<きちたび>シンガポールの旅2025🇸🇬 初代首相リー・クワンユーが作り上げた究極の「開発主義国家」で出会った美味しい四川料理と夜の街

🇸🇬 シンガポール 2025年2月12日/17日~19日

マレーシア、ブルネイの旅を終えた私は2月17日の夜11時ごろ、シンガポールに戻ってきた。

12日に日本からシンガポールに到着した時は早朝で、街はまだ寝静まっていて真っ暗だったけれど、夜11時だとまだビルには煌々と電気が灯り、街はまだ活動を続けていることを感じさせた。

東南アジアの小国であるシンガポールが独立したのは1965年。

今年8月でちょうど建国60周年を迎える。

今や1人あたりのGDPは日本の2.5倍に当たる8万ドルを超えて世界第5位、アジアで最も豊かな国となっている。

だから、物価も他の東南アジア諸国に比べると高い。

空港に着いて電車で市内に行こうと駅に向かっていると、「もう終電は終わっているよ」と言われ、仕方なくタクシーでホテルに向かう。

シンガポールのタクシーは日本同様メーター制なので、事前に料金の交渉が無用なのは疲れた身にはありがたい。

タクシーは湾岸のハイウェイを通りダウンタウンへ向かう。

マリーナベイの名物である大観覧車「シンガポール・フライヤー」に明かりは灯っていたが、もうこの時間には営業は終了している。

2008年の開業当時には世界最大だったこの観覧車。

設計したのは黒川紀章氏で建設も日本の会社が行ったことを今回初めて知った。

タクシーは20分ほどで、チャイナタウンのホテルに到着した。

料金は35.44シンガポールドル(約4000円)だった。

今回私が予約したのは「HOTEL MONO」といい、その名の通り古い建物をリノベして、白と黒のモノトーンで統一したプチホテルである。

ホテルのエントランスも無機質な白黒でおしゃれに仕上げてある。

あらかじめ到着が遅くなることは伝えていたので、スムーズにチェックインは終了した。

迷路のような廊下を通り、自分の部屋に入ると、一瞬ちょっと固まった。

予想したよりも狭く、圧迫感を感じたからだ。

部屋はやはりモノトーンでまとめられ、モダンな作りではあるが、ベッドの奥は透明なガラスで仕切られたバスルームになっていて、収納が一切ない。

まあ寝るだけだから狭いのはいいが、水回りまで全部丸見えというのは珍しい。

ただ、冷蔵庫と金庫はあるので、とりあえず滞在に支障はないだろう。

締め切った小さの窓の外は屋上からの明かり取りになっていて、ちょっとした牢屋に入った気分だ。

荷物を置くと、何か食べたくて外に出た。

ホテルの周辺には飲食店が立ち並んでいるが、時刻はちょうど夜の12時、すでに閉店した店が多い。

そんな中、1軒まだ営業している店を見つけた。

「川味人家」という名のバーベキューが売りの四川料理のお店のようだ。

夜も遅いので、一番簡単そうな「揚州炒飯」だけ注文する。

ビールはもう売り切れだというので代わりに缶の緑茶を頼み、合わせて9.81シンガポールドル(約1100円)だ。

あまりやる気の感じられないお店なので全く期待していなかったけれど、これがどうしてなかなか美味しいチャーハンにありつけた。

翌日は、朝から市内を駆け巡り、昼をだいぶ過ぎてから中華街に戻ってきた。

すでに時刻は3時になろうとしている。

面倒なので昨日と同じ店に入り、「炸醤麺」とビールを注文する。

うどんみたいな麺が出てきた時にはちょっとがっかりしたけれど、混ぜて食べてみるとこれが美味い。

ここって案外、当たりの店なのかもと思った。

炸醤麺と中国ビールで合わせて14.28シンガポールドル(約1600円)だった。

さらにその日の夜。

夕方もあちこち取材に駆け回り、ホテルに戻ってきた時にはすでに午後9時前だった。

この日はシンガポールでも人気だという日本のラーメン屋に行くつもりだったけれど、疲れて面倒になり、またまた同じ「川味人家」に足が向いた。

注文したのは「麻婆豆腐」と「卵炒飯」、そして温かいジャスミン茶。

合わせて19.73シンガポールドル(約2200円)である。

さすが四川料理のお店だけあり、麻婆豆腐は運ばれてきた時から美味しそうだ。

一口食べると、これまた最高。

香辛料がガツンと効いて、口の中がカッと熱くなるが、その後から旨みが口いっぱいに広がる。

こんな美味い麻婆豆腐を食ったのはいつ以来だろう。

3食食べてハズレなしというのは、かなり珍しい。

決して有名なお店ではないようだが、間違いなく日本人にはお勧めできる美味しいお店だと思う。

さて、今回40年ぶりに訪れたシンガポールだが、私にとってシンガポールの有名人と言えばやはりリー・クアンユー元首相が真っ先に思い浮かぶ。

シンガポールの初代首相で、独立から30年以上にわたりこの国の舵取りをした人物だ。

