コロナも一段落したので、そろそろ旅がしたくなった。
とはいえ、まだ外国には行けないので、まずは身近な東京から始めようと思う。
新企画「江戸東京歴史散歩」。
徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、東京はずっと日本の中心で、多くの歴史的大事件がこの街のどこかで起きてきた。
その現場を歩いて、自分が生きる国の歴史をしっかりと脳裏に焼きつけるのだ。
その1回目として選んだのは、私が今住んでいる吉祥寺の地名の由来となった本当の「吉祥寺」を探しに行くお散歩である。
吉祥寺にはなぜ「吉祥寺」がない?

私が暮らす街・吉祥寺の中心部には「四軒寺」と呼ばれる4つのお寺がある。
1624年創建の真言宗「安養寺」、同じく江戸時代初期に創建された浄土宗「光専寺」、1662年ごろの創建と伝わる日蓮宗「蓮乗寺」、そして1659年創建の曹洞宗「月窓寺」である。
中でもサンロード商店街に面した月窓寺は「吉祥寺の大地主」と呼ばれ、サンロード周辺やハモニカ横丁など吉祥寺中心部の広大な土地を所有しているのだ。
ところが、吉祥寺の街に「吉祥寺」というお寺はない。
これは知る人ぞ知る有名なお話である。
「吉祥寺」は江戸城に近い江戸の中心部にあったが、1657年(明暦3年)、江戸市中を焼き尽くした「明暦の大火」で焼失してしまった。
その時に焼け出された吉祥寺門前町の住民が幕府の指示で集団移住して作った村が、吉祥寺の始まりなのだ。
では、元の「吉祥寺」を探しに行こうというのが、今回のお散歩の目的である。
本当の「吉祥寺」はいま本駒込にある

文京区にある東京メトロ「本駒込」駅。
今回の歴史散歩はこの駅からスタートする。
吉祥寺からは東西線で飯田橋まで行き、そこから南北線に乗り換えて3駅目である。
地上に出たら、目の前を走る「本郷通り」を北に進む。
暖かくて、いいお天気だ。

数分も歩くと本郷通り沿いに立派な山門が見えてきた。
「諏訪山 吉祥寺」と確かに書いてある。
文京区が設置した案内板が立っていて、この曹洞宗のお寺の由来を教えてくれる。
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
文京区教育委員会が設置した案内板より
そうなのだ。
明暦の大火の前、「吉祥寺」は現在の水道橋の近くにあり、水道橋ももともとは「吉祥寺橋」と呼ばれていたというのである。

「諏訪山 吉祥寺」の入り口に立つどっしりとした山門。
こちらは駒込に移転した後1802年に再建されたもので、太平洋戦争中の東京大空襲で大半の建物が焼失する中で焼け残った2つの建物の1つである。

山門に掲げられた扁額には「旃檀林(せんだんりん)」という文字が書かれている。
「旃檀林」とは吉祥寺内に設けられていた学寮、すなわち僧侶の養成学校のことで、江戸時代には幕府の学問所「昌平黌」と並ぶ漢学の一大研究地として常時1000人を超える学僧を抱えていたという。
そしてこの「旃檀林」は、現在の駒沢大学や世田谷学園の前身でもある。

山門をくぐると、東に向かってまっすぐに参道が伸びている。
特にイチョウ並木が見事だ。

この参道沿いには面白いものがいくつもある。
山門を入ってすぐの左脇にある小さな神社は「茗荷稲荷」といい、疫病のご利益があり、特に痔病の根治に霊験があるとして多くの参拝者を集めたそうだ。

こちらは「お七・吉三郎 比翼塚」といい、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処された「八百屋お七」を供養する石碑である。
井原西鶴の「好色五人女」にも取り上げられているお七は本郷の出身で、近くの別のお寺にお墓もあるのだが、「比翼塚」というのは情死あるいはあと追い心中した男女を一所に合葬して建てた塚のことだそうで、お七を哀れんだ後世の人がここに立てたものなのだろう。
お七は明暦の大火とは関係がないが、このお寺に比翼塚が立てられたのはやはり火事つながりということか・・・。

