🇸🇧ソロモン諸島/ガダルカナル島 2025年10月9日
今回の旅行の主目的は、快進撃を続けていた日本軍と本格的反攻を開始したアメリカ軍が死力を尽くして争奪戦を繰り広げたガダルカナル島の戦いについて、現地を実際に訪れて学ぶことにあった。
ミッドウェイ海戦と並び、太平洋戦争の帰趨を決定した分岐点であり、連戦連勝だった日本陸軍が初めて手痛い敗北を喫した戦いでもある。
歴史に「if」はないとはいえ、もしも誰も知らないような南の島での戦闘で違う結果が出ていれば、戦争の行方はかなり異なったものになったかもしれず、実際にそうなる可能性も十分にあった。
私は決して戦前の日本帝国主義に勝利を収めてもらいたかったと願う立場ではないが、中央の判断で多くの経験豊かな兵士たちを無駄死にさせた日本の失敗は、多くの教訓を含んでいると考えるものである。

ソロモン諸島到着翌日の10月9日、私は前日に知り合ったタクシー運転手サムさんの車をチャーターして、ガダルカナル島に点在する戦跡を回った。
サムさんは私と同じ60代、料金交渉でも一貫してブレることがなく、最初から1時間150ソロモン諸島ドル、日本円でおよそ2700円という料金を譲らなかった。
本職のツアーガイドではないけれど、そういうサムさんの駆け引きのない姿勢が信頼できると思い、全く土地勘のない行き当たりばったりのガダルカナルでの戦跡探しを彼に託したのだ。

ガダルカナル島に関する情報が日本ではなかなか得られない中、私はネットの情報やGoogleマップを参考に最初の目的地をホニアラ市内から西に30キロほどのところにある戦争博物館「VILU WAR MUSEUM」に決めた。
情報によれば、太平洋戦争時の大砲や軍用機が見られるという。
サムさんも何度か行ったことがあると言うので道に迷うことはなさそうだが、道路事情が悪いので、距離の割に時間がかかると言う。

サムさんの言葉通り、街から西に伸びる道路は穴ボコだらけ。
スムーズに走れる舗装道路はほとんどなく、大きな穴を避けながら、慎重に車を走らせる。
サムさんの車は日産の四輪駆動車だったので、安心して乗っていられたが、街中の普通のタクシーをチャーターしていたらとんでもないことになっていた。
やはり信頼できるドライバーさんは、途上国を旅する時には何より大切である。

途中、道端に黄色いテープで囲まれた立入禁止エリアを見た。
サムさんに聞くと、やはり不発弾があるらしい。
日本であれば、すぐに自衛隊が出動して処理するのだろうが、ガダルカナルではこうして注意を呼びかけるだけ。
戦後80年経っても、日米が撃ち込んだ大量の爆発物を撤去することは夢のまた夢である。
安全のためには、道路を外れて迂闊にジャングルに立ち入らないこと。
それ以外に身を守る方法はない。

ようやく森の中にある博物館にたどり着いたのは10時40分。
ホテルを出発してすでに1時間半以上経っていた。
私の他には、誰も客はいない。
人里離れたこの博物館を管理するカスパーさんが自ら案内してくれて、貴重な展示物を説明してくれた。

いきなり紹介されたのが、こちらの大砲。
日本軍が残した「九六式十五糎榴弾砲」である。
九六式十五糎榴弾砲は日中戦争の最中に開発された帝国陸軍の主力重榴弾砲であり、ノモンハンやフィリピンの戦いにも投入された後、ガダルカナル島に持ち込まれたものだ。

砲身には製造年やシリアルナンバーもしっかりと残されていた。
カスパーさんの説明のよると、この大砲は海岸線で輸送船ごと沈没し揚陸に失敗、実戦には使われていないとのことであった。

軍用機の残骸もいくつか展示されていた。
連合軍が制空権を握っていたことを表すように、展示されていた飛行機はすべてアメリカ軍のものだった。
ラバウル基地や空母から飛来した日本の戦闘機は陸地ではなく海に墜落したものが多く、このミュージアムには零戦のエンジンが1個あっただけである。

機種についても熱心に説明してくれたものの、私の方に理解するだけの知識がなく、これが何の飛行機かはわからない。
ただ、垂直尾翼に残る弾痕は戦闘の激しさを見る者に訴えるリアリティがある。

中でもカスパーさんが最も熱心に説明してくれたのが、こちらの米軍機である。
なんとこの残骸は、1943年4月7日ブーゲンビル島上空で山本五十六長官を撃墜した米軍の双発戦闘機「P-38 ライトニング」だと言うのである。
確かに2つのエンジンの中央にコックピットがある機体は、P-38の特徴的な構造だ。

アメリカ軍は、ラバウルを訪れていた連合艦隊の山本長官がブーゲンビル島の前線基地を視察する予定を暗号解読により事前に掴んでおり、復讐を意味する「ヴェンジェンス作戦」と名付け、ガダルカナル島の基地から18機のP-38戦闘機をブーゲンビル島に向かわせた。
山本長官を乗せた一式陸上攻撃機には6機の零戦が護衛についていたが、不意に現れた敵機の攻撃をかわすことはできず、被弾しジャングルに墜落した。
山本長官機を撃墜したP-38戦闘機はガダルカナル島に帰還する途中、燃料が尽き不時着したが回収され、こうして今ここにあるのだとカスパーさんは説明した。

一方の日本軍は、山本長官が戦死したことを日本国民には知らせず、「海軍甲事件」と名付けて緘口令を敷いたのだ。
山本五十六の死も広い意味ではガダルカナルの失敗の延長線上にあることを、私は今回初めて理解した。
そして嘘に嘘を重ねる大本営発表がその後どんどんエスカレートしていく。
今回ガダルカナル島を訪れるにあたり、私は何冊か関連資料を読んでみた。
大勢の人間が絡む総力戦の中で、一人一人が下した決断が後から見れば大きな失敗につながることもある。
しかしもしも自分がその当事者であったら、リアルタイムで正しい決断ができただろうか?
ガダルカナルには今を生きる私たちにも通じる多くの教訓、多くの問いが隠されている。
このブログでは、私が現地で撮影した写真を挟み込みながら、関連文献を参考にしながらガダルカナル島の戦いを学んでいきたいと思う。

まずは、そもそものお話から。
日本軍将兵のほとんどがその名も知らなかったガダルカナル島が太平洋戦争の激戦地になったきっかけは、真珠湾攻撃の翌年1942年の6月に日本海軍がこの島に航空基地の建設を決定したことだった。
その目的は、連合軍の反攻拠点となるオーストラリアとアメリカを分断すること。
当初はフィジーやニューカレドニアの占領を計画したが、ミッドウェイ海戦で4隻の空母を失い計画の見直しを余儀なくされ、ラバウルの前線基地としてガダルカナルに飛行場を建設しソロモン諸島の制空権を確保することにした。
7月には設営隊2800人がガダルカナル島に上陸、ジャングルを切り開き飛行場の建設が急ピッチで進められた。
そして8月5日には滑走路の1期工事が完了、現場ではささやかな祝いの酒宴も催された。
しかしそのタイミングを見計らったように、アメリカとオーストラリアの連合軍が飛行場を奪う目的でガダルカナル島に攻め込んできたのである。
現在は「ホニアラ国際空港」と呼ばれるこの飛行場だが、太平洋戦争当時、最初に建設を始めた日本軍は「ルンガ飛行場」、それを奪い取った連合軍ではミッドウェイ海戦で戦死した海兵隊パイロットの名前をとって「ヘンダーソン飛行場」と呼ばれた。
この飛行場の争奪戦として繰り広げられたのが、いわゆるガダルカナル島の戦いなのである。