旅行前に読んだ岩崎育夫著『物語 シンガポールの歴史』にこんな一説があった。

『シンガポールは開発主義国家のシステム構築が、いわば極限状態にまで追及された国であり、このシステムを創り上げたのがリー・クアンユーである。』

発展著しい東南アジア諸国の中でも、都市国家シンガポールは40年前も唯一無二の存在だった。

雑然とした喧騒渦巻くアジアの中で、シンガポールはゴミの落ちていない整然とした街。

若い頃はそんな清潔さが偽善ぽく感じられ、強権的なリー・クアンユー首相が好きではなかったけれど、私が歳をとったせいか、今回の旅で彼の業績を大いに見直したものである。

私がなぜ、リー・クアンユー元首相を見直したのか?

それは彼の功績を記念する博物館や銅像がなかったからだ。

往々にしてアジアの独裁者は自分の権力を誇示するため、巨大なモニュメントや品のない銅像や肖像を飾りたがるものである。

そんな例は嫌というほど見てきた。

シンガポールの初代首相であり、絶大な権力を握っていたリー・クアンユー氏のことだから、きっとその業績を讃える博物館の一つもあるはずだと思い、今回そこを訪ねたいと思って探してみた。

しかし、見当たらないのだ。

Googleマップで検索してみると、いくつかの公園がヒットした。

その一つ、中華街からほど近い公園に行ってみると・・・

緑あふれる遊歩道の片隅に小さなプレートが設置され、そこにかろうじてリー・クアンユー氏の名前を確認した。

プレートには次のように記されていた。

『このテンブスの木は、2015年4月25日にリー・シェンロン首相とタンジョン・パガー国会議員によって、リー・クアンユー氏を偲んで植えられました。テンブスは、強い香りを放つ花と赤い果実を実らす背の高い荘厳な木で、シンガポールの強さと活力を反映しています。この銘板を囲むビーズは、2015年3月の追悼期間にシンガポールの人たちが贈った賛辞の花びらを組み込んだポリマークレイ(オーブン粘土)から手作りされたものです』

リー・クアンユー氏は1915年3月23日、91歳でこの世を去った。

多くの国民が彼の死を悼み、贈られたたくさんの花束を使ってビーズを作り、テンブスの木と共にこの公園に植えたということらしい。

テンブスとは和名では「マチン」と呼ばれるそうで、育つと樹高が15メートルにもなる東南アジア原産の樹木だそうだ。

探してみると、どうやらプレートの後ろに立つこのヒョロヒョロとした木がマチンのようである。

まだ生前のリー・クアンユー氏のような力強さはないけれど、こうして後世の人たちが植樹という形でその業績を称えてくれるというのは、人間としてこれ以上ない賞賛だと思う。

そしてこの木を植えた息子のリー・シェンロン前首相も、去年20年にわたって担ってきた首相職を後任に譲った。

親子で半世紀にわたりシンガポールの舵取りを行ってきたにも関わらず、派手なモニュメントの一つも遺さなかったとは見上げたリーダーというほかはない。

その点で、今回リー親子を私は見直した。

私はリー・クアンユーという政治家に興味を持ち、少し彼のことを調べてみることにした。

リー・クアンユー氏が生まれたのは1923年、イギリスが支配する海峡植民地の一部だったシンガポールである。

中国出身の客家系華人4世で、家族は主に英語を話す「海峡華人」と呼ばれたエリート一族だった。

日本占領時代、危うく華人虐殺を逃れて生き延び、戦後ケンブリッジ大学に留学して弁護士となる。

戦後のシンガポールではイギリスの植民地からの脱却を目指す運動が活発化、大きく揺れ動いていた。

そんな中リー・クアンユーは1954年、英語教育を受けた仲間と共に「人民行動党」を結成、シンガポールが自治権を獲得した1959年6月の総選挙で第一党に躍り出る。

さらにイギリスからの完全独立に向けマラヤ連邦との合併を模索、1963年マレーシアの一部として念願の独立を果たすも、この連邦国家はすぐに行き詰まり、シンガポールはマレーシアから追放されてしまうのだ。

1965年8月9日、リー・クアンユーは緑の芝生が美しい「パダン」に隣接するシティーホールでシンガポールの独立を宣言した。

「シンガポールは永久に、自由と正義の理念に基づく独立の民主的主権国家であり、常に国民の福祉と幸福を希求し、より平等で公正な社会を目指す」

このように演説したリー・クアンユーだったが、マレーシアの一部だったシンガポールの分離独立は彼が望んだものではなく、マレー人と華人の対立を嫌ったマレーシアのラーマン首相による追放の決断によるものだった。

マレーシアという後背地を失い国家生存の危機に直面したリー首相は、記者会見の場で人目も憚らずに泣き崩れたという。

しかし、ここからシンガポールの独自の国づくりが始まる。

一体、彼は何を行ったのか?

