗走した敗残兵もいただろう。

当然兵士の集団であり最新の武器で武装している連中だ。

そうした部族は当然海からやってくるため、先に移り住んだ人たちは後からやってくる別の部族から身を守るためにこうした場所を選んだのではないか。

そんな妄想が広がる。

多くの島が浮かぶ瀬戸内海は、大陸からの攻撃を避けるという意味では理想的な「内海」のように見える。

はじめに北九州や山陰に流れ着いた人たちが、瀬戸内海を東に進んで最終的に奈良盆地に都を置いた。

その間にどのような戦いがあり、勢力争いがあり、ヤマト王権へとつながるのか?

瀬戸内海には古代史を知る上での多くの手がかりが残されているように感じた。

<吉祥寺残日録>古代史の謎!吉備の大古墳群からは朝鮮半島とのつながりを示す多数の痕跡が #230709

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