8月7日に行われた連合軍のガダルカナル島上陸作戦と日本側の対応について、半藤一利著『遠い島ガダルカナル』から引用させてもらおう。
8月6日の陽も落ちたとき、ガ島では設営隊が格好だけの祝い事をしていた。設営隊信号員山宮上等兵曹の日記にそのことが記されている。
「本日は、本隊の上陸1ヶ月目の記念日だ。十一設(第十一設営隊)の総員1200名の命懸けの成果で、間もなく完成の飛行場から日の丸も鮮やかな友軍機が爆音高く飛び立つのだ。頑張ろう。1030(午前10時30分)ボーイング来る。投弾せるも異状なし。夕食時、酒一合の配給がある」
彼ら設営隊のスコップ、鶴嘴、鍬、鉈、鋸、モッコを使っての努力で、一本の飛行場はまさに完成しようとしていた。800メートル×60メートルの滑走路と、兵舎、無線設備、飛行機用掩体などがほぼ出来上がっているのである。あとは友軍機の進出を待つばかりであった。
ガ島と向かい合ったツラギ、カブツ島の浜空隊でも、ラバウルからの二式大艇による戦給品の見舞いによって、隊員たちは大いに気勢をあげている。整備員宮川政一郎兵長の手記には、いかにも楽しげな夜の景が描かれている。
「久しぶりの酒の配給に、お国自慢の歌などを、南海の夜空に届けとばかり大声で歌った。酔いが回るにつれ、一同輪になって踊り出す始末である。四百余名の大集団の酒宴は、消灯近くまで続けられた」
神は最後の酒宴を浜空隊将兵に与え給うたのか・・・。運命とはいえ、あまりにもできすぎていた。
米海兵隊の上陸はそれから5時間後のことである。それは熾烈この上ない艦砲射撃から始まった。
8月7日、日の出と前後して、ラバウルの二十五航戦司令部の電信室は、ツラギ通信基地とカブツ島の浜空隊とからの緊急電を、次々と受信した。
「敵猛爆中」
「敵機動部隊ツラギに来襲空爆中、上陸準備中、救助頼ム」
「0430 空襲に依り大艇全機火災」
「巡洋艦4、空母1見ユ」
「敵各艦艦砲射撃、揚陸開始」
「至近弾電信所付近。戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦15、その他輸送船」
「爆弾艦砲射撃銃撃未ダ衰ヘズ」
そして午前6時過ぎに、最後の電文がツラギから送られてきた。
「敵兵力大、最後ノ一兵迄守ル、武運長久ヲ祈ル」
そして、通信は杜絶する。
ガ島からの緊急電はなかった。設営隊の宿泊地は海岸から遠かったため、来襲の敵艦船団を見るべくもない。そこへ、いきなりの艦砲射撃に続く猛爆撃である。さらに米軍の大挙上陸に、戦闘集団ではない設営隊員はそれぞれが、指揮官の掌握から脱して、命がけでジャングルに逃げ込むのが精一杯であった。十一設の門前隊長も、十三設の岡村隊長も、わずかな部下を引き連れて、西方へ退避する他はない。遠藤大尉以下の警備隊も、高角砲6門と山砲2門ではどうすることもならず、これも西方に退いた。彼ら残存の兵たちが合流したのは夜になってからである。
米軍記録によれば、ガ島と違ってツラギ方面の日本軍は、洞窟陣地に拠って激しく抵抗している。しかし衆寡敵せずは永遠の真理である。一部のゲリラ的抗戦は9日にまで及んだが、少数の脱出者と捕虜になったものを除いて、浜空隊約400人と警備隊50人のほとんどが戦死している。
先に引用した宮川兵長「手記」の戦闘記録には、最後の悲痛な場面が正直に記されている。生き残るためにどんな苦難のあったことか。少し長く引用したい。
「50日目を迎えたとき、座して死を待つよりはと意を決し、夜半に壕を脱出した。そして米兵の哨戒線を突破して、2000メートル彼方のフロリダ島に泳ぎ渡った。これも人間業とは思われない生命力、精神力であるが、今になって、我ながら不思議と思うのである。フロリダ島において2ヶ月間、木の芽や山芋を食しながら過ごしたが、さすがに体の衰弱は如何ともしがたかった。山中において会った原住民の好意を“だまし”と知らず、集落に連れ込まれ、格闘の末に多勢に無勢、捕らわれの身となり、米海兵隊に引き渡された。原住民はすべて訓練された民兵であることを、のちに知った。時に昭和17年11月初旬であった」
こうして米軍は、ツラギ方面はともかくガ島には無血上陸に成功する。1万1千人の海兵隊員は、敵兵に遭遇しなかった幸運を感謝し、改めて砲爆撃の威力の大きさを認めた。海岸には日本軍の貧しい補給物資と弾薬が山と積まれている。彼らは一層勇躍して、飛行場占領のための前進に移るだけである。
この米軍のガ島上陸の報は、ラバウルを経て直ちに東京と瀬戸内の柱島に届けられている。
この時、柱島の連合艦隊司令部の受けた衝撃は、かなり凄まじいものがあった。山本長官以下、参謀たちは事態の重大さに愕然となった。宇垣参謀長が日記『戦藻録』に、余さずにその驚愕を記している。まず「判明まで相当の時間を要した」敵情については、
「空母1、戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦15、これに輸送船40隻余」
と判断を下している。二十五航戦が受けた緊急電を元にしていることが推察できる。宇垣はさらに、次に現地部隊から受けた報告を記している。
「二十五航戦は7時55分、中攻27機、零戦18機、艦爆9機を発進、攻撃せしむ。一方、六戦隊は直ちに出港、八艦隊長官は午後鳥海に乗艦、十八戦隊を合して同方面に向へり」
指揮下にある全部隊への、当面なし得る限りの全力をあげての反撃の様子である。二十五航戦は可動機の全機発進である。八艦隊は麾下のバラバラに散って任務についていた全艦を集合させて、ガ島への航進を開始している。見敵必戦の海軍精神がそこに滲み出ている。というのも、山本長官以下の連合艦隊司令部は、アメリカ軍の意図をある程度まで正しく判断していたから、と考えることができる。以下、『戦藻録』はそのことを伝えている。
「此敵は正に同方面に居座りの腹にて思い切ったる兵力を使用せり。之を被攻撃迄、発見探知せざりしは誠に迂闊千万と思う・・・前々日来相当の警告ありしに関わらず、何としても後の祭りなり。之を速にやつつけざればモレスビー作戦どころかラボール(ラバウル)も奪回せんとし、同方面の作戦は著しく態勢不利となるを以って、印度洋方面は後回しとしても先ず之を片付くる事に全力を払うべくそれぞれ必要なる処置を講ず」
連合艦隊はそのように情勢を重大視したのである。それゆえに、山本は大本営に対して、陸軍の派遣を強く要望している。そして、当時パラオにいた歩兵第三十五旅団(長・川口清健少将)が最も迅速に派兵できるゆえ最適か、と希んだ。が、参謀本部はいい返事をよこそうとはしなかった。
理由は明白、既定のリ号作戦以外に、南西太平洋方面に兵力を派遣する気がほとんどなかったからである。日本軍のいま目指すべき主作戦は重慶であり、インド方面である。ソロモン諸島などに関心の向けようもないのである。
実は、いい顔をしなかったのは参謀本部だけではなかった。軍令部もまた、「戦艦1、空母1」を伴う「輸送船27隻」以上の大兵力と敵情判定をしておきながら、これを本格的反攻などとはつゆ思おうとはしていない。したがって、連合艦隊の要望には目もくれなかった。
東京では、7日午前から午後にかけて、陸海両作戦課参謀たちは一堂に会して、この事態に対処するための緊急研究会議を開いている。しかし、情報の不正確さもあり、そこで得た結論はまことに粗末極まるものとなる。
開戦8ヶ月、真珠湾で完敗した敵が、本格的反攻にかかるには、戦備いまだ十分に整っているとは到底思われない。また、太平洋艦隊の現有空母勢力はわずか3隻から推察しても、無理押しの大作戦はできない。したがってガ島とツラギに対する来航は、いわゆる偵察上陸の程度のものと思われる。それが陸海の一致した判断であった。
どこを押せばこの楽観が出てくるのか、今は不可思議としか言いようがない。軍令部の推定通りに輸送船27隻、そしてその平均トン数を3000トンとしても、日本流に兵員一人の所要船腹を3トンで計算すれば、2万7千人の兵力ということになる。平均5000トンとすれば、もっと大兵力となる。
アメリカ兵は装備が贅沢ゆえ、日本兵の3倍の船腹を要するとしよう。それでも9000人が押し寄せてきたのである。ガ島とツラギ方面を合して海軍陸戦隊など総数3千人、しかも建設員中心の、ろくに武器を持たない日本兵のいる島に、である。偵察上陸と決め込むにはあまりに多数の兵力による本格的な攻撃ではないか。
しかし、頭のいい参謀たちはそうは思わなかった。そういえば陸海の作戦課はミッドウェイでの敗戦の事実を知っているはずである。にも関わらず、この時点でもまだ、敵を下算する性癖から脱してはいなかったのか。
もっとも、当時作戦課参謀であった瀬島龍三少佐の戦後の回想によると、ミッドウェイで海軍の機動部隊主力が壊滅したのを知っていたのは、参謀本部の上層部のごく少数に限定されていた、ということになる。
「私もミッドウェイ海戦はうまくいかなかったということは分かっていましたね。だけど何隻沈んだ、どの空母とどの空母が沈んだということまでは、私は知らなかった」
ゆえに敵を舐めていたというのであろうか。
そして、さらに彼らは論じ合った。仮に占領されることがあったとする。しかし、わが陸海軍部隊が反撃に出ればこれを奪回することは容易なのである。が、一本しかないとはいえ飛行場が整備されると、爾後の作戦が多少はやりづらくなろう。ならば、奪回作戦は可及的速やかであらねばならない。それゆえ結論は、ここで一番ガンと鉄槌を加えて敵の戦意を懲らしめてやれ、というのであった。
秀才参謀たちは、依然として日露戦争以来の「皇軍不敗」の神話を固く信じている、と書くほかはない。そこからは希望的観測しか生まれてこない。最悪の時を考える真剣さを失って、常に輝ける勝利のみが思い描かれるのである。なぜ、こうなるのか。
考えてみると、日本陸軍は対ソ連については明治この方十分な研究もし訓練も重ねてきていたが、対米戦にはほとんど注意を払ったことがなかったのである。昭和17年度の陸軍士官学校の演習が、すべて広大な満州の原野における野戦を基調とするものであった、という一事からもそれが明らかであろうか。予想される対米陸戦における諸訓練、たとえば上陸防御戦や島嶼山地戦などには1時間も割かれることはなかった。アメリカ軍は弱いものと頭から決め込んでいた。
先の瀬島元参謀の回想からもそのことが察せられる。
「8月7日の時点では、本格的な対日反攻という受け取り方はしなかったですね、私らは。アメリカが態勢を整えての本格的に対日反攻決戦に出てくるのは、18年になってからだろうという一般的な判断をしていましたから。それに、8月7日の軍令部からの通報自体が本格的な反攻上陸という受け取り方ではなかったと記憶します。ところが海軍としては当然のことですが、なにしろ約4千人の設営隊員を見殺しにできないわけです。それでとりあえず陸戦隊を何百人かラバウルから応援に出すが、海軍部隊だけでは心もとないから、陸軍の応援を頼むということで、陸軍としてもとりあえずの兵力を出す決心をした。これが8月7日直後のだいたいの空気ですね」
長い引用となったが、陸海合同の会議の雰囲気がよくわかる話と言えようか。