宮崎育夫著『物語 シンガポールの歴史〜エリート開発主義国家の200年」をベースに見ていこう。

リー・クアンユーがまず掲げた人民行動党のスローガンは「生存のための政治」だった。

そのために、人民行動党は全ての権限を政府に集中する政治体制を作り上げていく。

人民行動党は、独立後のシンガポールに必要なことは、経済活動を通じて生存を図ることであり、政府が決めたことを国民が一糸乱れず実行する体制が不可欠であると唱えた。人民行動党にとり好都合だったのは、最大のライバル集団の社会主義戦線が、人民行動党とマレーシア政府の弾圧と内紛により、もはや実質的な政治力を喪失していたことであった。さらに、分裂後は、議会ではなく街頭闘争に戦術転換して、残っていた国会議員全員が辞職していたことである。

辞職後の補欠選挙で人民行動党は全て勝利し、国会には野党議員がいなくなっていた。そのため、人民行動党の一党支配体制の構築は、社会主義戦線を背後で支えていた華人労働者(労働組合)、華語学校生(学生運動)、華人起業家(企業家団体)、華字新聞(マスメディア)などを、管理すればよかった。

最初に手を打ったのが労働組合への対策だった。実は、労働組合に対する管理は、すでに1960年代前半に始まっていた。その手法は、共産系グループの労働組合を強制的に解散させ、替わりに政府主導で全国労働組合評議会を創り、残った組合を加盟させるというもので、全国労働組合評議会書記長には人民行動党の有力指導者が任命されていた。

次に華語学校の学生運動に対しては、マレーシア時代の1964年8月に中央政府が導入した、マレーシア(とシンガポール)の大学に入学を希望する者は、マレーシアの安全を損なう者(たとえば共産主義者)ではないとの証明を、政府から取得することを義務付けた「適正証明書制度」が利用された。人民行動党はこれを使って共産主義者、そのシンパとみなされた者を、南洋大学やシンガポール大学から排除して、学生の非政治化を達成する。

さらに華人企業家に対しては、すでに1963年の州議会選挙の際に、社会主義戦線候補者に資金援助をしたとの理由で、有力華人企業家タン・ラークサイの市民権(国籍)を剥奪し、分離後も、これを見せしめに華人企業家の政治関与を厳しく制限していった。

そして、華字新聞に対しては1971年に、華語教育の衰退を懸念し、政府の英語化政策を非難する記事を掲載した『南洋商報』の編集者3人を、共産主義思想を宣伝し、華人ショービニズムを煽ったとして国内治安法で逮捕した。これ以外にも、英字新聞2紙を、外国(香港)の共産主義者から資金援助を得たなどの理由で廃刊に追い込んだ。

これら一連の抑圧や管理により、人民行動党の批判勢力や対抗勢力が政治の舞台から消えるか非政治化されて、一党支配体制が完成していくのである。

この後もメディアに対する締め付けは厳しく行われ、シンガポールで刊行される全ての新聞を一つの持株会社の傘下に統合するなど、政府批判を徹底的に封じ込めた。

私がこれまでリー・クアンユー氏に良い印象を抱いていなかったのもこうしたメディア規制が外国メディアにまで及んでいたためである。

こうして反対勢力を徹底的に排除したリー・クアンユー率いる人民行動党は、選挙で圧倒的な強さを誇った。

分離独立から3年後の1968年4月13日に、最初の総選挙が実施された。結果は人民行動党の完勝であり、国会58議席のうち51議席を無投票で獲得し、選挙が実施された7議席も84.4%の高得票率で全員当選して、国会全議席を独占した。

人民行動党の国会議席の独占は、1972年9月総選挙、76年12月総選挙、80年12月総選挙でも続いた。

野党がようやく議席を獲得したのは、1981年の補欠選挙による1議席である。1984年12月総選挙でも人民行動党は、79議席中77議席を獲得し、野党はわずか2議席を獲得したに過ぎなかった。ただし、人民行動党は野党の2議席獲得を問題視して、この後で、選挙制度の改革に乗り出すことになる。