さらに参道を進むと、六地蔵の隣に西を向いて座る「吉祥寺大仏」が目に止まる。
1722年に鋳造された青銅製の釈迦如来坐像で、像高2.93m、総高4.17m。
堂々としたものであるが、特に説明書などはない。
長野の善光寺にも、同じ鋳物師が作った六地蔵と濡れ仏があるそうで、八百屋お七の霊を慰めたものと伝えられている。
この大仏もお七と関係があるのかもしれない。
「吉祥寺」の境内には二宮尊徳や榎本武揚の墓

参道の突き当たりには広々とした石畳の広場があって、正面に青銅の屋根を持つ本堂が建っていた。
東京大空襲で焼失し、戦後再建されたものだ。
戦前までは7つの伽藍を持つ大きなお寺だったが、戦後再建されたのはこの本堂と客殿、庫裏ぐらい。
空いたスペースがこの広大な墓地となったのだろうか。

大都会のど真ん中とは思えないような吉祥寺の墓地、背後には近代的なビル群が見える。

立派なお墓が立ち並んでいて、中にはブロンズ像のあるちょっと変わったお墓もあった。
有名人のお墓もあるようで・・・

その代表格といえば、こちら。
全国の小学校に銅像が置かれていた二宮金次郎こと二宮尊徳の墓が、この吉祥寺にあるのだ。
「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」
貧困に苦しむ人や村を救い、多くの名言を残した二宮尊徳を祀る「二宮神社」は、ゆかりのある小田原や今市などに残っているが、なぜその墓が東京にあるのか?
その疑問に答えてくれる一文を「東京とりっぷ」というサイトで見つけた。
本来、二宮家の菩提寺は小田原の善栄寺。
二宮尊徳の子・尊行は、今市の如来寺に仮内葬し、善栄寺には二宮尊徳の歯と遺髪を納めたものの、遺骨そのものは曾孫(ひまご)の二宮徳の代になるまで納骨せずに手元にとどめたのだとか。二宮徳は、吉祥寺を菩提寺と定めて、大正12年、東洋拓殖会社から南洋方面視察の旅に出発することになり、遺骨を吉祥寺に預けて出発。
途中、船内で病死したため、吉祥寺に保管されたままになっていたのです。軍靴が響く昭和14年、「幼い時代から日本国民の良き教材として偉大な役割を果し、尊敬の的となっている尊徳翁の遺骨が埋葬されず安住の地を得ていないことは偉人に対してこの上ない非礼でもあり、遺憾なことである」(『報知新聞』昭和14年9月24日付)という理由から中村本郷区長らが中心となって遺骨を埋葬したのが、吉祥寺に現存する二宮尊徳の墓。
引用:東京とりっぷ
『報知新聞』によれば、この吉祥寺の墓が、「報徳精神の聖地とし帝都の一名所にしようという運動が進められ着々具体化している」と記されています。

そもそも二宮尊徳の物語は、弟子の富田高慶が明治14年に発行した伝記『報徳記』に由来するもので、尊徳自身はほとんど自らのことを語らなかったため、信憑性は高くないとされる。
しかし「報徳記」を基にして書かれた幸田露伴の『二宮尊徳翁』によって一躍有名となり、薪を背負って本を読む「負薪読書図」もこの本の挿絵として初めて登場したという。
そして明治37年以降、国定教科書の修身の象徴として尊徳が取り上げられた。
その背景には、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした山県有朋らのグループがいたとされる。
いろいろ考えさせられるエピソードである。

吉祥寺で眠る有名人といえばもう一人、榎本武揚がいる。
幕臣として箱館戦争を主導し、維新後も新政府で外務大臣などの要職を歴任するなど、明治維新の激動期に波乱万丈の人生を送った人物である。
墓石には「海軍中将子爵榎本武揚墓」と刻まれ、奥さんのお墓と一緒に広々とした榎本家の墓所の中央にそのお墓はあった。他にも

吉祥寺には、蝦夷地を治めていた松前家の墓もあるので、榎本武揚の墓がこの寺にあることと何か関係があるのかもしれない。
他にも、江戸時代の大名や旗本のお墓やら自殺した明治の流行作家・川上眉山のお墓やら、広い墓地でお墓めぐりをすると吉祥寺がかなり重要なお寺であったことがとてもよく理解できる。
唱歌「こいのぼり」の作者は誰だ

