<吉祥寺残日録>シニアのテレビ📺 「京の都を守る霊山 祈りの道〜絶景の参詣道をゆく」 #211030

東京は今日もいい天気だ。

色づき始めた「カツラ」の木の下を、乳母車を押したカップルが歩いていく。

実に平和な光景である。

私は井の頭公園をジョギングし、ストレッチをし、何ヶ月ぶりかで400メートルトラックを一周走ってみた。

タイムは何と1分54秒、めちゃくちゃ遅い。

歩くのと走るのではやはり使う筋肉が違うようで、脚のあちらこちらが引きつって、途中で息苦しさを覚えた。

こりゃ、ダメだ。

また定期的に運動をしなければ、身体が完全になまってしまっている。

そんな穏やかな土曜日、録画していた一本のテレビ番組を見た。

去年の元旦に放送された旅番組だ。

「京の都を守る霊山 祈りの道〜絶景の参詣道をゆく〜」

いかにもシニア好みのタイトルである。

私も若い頃には見向きもしなかっただろう。

京都を舞台にした旅番組は毎年膨大な数が制作されているが、京都を取り囲む東山・北山・西山という3つの霊山を7日間かけてトレイルするという番組は見たことがなかった。

私の知っている場所、知らない場所が入り乱れて紹介されるので、ついつい引き込まれ、いつか私もこの参詣道を歩いてみたいとの思いに駆られたのでここに記録しておこうと思う。

このルートは2016年に「京都一周トレイル」として整備された。

京都市と京都府山岳連盟が構想した全長83.3キロに及ぶトレイルコースである。

それでは、番組の進行に合わせて7日間の行程を辿りながら、それぞれのスポットの歴史などを調べてみた。

途中、お正月番組らしく霊験あらたかな12ヶ所の「あらたかスポット」を番組独自に選んで紹介してくれている。

1日目 伏見桃山駅〜清水寺の先までの20km

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。

全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫国の香椎宮との関連性が強く神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である。

1868年(明治元年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは、官軍(薩摩藩)の本営となり、竹田街道を挟んで南側にあった幕府軍(会津藩・新選組)の本営・伏見奉行所を砲撃して陥落させている。

【あらたかスポット】御香水

「名水百選」に選定されている。

伏見稲荷大社

京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本社。その信仰は稲荷山の三つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする。初め農耕の神として祀られ、のちに殖産興業の性格が加わって衆庶の篤い信仰を受けた。

稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。

そもそもは、渡来人である秦氏の祖霊として創建されたとされる。

江戸時代に活発となった商いの成功(結願)を祈る商人には人気があり、結願の礼として本社に赤い鳥居を奉納する習慣が広まり、膨大な千本鳥居を形成するに至る。

【あらたかスポット】劔石(つるぎいし)別名 雷石

御劔社(みつるぎしゃ)というお社にあり、雨をふらせる農業信仰のほかに、この場所で鍛冶が刀を鍛え名刀を作ったという伝承がのこり、さまざまな職人や技術者にも信仰されている。

泉涌寺(せんにゅうじ)

真言宗泉涌寺派の総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。皇室の菩提寺(皇室香華院)として御寺(みてら)と呼ばれている。

東山の一峰である月輪山の麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵があり、霊明殿には歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。

明治政府の神仏判然令により、陵墓は全て宮内省諸陵寮(現・宮内庁書陵部)の管理下に置かれることとなり、以後は天皇・皇后の葬儀を行うこともなくなったが、明治天皇の勅旨により、堂宇の営繕修理は、全て宮内省において実施され、日常の経費も御尊牌奉護料として下賜されていた[4]。戦後、政教分離の原則を定めた日本国憲法施行により、国費を支出することができなくなったことから、1966年(昭和41年)に三笠宮崇仁親王を初代総裁とする「御寺泉涌寺を護る会」が有志により設立され[5]、現在は秋篠宮文仁親王が総裁を務めている。

