<吉祥寺残日録>古代史の謎!吉備の大古墳群からは朝鮮半島とのつながりを示す多数の痕跡が #230709

昨夜からとても激しい雨が降っている。

岡山県でも大きな被害が出た西日本豪雨から5年、今年は久しぶりに中国地方が大雨に襲われる年になりそうだ。

そんな雨の一日、畑仕事を休んで図書館で借りた本を読んでいる。

歳をとるとなぜか古代史に興味が湧いてくるものだ。

私たち日本人の先祖はどこから来たのか?

天皇史観によって神話の世界にされてきた天皇家のルーツはどこへ繋がっているのか?

佐賀県の吉野ヶ里遺跡で有力者の墓と見られる石棺墓が見つかり、邪馬台国との関連で大きな注目を集めたのはつい先日のことだ。

結局、埋葬者を特定するような遺物は発見されず、謎は謎のまま残されることになった。

邪馬台国は大和にあったのか、それとも九州なのか?

古代史最大のミステリーとして考古学ファンの間では大きな関心を集めるテーマではあるが、最近頻繁に岡山に来ている私にとっては、邪馬台国論争よりも気になるテーマがある。

それは古代、岡山の地で栄えた吉備について知りたいという思いだ。

天皇の象徴とされる前方後円墳といえば大和や河内が有名だが、ここ岡山県にも全国で4番目の規模を誇る巨大な前方後円墳がある。

墳丘の長さ350メートルの造山古墳。

5世紀前半に築かれたと見られるこの巨大古墳がなぜ岡山にあるのか?

その謎はいまだに解明されていない。

さらに近くには全国10位の規模を誇る作山古墳のほか、たくさんの古墳や古代の遺跡が存在していて、吉備は間違いなく古代史における日本の中心地の一つであった。

岡山市立図書館の利用カードを手に入れたので、吉備に関連する図書を借りることにした。

手始めに手に取ったのが造山古墳蘇生会編集『造山古墳と作山古墳』である。

専門家によるセミナーを記録したこの本の中で、岡山市生涯学習部文化財課の草原課長が「キビ」と呼ばれたこの地域の古墳について次のように書いていた。

キビには多数の古墳が築かれていますが、とくに瀬戸内海に面した岡山平野で全長が100mを超える大型古墳が複数築かれています。造山古墳が築かれている古墳時代中期の前段階である古墳時代前期(西暦3世紀後半から4世紀)の大型古墳は、岡山平野を流れる河川ごとに分布しています。東は浦間茶臼山古墳、金蔵山古墳、湊茶臼山古墳、神宮寺山古墳、車山古墳、中山茶臼山古墳、小盛山古墳(岡山市)です。岡山平野には複数の河川が流れており、河川ごとに集団のまとまりが形成されたようです。それらが大型古墳を築いたものと考えられます。各大型古墳の詳細な時期を決める手掛かりはそれほど多くないのですが、基本的には重複しないで、次々に築かれていった可能性が高いと考えられます。つまり、古墳時代前期の大型古墳の被葬者は、河川単位の代表者であるとともに、岡山平野の代表者であったと推測されます。

古墳時代中期(西暦5世紀)になると、列島の各地では地域で最大規模の古墳が築かれます。キビでは造山古墳(岡山市)、作山古墳(総社市)、両宮山古墳(赤磐市)です。造山古墳は全長が300mを超える超巨大古墳で、作山古墳と両宮山古墳は全長200mを超える巨大古墳です。超巨大古墳は、奈良県や大阪府、律令制下の畿内以外ではキビにしか存在しません。それはキビが大王に匹敵する勢力を有していたことを示しているのか、もしくは当時のキビは畿内の一部であり、列島の中枢であったことを示している可能性があります。キビは古墳時代の列島史を考えるうえで避けて通ることのできない地域であったのです。

引用:「造山古墳と作山古墳」より

キビは、大和に対抗するような強大な勢力だったのか、それともヤマト王権の重要拠点だったのか?

以前このブログにも書いたことがあるが、有名な桃太郎の伝説は、ヤマト王権から派遣された四道将軍の一人、吉備津彦命がこの地を支配していた温羅と呼ばれる豪族を成敗したというお話をベースに作られたとも言われている。

鬼とされた温羅は、朝鮮半島の百済の王子だったという説もある。

果たして昔、この地で何があったのだろうか?

