<きちたび>4泊5日香港マカオ深圳の旅12 3つの博物館で知る三都の物語

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年末年始に行った香港、マカオ、深圳の旅。

早いものであれからもう1ヶ月半が経ってしまった。いろいろ調べないといけないので、ついつい後回しになっていた博物館にまつわる報告を、そろそろ片付けてしまおう。

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香港、マカオ、深圳。

珠江デルタに位置する3つの都市は、近接しているにも関わらず、まったく違った歴史を刻んできた。

昨年末、このエリアを旅するにあたり、それそれの街の博物館に足を運んでみた。その展示内容と帰国後に読んだ参考文献をもとに、知っているようで知らないこの三都の物語をまとめておこうと思う。

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3つの博物館は、かなり趣を異にしていた。

まず最初に訪れたのは、マカオ博物館。

中国に返還される前年の1998年、世界遺産「モンテの砦」の中に建設された。

入場料は15パタカ(約210円)だ。

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モンテの砦に並べられた大砲。ここはかつてポルトガルとオランダによる戦いの舞台となった。

1513年、他の列強に先んじて中国に進出したポルトガル人が、当時の明朝から居留を認められマカオは中国で最初の西洋人居住区となった。

そのポルトガルに対し新興国オランダが攻撃をしかけ他のは、1622年。オランダ艦隊がマカオに上陸、その時ここモンテの砦から打ち込まれた砲弾がオランダ軍の火薬樽に命中し、ポルトガルは辛くもオランダを撃退した。

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マカオ博物館の展示内容を見てみよう。

まず玄関を入って最初のコーナーは、中国と西洋、別々に歩んだ2つの世界の歴史を対比している。2つのまったく違う世界がここマカオで遭遇したという、どちらかと言えばポジティブな演出が目立つ。香港や深圳の博物館とは決定的に違う。

ポルトガル人は中国政府に租借料を払い中国の主権を尊重した。そうしたマカオの歴史が展示内容にも反映されているのだろう。

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ポルトガル人は、ここマカオを拠点に長崎にもやって来た。

長崎ルートは、ゴア経由のリスボンルート、マニラ経由のメキシコルートと並んで、マカオの三大交易ルートとなった。

しかし一時はアジア貿易を主導したポルトガルは、後を追ってアジアに進出してきたオランダによって、マラッカなどの拠点も日本との交易ルートも次々に奪われた。

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マカオ経由で日本にも運ばれた活版印刷機など西洋からもたらされた新技術も展示されていた。

マカオ博物館の展示には、あまり政治色が感じられない。激しい戦争の舞台にもならなかったマカオの人たちには、被害者意識が乏しいのかもしれない。

しかし、この街はアヘン貿易の一大拠点であり、賭博や苦力貿易など負の歴史を多く抱えた街でもある。そうした展示がまったくなかったのは少し残念に感じ、拍子抜けした。

その意味で、マカオ博物館はあまり面白くない。

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そんなマカオとは対照的に、香港はイギリスが武力によって中国から奪い取った街だ。

香港歴史博物館は中国への返還後の1998年に作られただけあって、歴史教育に力を入れる中国政府の方針に沿った展示が見られる。中国の他の歴史博物館同様、入場料は無料だ。

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展示は、まずは香港エリアの太古の歴史から説明される。大昔には、このあたりは虎や熊も歩き回るジャングルだったらしい。

今ではちょっと考えられない話だ。

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そこに中国南方系の人々が移り住み、主に漁業や製塩業を営むようになった。

そんな中国の辺境だった香港エリアが劇的な変化を遂げたのは、やはりイギリスがやってきたことによる。

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中国の英雄・林則徐の像。

香港歴史博物館で目を引くのは、やはりアヘン戦争にまつわる展示だ。

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今の常識から考えると、植民地時代の列強のやり方は本当にひどい。

18世紀末、中国貿易の大半を握っていたのは、イギリスの東インド会社であった。「朝貢貿易」しか認めない清朝に対し、イギリスはインドからのアヘン密輸を開始する。北京政府はアヘン貿易を禁止したが、アヘンは急速に中国社会を蝕んでいく。

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アヘン取り締まりのため広東に派遣された林則徐は、1839年、アヘンの持ち込んだものは死刑という通告をし、イギリス商人からアヘンを没収して処分した。

