<吉祥寺残日録>吉祥寺も昔、戦場だった!中島飛行機とグリーンパーク野球場 #200815

今日は終戦の日、焦土の敗戦から75年が経った。

吉祥寺在住者の間では有名な話ではあるが、一般にはあまり知られていないこのエリアの戦争の記憶について今日は少し触れておきたい。

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会社を辞めた後、図書館で地元に関する本を借りてパラパラと眺めているのだが、そうした本の多くに紹介されているエピソードの一つが武蔵野での空襲の話である。

郷土出版社の大判写真集「保存版ふるさと武蔵野」にはこんな航空写真が掲載されていた。

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昭和19年(1944年)に日本陸軍が撮影した武蔵野市上空からの写真。

下の方を走っているのが中央線で、ちょうどJR三鷹駅あたりが写っている。吉祥寺駅は写真の右側、ちょうど切れたあたりである。

まだ多くの田畑が残る当時の写真で、一際目につくのは写真上部に写る建物群だ。

零戦のエンジンなどを製造していた中島飛行機武蔵製作所である。

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同じ写真を拡大する。

画面右側、ノコギリ屋根の建物群から陸上グランドあたりが陸軍用の「東工場」、画面左に整然と並ぶ鉄筋造り6棟の建物群が海軍用の「西工場」である。

日本軍と共に急成長した中島飛行機は当時世界有数の航空機メーカーだった。

その中核となる武蔵製作所は東洋一の飛行機エンジン工場とも呼ばれ、勤労動員学徒を含む5万人が交代で働いていた。

1944年11月24日から始まったマリアナ諸島からのB29による本格的な本土爆撃。

中島飛行機武蔵製作所は、その最初の標的となった。

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こちらは、米軍が戦後に撮影した旧武蔵製作所。

西工場の方は米軍宿舎として再利用されるために改修されているが、東工場の方には生々しい空襲の跡が残っている。

中島飛行機武蔵製作所はその重要度から、終戦までに9回もの空襲を受けた。

当然、工場を外れた爆弾は周囲の民家も襲い、民間人の犠牲者も出たのだ。

「住みたい街」として人気の吉祥寺だが、かつては、中島飛行機を中心とする軍需産業の町であり、今も点々と戦争遺跡が残るそんな街でもあるのだ。

最近やたらと早起きな妻が活動する気配で、私は今朝5時前に目を覚ました。

昇る太陽を眺めながら、せっかく起きたのだから、かつて中島飛行機の工場があったあたりを自転車でぐるりと一回りしてみようと思い立った。

ちょうど武蔵野市の広報紙である「市報むさしの」に戦後75年の特集記事として、武蔵野の戦争遺跡マップが掲載されている。

それを見つけた妻が私が興味を持ちそうだと教えてくれたのだ。

このマップをリュックに放り込んで自転車を漕いで北西へと向かう。

まず最初に訪れたのは、五日市街道沿いにある真言宗のお寺「延命寺」。

入口に真新しい仁王像が立つあまり品のよくないお寺だが、この寺に戦争の残骸が残っているという。

それがこちらの250キロ爆弾の破片。

境内に設置された案内板によれば、この250キロ爆弾は武蔵野市西部にある「武蔵野大学」近くに落下したものだという。

延命寺は、中島飛行機があった場所から200メートルしか離れていないため、この境内にも爆弾が落下し、周辺で暮らす寺の檀家さんにも多くの犠牲者が出たと書いてある。

被害を受けた檀家さんたちが金を出し合い戦後立てたという「平和観音菩薩蔵」が250キロ爆弾の脇に静かに立っていた。

観音菩薩の台座には、戦死した檀家と戦災で亡くなった方々の名前が刻まれているという。

次に行ったのは「関前高射砲陣地跡」。

今は小さな公園になっていた。

中島飛行機を空襲から守るため、工場周辺には高射砲が6門、半円形に配置されていたという。

武蔵野市内では他にも、現在の成蹊大学や日赤武蔵野病院の敷地内にも高射砲陣地があった。

しかし、高度1万メートル上空を飛ぶ米軍機に対し、日本軍の砲弾はほとんど届かなかったそうだ。

高射砲陣地の脇には、「グリーンパーク遊歩道」が南北に通っている。

住宅街の中にわずかな緑を残すこの細い遊歩道も実は戦争遺跡だ。

中島飛行機に物資を運ぶために、JR中央線・武蔵境駅と中島飛行機の間に設けられた鉄道の引込線の名残である。

この遊歩道を辿って、自転車を北へ走らせると・・・

突然、広々とした原っぱに出た。

「都立武蔵野中央公園」

武蔵野市民の憩いの場として愛されるこの公園が、かつて中島飛行機武蔵製作所があった場所である。

正確に言うと、「西工場」と呼ばれた海軍向けの工場があった場所で、戦後はアメリカの進駐軍に接収され一時米軍住宅となった。

戦争の記憶をすべて取り壊し、こうした広々とした原っぱに生まれ変わったのは地元住民たちの希望だったそうだ。

都立武蔵野中央公園の東の隅には、5枚のパネルがひっそりと設置されていた。

この場所にかつて、米軍に9回もの空襲を受けた巨大軍需工場があったことを語り継ぐためのパネルである。

「ここは、東洋一といわれた航空機エンジン工場=中島飛行機武蔵製作所の跡地であり、マリアナ諸島からの日本本土空襲の最初の目標となった場所です」

1枚目のパネルには、そう記されていた。

そしてこうも書いてあった。

「この説明板のある場所は工場のほぼ中心にあたり、空襲の際には『爆撃照準点』(Aiming Point)として、たびたび標的となりました」

中島飛行機はもともと群馬で創業した会社だが、長期にわたる中国での戦争で急成長し、東京荻窪にも工場を新設した。

戦線が拡大するにつれすぐにそこも手狭になったため、この場所、すなわち当時の地名で言うと北多摩郡武蔵野町に広大な敷地を確保して、陸軍専用のエンジン工場「武蔵野製作所」を開設した。