広場に面して建っていたのは、山門とともに焼失を免れた「経蔵」。
1804年に建てられたもので、「旃檀林」学寮の図書収蔵庫だった。
この「経蔵」と鐘楼の間に、2つの歌碑が立っていた。

一つは、唱歌「かもめの水兵さん」を作曲した河村光陽さんを記念したもの。
河村光陽は戦前から戦中に活躍した作曲家で、「うれしいひなまつり」など今でも歌われる数々の童謡を世に送り出した。
歌碑には「童謡一路」と刻まれ、光陽のお墓も吉祥寺にあるらしい。

そしてもう一つが、個人的には興味深かった。
大きな石に「小出浩平先生顕彰歌碑」と書かれたプレートが付けられ、その上に小出先生と思われる銅板のレリーフまで埋め込まれている。
そして下には童謡「こいのぼり」の楽譜。
「ああ、この人があの有名な童謡を作ったのか」と思って調べてみると、意外な事実がわかった。
小出浩平さんは、東邦音楽大学副学長、日本教育音楽協会など様々な音楽団体の会長を務めた人物で、上皇さまが幼少の頃、音楽の指導も行った音楽界の超大物だったらしい。
歌碑にも、『日本で最初の学年別基礎指導・レコードによる鑑賞指導・器学指導・創作指導を音楽教育に取入れ我が国音楽教育を一変させた。また唱歌新教授法・合唱曲集・教育音楽等の多数の著書や雑誌の編集・こいのぼり、おしし等の愛唱歌・九百余の校歌の作曲・NHK・TBS・その他多数のコンクールの創始・審査・更に放送等により日本の音楽教育を今日あらしめた功績は絶大である』と讃えられているように、この歌碑が建てられた1979年当時には「こいのぼり」は小出さんの作品として著作権登録がなされていたのだ。
ところが1983年、自分が童謡「こいのぼり」の作詞者だと近藤宮子さんが裁判を起こす。
裁判は最高裁まで争われて、1993年近藤宮子さんの勝訴が確定し、「こいのぼり」や「チューリップ」の作詞者は近藤さんだったと認定されたのである。
「こいのぼり」の楽譜をあしらった小出浩平さんの歌碑は、そのまま吉祥寺に置かれている。
これを見た人はきっと、私と同じく小出さんがあの歌を作ったんだなと誤解するに違いない。

吉祥寺の名前のルーツを探して本駒込までやってきたが、予想もしなかった面白い発見がいろいろあった。
百聞は一見に如かず、直接足を運ぶことはやっぱり大切である。
「明暦の大火」の火元は本妙寺?

「諏訪山 吉祥寺」の見物を終えて、もともとこのお寺があったとされる水道橋までぶらぶら歩いてみることにした。
本郷通りを南に歩いて進んで行くと、文京区が設置した案内板が目に付く。
周辺の名所を記した地図もあれば、古い地名を解説したボードもある。
夏目漱石や森鴎外ゆかりの場所や緒方洪庵のお墓もあるようだ。

そうして本郷通りをまっすぐ進むと東京大学の正門が現れた。
本駒込から東大前までは地下鉄で一駅、お散歩するにはいい距離だ。
キャンパスのイチョウが黄色く色づき始めていて、真っ青な空に映える。

東大の目の前にある老舗「喫茶ルオー」で名物の「セイロン風カレーライス」を食べる。
三島由紀夫や司馬遼太郎も足繁く通った有名な喫茶店だ。
でも私の目的地は別にあった。
吉祥寺が延焼し、門前の住民たちが移住せざるをえなくなった「明暦の大火」の火元を訪ねることである。

本郷通りを挟んで東京大学の反対側に広がる静かな住宅地に、火元となった場所はあった。
今はマンションが建っているこの場所に、江戸時代には「本妙寺」という名の法華宗の大きなお寺があって、そこから出た火で江戸の町の大半が焼ける「明暦の大火」につながったというのだ。
「振袖火事」とも呼ばれる物語はこのような内容である。
お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。
さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
出典:ウィキペディア