焼却処分では燃え残りが出るため、アヘンを海に沈めた上で塩と石灰を投入して無毒化する徹底ぶりだった。

その様子を再現した大型スクリーンも用意されていた。

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これを受けてイギリス人は一時マカオに退去した。

津田邦宏著「観光コースでない香港・マカオ」によると・・・

『英国にとってマカオは、大量のアヘンを中国で売りさばく基地でもあった。東海岸の南湾一帯の倉庫は常に、半島南のタイバ島沖に停泊した東インド会社所有船舶から運び込まれるインドアヘンで一杯になっていた。』

林則徐は、このマカオも武力封鎖した。その直後、香港で事件が起きる。

『1839年、尖沙咀の林維喜という漁師が英国の水兵に殺害された。林則徐が虎門で大量のアヘンを廃棄した直後で、両国は緊張関係にあった。

7月7日、英国商船2隻の乗務員6人が尖沙咀に上陸、水浴び、散歩をして飲酒後、村民の林維喜を射殺、数人にけがをさせた。林則徐は犯人の引き渡しを求める。アヘンの取引をしないことも要求に含めていたといわれる。清朝側の狙いはあくまでアヘンの禁止にあった。英国側が受け入れられる話ではなかった。虎門の近く、川鼻で両者が武力衝突、英国は翌年の議会で派兵を決議、アヘン戦争へと突入した。』(「観光コースでない香港・マカオ」より)

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「アヘンの密輸」を理由とした戦争には英議会でも反対も多く、賛成271、反対262の僅差での開戦決定だった。

林則徐は広州に兵力を集めていたが、イギリス艦隊はそれを避けて兵力が手薄な北方の沿岸部を占領しつつ北京に迫った。イギリス艦隊が天津湾に現れたことに驚いた皇帝道光帝は林則徐を解任してしまう。戦闘はその後も断続的に続いたが、イギリス軍が揚子江と大運河の合流する鎮江を制圧したことによりアヘン戦争はイギリス勝利のうちに終わる。

 

戦後締結された南京条約により、中国は5港の開港とともに香港の割譲を受け入れた。

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南京条約を受けてイギリスは1841年、香港島に上陸し占領を宣言する。

一方、1851年には太平天国の乱が起き、アヘン戦争後の清朝内部に混乱が広がった。イギリスはその後も不当な協定を次々に押し付けたため、中国人の間で外国人排斥運動が高まる。

そして「アロー号事件」が起きる。ウィキペディアによると・・・

『1856年10月8日に清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕した(残りは抗議で釈放)。これに対し当時の広州領事ハリー・パークスは、清の両広総督・欽差大臣である葉名琛に対してイギリス(香港)船籍の船に対する清国官憲の臨検は不当であると主張し、また逮捕の時に清の官憲がイギリスの国旗を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。葉名琛はこれに対して国旗は当時掲げられていなかったと主張したが、パークスは強硬に自説を主張し、交渉は決裂した。実際には、事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限を数日過ぎており、アロー号にはイギリスの国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であった。』

中国への再度の武力行使を計画していたイギリスは、この事件を利用してついに首都・北京を占領した。「第二次アヘン戦争」または「アロー戦争」と呼ばれるこの戦争の結果、清朝はイギリス・フランス・ロシアとの間で不平等条約を締結させられる。

この「北京条約」によって、香港島の対岸である九龍半島がイギリスに割譲された。

このアロー号事件で登場するハリー・パークスは、その後日本公使となり明治維新の混乱の中で重要な役割を演じることとなる。

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こうして武力によって香港を手にしたイギリスは、本格的な植民地建設に着手する。

津田邦宏著「観光コースでない香港・マカオ」によると、香港はまず軍港として整備された。

『香港は貿易港としてよりもまず、アジア屈指の軍港として英海軍の関心を集めた。水深が深い上に、進入口は狭く懐は広い。1869年のスエズ運河開通後、ヨーロッパ列強のアジアへの注目度は以前にも増して強くなり、中国を睨む軍事的拠点としての香港の重要性はさらに高まった。

英国は香港を一大軍港とするために、香港島と九龍半島の双方に要衝を設け、港内の昴船洲の地下には巨大弾薬庫を建設した。香港防衛の一環として、香港在住であれば国籍を問わない義勇軍制度も取り入れた。港湾設備も着々と進められ、78年の中環・皇后埠頭はじめ、82年までに5つの埠頭を完成させた。』