【あらたかスポット】鳴き龍

12年に一度御開帳される舎利殿の天井に描かれた狩野山雪作『蟠龍図ばんりゅうず。堂内で手を叩くと、龍が鳴くような不思議な残響音がある。

【あらたかスポット】楼門の滝

鹿ケ谷から大文字山に通じる登山道沿いにある落差10メートルの滝。

清水寺

北法相宗の大本山の寺院。本尊は十一面千手観世音菩薩。

清水寺は法相宗(南都六宗の1つ)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

平安時代以来長らく法相宗の興福寺の支配下にあり、平安時代中期からは真言宗をも兼宗していたが、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。

1914年(大正3年)には興福寺住職・法相宗管長であった大西良慶(1875年 – 1983年)が清水寺貫主(住職)に就任する。大西は1965年(昭和40年)に法相宗から独立して北法相宗を開宗、初代管長となった。大西は1983年(昭和58年)、満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。

思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」というが、清水寺塔頭・成就院に残る『成就院日記』の記録によれば、実際に飛び降りた人が元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間に未遂を含み235件、死亡者は34人に上り、生存率は85.4パーセントであった。なお、1872年(明治5年)に京都府は「舞台飛び落ち」は封建的な悪習であるとして禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで、「飛び落ち」は影をひそめた。

2日目 日向大神宮から比叡山までの15km

日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)

伊勢神宮の屋根と似た造りで「京のお伊勢さん」と呼ばれ、内宮には天照大御神(あまてらすおおみかみ)がお祀りされている。

社伝によれば、第23代顕宗天皇の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建された。

応仁の乱で社殿等を焼失し、祭祀が一旦途絶えた。江戸時代初期に篤志家によって旧社地に再建され、交通祈願の神社として有名になった。

【あらたかスポット】天の岩戸

内宮の左の坂道を少し上った所に「天の岩戸」があり、岩のトンネルをくぐることを「胎内くぐり」と呼んで開運や厄除けのご利益があるとされる。このトンネルは自然の洞窟ではなく人の手で掘られたもの。

大文字山

大文字山は如意ヶ嶽の支峰で標高465m、毎年8月16日に行われる「五山の送り火」で有名だが、山上から京都市内が一望できハイキングコースとしても人気がある。

雲母坂(きららざか)

修学院離宮の脇より比叡山の山頂に至る山道で、途中にここから先には女人が入ることを禁じる「浄刹結界趾の石碑」が立っている。

比叡山延暦寺

標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。

延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。

延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。1994年(平成6年)に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。

また、「十二年籠山行」「千日回峰行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。

現在行われている「根本中堂」の改修工事は2026年まで。

3日目 比叡山から大原まで10km

【あらたかスポット】玉体杉(ぎょくたいすぎ)

比叡山籠山修行の一つに「千日回峰行」のコースの中で、行者が唯一腰をおろすことが許されるポイントが玉体杉。行者はここから京都の街を見下ろし、御所にいる天皇(玉体)の安寧と国家の安寧をもたらすための加持を行う。

三千院

かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた京都の大原にある天台宗の寺院。本尊は薬師如来。青蓮院、妙法院とともに、天台宗山門派の三門跡寺院の1つに数えられている。

三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源を持ち、後に比叡山東麓の坂本(現・滋賀県大津市坂本)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。

「国宝 阿弥陀三尊坐像」が境内の往生極楽院に祀られていて、その庭園には「わらべ地蔵」が数体たたずんでいる。

寂光院(じゃっこういん)

大原にある天台宗の尼寺。本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は聖徳太子と伝わる。平清盛の娘・建礼門院徳子が、平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られている。

平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた徳子をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)の事で、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。

本堂は淀殿・豊臣秀頼の命で片桐且元が奉行として慶長年間(1596年 – 1615年)に再興したものであったが、2000年(平成12年)5月9日に放火で焼失した(犯人未逮捕のまま2007年(平成19年)5月9日公訴時効成立)。この際、本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)も焼損し、堂内にあった徳子と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまった。現在の本堂は2005年(平成17年)6月に再建された。同時に新しく作られた本尊や徳子と阿波内侍の像も安置されている。

4日目 大原から貴船神社まで8km

【あらたかスポット】大イチョウ

大原から鞍馬に抜ける道の途中にある静原神社の「大イチョウ」。

飛鳥時代に天武天皇が逆徒に襲われた際、身も心も静かになったことから志津原を「静原」と称したとも言われている。

鞍馬寺

鞍馬弘教の総本山の寺院。鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)によって開山されたという。本尊は寺では「尊天」と称していて、毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。