わずか2議席を獲得しただけなのに、なぜ人民行動党は危機感を持ったのだろうか。その理由は、リー・クアンユーの理想とする国会形態が、野党のゼロ議席だからである。リーや人民行動党は、シンガポールは「民主主義国家」であると唱えており、そのために選挙をするが、それは民主主義国家としての形式を満たすためのものであり、実際には、政府の政策運営を批判する野党は国会に不要と考えていたからであった。

野党の排除を目的にした選挙制度改革が、それまでの小選挙区制と併用して導入された集団選挙区制である。具体的には、3つの小選挙区を合体して、定員3人の集団選挙区とするもので、同選挙区に立候補する政党は3人セットで立候補し、より多くの得票を得た政党が3人セットで当選する、3人のうち最低1人はマレー人かインド人でなければならないというものであった。

政府はその理由を、少数民族を国会の場に確保するためと説明したが、集団選挙区の真の狙いが、民族別に分かれていた野党の立候補と当選を困難にすることにあったのは明白であった。たとえば、華人政党はマレー人やインド人の有力候補者を探すことが難しかったからである。

こうして一党支配を確立したリー・クアンユー首相率いる人民行動党とはどのような政党なのか?

世界の国々の主要政党と比べた場合、大きな特徴の一つは、自由主義や民主主義や共産主義など、一切の政治イデオロギーや政治理念を持たないこと、その替わりに現実的で政策立案・実行能力などのプラグマティズムの原理に徹していることである。あえて言えば、プラグマティズムが人民行動党のイデオロギーになる。

人民行動党の組織は、十数人からなる中央執行委員会が最高決定機関で、その下に全選挙区に選挙区支部委員会が設置され、選挙区選出国会議員が責任者を務めている。特異なのは、選挙の際に重要な役割を果たすのが、選挙区支部委員会ではなく、各選挙区に創られた、政府の地域社会振興省傘下の市民評議会や住民委員会などの政府地域機関であることだ。これらの地域機関委員が人民行動党候補者の手足となって選挙キャンペーンを支えている。

人民行動党の国会議員は、結成当初は、労働組合指導者や党活動家の出身者が多かったが、分離独立後は、官僚、大学教員、専門家がそれに取って代わった。党員は誰でも国会議員候補者に名乗りを上げられるのではなく、中央執行委員会が党員や非党員の中から、政治家としての素質があると見込んだ人物に声をかけ、何段階もの選考過程を経て選ばれる。

シンガポールでは、優秀な学業成績を収めた高校卒業生に国家奨励金を与えて欧米の有名大学に留学させ、帰国後は官僚にする仕組みを作り上げてきた。現在は、官僚が人民行動党国会議員の最大の供給源である。シンガポールの政治エリート・コースは、国家奨学金ー海外一流大学ー官僚ー人民行動党国会議員ー大臣ー首相というものだが、これはリー・クアンユーが後継者育成と選抜のために作り上げた仕組みであり、第2代首相ゴー・チョクトン、第3代首相リー・シェンロンは、ともにこのコースをたどって首相になっている。

こうして見てくると、シンガポールは共産主義国家ではないけれど、かなり特異な国であることが理解できる。

さて、こうしてかなり強引な手法を使ってでも一党独裁による政治の安定を求めた理由こそ経済発展にあった。

1965年にマレーシアから分離して、マレーシア市場を失い、外国工業製品の輸入を抑制する輸入代替型が破綻すると、新たに打ち出された戦略が、世界市場に工業製品を輸出する輸出志向型である。

この新戦略の下で、あらゆる分野で政府が先頭に立つ国家主導型、それに日本や欧米先進国の企業に頼る外資依存型が採用される。その際に、外国企業は規律ある労働力など好ましい投資環境の国を選ぶことから、政治社会を安定させて、投資環境を整えることが不可欠と考えられた。人民行動党が、野党や政府批判勢力を管理して政治社会の安定に努めたのはこの論理のためであり、政治は経済発展の手段とみなされたのである。

人民行動党が最初に着手したのが、政府開発機関の整備である。すでに、1960年代初めに経済開発庁や住宅開発庁などが創られたが、分離独立後、これらの開発機関が体系的に整備され、とりわけ1968年に集中的に行われた。開発行政、貿易、金融・通貨、住宅、労働・賃金、企業振興と、経済社会開発に関わる政府機関が、ほぼ全ての分野にわたって整備された。