その後の香港の発展の裏に混乱する中国大陸の歴史があったと記されている。

『 香港は、大陸が混乱するたびに生み出される大量の難民、避難民を受け入れてきた。最初は南京条約から8年後の1850年に起きた太平天国の乱だ。洪秀全を首領とする秘密結社、上帝会が江西省で挙兵した事件で、キリスト教を信じ、土地の公有制を訴え、一時は南京を攻略した。

乱が鎮圧された後、焦土となった華南地方からは多くの農民らが香港に押し寄せる。植民地経営が円滑に動き出していただけに、労働力はいくらあっても足りない状況だった。

避難民らは、まだ十分に開発されていなかった深水埗など九龍地区の後背地に次々に定住していく。香港政庁は、大陸の人が香港に入ってくることに制約を設けなかった。

大陸からの人の流入は20世紀に入っても続き、1911年の辛亥革命、37年の日中戦争勃発によってさらに激しくなる。日本軍の侵略に晒された上海、広州などから逃れてくる避難民らは、資本家、農民、国民党軍兵士ら様々だった。人口は年毎に膨れ上がり、第二次大戦の直前には150万人を超えた。

1945年8月の日本敗戦後も、大陸では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の戦いが続いた。国共内戦で荒廃する大陸を嫌った上海資本家らは、日本軍の香港占領で一時止まっていた香港への脱出を再び目指すようになった。

香港に流入した資本は、1946年の1年間に、6500万香港ドルにものぼったといわれ、香港が新興都市として浮上する大きな起爆剤となった。

日本軍占領当時の強制疎開政策で約60万人に減っていた人口も、47年末には難民らの大量流入で180万人に膨らんだ。香港政庁は急激な人口増に堪り兼ねて、50年に入境管制条例を公布、大陸からの流入を制限しようとする。

毛沢東が号令した1958年から61年にかけての大躍進政策の失敗は、さらに多くの飢えた人たちを香港に呼び込んだ。文化大革命でも、同じように香港は大陸からの難民の受け皿になった。

難民は政庁に住宅の手当て、食糧の確保など大きな負担を強いた。しかし、その難民たちの労働力が香港の大きな資産にもなった。安い労賃で酷使された人たちは香港経済のエネルギーになり、最初は貧しかった人たちも次第に底から這い上がっていった。香港の奇跡はそういう人たちがつくった。』

辛亥革命の指導者・孫文にも、香港・マカオは重要な場所である。

『1911年に辛亥革命を実現させた孫文は1892年9月、香港の西医書院を卒業、マカオのモンテ砦北側にある鏡湖医院に職を得る。マカオがポルトガルの正式な植民地になって5年後のことだ。

香港が孫文の革命を育んだ土地ならば、マカオは革命揺籃の地ともいえた。当時の先進的な西洋医学で患者らに感謝される一方で、会報誌に清朝を倒すべきとの檄文を寄せる。志を同じくする同志らとの会合も頻繁に行なっていたという。』

西洋は侵略者であると同時に、新たな思想や知識を中国に持ち込む窓でもあったのだろう。

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香港歴史博物館では、第二次大戦での日本軍による香港占領に関するコーナーも目を引いた。

津田氏の著書から日本軍に関する記述を引用しておく。

『 日本軍の香港攻撃は、日本が米英に宣戦布告して太平洋戦争に突入した1941年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃と同時に始まった。18日間で攻略した香港は、真珠湾攻撃から2日後のマレー沖海戦、42年1月のマニラ占領、2月のシンガポール陥落と続く日本軍の戦果の一つだった。

英国は12月25日に降伏した。無条件降伏の調印式はペニンシュラホテル336号室の戦闘司令部で行われた。ろうそくの灯のなか、ヤング総督が降伏文書に調印して「十八日戦争」は終わった。

香港ではこの日のことを、黒色聖誕節(ブラッククリスマス)と呼んでいる。』

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この過程で、日本軍による蛮行もあったとされる。

臨時の野戦病院になっていたセント・ステファン学校を襲った日本兵は無抵抗の傷病兵、看護婦らを銃剣で突き殺したという。

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日本による占領統治はどのようなものだったのか?