連合軍の上陸を知った日本海軍は直ちにガダルカナル島に急航、8日には第一次ソロモン海戦が勃発する。
結果は百戦錬磨の日本海軍の大勝利、一夜で重巡洋艦4隻を撃沈させるなど連合軍に大きな損害を与え、1000人以上を戦死させた。
この海戦により、連合軍艦隊は上陸した海兵隊員らを見捨ててガダルカナル島から撤退した。
しかし、敵艦隊が逃げたのを確認した日本の艦隊も敵輸送艦を破壊することなく、わずか1日でガダルカナル島を去るのである。
そして島に残る連合軍兵士の掃討と飛行場の奪還を目的に選抜されたのが、陸軍でも勇猛さで知られる一木清直大佐率いる一木支隊だった。
ただ、その数はわずか900人、島に残る1万人を超えるが米海兵隊と比べると圧倒的に少ない兵力であり、ここから日本軍の運命を狂わすボタンのかけ違いが始まる。
再び半藤一利さんの著書からの引用。
大本営からの統帥命令を正式に受けた第十七軍司令官百武中将が、新たに麾下に編入された一木支隊長一木清直大佐に対し、軍命令を発したのは、8月13日午後3時のことになる。
「一木支隊ハ海軍ト協同、ガダルカナル飛行場ヲ奪回確保スベシ。止ムヲ得ザレバ、ガダルカナル島ノ一角ヲ占領シ、後続部隊ノ来着ヲ待ツベシ。之ガ為先遣隊(約900名)ヲ編成シ、不取敢駆逐艦6隻ニ分乗シテ、ガダルカナル島ニ向ヒ前進スベシ」
連隊長一木大佐の姓をとって一木支隊と呼ばれ、歩兵第二十八連隊を基幹とすること部隊は、当初はミッドウェイ島攻略の上陸部隊に予定されていた。しかしミッドウェイ作戦が中止となったため、グアム島待機から旭川の本隊帰還と決まり、まさに内地に向かっていた時に呼び戻され、トラック島に集結したところなのである。
そして支隊は歩兵1大隊(歩兵4中隊、機関銃1中隊、歩兵砲1小隊)、連隊砲1中隊、連射砲1中隊、通信隊、衛生隊の三分の一、というミッドウェイ作戦用の縮小編成をそのままにしている。総兵力2200名余。この小回りのきくところが奪回作戦の第一陣に選ばれた理由であり、さらにはまた、一木大佐自身がかつての盧溝橋事件の折の実戦指揮官(大隊長)であり、全歩兵部隊きっての勇猛さをもって知られていたためもあろうか。
とにかく上長の第十七軍司令部の意図は「急げ急げ」なのである。そのために軍命令も早急に出されている。ガ島の敵は高射砲、水陸両用戦車若干、機関銃多数を有する約二千名であるが、戦意に乏しく、萎縮している。むしろツラギへの脱出を企図しつつある。軍司令部はこの情報を一木に伝えた時、さらに一言、「大急ぎで行かなければ、敵は逃げてしまうかも知れぬ」と付け加えたともいう。
一木はそれに従って、支隊を二梯団に区分し、第一梯団(916名)だけを6隻の駆逐艦で高速輸送、接岸上陸用の大発動艇は搭載不可能ゆえ、折畳舟と駆逐艦の内火艇で上陸させることに決めた。一木自身はこの第一梯団を指揮する。残る約千三百名は第二梯団とし、低速の輸送船ぼすとん丸、大福丸によって後続する。
一木支隊に与えられたのは海図と一枚のガ島の航空写真だけで、聞いたこともない名の島へ、重火器なし、歩兵銃弾120発と2日分の携行食糧をもって上陸するのである。しかし支隊将兵の士気は旺盛である。軽装は上陸戦闘のためであり、飛行場までは遮二無二銃剣で白兵夜襲をもって突撃する。占領してから初めて発砲を許す、というのは残敵を掃討するという意味である。米軍撃破は朝飯前の仕事ならんか、と一木も部下将兵たちも確信していたのである。
一木大佐は、いよいよ出発に際して、第十七軍司令部に問い合わせたという。
「ガ島のみならず、近くのツラギ島も取ってしまってよろしいか」
対する軍司令部参謀の返事はこうであった。
「後続の川口支隊に多少の分け前を残しておいて戴きたい」
8月16日朝、一木支隊両梯団はトラック島を後にしてガ島へ進発する。第一梯団の乗った駆逐艦6隻は、みるみる第二梯団坐乗の2隻の輸送船と護衛の軽巡神通と哨戒艇群との距離を開いて、水平線の彼方に消えてゆく。第二梯団のガ島上陸は8月22日と予定されていた。
航進は何事もなく、同18日午後9時ごろ、ガ島タイポ岬西方の泊地に第一梯団の駆逐艦6隻は到着した。そこは攻略目標の飛行場の約35キロ東方に当たる。海上には敵艦艇の影も形もない。上陸はスムースに実行され、午後11時には、支隊第一梯団の上陸地点における集結も完了する。同時に、一木連隊長はそこに陣地を構築、確保し、第二梯団の上陸を待つこともなく、西へ向かって前進することを決意する。海岸沿いに徒歩道がある。部隊は遭遇戦形式の縦隊をもって動きだした。
この一木支隊の行く手には、重砲、重機関銃、若干の戦車を持つ近代装備の2万に近い米軍が、遭遇戦にあらず、強力な陣地を構築して待ち伏せしていたのである。そうした敵情を偵知することなく、拙速主義をもって、日露戦争以来の常套戦法である夜間白兵戦を信条とし、果敢に突撃していった一木支隊がどうなったか。戦闘を詳細に書く要はない。
8月21日未明、イル川(日本軍の命名は中川)河口に近く、幅50メートルほどの砂洲を越えて敵陣に突入の寸前で、一木支隊は敵の猛攻撃を受ける。米軍が左前方台上の絶好の攻撃点より猛烈な重砲火を、思うように日本軍に浴びせかけてきたのである。
一木支隊将兵の一部は鉄条網を突破し突入したが、大部分は砂洲の前面で折り重なって倒れた。
午前9時、支隊の南側からも米軍の猛反撃が加えられ、午後になると戦車六両までが戦闘に加わってくる。背後はこれによって蹂躙された。一木大佐はもはや打つべき手段のなくなったことを感じ、午後3時ごろ椰子林に入って自決して果てる。軍旗は連隊旗手伊藤致計少尉の決断により、エレクトロン焼夷剤で奉焼された。少尉はその後に手榴弾で自決を遂げる。
戦死777名。戦傷約30名を含め、幸運にも生き残って戦場から離脱できた兵士、また上陸点に監視のため残留していた将兵を合して128名が辛うじて生き残り、タイポ岬付近を確保して後続部隊の来援を待ったが、これまた戦力は無と言っていい。結果としては日本軍は全滅したに等しかった。