「造山古墳と作山古墳」をパラパラと読み進めていると、とても気になる記述に出会った。

それは岡山理科大学生物地球学部の亀田修一教授による『造山古墳と作山古墳周辺の渡来系遺物』という講演だった。

いきなり亀田教授は次のように話していた。

『造山古墳と作山古墳の周辺で出土している渡来系遺物の概要を今日はお話しします。これらは基本的に朝鮮半島系で、おもに加耶(カヤ)という朝鮮半島の南東部地域、釜山がある地域のものが多いです。』

ではどのような遺物が発掘されているのか、長くなるが亀田教授の話を引用しておきたい。

高塚遺跡は弥生時代の銅鐸や貨泉が出たことで有名なのですが、その後ちょっと空白があって、古墳時代の5世紀になると住居の数がぐっと増えてきます。その増えてきた中で特徴的なものが、カマドありのものです。古墳時代中期、人によって年代観に違いはありますが、だいたい4世紀の終わり頃から5世紀いっぱいくらいの時期で、カマドが造り付けられたものがこれだけ出ています。カマドに関しましては、ここ20〜30年前から全国的に5世紀に入らないとほぼ出てこないと言われています。この高塚遺跡に関しましては、古い段階のカマド住居群、カマドのあるムラということになります。そしてここに出てくるものを見ますと、明かに朝鮮半島系のものが入っており、渡来人のムラだろうと考えられています。

132号住居の角っこにカマドがつぶれた痕跡があります。この横に見慣れない土器が置いてありました。

これらの土器は基本的に日本の土師器ですが、底に穴の空いた土器は甑(コシキ)といいまして、蒸し器のたぐいです。この器種はもともと当時の日本列島にはありません。また羽子板みたいな板で叩いて作ったものも朝鮮半島系のものです。いろんな方が見て、これは持ち込んできたものじゃないかといわれています。そういう意味で、先ほどの初期のカマドも含めて、朝鮮半島の人とともにこのようなものや文化が入ってきたと理解しています。

窪木薬師遺跡です。ここでもカマドのついた住居が出てきました。このときの担当者の方々はとても上手に、鍛治関係の資料、鍛冶屋さんがいたということを見つけました。

このカマドでは、鉄の延べ板、鉄鋌(テッテイ)が出ております。この鉄の延べ板は、鎌などいろいろなものを作ったりするときに、これを切ったり、たたいて延ばしたりしたと言われているものなのですが、これがカマドの中に置かれていました。カマドのおマツリの日本の最古段階のものと考えられます。

この鉄鋌は韓国の「加耶地域」、釜山の福泉洞古墳群のものによく似ていると思っています。ただし、これは2分の1に縮めています。つまりこの倍の大きさがあることになります。同じような形で倍の大きさです。このようなものは加耶と新羅地域ではたくさん出ます。同じ住居から出た弓矢のやじりと似たものが今お話しした釜山の福泉洞古墳群から出土しています。近年韓国の鏃などとの比較研究が進んで、韓国から来ているんじゃないかという話もできるようになりました。そうしますと、この住居は単なる住居ではなくて、韓国と関わる工房的なものじゃないかという考えも成立する可能性があります。

初期の段階の甑も見つかっています。日本人が自ら作ったとは考えにくいと思います。そうしますと、これらの遺跡では加耶地域からの渡来系の人たちが生活していたと推測されます。そして窪木薬師遺跡は、仕事場兼生活の場だったかもしれません。高塚遺跡はそういう意味では生活の場だったかもしれません。少なくとも近くに、このようにいくつもの渡来系の人たち、主に加耶地域の人たちが来ていた場があったものと推測できます。

榊山古墳は造山古墳のすぐ横にあります。ここから「馬形帯鉤(ウマガタタイコウ)」というものが6個ほど出ています。長野県浅川端遺跡でも出てきました。今のところ日本ではこの2カ所しか確認されていません。それ以外にも、加耶系の陶質土器や、鍛治具が出土しており、周囲に鉄関係の人がいたことが想像できます。この古墳は直径が約35メートルありますので、まあ偉い人、中間管理職的な人の墓かなと思っています。

それから、龍文透金具は「三燕系」とされています。朝鮮半島の西北地域の飾り金具ではないかと言われています。韓国南東部の金海大成洞というところで同じようなものが出ています。さかのぼっていくと中国東北部遼寧省西部地域につながっていきます。この中央部分の文様はよく見ると竜の顔です。

それからこの砥石なのですが、棒状になっていて、この端部にさびがついています。これはもともと鉄製のキャップがついていて腰にぶら下げる、提砥(サゲト)と言っているものです。これは、新羅などでみられます。このように、榊山古墳に関しましては、今まで言われている以上に多様なものが出ていることがわかります。