このうち、外国企業誘致との関連で注目されるのは、それまで政府の経済開発関連業務を一手に担っていた経済開発庁の再編である。すなわち、同庁を投資誘致の任務に特化する機関とし、この任務のために、たとえば、日本に留学した職員を、日本企業の誘致担当者に据えた。そして、新たにジュロン開発公社を設立して、外国企業向けの工業団地の建設・整備を行う機関とし、既存のジュロン工業団地の拡充や、シンガポール各地の公共住宅団地内に工業団地を併設するなどの新設を行なった。

外国企業の進出を促し、かつ活動しやすい法的環境の整備も行われた。1967年に、外国投資を奨励する様々なインセンティブを盛り込んだ「経済拡大奨励法」を制定し、68年には、外国企業に有利な内容の「雇用法」と「労働関係修正法」を制定して、労働組合の活動を抑制した。そして、1972年には、低賃金労働力を目当てに進出する労働集約型外国企業のために、実質的に政府が労働者の賃金を決める権限を持った全国賃金評議会を設立した。

シンガポールの経済発展の成否は、これらの政府開発機関で開発政策を立案・実行する有能な開発官僚の育成と確保にかかっているといっても過言ではなかった。そのために人民行動党は、特異とも言える開発官僚の調達の仕組みを作り上げる。

シンガポールの基本的な教育制度が特異なのは、教育制度の主眼が、成績優秀な生徒と出来の悪い生徒を選別して能力別のコース分けを行い、優秀な生徒にエリート教育を施して官僚にすることに置かれていることである。

そのための選抜試験は小学校段階から始まる。全ての生徒は小学校4年終了時に、全国統一試験を受け、成績に従って5年と6年時は3つのコースに分かれる。小学校終了時には、これも全国統一試験の小学校卒業試験があり、一定の成績に達しなかった生徒は、技術専門学校に進んだ後で就職するしかない。

中学校も、小学校卒業試験の成績により、特別コース、快速コース、普通コースの3つに分かれ、前者2つのコースの生徒が卒業時にGCE“O”レベル、普通コースの生徒がGCE“N”レベルと呼ばれる中学卒業試験を受け、普通コースの卒業試験の成績が悪い生徒は、高校進学の道が閉ざされる。

高校も、中学卒業試験の成績により、エリート・コースのジュニア・カレッジに進む者と、一般高校に進む者に分かれる。そして、ジュニア・カレッジの卒業時にGCE”A”レベルと呼ばれる高校卒業試験を受け、この成績によって、大学に進める者が決まる。

なぜ、早い段階の試験でほぼ一生のコースが決まるのだろうか。その理由は、リー・クアンユーが、人間は才能ある者とない者に分かれ、政府の仕事はそれを早く見極めることにあると確信し、この考えに基づいて教育制度が制度設計されたからである。

開発官僚を調達するうえで重要なのが、最後の高校卒業試験である。政府は、高校卒業試験で優秀な成績を修めた生徒に「国家奨学金」を与え、官僚への道を歩ませるからである。ただ、奨学金といっても、日本のように学業成績は優秀だが、家庭の経済的事情で勉学を続けるのが困難な学生に与えるものではない。シンガポールにもこのタイプの奨学金があるが、それは民間社会団体の役割である。国家奨学金は、家庭の経済事情とは無関係に、学業成績が優秀な生徒に与えるもので、たとえば、リー・クアンユーには2男1女がいるが、全員が国家奨学金の受給者である。

留学先は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、カナダ、オーストラリア、日本、中国の8カ国から本人が自由に選べる。だが、優秀な学生は例外なく、アメリカかイギリスの大学を選ぶ。

そして、海外の一流大学で学んだ学生を官僚に確保する最後の仕組みがボンド制度である。これは政府が国家奨学金供与の交換条件として、卒業後、官僚になることを義務付けたものである。もちろん違約金を払えば、民間企業や自分の好きな職業に就けるが、このようなケースは極めて少ない。

教育制度は出口でエリート官僚の確保につながっているわけで、国家奨学金制度は1959年の人民行動党政権の誕生とともに始まり、現行の制度は70年代初めに完成した。この仕組みを作り上げたのが、社会の中で最も優秀な者が国家運営を担う必要があると確信するリー・クアンユーなのである。

こうして国で最も優秀な若者を開発官僚にする仕組みを整えたリー・クアンユー首相は、次々にユニークな経済対策を打ち出す。

まずは、年金基金の活用。

人民行動党は、労働者の退職後年金も開発資金として利用した。開発途上国の開発では、先進国政府の援助、国際機関からの援助や借款、さらには民間銀行などからの借入に依存して、累積債務危機に陥った国が少なくないが、シンガポールも1960年代には外国援助や借款を利用している。しかし、その後は、基本的に国内で自己調達する。これが可能になった一因は、労働者の退職後年金に相当する中央積立基金制度を利用して、開発資金としたことにある。