『 日本軍が香島と改名した香港の3年8ヶ月に及ぶ軍政は、香港市民の強制退去から始まった。食糧の確保が難しくなるという判断がそこにあった。日本軍が香港を攻略する直前の1941年11月の人口は163万9000人だったが、実際は200万人近くに膨れ上がっていたとみられる。

占領から1ヶ月後の42年1月、160万人の人口を60万人に削減する計画を立て、旅費まで支給して海外に退去させる方法のほか、自費退去、強制退去による人減らし政策を強行する。路上などの挙動不審者、浮浪者らも次々に退去させられていった。退去者は多い日で千人以上にもなったという。

労働者を募って海南島の開発に向かわせたこともあった。鉄鉱石の鉱山労働者として派遣された人たちの中には、航海途中で倒れた人も多く、海南島に着いてからも苛酷な労働による犠牲者が相次いだ。

香港の皇土化は、主要道路を日本名に変えるほか、香港神社、忠霊塔などの建設だった。中環のクイーンズロードは明治通り、上環のデボーロードは昭和通り、九龍地区のネイザンロードは香取通りなどと改名された。』

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香港の人たちにとって影響が大きかったのは、強制移住とともに通貨(軍票)の問題だったようだ。

『日本の軍票(軍用手票)も占領と同時に出回った。最初は香港ドルも使え、兌換率は軍票1円につき、2香港ドルだった。兌換率は占領から10ヶ月後の42年10月には1円につき4香港ドルまで落ちた。43年6月、総督部は香港ドルの使用を禁止する。市民に香港ドルの軍票への交換を強制し、香港ドルを隠し持っていた人には厳しい処罰で臨んだ。』

この軍票問題では戦後、日本政府に損害賠償を求める裁判が起こされた。

『 裁判は99年6月に判決が下され、軍票に強制的に交換させられたという事実は認定しながらも、戦後は一切無効になったとして、原告側の訴えを棄却した。高裁、最高裁とも同判決を支持する。』

香港歴史博物館は、太古から1997年の香港返還までの歴史を概観できる充実した施設だった。限られた時間で駆け足で回るには限界がある。

ただ日本語の解説はないので、参考文献の助けは必要だろう。

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マカオや香港に比べ、圧倒的な存在感を示していたのが深圳博物館だった。

建物の規模からしてまったくスケールが違う。

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エントランスを入った吹き抜けのロビーには、深圳周辺の巨大地図が待ち構えていた。

歴史教育の一環として中国ではとにかく博物館に金をかける。入場料ももちろん無料だ。

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唐突に象の剥製が迎えてくれる。「これは一体、深圳とどういう関連なのだろう?」と思って説明文を読んでみた。

深圳とは直接関係がなかった。

アフリカ象は地上で最大の動物であること、象牙目当ての人間によって乱獲され毎年3万8000頭減っていること、アフリカ象の取引は完全に禁止されていることなどが書かれていた。

おそらく象牙細工の伝統がある中国人に啓蒙する目的でこの博物館に置かれているものと推測された。

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深圳と言えば、小さな漁村がほんの30年足らずで中国有数の大都会になった街として知られるが、博物館の前言にはそんな常識を覆すような言葉が誇らしげに記されていた。

『深圳には、7000年に及ぶ人類の発展と海洋経済の歴史があり、1700年以上の街の歴史があり、600年以上の海岸防衛の歴史があり、広東や客家の長い移民の歴史がある。』

中国は、国策として各地の歴史を発掘し、広く国民に知らせるためにこうした巨大博物館を全国に建設しているのだ。

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中国では遺跡の発掘事業を積極的に進めている。

その中で、広東省北部の洞窟から馬壩人(ばはじん)と呼ばれる旧人類の頭骨が発見されたという。今から13万年前のものだそうだ。彼らは山岳地帯から次第に低地に降りてきて、7000年ほど前にここ深圳エリアに到達した。

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秦が中国を統一する前の春秋戦国時代には、古越人と呼ばれる人たちがこの地域に住みついた。

彼らは高床式の家に住み、米と魚を食べ、青銅器の武器を使っていたという。

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唐や宋の時代になると吐蕃によってシルクロードが遮断されたため、海路を利用した「陶磁の道」が発展する。

深圳は広州への入り口として重要な役割を果たした。

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明・清の時代になると、倭寇や西洋の侵略に備えるための駐屯地がたくさん築かれた。