随庵古墳は、鬼ノ城のふもとにあるゴルフ場の入り口側のところにありまして、長さ40メートルのやや小型の前方後円墳です。この埋葬施設に関しては、以前は、弥生時代以来の普通の竪穴式石室で割竹形木棺という、これも弥生時代以来の木棺と考えられていたのですが、韓国系のものと考えられるようになりました。

それに加えて鎹(カスガイ)を使っています。釘、鎹も、5世紀にならないと基本的には出てきません。随庵古墳のものは日本最古のグループに入ることになります。5世紀前半段階の釘・鎹の存在は、渡来系の人が入っている可能性の高さを示します。なぜかと言いますと、お葬式関係というのは伝統的なものが残りやすいわけです。そういう意味では昔ながらの儀礼を使っている棺を使うということで、朝鮮半島の人がその棺に入っているかもしれません。ただし、墓の中にはいろいろな日本のものがたくさん入っていますので、この辺をどう理解するかちょっと難しいと思います。

橿原考古学研究所に岡林孝作さんという方がいて、この人は棺をずっと研究していますが、この随庵古墳のものも研究されています。この鎹、よく見るとカーブしています。つまり棺に関しても、割竹形木棺という丸い棺だったら鎹も当然カーブしますし、棺材の木目のつき方などを研究していて、これらの特徴で割竹形木棺に使用されたものと考えています。このような特徴を含めて検討しますと、この随庵古墳の被葬者は、朝鮮半島との関係が無視できなくなります。

法蓮古墳群は、一辺8メートルほどの小さな古墳なのに家形埴輪を持っています。そして珍しい土器が出てきます。この黒く塗った3番の高杯は、本来土師器の器形をうつしています。4番の土器は土師器ですが、頸のところに筋がついていますので、もともと朝鮮半島の固いほうの土器(陶質土器)をうつしたのではないかと言われています。先端部が少し曲がった鎌、曲刃鎌と言いますが、これが出ています。5世紀前半段階のものは朝鮮系です。それまでの日本の鎌はまっすぐの直刃鎌です。

大文字遺跡の住居にカマドがついています。興味深いのはこの住居群の東側に行くと朝鮮系のものが見られなくなります。朝鮮半島と関わる住居群は西側にあると思われます。この遺跡では、軟質土器と言っている日本の土師器と同じグループのものが比較的まとまって出土しています。平底の土器は、日本では弥生時代や縄文時代にはたくさんあるのに、不思議なことに古墳時代に入ると土師器ではなくなってきます。そういう意味で、このような平底のものが出るとこの住居の人は日本人ではないのかなと思います。それから、有溝把手の土器が出ています。この「有溝」は把手に溝を彫ったものを言います。これも朝鮮半島系の人たちがよく使うものです。

この遺跡では住居がいくつかあって、土師器を見ているとだんだん日本化していく過程が見られます。「日本化」は、先ほどお話しした底のたくさんの穴が徐々に少なくなっていくことで見ることができます。朝鮮半島の人たちがやってきて、日本列島の中で地元の人たちと一緒に暮らしていきながら、だんだん日本化していっている状況が、器の中にも見られるのかなと思っています。

この大文字遺跡の西側の栢寺は「栢(カヤ)」の寺ですが、「加耶」の寺の可能性があります。加耶グループの人たちの生活空間がこの地域にあったのではないかと空想しています。高塚遺跡周辺もそうですが、この大文字遺跡周辺もそうだったのかなと思っています。それがのちにお寺さんにつながったのかなと思っています。

奥ケ谷窯跡も加耶系です。このような灰色の堅い焼き物を焼いています。おもに焼いているものは大きな甕です。水がめとしてたくさん使うようになったと思っています。叩いて作る赤い土器は当時の日本列島には基本的にありませんので、渡来系の人がこの窯に関わっていると思います。

この奥ケ谷窯跡のすぐ横が中山古墳群です。そして西山古墳群、小寺古墳群です。先ほどお話しした大文字遺跡、窪木薬師遺跡、高塚遺跡、長良小田中遺跡が東南方向になります。距離的にはそんなに離れていません。それから、法蓮古墳群、造山古墳、作山古墳です。ということでこの奥ケ谷窯跡を作山グループと見るのか、造山グループとみるのか、よく分かりません。