私もGoogleマップを頼りに、一木支隊が全滅したイル川の河口に行ってみた。
ところが、現場は一面土砂の集積場になっていて、その場所にあるはずの一木支隊の慰霊碑はどこにも見当たらない。
これは一体どういうことか?
運転手のサムさんも以前来た時と様子がすっかり変わってしまったと言う。

私有地のようではあるが、誰にも咎められることなく砕石場の端まで辿り着くと、目の前に川が現れた。
右手には海が見えるので、ここがイル川の河口、すなわち一木支隊が連合軍の待ち伏せ攻撃にあり全滅した場所であることは間違いなさそうである。
ガダルカナルの悲劇のシンボルのように語られることの多い一木支隊だが、果たしてどのような部隊だったのか?
NHKスペシャル取材班がまとめた『ガダルカナル 悲劇の指揮官』という著書には次のように記されている。
現在も自衛隊の駐屯地がある旭川には、かつて陸軍の第七師団が司令部を置いていた。第七師団は北の大国ロシアの脅威から国土を守る使命を与えられていたことから、「北鎮部隊」と呼ばれ、日露戦争の旅順攻略戦や奉天会戦、シベリア出兵、そしてノモンハン事件と、大陸各地を転戦し、日本の近現代史と深く関わってきた部隊だ。
1942年、ミッドウェー島攻略作戦のために、この第七師団の中から選抜されたのが、一木支隊だった。支隊とは、特別な任務にあたるために独立編成される部隊である。兵士たちが出征の直前、必勝祈願を行った護国神社が、自衛隊の駐屯地のすぐ近くにある。境内で撮影された兵士たちの写真が残っている。総勢2400名。農家出身が多く、20代の若者たちも多かった一木支隊は、厳しい訓練を経て、精鋭部隊に生まれ変わっていった。
しかし、いかに陸軍屈指の精鋭部隊とはいえ、兵力と兵器の差はいかんともしがたかった。
しかも敵兵力の情報はおろか、まともな地図もない状況での作戦遂行である。
上陸地点から飛行場を目指して真っ直ぐに海岸線を進み、この河口にたどり着いた時、突然川の対岸から集中攻撃を受けたのだ。

ホニアラの国立博物館に一木支隊の写真が展示されていた。
海岸線に散乱する多数の日本兵の遺体。
連合軍はこのイル川河口のことを「Alligator Creek」、すなわちワニの川と呼んだ。
この河口エリアはもともと砂州で敵の銃弾から身を守る障害物もなかったとされる。

砕石場で働く人に慰霊碑のことを聞くと、「あっちだ」と言ってわざわざ案内してくれた。
土砂の山に取り囲まれるようにポツンと残されていた慰霊碑。
傍らに2本の木が残っているだけで他には何もない。
聞くところによると、数年前一帯の土地が中国企業に買収され工事に使用するための土砂の集積場に変貌したようだが、さすがの中国人も日本軍の慰霊碑を撤去することは躊躇ったのだろう。

慰霊碑にははっきりと「一木支隊奮戦之地」と刻まれていた。
側面には、平成4年9月に一木会という遺族会がこの慰霊碑を建立したことも記されている。
さすがに遺族会もこの惨状についてはご存知なのだと思うが、どんな思いでこの光景を見たのだろう?
戦後80年、長い時の流れを感じ、私もかなりのショックを受けた。

日本軍は一木支隊の投入と並行して増援部隊をガダルカナルへ送り込む作戦を進行させる。
上陸部隊の護衛に全力を上げる方針を決定し、空母3隻を含む機動艦隊を出撃させるとともに、山本五十六長官が乗る旗艦大和を先頭に連合艦隊主力も南方へと前進した。
対する連合軍も、空母機動艦隊をガダルカナル近海に派遣、こうして日米の空母が激突する第二次ソロモン海戦が勃発する。
この海戦は双方に一定の被害が出たものの、勝敗はつかず、多数の航空機を失ったこと、主目的だった増援部隊の上陸が達成できなかったことが日本側にとっては手痛いダメージとなる。
その間に、連合軍はガダルカナル島に戦闘機を送り込んでヘンダーソン飛行場の強化を着々と進め、制空権を確保していく。