中央積立基金は、イギリス植民地じだいの1955年に始まり、人民行動党政権時代に拡充されたもので、月間給与支給額又は受取額が50シンガポールドルを超える全ての労働者が毎月の給与から一定比率を積み立てる制度である。

労働者だけでなく雇用者も同率を拠出する。注目されるのは、シンガポールの国民労働者の年齢構成が若いので、定年に達して預金を引き出す者よりも、若い新規加入者がはるかに多く、毎年、巨額が基金にプールされていったことである。

政府がこの巨額資金を開発資金に転用した仕組みは次のようなものである。まず、中央積立基金の積立金で政府国債を購入して、積立金が国庫に移転する。その後、それを開発予算に組み入れ、政府補助金や貸付金として準政府機関などの事業資金にしたのである。

1967年〜82年の累積でみた借り手の上位3機関は、第1位が大規模な公共住宅建設を行った住宅開発庁、第2位が企業に資金融資をしたシンガポール開発銀行、第3位が島内各地に大規模な工業団地を建設したジュロン開発公社と上位を開発関連機関が占めた。

次に、外資依存型の開発。

アジアの多くの開発途上国では、韓国の財閥に代表されるように、政府が国内企業を育成して工業化の担い手にした。だが、シンガポールの工業化を担ったのは先進国企業である。

投資国は、第1位がアメリカ、第2位がイギリス、第3位がオランダ、第4位が日本、第5位が西ドイツ、と先進工業国が上位を独占し、この順位は毎年ほぼ同じである。製造業投資額の約80%を先進国資本が占め、シンガポール国内資本のシェアは20%ほどでしかない。

また、工業化を牽引した業種も、他のアジア諸国のように、低賃金労働力を使った繊維産業、おもちゃ産業、テレビ組立などの労働集約型産業ではなく、石油精製業、化学品産業、電器産業などであり、とりわけ電子部品産業と石油精製業の2業種だけで、1980年代には製造業付加価値総額の60%を占めた。

外国企業を誘致するために、シンガポールがさまざまな努力をしたなかで、特筆される一つが、ワンストップ政府機関と呼ばれるものである。

通常、先進国企業が開発途上国に投資する場合、投資認可交渉に始まり、優遇税制措置の確認、工場用地や労働者の確保、ガス・電気・水道などインフラ設備の確認、生産に必要な原材料や部品の輸入、利益の本国送金など、さまざまな問題を投資先国の政府機関と協議・交渉する必要がある。大半の国では担当省庁が違うので、外国企業は数多くの政府機関に足を運んで面倒な手続きを一つひとつクリアーしなければならない。しかし、シンガポールでは、外国企業の誘致を担当する経済開発庁とだけ交渉すればよい、一元的な窓口のシステムが作られた。とはいえ、同庁が全てを管轄したのではなく、投資する外国企業に代わって担当省庁と折衝や調整をしたのである。これが、ワンストップ政府機関である。

シンガポールは、外国企業を誘致するインセンティブの一つとして、多くの産業分野で100%出資の外国企業の設立を認めたので、世界的な多国籍企業は資金、技術、輸出市場と、全てをセットでシンガポールに持ち込んだ。極端な言い方をすると、政府はこれらのことを心配することなく、専ら外国企業の誘致と、外国企業が活動しやすい環境の創出に務めれば、後は外国企業が全てを行なってくれたのである。

国家主導型と外資依存型が結合した開発の結果はどうだったのか、経済成長率がそれを雄弁に語っている。

マレーシアに加盟した1963年こそ10.5%の高い成長率だったが、翌64年はインドネシアの貿易禁止措置やマレーシア政府との経済対立や国内の民族暴動などを原因に、マイナス4.3%と大きく落ち込んだ。しかし、分離独立した1965年に6.6%に持ち直すと、翌66年の10.6%をスタートに、第一次石油危機で世界経済が不況に陥った73年まで、8年連続の二桁の高度成長を記録した。分離独立後の1965〜73年の平均成長率は12.5%の高成長で、70年代末になるとシンガポールは、韓国、台湾、香港とともにアジア新興工業経済群(NIEs)の仲間入りを果たしたのである。

工業化の達成により、シンガポール経済は、イギリス植民地時代の貿易中心から製造業中心へと歴史的転換を遂げた。リー時代が終わる1990年には、製造業が29.6%、金融・ビジネスサービス業も26.9%に増え、これに対して、商業は17.2%に減少して、製造業と金融業がシンガポール経済を支える二大産業になったのである。リー時代の約30年で、シンガポールは多国籍企業の国際加工基地、東南アジアの金融センターへと転換したが、その最大の要因は、国家主導の下であらゆる資源を総動員した開発方式にあった。