これが中山6号墳の墳丘と遺物です。このように小さい古墳なのですが、埴輪がいっぱいめぐっています。土器は明かに日本の須恵器、陶邑(スエムラ)系の須恵器の形になっています。ただし、このような脚部をつける高杯は陶邑では基本的に見られないと思います。時期は造山古墳や作山古墳よりももう一つ新しい段階なのですが、このような珍しい形をしています。もしかしたら岡山にもう一つ別の窯があるのかもしれません。この古墳でも鎹を使っています。さらに曲刀子も朝鮮半島とつながる可能性があります。それからちょっと形が変形していますが、そろばん玉形の紡錘車も出土しています。それからU字形鋤鍬先も比較的古い段階のものです。この古墳にも朝鮮半島系の人が入っている可能性が考えられます。

西山26号墳は奥ケ谷窯跡の南側の東西に長い尾根筋に位置している一辺8メートルくらいの方墳です。舶来品だろうと言っている斧、肩が張っていて有肩鉄斧(ユウケンテップ)と言ったりします。この古墳だけではないのですが、この古墳群には形象埴輪がたくさん出てきます。すごく小さい古墳なのに、これだけのものを持っているのです。

そして、こちらが小寺2号墳の土器です。その中に5番のような把手が板状になった須恵器の高杯が出ています。日本の須恵器は基本的にこの把手の断面が丸いです。これが板状になるのは、主に朝鮮半島でも加耶から東の新羅地域に見られます。

今度はさらに南に行って、前山遺跡です。前山遺跡は弥生時代のお墓がいっぱいあるのですが、古墳時代の墓や土器も出ています。土坑墓から土製紡錘車も出ています。そろばん玉に近いので、渡来系の人が入っている可能性があるのかなと思っています。

その南側の山のちょうどてっぺんくらいに、狸岩山という積石塚群があります。これに関しては、朝鮮半島との関係で理解する可能性と、もう一つは在来の、ただ石があったからというのと、もう一つは讃岐、香川県にたくさんありますので、そちらとの関係が推測されています。

そして、山を越えて南側が、倉敷市菅生小学校裏山遺跡になります。この遺跡は極めて重要だと思っています。理由は、この遺跡が当時の海岸線を復元すると、港関連だと推測されるからです。溝の中からたくさんの朝鮮系の土器が出てきました。その中に、先ほど見た小寺2号墳のものとよく似た高杯もありました。8番は平底で、小さな丸い穴がいっぱい空いています。朝鮮半島南西部の全羅道地域などで見られます。先ほどの加耶系のものは丸底で小さな丸穴がたくさん空いていました。そしてこの9番はとんがり気味の凸レンズ上の穴が空いています。このような細い凸レンズ状の穴が空いたものは日本でも数カ所しかない極めて珍しいものです。洛東江という川の東側、おもに新羅地域で見られるものです。1番は南西部の全羅道地域で多く見られ、5番はソウル周辺の百済地域で見られます。そして2番は加耶系だと思います。このような多様性はまさに港関係だからかな、と僕は思っています。また、吉備産と推測される、焼きが悪く砂が多く含まれた高杯も出土しています。

先ほど挙げた遺跡群の中で触れていなかった重要な遺跡が上東遺跡です。弥生時代からの有名な遺跡ですが、こちらも港の一つだと僕は思っています。ただ、5世紀くらいの様子がよくわからなくなっていて、港が移っている可能性もあると思います。その後の港の候補として川入遺跡があります。当時の海がどこまで入っているかで様子は異なりますが、この足守川河口部に何ヵ所か港があった可能性があります。高梁川下流域では、酒津という場所があります。あそこは「酒の津」ですので、おそらく港だったと思われます。そういうような候補がいくつかあると思います。造山古墳と作山古墳の間を南北にズバッと切ったら、菅生小学校裏山遺跡や酒津遺跡が作山古墳側になり、上東遺跡や川入遺跡が造山古墳側になるのですが、その辺が簡単にいくのかどうかは分かりません。