さらに、ソロモン国立博物館には、こんな白黒写真が展示されていた。
連合軍は現地の住民を味方につけ、ソロモン諸島の島々に多数の監視員を置き、日本軍の動向をいち早く伝える体制を構築したのである。
敵の意図を見誤った日本軍は後手に回り、徐々に兵員や物資の輸送が困難になり、ガダルカナル奪還の最大のチャンスを失ったのだ。
半藤一利さんの著書にはこの時期の陸海軍の齟齬と迷走する作戦について次のように記されている。
第二次ソロモン海戦は、くり返すが、一木支隊第二梯団と海軍陸戦隊のガ島への船団輸送をめぐって生起したものであった。その船団は、第八艦隊からの命を受けて、24日の海空戦の時点では、西北へ避退中で空振りとなった。が、海空戦の戦果を有利と判定し、かつすでに一木支隊の第一梯団が全滅していたことを承知していなかった連合艦隊は、船団に25日揚陸決行を電令する。
25日午前5時、果敢に南下した船団はガ島北方150海里の海域に達した。速力は9ノット。1時間後、敵機8機が雲を突き破って襲いかかってきた。
午前6時5分、神通は艦橋付近に命中弾を受け火災を起こした。最も大きい金龍丸も被弾し、ガ島へ揚陸するはずの弾薬が誘導して、航行不能に陥っていた。船上の海軍陸戦隊の将兵は大半が死傷してしまう。船団直衛の任務を負っている第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は、駆逐艦睦月と哨戒艇2隻に金龍丸の生存者の救助を命じ、また、ぼすとん丸と大福丸は第二十四駆逐隊司令の指揮のもとに、北西方へ避退させるよりほかはなかった。直掩の戦闘機の傘なしでこのまま前進を続ければ、輸送船は全滅するのみと判断したからである。
事実、ガ島の飛行場の米軍機の行動は勢いづいていた。沈みつつある金龍丸上空に飛来したB17三機は、海上の乗員救助に大童であった駆逐艦睦月を攻撃、直撃弾を与えることに成功する。睦月は9時40分に波間に姿を消した。
惨たる報告を受けた連合艦隊司令部は「25日揚陸取消し」を発令、空母瑞鶴と護衛の駆逐艦3隻を急派して避退中の第二梯団の上空を警戒させることにした。
一方陸軍は、海軍の空母3隻を虎の子として大事がる萎縮がちの作戦をみて、当然のことながら不信の念を抱く。敵大型機の進出をまだ見ていないガ島に対して、上空輸送船団をすら援護できないとは、一体どういうことか。海軍は作戦遂行よりも、艦艇の安全保持に汲々としているのではないか。それに海軍はなぜか敵空母や戦艦のみを攻撃しようとして、敵の輸送船には目もくれない。それが飛行場奪回を困難にしているのではないか。陸軍の不満は高まる一方である。
そうした陸軍の白い眼をよそに、この揚陸命令取り消しに続く戦策として、連合艦隊司令部は25日の午前中に、ガ島敵飛行場攻略まで輸送船団による兵力輸送をやめ、駆逐艦など快速艦艇による急速輸送によることを決定する。誠に早急な方針転換である。快速艦艇には重火器は搭載不可能、となれば、このディレンマをどう解決するつもりがあったのか。
これからのガ島戦を象徴する輸送作戦の苦闘がここに始まる。駆逐艦がガ島に一番近接したショートランド基地に待機、夜、敵機の飛べない時間を利用して300海里(東京ー大阪間とほぼ同じ)の距離を突っ走り、ガ島の増援・補給を行い、全速で引き返し夜の明けぬうちに敵機の制空圏外に出る、という窮余の策が実行されることになったのである。
それは、急行列車が毎夜同じ時刻に、同じところを、猛スピードで走るに等しかった。アメリカ側は「東京急行」と呼んだのに対して、日本の駆逐艦乗りは「丸通」と名乗り、宇垣とは違って「ねずみ輸送」と自嘲した。そうした彼らが消耗品として、死ぬまで内地に帰れぬ戦士として、これからのガ島戦の主役となるのである。
駆逐艦はスピードは速いが、戦闘力の高い兵器は積めない。
しかしこの駆逐艦に頼る上陸作戦を採用したことにより、ガダルカナル島ではその後次々に悲劇が起きるのである。