製造業と並ぶシンガポールの顔、金融センターについても見ていこう。

1980年代になると、シンガポールは金融部門も発展する。なぜ金融だったのだろうか。

すでにイギリス植民地時代から、シンガポールは貿易業と密接な関連にある銀行業や保険業が発展して、金融部門の基盤が形成されていた。1970年代になると、日本やアメリカやヨーロッパなど先進国の金融機関は、貸付先としてのアジアに目を向け、東南アジアの地域拠点としてシンガポールを選び支店を設けた。そして、1980年代にマレーシアやインドネシアなど東南アジア諸国の経済開発が本格化して、開発資金の需要が高まると、調達先として、地理的に近い先進国の金融機関が大挙して進出しているシンガポールに目をつけた。この二つの動きが結合して、シンガポールが東南アジアの金融センターになったのである。

1968年にアジア・ダラー市場が開設されて、取引相手を外国(人)に限定したオフショア銀行の活動が始まっていたが、オフショア銀行数は、70年代は地場銀行11行、外国銀行が123行の合計136行へと大幅に増える。

シンガポールが地域の金融センターになった具体的要因は、効率的な行政、よく整備された通信インフラ、イギリスの法制度がビジネス取引の標準なこと、多くの国民が英語を使いこなすこと、世界の二大金融センターのロンドンとニューヨークの中間に位置して、24時間取引が可能なこと、などにあった。

金融部門でも、イギリス植民地時代に築かれた基礎と、政府の精力的な環境整備が発展につながったのである。シンガポールは、経済発展に役立つとみなすと、貿易であれ、製造業であれ、金融であれ、後の娯楽産業のカジノであれ、いかなる産業も見逃さなかった。発展が市場課題の国の面目躍如といったところである。

こうして順調に経済発展を遂げてきたシンガポールだが、80年代になると労働力不足と他の東南アジア諸国の追い上げという試練に直面する。

そこでリー・クアンユーが採ったのが産業構造高度化政策である。

政府が1979年に打ち出した新戦略が、資本集約型や技術集約型の産業を軸にした産業構造への転換であり、これが産業構造高度化政策である。

新戦略の狙いは、労働集約型産業をマレーシアやインドネシアなど東南アジアの近隣諸国に移転させ、そこから生じる貴重な労働力を、付加価値や技術レベルの高い産業に振り向け、さらなる発展を図ることにあった。この戦略で重要なのは、労働集約型産業を近隣諸国に移転させること、明快に言えば、「追い出す」ことだが、そのための政策の一つが、1979年から3年連続で行われた高賃金政策だった。産業構造高度化政策を打ち出すと、政府は誘致企業のターゲットを先進国の研究開発型企業、ハイテクなど高付加価値産業に絞り、積極的な誘致活動を開始した。

こうした一連の動きが語ることは、経済発展に役立つとみなした産業は全力を挙げて振興・誘致するが、ひとたび経済の阻害要因になったと判断すると、極めてドライな行動を採ることである。その理由は簡明である。シンガポールが土地と労働力の資源が限られた小さな国だからである。

巨大な政府系企業についても見ておこう。

シンガポールの経済開発では、政府系企業も担い手企業の一つである。イギリス駐留軍がシンガポールから撤退後、跡地の海軍基地を造船所にしたのを始め、石油精製、石油化学、貿易、金融、海運、エンジニアリング、武器製造、不動産開発、ホテル、観光業、さらには宝くじと、政府系企業が進出していない産業分野を見つけることは難しい。

これらは政府の単独事業もあれば、外国との合弁企業もあり、資本形態はさまざまだが、通信のシンテル社、銀行のシンガポール開発銀行、航空のシンガポール航空、不動産のキャピタランド社など、政府系企業には巨大企業が少なくない。

もし、政府系企業を一つの企業グループとみなすと、シンガポール最大の企業グループになるだろう。これら政府系企業の持株会社が、財務省が100%保有するテマセク・ホールディングス社であり、同社や政府系企業の経営責任者には、中央省庁事務次官などが兼任で任命されている。

ここまで見てきたように、シンガポールの経済開発は、国家奨学金制度を通じて調達した有能な開発官僚の下で、開発戦略、産業インフラの整備、外国企業の誘致、労働者の賃金管理、政府系企業による生産活動への参入など、あらゆる分野に政府が関与して行われた。シンガポールの経済開発では先進国企業の誘致が極めて重要だが、その任務を負った経済開発庁の官僚は、まるで商社員が世界中の国々に商品を売り込むかのように、先進国企業にシンガポールという商品、つまりシンガポールへの投資を売り込んだのである。