「護法魔王尊」(サナート・クマラ)とは、650万年前、金星から地球に降り立ったもので、その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま、年をとることのない永遠の存在であるという。

鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。「鞍馬天狗」とはもともと護法魔王尊であったと思われる。

昭和期の住職・信楽香雲(しがらきこううん)は、1947年(昭和22年)に鞍馬弘教を開宗。1949年(昭和24年)には天台宗から独立して鞍馬弘教の総本山となった。

京都の奥にある鞍馬山は山岳信仰、山伏による密教も盛んであった。そのため山の精霊である天狗もまた鞍馬に住むといわれる。鞍馬に住む大天狗は僧正坊と呼ばれる最高位のものであり、また鞍馬山は天狗にとって最高位の山のひとつであるとされる。

毎年10月22日には、京都三大奇祭の一つ「鞍馬の火祭り」が行われる。集落各所に焚かれた篝火の中を、氏子が松明を持って練り歩き山門前を目指す。

【あらたかスポット】木の根道

本殿より東、奥の院参道沿いに行くと、杉林がうっそうと繁り木の根が露出した神秘的な道が見えてくる。この地で牛若丸が天狗を相手に修行をしたといわれている。

貴船神社

全国に約450社ある貴船神社の総本社。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」という。

社前には賀茂川の上流に位置する貴船川が流れており、京の市中を潤す鴨川の源流とも考えられた。水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。

古来より歴代天皇は干ばつの時には黒馬を、長雨には白馬を奉納して祈願をしていたといい、後に生きた馬に替えて、馬形の板に着色した「板立馬」を奉納したと伝えられる。これが現在の絵馬の原形となったため、貴船神社が「絵馬発祥の社」といわれる。さらに木または紙に描かれた馬の絵によって代用されるようになり、江戸時代に入って個人が小型の絵馬を神社に奉納する習慣が広くする流行するにいたった。

貴船神社のおみくじは、くじを引いて巫女に告げるのではなく、一見真っ白に見える紙の中から一枚を選び、境内の霊泉に浮かべると吉凶が解る「水占おみくじ」である。QR Translatorが印刷されていて、当社を訪れる外国人観光客は、それぞれの言語でおみくじを読むことが可能になっている。

【あらたかスポット】奥宮

本宮の上流700メートルの場所にあり、以前はここが本宮だった。闇龗神(くらおかみのかみ)を祭神とする。

5日目 貴船神社から栂尾(とがのお)までの17km

北山杉

磨き丸太として、室町時代から茶室や数寄屋に重用された。特に、京都市街の北西約20kmに位置する北山地方、現在の京都市北区中川を中心とする地域は、北山杉の産地として栄えた。中川地域は隣接する小野庄(現在の京都市北区小野郷)や梅ヶ畑庄(現在の京都市右京区高雄)とともに京都御所に産物を献上する「供御人」としての地位を授かって古来より磨丸太類の生産、販売を行った。日本庭園などでも見られる台杉仕立てと呼ぶ特徴的な育林方法がある。枝打ちを行う職人がつける道具を「さるとび」という。

高山寺(こうざんじ)

栂尾にある真言宗系の単立寺院。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

境内には茶園があり、明恵が、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西から茶の種を貰い植えたという伝承に基づき「日本最古の茶園」の石碑が建つ。この地で栽培された茶は、栄西が当時の中国の南宋へ留学した際にそこで種子を得て、帰国後に明恵の求めに応じて贈ったものと伝える。明恵はこれを初めは栂尾山の深瀬に植え、明恵が没した後も栂尾において栽培が続けられた。また宇治の民の願いによって明恵が宇治に種を撒き、宇治その他の土地に広まったとも伝える。

6日目 清滝口から愛宕山(あたごさん)山頂まで8km

【あらたかスポット】愛宕神社

全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在は「愛宕さん」とも呼ばれる。

山城・丹波国境の愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する。古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。

火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。7月31日夜から8月1日早朝にかけて、千日通夜祭(通称・千日詣り)が行われ、この時に参拝すると千日分の御利益があるとされ、毎年数万人の参拝者がある。