この「明暦の大火」によって、江戸城の天守閣も焼けてしまい二度と再建されることがなかった。
さらに多くの大名屋敷を含む外堀の内側はほぼ全焼、家康以来の古い江戸の市街地はすべて焼き尽くされてしまったのだ。
死者10万人を出したともされるこの明暦の大火は、「江戸三大大火」の筆頭に位置づけられるだけでなく、西暦64年のローマ大火、1666年のロンドン大火と並ぶ「世界三大大火」の一つに数えられることもあり、「吉祥寺」もこの大火で門前町もろとも全焼し、住民たちは今の吉祥寺に映ることになったわけである。
ただ不思議なことに、これだけの大火事を出した本妙寺はなぜか同じ場所で再建され、立派な大寺院として明治までそこにあった。
そのため出火原因については他にもいろいろな説があり、江戸の都市改造を企てた幕府が放火したという説や本当の火元は寺の近くにあった老中・阿部忠秋の屋敷で、本妙寺が老中の罪を被ったにすぎないという火元引受説も有力なのだそうだ。
いずれにせよ、本妙寺は明治時代に巣鴨に移転し、剣豪千葉周作や遠山の金さんの墓もこの寺に安置されているという。
文人ゆかりの本妙寺界隈をぶらぶら

本妙寺跡の周辺は、文人たちの足跡が多く残る場所として有名だ。
寺のすぐ近くにある案内板には「啄木ゆかりの赤心館跡」とある。
22歳の石川啄木は明治41年、3度目の上京の際に金田一京助を頼ってこの場所にあった「赤心館」に下宿した。
赤心館での生活は4ヶ月だったが、その間のわずか1ヶ月の間に、「菊地君」「母」「天鵞絨」など小説5編を完成させた。
「たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」
この有名な啄木の歌も、この時期に書かれたものだそうだ。

啄木の世話をした言語学者の金田一京助・春彦親子もこの界隈で暮らした。
盛岡中学で啄木の2年先輩にあたる京助は東京大学で教鞭をとっており、アイヌ語を初めて解明し、アイヌの叙事詩ユーカラを世に紹介した人物でもある。

少し時代は下るが、宮沢賢治もこの界隈に住んでいた。
大正10年に上京した直後にこの本郷菊坂町で間借りし、赤門前の文信社で謄写版刷りの筆耕や校正などで生計を立てつつ、童話や詩歌の創作に打ち込んだ。
童話集「注文の多い料理店」の収められている作品の多くはここで書かれたものだそうだ。

そしてこの界隈と最も縁が深いとされるのが、樋口一葉。
明治23年から亡くなるまでこの界隈で過ごし、「たけくらべ」「にごりえ」などの代表作を発表した。

古井戸が残るこの路地裏に住んでいたというが、案内板などは見当たらなかった。
そこは今も普通の住民が暮らしていて、観光客がうろうろするのを好まない人もいるのかもしれない。

それにしても、この木造三階建ての建物、すごくないか。
まるでジブリの世界。
時が止まったような路地に佇んでいると、樋口一葉が住んだ明治の時代にタイムスリップしそうな錯覚を覚える。
ぶらぶらしているだけで楽しい、本妙寺界隈である。
水道橋の「吉祥寺」跡地には都立工芸高校

本妙寺界隈をぶらぶらした後、南に向かって進むとジェットコースターが見えてきた。
そう、ここは水道橋、水道橋といえば「東京ドームシティ」、昔の後楽園遊園地である。
明暦の大火の前、「吉祥寺」はここ水道橋にあったのだ。

水道橋駅前の北東角にある東京都立工芸高校。
ここが「吉祥寺」があった場所だと言われている。

つまり、今の吉祥寺の地に移住してきた人たちはもともとこの界隈に暮らしていて、明暦の大火で焼け出された被災者なのだ。
総武線各駅停車を使って乗り換えなしで16駅、距離にして19キロ西に移住したことになる。

それは神田川の北岸。
門前町の住民たちは、この神田川をさかのぼって、水源である井の頭池の北岸に移り住んだことになる。
これは単なる偶然だろうか?

ということで、吉祥寺の名前の由来になった「吉祥寺」を探す旅。
自分が暮らす街がどのようにできたのか、それを知ることは自分のルーツを知るような醍醐味がある。
百聞は一見に如かずなのだ。

歴史散歩の後は、JR水道橋駅から総武線各駅停車の電車に乗って16駅、吉祥寺の自宅へと戻った。
この日歩いた歩数は1万336歩。
ちょうどいいお散歩であった。