日本軍による重慶爆撃が始まる昭和13年(1938年)のことだ。

さらに真珠湾攻撃が行われる1941年には、「武蔵野製作所」の隣に海軍専用の「多摩製作所」も建設された。

当初は、お互いに情報が漏れないよう完全に工場を分離していた陸軍と海軍だが、戦争が泥沼化する中で工場を統合することになる。

1943年、「武蔵野製作所」と「多摩製作所」を合併して「武蔵製作所」が誕生、それぞれが「東工場」、「西工場」と呼ばれた。

この中島飛行機武蔵製作所に初めての空爆が行われたのは、昭和19年(1944年)の11月24日。

グアム島やサイパン島を占領したアメリカ軍は、この日マリアナ諸島から直接B29による本格的な本土空襲を始めた。

その第一目標となったのがここ中島飛行機武蔵製作所だったのだ。

その後9回の空襲に見舞われるが、特に激しい空襲が行われたのが1945年4月だった。

さらに・・・

説明文を読みながら私が驚いたのは、「原爆模擬爆弾」が武蔵野に投下されていたという事実だった。

こう記されている。

「7月末からは、原爆投下のための特殊部隊によって、原爆の投下訓練とデータの収集のため、全国で約50か所に原爆模擬爆弾(パンプキン爆弾)が投下されました。原爆模擬爆弾とは、長崎型原爆と同じ形の爆弾で、そこに通常の爆薬を充填したものです。7月29日、そのうちの1発が中島飛行機武蔵製作所をめがけて投下されました。しかし、目標をはずれて、現在の西東京市柳沢に落下し、農作業中の女性と子どもがなくなりました」

半月後、武蔵野もようやく終戦を迎えた。

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戦後になると、中島飛行機の跡地はいろんな変遷を辿る。

破壊された西工場を改修してアメリカ進駐軍の宿舎が建設された。上の写真は、米軍宿舎の建設工事現場を撮影したものだという。

自分たちに爆弾を投下した米軍の宿舎ができることを知った武蔵野の住民たちから反対運動が起きる。

武蔵野市は今でも市民運動が活発な自治体として知られるが、その原点はこの米軍住宅反対運動にあったのだ。

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さらに、サンフランシスコ講和条約に調印し日本が主権を回復した1951年、跡地にはプロ野球での使用を想定した本格的な野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が完成する。

収容人数は5万人。喫茶店やビアホールも併設されていた。

完成した年の4月14日から2週間、東京六大学の春のリーグ戦で初めて使用されたのを皮切りに、5月5日にはプロ野球の杮落としとなる国鉄スワローズ対名古屋ドラゴンズの試合が行われた。

なんと吉祥寺のすぐ近くで、プロ野球が開催されていたのだ。

旧中島飛行機への引込線を活用して「武蔵野競技場前」駅が新設され中央線・三鷹駅から観客を運ぶ体制も整備された。

今では西武ドームのように鉄道を使って郊外に観客を運ぶというのは珍しくないが、戦後まもないこの時期にはそううまくはいかなかった。

「グリーンパーク野球場」は都心から遠いという理由であまり利用されず、開業1年目にプロ野球が行われたのは8日間、計16試合に止まった。

さらに米軍に接収されていた神宮球場が使用できるようになって野球場不足も解消されたため、旧中島飛行機の労働組合が中心で立ち上げた運営会社「東京グリーンパーク」はわずか1年で倒産してしまうのだ。

それでも、かつて吉祥寺近くにあった幻の野球場は、なぜか私の心に強く引っかかっている。

そして今。

戦争の記憶が詰め込まれた中島飛行機の正門跡地には、立派なマンションが建っていた。

そこから北東に向かって自転車を走らせる。

緑あふれる大規模団地「武蔵野緑町パークタウン」。

こちらも、かつての中島飛行機の跡地である。

この立派な施設、「NTT武蔵野研究開発センター」も旧中島飛行機の敷地内に建っている。

さらには、職員の給与が全国一高いと言われる武蔵野市役所。

この市役所が建っている敷地も、かつての中島飛行機武蔵製作所東工場の跡地なのだ。

そして極め付けは、こちら。

武蔵野市役所の向かい側にある「武蔵野陸上競技場」。

市民に解放されているこの400メートルトラックも、もともと中島飛行機が社員の運動場として作ったものなのだ。

「武蔵野陸上競技場」の看板が立つスタンド席は当時のまま土を盛って作られているが、戦時中はこの土盛りに横穴を掘って防空壕として利用した。

さらに防空壕の上には、飛来する米軍機を迎え撃つ高射機関砲が据え付けられていた。

当時の様子を一番残している戦争遺跡といえば、この陸上競技場かもしれない。

今の平和な吉祥寺の街からは、にわかに想像できない戦前戦後の写真や記録。

今となっては「幻」のようにも感じる戦争の記憶だが、中島飛行機とグリーンパーク野球場は私を強烈に魅きつける地元のストーリーである。

いつの日かもっと詳しく調べて、自分なりに後世のため、なんらかの形で戦争の記録を残せれば・・・。

75回目の終戦の日、私は密かにそんなことを企んでいる。

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