日本株式会社という言葉がある。これは、日本の政府と民間が密接に連携した官民一体の開発方式を指すが、シンガポールの開発方式もこれに類似し、シンガポール株式会社ということもできる。ただ、日本との違いは、政府の関与が経済分野に限定されることなく、政治・社会分野にも広がり、また、政府の主導の下に企業家だけでなく、ほとんどの国民が労働者として参加するなど、社会の資源が総動員して行われたことにある。

比喩的に言えば、シンガポール株式会社の社長が創業者オーナーのリー・クアンユー、副社長が片腕のゴー・ケンスィー、第一線の営業部長がエリート開発官僚、一般国民が事務職や現業の社員に相当する。そして、株式会社である以上、シンガポール株式会社は利益獲得に経営原理が置かれ、社長の大号令以下、社員全員が一丸となって会社の発展に励んだのである。

そんな国の隅々まで徹底的に管理された国を象徴する「夜の街」があると聞き、バスに乗ってどんな場所か見に行くことにした。

高層ビルが立ち並ぶ金融街からバスに乗ると、海岸沿いのハイウェーを通ってバスは東へ向かった。

バスを降りたのは「Aft Lor 14」というバス停。

特に変わった様子のない普通の街並みだ。

しかし、この界隈は「ゲイラン地区」と呼ばれ、シンガポール政府公認の売春宿が並んでいるという。

ネットの情報によれば、バス停がある「Guillemard Rd.」とその北側を平行に走る「Geylang Rd.」の間にその売春地区はあるらしい。

2つの大通りに間には、何本もの路地が南北に走っっている。

その中でも、この「Lorong 18」、「Lorong 20」と呼ばれる路地あたりが一番売春宿が集中するエリアだというので、とりあえずどんな所なのか、「Lorong 18」を歩いてみることにする。

時刻は午後5時40分。

日が暮れるまでにはまだ少し時間があるため、女を買いに来る客の姿はほとんどない。

ごく普通の住宅街を歩いていると、突然路地の左右にいかにもそれとわかる置き屋らしき店が現れ、店の前で暇そうに男たちが客待ちをしている。

私の姿を見て、声をかけてくる男もいるが、チラッと見るだけでやる気なさそうにスマホを眺めている男もいる。

私は路地を通り抜けただけで店には入らず、トラブルを避けるためにあえて写真は撮らなかった。

昔、台湾の赤線地帯を隠し撮りをしていて見つかって怖い目に遭遇したことがあったからだ。

代わりに、Googleマップのストリートビューを貼り付けておく。

日中はこんな感じ。

知らない人が通りがかっても、ここがまさか政府公認の売春施設だとは思わないだろう。

店の構造はどこも同じようで、外から見えないようになっている入り口を入ると広めの部屋があり、そこに女性たちがいるらしい。

ネット上に、ネイラン地区の夜の様子を隠し撮りした写真がアップされていたので、それを拝借する。

夜になるとピンクの灯りがついて、多少それっぽくなるようだ。

しかし、バンコクやマニラの夜の街のようにいかにもという派手派手しさは全く感じられない。

ネイラン地区は古くからの歓楽街だったようだが、売春地区として有名になったのは1990年ごろからとのこと。

リー・クアンユー首相は回顧録で次のように書いているという。

「売春、ギャンブル、麻薬・アルコール依存症などの社会悪はコントロールできるだけで、根絶はできない。シンガポールの海港としての歴史が意味するのは、売春は管理され、町の特定地域で女性の定期健康診断を課しながら行われる必要があったということだ」

もともと労働者不足のシンガポールでは、単純労働については外国からの出稼ぎ労働者に頼ってきた。

単身でやってくる男性労働者のために管理売春を行う場所が必要だったということだろう。

言ってみれば、これもシンガポール流の現実主義。

こうしてゲイラン地区にはシンガポール政府公認の置き屋が集まり、中国やタイなど外国から出稼ぎに来た女性たちが働いている。

そして、彼女たちは定期的に性病の検査を受け、ルールに基づいて管理されており、すなわち「公娼」なのだ。

売春までも管理下に置くシンガポールという究極の「開発主義国家」。

個人的には違和感を抱く部分もあるが、非常によく考えられた国だとも思う。

多様な国が存在することは世界を豊かにし、自分の国を見つめ直すヒントをくれる。

シンガポールを訪れて、単にマーライオンとマリーナベイ・サンズの前で記念撮影するだけではあまりにも勿体無い。

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