天正10年(1582年)5月、いわゆる本能寺の変直前、首謀者の明智光秀は戦勝祈願と称して愛宕神社に参籠し、洛中の本能寺に滞在予定の主君織田信長を攻めるかどうかを占うため籤を 3回引いたという。翌日、同神社で連歌の会(愛宕百韻)を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされる。

参詣といえども登山に等しく、天候により真夏以外は朝夕寒かったり山上が雲の中に入って濃霧に覆われる時もあるので防寒具や雨具が必要な時もある。また、千日詣りの日(の表参道)を除いて参道には夜間の照明は殆どない。往復で4~5時間掛かる為、午後から山に登ると下山するまでに日没になってしまい、外灯が殆ど無いため懐中電灯を装備していないと遭難状態となる事があるので、注意が必要。

京都一周トレイルルートには含まれていない。

7日目 嵐山から松尾山まで5km

【あらたかスポット】竹林の音

野宮神社から天龍寺北門を通り大河内山荘へ抜ける約400メートルの道は「竹林の小径」と呼ばれ、手入れされた竹林が道の両脇に続く京都を代表する観光名所。平安時代には貴族の別荘地だったと言われており、初冬には竹林の両側がライトアップされる「嵐山花灯路」が開催される。

天龍寺

臨済宗天龍寺派の大本山の寺院。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されている。

足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。

元治元年(1864年)7月、禁門の変(蛤御門の変)で長州藩兵が立て籠もり、攻撃してきた幕府軍や薩摩藩兵の兵火にかかって大打撃を受け、伽藍が焼失する(8回目の大火)。

応仁の乱など度重なる大火のため、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。

松尾大社(まつのおたいしゃ)

京都盆地西部、四条通の西端に鎮座する。元来は松尾山(標高223メートル)に残る磐座での祭祀に始まるとされ、大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたといわれる。その後も秦氏(はたうじ)により氏神として奉斎され、平安京遷都後は東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され、西の王城鎮護社に位置づけられた。松尾大社の社家は、古くから秦氏(はたうじ)が担うとされる。

松尾大社は、古代から渡来系氏族の秦氏(はたうじ)に奉斎されたことで知られる。秦氏は、秦王朝の始皇帝の後裔とする弓月君の子孫を称したことから「秦」を名乗った氏族であり、同じく漢王朝の遺民を称した漢氏(あやうじ)とともに渡来系氏族を代表する氏族である[7]。同じ渡来系の漢氏が陶部・鞍作部・工人等の技術者集団から成ったのに対して、秦氏は倭人系の集団を含んだともいわれる秦人部・秦部等の農民集団で構成されていたことから、古代日本において最も多い人口と広い分布を誇ったといわれる。

松尾大社に関する古い伝承には、大山咋神が鎮座するという『古事記』の伝承、宗像の中部大神(中津島姫命)が鎮座するという『秦氏本系帳』の伝承、秦氏に加えて賀茂氏も創立に関与したとする『秦氏本系帳』の別伝承の3種類が存在するが、これらの解釈には不明な点が多い。

秦氏と賀茂氏は平安京以前の京都盆地における2大氏族であり、秦氏の入植以前から賀茂氏は当地にあったと推測される。秦氏と賀茂氏とが姻戚関係により連携して祭祀を行なったことが伝承の背景にあるとの見方もある。なお賀茂氏と秦氏との関連性については、上記の丹塗矢伝承のほか、松尾祭・賀茂祭で「葵祭」と称して似た祭祀を行うこと、御阿礼神事を行うこと、斎王・斎子といった巫女による祭祀を行うこと等も併せて指摘される。

【あらたかスポット】亀の井のご神泉

中世以降は酒の神としても信仰され、現在においても醸造家からの信仰の篤い神社である。神使を亀と鯉とすることでも知られている。社殿背後にある霊泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないといい、醸造家がこれを持ち帰る風習が残っている。

以上ざっと、東山・北山・西山をめぐる「京都一周トレイル」の有名スポットを記録した。

一気に巡るのもいいだろうが、順番にじっくりと回ってみるのも興味深い。

個人的には最後に登場した「松尾大社」と秦氏について非常に興味が湧いた。

日本人のルーツに関する何かが隠されているような気がしてならない。

来年以降じっくりと時間をかけて、知らない京都を味わうことにしよう。

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