ホニアラの街の中心部、国立博物館のすぐ隣に、川口支隊の慰霊碑が建てられている。
一木支隊に続きガダルカナル島に投入された陸軍部隊が、川口清健少将率いる川口支隊だった。
九州男児で結成され東南アジアでの戦いでも連戦連勝、意気揚々とガダルカナルへ乗り込んだ川口支隊だったが、その初っ端からトラブルの連続だった。
NHKスペシャル取材班による『ガダルカナル悲劇の指揮官』より、川口支隊の戦いぶりを引用する。
ねずみ輸送の実行を決めた海軍が島へ送り届けようとした陸軍部隊は、福岡出身者からなる124連隊を中心とした「川口支隊」だ。荒ぶる九州男児たちの屈強な部隊として、その名を全国に轟かせていた川口支隊は、太平洋戦争開戦以来、南方戦線で戦果をあげていた精強部隊である。イギリス領ボルネオの占領戦や、フィリピンのバターン戦の後半に参加して連戦連勝を誇っていた。隊長の川口清健少将は、筋骨たくましい兵士たちの中にあっても、ひときわ異彩を放つほど大柄な男だった。端正な顔立ちにしっかりと形の整った八の字の口ひげを蓄えた川口は、精強部隊を率いるにふさわしい堂々たる身なりをしていた。この偉丈夫の指揮官に率いられ、「アメリカ兵恐れるに足らず」と自信に満ちあふれた川口支隊の兵士たちは、ガダルカナル島への上陸を待ち望んでいた。
8月24日朝、第一回のねずみ輸送が行われた。川口支隊の先遣隊600人は、第八艦隊の指揮のもと、輸送を担う第20駆逐隊の駆逐艦夕霧、朝霧、天霧、白雲の4隻に乗り込み、日本海軍の拠点だったトラック島を出発した。
ところが、陸海両軍の期待を受けて始まったねずみ輸送は、なんと初回でつまずいてしまう。ガダルカナル島の飛行場を飛び立ったアメリカ海兵隊の艦上爆撃機に折り悪しく発見され、28日午後、ガダルカナル島の北方およそ100キロの地点に到着したところで、艦上爆撃機から連絡を受けやってきた敵機およそ20機(アメリカ側の記録では11機)に囲まれて、猛攻を受ける。
たちまち朝霧は沈没、乗船していた川口支隊の62人の兵士が戦死し、大隊砲2門と弾薬のすべてが海の底に沈んだ。ほかにも夕霧は中破、白雲は大破の被害を受ける。唯一被害を免れた天霧は、大破して自力での航行が困難な白雲を曳航して、自航可能だった夕霧とともに、ショートランド島へ引き返した。
第1回のねずみ輸送は、完全な失敗に終わった。この結果が日本軍に与えた衝撃は大きかった。アメリカ軍がガダルカナル島の制空権を確保したという事実が、いかに重大事かということを、改めて認識させられることになった。そしてラバウルの陸軍第一七軍では、ねずみ輸送も実行できない状況では、飛行場奪還作戦の遂行はもはや不可能だとして、“ガダルカナル島の放棄”が真剣に検討され始める。
第一七軍司令官の百武晴吉は、もはや兵力輸送の手立てはなく、今後たとえ一時的に兵力輸送に成功したとしても、食糧や物資の継続的な補給は困難と判断。この際、ガダルカナル島は放棄し、一木支隊の残兵のみ救出したのち、同時並行で行われていたニューギニアのポートモレスビー攻略に専念した方が賢明なのではないか、と考えた。
後から考えれば、この選択は理にかなっていた。しかしここでも、一木支隊の派遣の時と同じように、不安の表明や慎重な意見は、積極論者たちの声に潰されることになる。
第一七軍参謀の松本博は、今回の失敗は、昼間に敵航空威力圏内に入ってしまったことが誤りであり、空母の護衛がなかったために起こったと主張。今後海軍はその点について協力すると言っているのだから、ねずみ輸送は継続すべきであると強く訴えた。それでも、司令官が納得しない様子を見ると、松本は「戦略上の重要地点の放棄は残念」「第一七軍から言い出すわけにはいかない」と、大本営や海軍に対するメンツを持ち出し、また参謀の越次一雄も「もう一度やってみて考えてはどうか」といって、ねずみ輸送の継続を押した。二人から説得を受け、遂に百武は折れた。
第一七軍と第八艦隊は、翌29日夜、第2回のねずみ輸送を敢行。そして、作戦は何事もなくスムーズに完了した。
ここで再度失敗していれば、ガダルカナルの戦いは終わりを告げていたかもしれなかったが、その後も継続されたねずみ輸送が成功を収めたことで、第一七軍のガダルカナル島放棄論は立ち消えになった。そして1942年(昭和17)の末に兵隊たちの食糧不足が深刻になるまで、この論が再燃することはなかった。
8月31日、川口はねずみ輸送によって支隊主力とともにガダルカナル島へ上陸を果たす。その後もねずみ輸送は継続され、9月7日に兵員の輸送が完了。川口支隊は、飛行場に向けて行軍を開始する。ここで川口は、一木支隊の時とまったく異なる行軍ルートを取る。
一木支隊は海岸沿いを西に行軍し、飛行場の東側に位置するアリゲーター・クリークでアメリカ海兵隊と戦った。これに対し川口支隊は、最初は海岸沿いを行軍するも、途中、南西に方向転換し、内陸部へ踏み込むルートを取る。飛行場に対して回り込む形で、アメリカ海兵隊の防御が手薄と見られた飛行場の南側を攻めることにした。一木支隊の失敗に学び、敵の弱点を突こうとしたのだ。
敵の弱点についての情報は、日本軍が撃墜したアメリカ軍機のパイロットを尋問して得たものだった。この川口の狙いは正しかった。飛行場南側からの攻撃を選択したことで、川口支隊はこの後、アメリカ軍を敗北の瀬戸際にまで追い込むことになる。日本では戦後、指揮官としての評価が芳しくなかった川口だったが、アメリカ軍側の取材を重ねると、独創的な作戦を選択した「知将」として、高い評価を得ていることも見えてきた。
この迂回攻撃を成功させるには、一つ条件があった。ガダルカナル島の鬱蒼としたジャングルを行軍しなければならなかったのだ。しかし川口は、ジャングルの行軍に対して不安を抱いていなかった。川口支隊は、すでに太平洋戦争開戦後、ボルネオやフィリピンのジャングル地帯を経験していたからだ。だが川口したいの兵士たちは、すぐにその見込みが甘かったことを思い知る。ガダルカナル島のジャングルは、地球上のどのジャングルとも違う“緑の魔境”だった。
誰よりもジャングルの恐ろしさを知っていたのは、島の住民たちだった。彼らの間では、みだりにジャングルの中に立ち入ることは禁じられていた。彼らは、密林の中に足を踏み入れる時は、森の精霊の許しを得なければならないと考えていた。そのため、安全に通行できることを祈願し、ジャングルの入口で生贄の儀式を行ってきた。
遠い海の向こうからやってきた日米の兵士たちが、傍若無人に島中を荒らし回り、彼らの神聖なジャングルの中にずかずか入っていく様子を見て、住民たちはいったいどう思ったのだろうか。
9月8日、川口支隊は、海岸沿いからジャングルへの迂回を開始する。
ジャングルは、すぐに兵士たちに牙をむいた。内部の空間は大小さまざまな木々に覆われ、地面は年中降る雨のせいでぬかるみ、行軍は遅々として進まない。足元にはムカデ、サソリ、毒蛇がうごめく。手元には無数のトゲに覆われた植物がまとわりつき、不用意につかむと、大けがを負う。さらに恐ろしいのは、早朝や夕方になるとやってくる、マラリア原虫を体内にため込んだ蚊だ。彼らは人間の足元ばかりを狙うため、兵士たちは羽音に気づくこともなく、知らぬ間に刺されてマラリアにかかってしまう。マラリアを発症すると40度近い高熱に苦しみ、激しく体力を消耗し、ひどい時には脳症を起こす。
この危険だらけの行軍は、夜間に行われた。夜ならば敵飛行機に発見されにくく、攻撃を受ける恐れがなかったためだ。しかし夜になるとジャングルの中はほとんど何も見えない。月が出ていたとしても、その明かりは頭上をびっしりと覆う木々に完全に遮られてしまう。兵士たちはすぐに方向を見失った。
困難を極めたジャングル突破行を可能にしたのは、川口のリーダーシップだった。決して意志を曲げない指揮官のもとで、兵士たちは知恵を働かせ、南極を切り抜けようとした。ジャングルの腐食した木々には、夜間にわずかに発光するリンのような物質が含まれていることを発見し、兵士は皆帽子や背嚢にそれを塗りつけた。これで前を行く兵士に付いていける。こうして暗闇の中を一列で、少しずつ、前進していく。ジャングルの中をどこまでも続く不気味な青白い光の列が、ゆっくりと飛行場を目指した。
日中は日中で悩みの種があった。アメリカ軍は、常に日本軍の追撃に対して警戒態勢を取っていて、上空には敵機が飛び交っている。ジャングルが隠れ蓑になってくれるとはいえ、行軍中も油断は禁物だった。日本軍の主食である米も兵士たちを悩ませた。米を炊くため兵隊は皆飯盒を持っていたが、それを使うためにはもちろん火を起こす必要がある。火を起こせば煙はジャングルの木々を通り抜けて上空高く立ち上る。アメリカ軍は日本軍が米を炊いて食べることを知っている。この煙が原因で、隠密行動が敵に察知される恐れがあった。だから日中は米を食べることができない。兵士たちは、空腹とも戦わなければならなかった。
そんな中、アメリカ軍に見つからないよう息を潜めていると、時々、見知らぬ人間が目の前に現れた。髭ぼうぼうで痩せ衰えた人間だ。腹を空かせた現地の住民かと思ってやり過ごそうとすると、驚くことに日本語で話しかけてくる。毛に覆われてよく見えなかったのだが、どうやら確かに日本人であることに気づく。それは、ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸する前、飛行場建設を行なっていた工兵隊の男たちだった。飛行場が占拠された後、島の方々に逃げた彼らは、ジャングルでサバイバル生活を送っていた。川口支隊の兵士たちは、彼らを不憫に思い、携行した食糧を分けてやることもあった。
川口支隊の兵士たちが目指した飛行場の南側には、日本軍が「ムカデ高地」と呼んだ小高い丘があった。この丘は、周りが濃緑のジャングルに囲まれているものの、丘の上は薄黄色のススキのような植物が茂る草地になっていた。上空から見ると、ジャングルに縁どられ、薄黄色の丘の形がはっきりと見て取れる。偵察機に乗った日本兵がその形を見て、ムカデに似ていると思ったことから、この名前で呼ばれるようになった。
この特徴的な地形は、ガダルカナル島の“雨”が生んだものと言われる。もともとサンゴ礁が隆起してできたガダルカナル島は、多雨地帯に位置し、長年の降雨で丘状部から谷間に栄養分の豊富な土砂が流れ込み、谷間には肥沃な土壌が生まれた。そこに次第に木々が茂り、ジャングルが形成された。一方、丘の上は、激しい雨で土砂が流れ去ってところどころで隆起したサンゴ礁がむき出しになり、そこには草しか育たなかった。大自然が長年の時をかけて生んだ特徴的な地形だ。この不思議な地形が、兵士たちの運命を左右する。
ジャングルの行軍を続ける川口支隊は、予定された攻撃開始日である9月12日の夜を迎えても、まだジャングルの中をさまよっていた。さらに悪いことに日没後、各隊との連絡は途切れ、各隊はそれぞれ各個の行動を取り始めた。攻撃地点に到達した隊は散発的な攻撃を始め、隊の中には川口と同様、密林に迷い、攻撃開始地点にたどり着けないものもあった。
川口はやむなく攻撃の開始日を翌日に変更する。この丘を越えれば、飛行場はすぐそこだ。
今回発見されたアメリカ軍の戦闘記録には、これまで愚かな白兵突撃を繰り返したとされてきた川口が、実は巧妙な戦術を取っていたことをうかがわせる記述があった。川口支隊がアメリカ軍に攻撃を仕掛けようとしていたのは、飛行場南側だったはずだが、実は、飛行場の東と西の両側にも部隊を配置し、攻撃を仕掛ける準備を行なっていたというのだ。
川口支隊の主力はあくまでムカデ高地に向かっていたが、その攻撃を確実なものにするため、飛行場の東西両サイドに、敵を陽動する部隊を展開させていたのだ。ガダルカナル島北西端のエスペランス岬付近に上陸し、海岸沿いを東に向かって行軍していた岡明之助大佐率いる岡大隊を、飛行場の西側に展開。そして東側には、一木支隊の先遣隊・第一梯団を合体させた、水野鋭士少佐率いる通称「熊大隊」を展開していた。東西二方向に敵の注意を向けておいて、手薄になった南側を川口支隊の主力で一気に突き崩すという、三方向からの攻撃を企図していたのだ。