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1521年に深圳の沖合で起きた屯門海戦の様子が再現されていた。

この海戦は中国と西洋の間での初めての戦いであり、当時の明朝はポルトガルを撃退することに成功した。

こうして中国の辺境としてあまり脚光を浴びることもなく時を刻んできた深圳・香港エリアがにわかに歴史の表舞台に登場するのは、やはり19世紀になってのことだ。

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「反抗英国的植民侵略」と題されたコーナーは、アヘン窟の写真パネルで始まる。

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アヘン戦争前の深圳・香港エリアを描いた地図。

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林則徐が大量のアヘンを廃棄した虎門海岸の図。

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尖沙咀で起きたイギリス水兵による中国人漁師の殺害事件を描いた絵も展示されている。

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1839年9月4日、アヘン戦争が勃発する。その最初の衝突となった「九龍海戦」の様子が再現されていた。その説明書きには・・・

『イギリスの軍艦は突然、清の軍艦に砲撃を加えた。清海軍の頼恩爵将軍はイギリスに反撃し、この戦いに勝利した。』

しかし、その後はイギリスに一方的に敗れた中国。展示も写真パネル中心となる。

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九龍半島の割譲。

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アロー戦争。

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イギリスが境界線に築いたフェンス。

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そして1898年にはイギリスの要求で、深圳河以南の新界地区が99年間の租借が決まった。

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こうした状況の中で、清朝打倒を目指す革命が始まる。

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その端緒となったのが1900年10月、孫文が台湾から指揮した武装蜂起。

その舞台となったのが現在の深圳に当たる三洲田だった。

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この武装蜂起を支援していたひとりの日本人が命を落とした。

山田良政。

清朝打倒を目指した孫文を、多くの日本人が支援した。

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深圳で起きた小さな武装蜂起が、10年後の辛亥革命に繋がっていく。

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真珠湾攻撃の3日前、深圳に集まった日本軍将校たち。

イギリスの軍事拠点となっていた香港攻略の作戦がここで練られたという。深圳は日本軍の香港攻略の前線基地でもあったのだ。

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そして、辛亥革命、第二次大戦、国共内戦と続く激動期の末、1949年10月1日、中華人員共和国の建国が宣言される。

深圳でも五星紅旗を掲揚するセレモニーが行われたが、深圳が完全に共産党の支配下に入ったのは、15日後のことだったという。

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深圳博物館における一連の歴史展示は、次のような文章で締めくくられていた。

『深圳における近代史は中国の運命と密接に関連している。この100年以上、深圳は屈辱を味わい、抵抗し、発展を模索してきたが、それは悲しみと勇気と希望と栄光の歴史であった。

中国と世界のこの100年間の歴史は、どうして中国は列強諸国からはるかに遅れ、常に虐げられるようになったのかという疑問を私たちに突きつける。その主な理由は、清朝があまりに頑なで、改革の実行を拒んだことだ。18世紀、西洋諸国はすでに科学、技術、経済、産業の分野で大いなる進展を遂げていた。その間、中国はまだ康熙帝や乾隆帝の時代のような平和と繁栄に浸っていたからだ。明治維新は日本の近代化を加速し、国力を強化した。それに対して清朝は極めて傲慢かつ保守的で、それによって途方もない損害を引き起こしたのだ。

辛亥革命が2000年に渡って中国を支配してきた封建主義を打倒することに成功し、共和主義が芽生えた。中華民国の時代、中国は軍閥間の内戦と日本による侵略に見舞われた。中国共産党が結成されたことで、ようやく独立した民主的な中華人民共和国が建国されたのだ。

歴史は中国人民に、改革、解放、開拓、革新へのこだわりこそが唯一の道であると教えている。改革・開放を通して、深圳は小さく貧しく遅れた国境の地方から近代的な大都会へと急速に発展した。これは歴史上比類なき成果だ。深圳の成長は、屈辱の過去を洗い流し、強力で華麗で繁栄する未来を宣言するものである。』

屈辱の歴史を広く国民に見せることにより、強者になるという政府の強い意志を共有しようという狙いを感じる。

二度と屈辱を味わうことはしない。

これこそが、今の中国の意志であり、その強い中国の目に見えるモデルがこの深圳の街そのものだということがよくわかった。

3つの博物館、1つだけ見るとするならば、間違いなく深圳博物館をオススメしたい。

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