引用:「造山古墳と作山古墳」より

古代、キビの地には間違いなく渡来人が暮らしていた。

ただ土着の日本人が住んでいたところに、朝鮮半島から移り住み多くの文化を伝えた集団がいたということらしい。

そして岡山の港には朝鮮半島各地で作られた多様な物品が運び込まれていたようだ。

古代、瀬戸内海は日本最大の交易ルートだった。

そして現在の児島半島はまだ岡山平野と陸続きにはなっておらず、キビは交易船が安全に係留できる港として最適な場所だったことが想像される。

亀田教授は最後に中国との関係についても言及していた。

金製釵子(サイシ)=簪(カンザシ)は実物が残っていませんが、古く宿寺山古墳から出土したと言われている資料です。宿寺山古墳は、造山古墳、作山古墳のこの地域での後継古墳と推測されています。周濠を持っている立派な古墳なのですが、墳丘の大きさは114〜116メートルです。「金製」の釵子と書いてあります。当時の日本列島に金製品は基本的にありません。金銅製もようやく入り始めた時です。となると、これはどこのものかということになります。朝鮮半島でもこの手のものは分かっていません。

今から少し危ない話をします。

日本の人たちは、中国を弥生時代からすごく大きく見ていると思います。基本的にはそれでいいのですが、ただ、倭の五王の時代の5世紀に、中国系のものが何か入っているのだろうかといろいろな方に聞くのですが、ほとんどありません。鏡は入っているようです。ただ、よく見ると、本当に入ったものとそれを作り直したものがあって、それを大和の王権が配っていったという話になっています。そういう意味で言いますと、中国系のものはほとんどないのです。その中で何をもらったかと言いますと、「将軍」という位はもらった。この将軍号を求めた13人の中に、造山古墳とか作山古墳の被葬者たちが入っていてもいいのではないかというお話があります。

宿寺山古墳のこの金製のカンザシは日本列島最古段階のものですし、朝鮮半島にも現時点で類例がないようですので、中国からもらった可能性はないのかということです。本人がもらっているのかもしれないし、もしかしたら作山古墳の被葬者がもらってそれを受け継いでいるのかもしれません。いずれにしても、そういうことを考えていいのかなと思っています。438年と451年に倭から使いが来たという記録があります。細かいことはちょっと置いておきまして、「将軍」とか「軍太守」のような肩書きをもらった人のカンザシの可能性はないのかという話です。

引用:「造山古墳と作山古墳」より

天皇家のルーツに関わるヤマト王権成立の時代、すなわち3〜4世紀の日本列島の歴史については文字で書かれた情報が全くと言っていいほど存在しない。

万世一系と言いながら、その起源は神話の世界に迷い込み、それが日本人のルーツを曖昧なものにしている。

キビに限らず古墳の管理は宮内庁の管轄となっていて、科学的調査を自由に進めることができない。

いつまで経っても日本の古代史が明らかにならないのは、天皇制を守ろうとする政治勢力によって考古学調査が阻止されていることが大きなネックとなってきたのだと思う。

最近になってようやく古墳の調査も行われるようになり、キビの古墳群についても今後解明が進んでいくことだろう。

亀田教授は古墳の被葬者についてどのように考えているのか?

パネルディスカッションの中で、こんなことを話していた。

造山古墳も5世紀前半の古い方だろうとお話ししました。現在、中国の集安にある好太王碑の391年の「倭がやって来た」という話や、『三国史記』に記載されている400年頃の「高句麗が南下して来て、百済をやっつけて加耶の地にやって来た」という記録などと合わせて考えるべきなんだろうというのが、いまこの辺を研究している方の考えです。

それで、私が先ほど「造山古墳の主が朝鮮半島に行ったかもしれません」と申し上げたのは、まさにそういうことなのだと思っています。この時に造山古墳の主が朝鮮半島から戻ってくるときに一緒にやって来た人たちが吉備に定住したのが、ちょうどこの付近だと思っています。

足守川流域は、もともと吉備の中枢部だと思っています。弥生時代にも人はたくさん居たし、拠点的なムラもいくつかあったと思います。よそから人が入ってくるときにそれなりの数が入って来ると、当然もともと居る人達の空間の横・外にいかないといけません。そのもともと生活している人たちのムラのど真ん中には入れません。だからムラの周辺に行かざるを得ないわけです。その辺がもしかしたら、西の方に広がるという話になるのかもしれません。そこは私もまだ不勉強なのではっきりしたことは言えませんが、ひとまずそういうことも考えてみて、結果的に造山古墳がこのエリアにできたのではないかと思っています。

引用:「造山古墳と作山古墳」より

ブログを書いている間に激しい雨があがったようだ。

多くの研究者が古代史と向き合っていてもまだまだわからないことばかりだが、日本列島と朝鮮半島の間に活発な交流があったこと、吉備が重要な拠点だったことは間違いなさそうである。

これからも吉備を歩き図書館の本を読みながら、古代の歴史に想いを馳せ、日本人のルーツについて学んでいきたいと思う。

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