彼の緻密な陽動作戦は、さらに手が込んでいた。南側から攻める川口支隊の主力を、渡辺久寿中佐率いる右翼、田村昌雄少佐率いる中央、国生勇吉少佐率いる左翼の三方向に分け、一斉に攻撃を仕掛ける。左右の部隊が敵の注意を引きつけておき、その隙に温存しておいた中央の部隊が突っ込んで敵陣の突破を図る狙いだった。三方向作戦は、二重構造になっていたのだ。
だが、これだけでは終わらない。敵陣への斬り込み隊である中央の田村大隊も、小野寺、黒木、石橋の三個中隊に分かれ、これまた三方向からの攻撃を狙っていた。しつこいほど徹底的に策を巡らせた、三重構造の作戦だった。川口隊長が行おうとした白兵突撃は、単純至極な正面突撃ではなかったのだ。敵の目を欺き、敵の弱点を突くために、全知全能を懸けた川口が、アメリカで知将という評価を受けていることも不思議ではなかった。
13日午後9時5分、5発の砲撃を合図に、川口支隊の兵隊たちは総攻撃を仕掛けた。対するアメリカ軍は、ムカデ高地付近に有刺鉄線などを張り巡らして三重の陣地を築き、日本軍を迎え撃った。
戦いは劇的な展開を見せる。川口支隊主力の中で、中央を担当していた田村大隊の活躍がめざましかった。九州出身者が中心をなす川口支隊にあって、この隊は仙台出身者が中心。「夜襲の仙台師団」と呼ばれるほど、夜襲戦に自信を持つ部隊だった。
海兵隊を脅かした田村大隊の動きはこうだ。
大隊を構成する三個中隊のうち、まず小野寺中隊は、一つ目の敵陣地に突入し、これを奪取。後退を始めた敵を追いかけ、さらに奥に敷かれた二つ目のアメリカ軍陣地に迫ってゆく。この時小野寺中隊は、ムカデ高地の特徴的な地形をうまく利用した。丘の凸凹した地形を最大限活かして、敵の攻撃の死角を見つけ、そこを進攻ルートとしたのだ。丘には背の高い草が生えていたため、匍匐前進をすれば姿を悟られることがない。こうして二つ目の敵陣の目前にまで迫り、遂に伝家の宝刀である“白兵突撃”を敢行、二つ目の敵陣も奪取し、飛行場へ歩を進めた。
小野寺中隊と同時に、石橋中隊も一つ目の敵陣地に突入、こちらも奪取を果たす。さらに敵の二つ目の陣地に迫ると、川口の見立て通り、防御陣地の手薄な一角があった。すかさず二つ目の陣地もすり抜け、ムカデ高地を越えた地点にまで進出した。
この間の、アメリカ海兵隊の混乱ぶりはすさまじかった。海兵隊員の中には、闇夜の突然の波状攻撃に恐れをなし、陣地を捨てて後方に退却を始める者も現れた。防御ラインを突き崩され、戦線が崩壊しつつあった。海兵隊のベイリー少佐は、退却してくる兵士をとっ捕まえては、最前線に無理やり放り込んだ。エドソン大佐は、田村大隊の猛攻を受けてひるむ最前線の兵士たちに向かって、叱咤激励し、何とか士気を下げないよう、必死だった。
「貴様たちになくて敵にあるのはガッツだけだ!」
アメリカ軍の誇る火力を隊員たちに思い出させ、日本軍に立ち向かう勇気を、再び呼び起こそうとした言葉だった。
ムカデ高地は両軍入り乱れる大混戦の現場となった。
小野寺、石橋両中隊の奮闘を受け、田村隊長は、遂に温存させていた黒木中隊に攻撃命令を下す。黒木中隊は、敵の混乱に乗じ、二つ目の陣地を越えた小野寺中隊の前進地点を、さらに超越。遂に三つ目の敵陣地に至る。敵は最後の一線を死守しようと猛烈な反撃を加えてきたため、黒木中隊には多数の死傷者が出た。しかしそれでもひるまず突撃を仕掛け、三つ目の陣地をこじ開けた。遂に彼らは、アメリカ海兵隊の本丸である第一海兵師団司令部の目前に到達。このまま司令部を占領することができれば、ガダルカナル島の全海兵隊員に対する指揮命令系統は混乱をきたし、海兵隊は戦闘を継続することが難しくなる。まさに千載一遇のチャンスだった。
海兵隊は、重大な危機に瀕した。
長年ガダルカナル戦を研究してきたアメリカの歴史作家リチャード・フランク氏は、川口支隊との戦いを、ガダルカナル戦の中でも特に重視している。
「私が思うに、川口少将は、ガダルカナル戦において、日本軍の中で最も明敏な指揮官でした。川口は飛行場南側からの奇襲攻撃を考案し、それはほかの指揮官よりもはるかに優れた案でした。8月から11月にかけて、ガダルカナル戦において日本が勝利を収め得た時点は多くあったと思います。しかし、私は、日本軍がガダルカナル戦で最も勝利に近づいたのは、このブラッディリッジ(ムカデ高地のアメリカ側の呼称)の戦いだったと思います」
フランク氏は、この戦いで日本軍が勝利を収めていたら、それは太平洋戦争全体の趨勢にも重大なインパクトを与えたはずだと指摘する。
「アメリカ軍は、この戦いが厳しく、強敵と争っており、勝利・敗北どちらにもなり得ることを認識していました。第二次世界大戦中、1944年6月のノルマンディー上陸作戦前夜を除いて、ホワイトハウスが緊張したのは、このガダルカナル戦の時でした。日本が太平洋戦争に勝つには、アメリカの戦意を挫かなければなりませんでした。アメリカは、日本よりもずっと多くの資源を有し、国力も強大だったため、戦意を挫く、というのが唯一戦争を終わらせる方法でした。ガダルカナルの戦いで日本軍が勝利すれば、アメリカは戦争を続ける意欲をなくしていたかもしれません」
アメリカ海兵隊司令部の目前に迫った黒木中隊は、ガダルカナルの戦い、ひいては太平洋戦争全体の行方すら左右する、重大局面に立っていたのだ。
川口支隊の面々を襲ったのは、圧倒的な火力の差だった。
兵力にも一木支隊の時と同様、大きな開きがあった。川口支隊の兵力は、全部でおよそ6000人。一方、アメリカ海兵隊は一木支隊の攻撃時より増員され、およそ1万5000人。依然2倍以上の開きがあった。所持している火力を考慮に入れると、全体の戦力の差は、10倍もの開きがあったと大本営陸軍作戦参謀の井本熊男は分析している。
火力・兵力の違いは歴然。アメリカ軍の戦闘記録や日本軍の記録を調べていくと、敵司令部の目前に迫った黒木中隊も、この戦力差によって苦戦を強いられていたことがわかる。
司令部に到達した黒木中隊の数はおよそ60人。三つ目の陣地を越える際に大きな被害を受け、兵力は少なくなっていた。敵の本丸を落とすには、これでは兵力が足りない。追加の人員が必要だった。日本陸軍の戦法では、通常、敵陣に突入した部隊に続き、第二波、第三波の攻撃が続くことになっている。しかし、一向に後続の部隊がやってくる気配はない。
黒木中隊と同じく田村大隊に所属する小野寺、石橋両中隊は、第一、第二の敵陣を攻略してはいたが、アメリカ軍のすさまじい火力による反撃にあい、足止めを食らっていた。幾度となく果敢に突撃を試みるも、多数の死傷者を出し、さらなる前進は困難だった。
左翼隊の国生大隊も同様だった。敵の一つ目の陣地は突破したものの、二つ目の陣地を越えることができなかった。ここでも、猛烈な砲撃に対して突撃を行い、膨大な被害を出した。国生大隊長は、敵の重砲陣地に自ら突っ込み、重砲の上に馬乗りになった状態で、壮烈な戦死を遂げた。
右翼隊の渡辺大隊については、明確な資料が残っていない。
三つ目の陣地を突破した黒木中隊の後方では、一木支隊の時と同様の構図が繰り返されていた。まもなく日の出がやってくる。これは致命的だった。黒木中隊には時間がない。凹凸が深いムカデ高地の地形は死角が多く、夜間は日本軍の進攻に有利に働いた。だが、日の光にさらされると、身を隠すにも限界がある。草地の丘は、弧を描いて飛んでくる敵の迫撃砲からは逃れることができない。丸裸の部隊は恰好の的になってしまう。すでに空は白々と明け始めている。黒木中隊はやむなく、残された兵力での突撃を行うしかなかった。
一瞬の勝機は、無情にも過ぎ去った。
空を切り裂く鋭い音を立て、敵の猛烈な攻撃が、黒木中隊に襲いかかった。アメリカ海兵隊の記録によれば、その日、ある砲兵隊は105ミリ迫撃砲群だけで、2000発というすさまじい数の砲弾を発射している。アメリカ軍の高官は、のちに「砲兵隊の脅威的な支援がなければ、丘は確保できなかっただろう」と記している。海兵隊はすんでのところで火力に救われたのだ。
川口支隊は、戦死者633名、戦傷者505名、生死不明75名という大きな犠牲を出し、15日、攻撃中止を決定した。川口支隊が掴みかけた絶好の勝機は、失われた。
火力・兵力の不足。一木支隊の時と同様の失敗は、何故繰り返されたのか。それを説明するには、いったん話を川口支隊の派遣時に戻す必要がある。
陸軍内部では、一木支隊の失敗を受け、火力・兵力の見直しを求める声が上がっていた。ラバウルにある第一七司令部からだ。
第一七軍は、ねずみ輸送についても火力の輸送の観点から懐疑的だった。ねずみ輸送に使用される駆逐艦は、スピードが速く夜間の隠密輸送には適しているが、その積載能力に問題があった。もともと船体が輸送船に比べて小さいことに加え、そこには陸海軍協同作戦の難しさも影響していた。海軍には、前述の通り、飛行場奪還とともに“敵機動部隊の撃滅”というより重大な目標があったため、万が一敵機動部隊と遭遇した場合に備え、弾薬を積んでおくスペースを確保する必要があった。それは、陸軍の火力や兵力の輸送に充てる空間を、犠牲にすることを意味していた。
陸海軍は、一木支隊の時と同様、依然として“飛行場奪還”という一つの目的に集中することができていなかった。
さらに派遣兵力についても、第一七軍の二見参謀長は不安を抱いていた。日本軍は未だに海兵隊の正確な兵力を掴みきれていなかった。川口支隊の6000という数も、確たる根拠があるわけではない。やはり、敵兵力は、大本営が考えているよりも大きいのではないか。二見は、第一七軍の参謀たちに、兵力増強の研究を命ずると同時に、川口支隊長に宛てて電報を打った。
「現兵力にて十分なりや 青葉支隊の一部及中央より送附の特殊資材を16日タイボ岬に送る用意あり」
これもまた一木支隊の時と同様、既視感のある事態だが、現実を冷静に見つめた二見の提案は、迅速果敢な攻撃をよしとする姿勢の前に立ち消えとなってしまう。9月6日、二見参謀長の電報を受けた川口支隊長から、第一七軍に対し以下のような返答があった。
「現兵力にて任務完遂の確信あり 御安心を乞う 予定の如く12日攻撃を行う 12日は月なく夜襲に適す 攻撃日時の遷延は最も不利なり」
指揮官の川口は、兵力に関して一抹の不安もなかったのだろうか。
戦後の回想では、戦いの前に抱いていた不安を率直に表明している。しかし結果的に、川口は二見の電報に、強気の返答を返した。二見の提案を受け入れるとなると、攻撃開始は予定より遅れてしまう。すでに海軍側には攻撃開始日を伝えてあり、川口支隊の攻撃と協同して艦隊や航空機を出動させることが決まっていた。もちろん大本営にも情報は伝わっている。陸海軍協同の大作戦を遅らせることはできない。積極果敢な用兵で評価を受けていた川口がそう考えたとしても不思議ではない。
一度は申し出を拒絶された二見参謀長だったが、よほど兵力不足に懸念を持っていたのか、増援部隊の投入準備だけは進めようとした。
すると9月7日、今度は大本営から、川口支隊の攻撃開始を急がせる電報が第一七軍に届く。
「海軍の通報によれば、8月28日頃ハワイを出発せる敵海兵隊搭載の有力なる輸送船団は、9月5日フィジー島に到着せる由、右に鑑み川口支隊の攻撃開始時機の繰り上げにつきさらに検討相成度。念の為」
再び二見に突きつけられた、大本営からの圧力。第一七軍司令部内でも孤立しつつあった二見は精神的に追い込まれ、積極的に反対意見を述べることが難しくなっていく。二見が置かれた苦境は、察するにあまりある。仕事を進める中で問題を発見して声を上げても賛同者はおらず、上層部からも無視される。期日が迫っているというプレッシャーから、問題を解決できないまま既定路線で突っ走ってしまう。そうした経験は、組織に身を置く人なら、多かれ少なかれ誰しも味わったことがあるのではないだろうか。
大本営の「急げ、急げ」というプレッシャーにさらされた第一七軍司令部は、しまいには川口支隊に対し、攻撃を急かすようになる。

川口支隊が肉弾戦を展開した「ムカデ高地」にも行ってみたいと思った。
かつてのヘンダーソン飛行場、現在のホニアラ国際空港の南側をフェンスに沿って進み、途中から車は右折して小高い丘に登っていく。
川口支隊がかき分けたジャングルはもはやなく、人工的な林の中に点々と民家が建っている。

途中、民家の庭先に大きなドラム缶を横倒しにしたようなシェルターがあった。
サムさんによれば、こうしたシェルターは戦争中兵士が寝泊まりしていた兵舎だったという。
空港の周辺にはたくさん残っていて、アメリカ軍が飛行場の南側に何重もの防御陣地を構築していたことをうかがわせる。
そんな戦争の遺物も、今では人々が勝手に占拠して住居の一部や倉庫として使っているのだそうだ。

丘を登り切ったところに、遮断機のようなものがあった。
よく見ると、脇にある小屋には「BLODDY RIDGE NATIONAL PARK」と書いてある。
日本軍が「ムカデ高地」と呼んだこの丘を、連合軍は「BLODDY RIDGE」、すなわち血染めの丘と呼んでいて、今ではこの激戦地がソロモン諸島の国立公園に指定されているらしい。
私たちの車が近づくと、一人の女性が出てきてゲートを開けてくれた。

ゲートの先は車の轍も残るスロープになっていて・・・

そのスロープを登った丘のてっぺんに、こんな記念碑が建てられていた。
英語で「ブラッディ・リッジの戦い」というタイトルが付けられていて、『1942年9月12日から14日にかけてガダルカナルおよびソロモン諸島で戦ったすべてのアメリカ海兵隊員に捧ぐ』と記されている。

そしてこの丘に立つと、「ムカデ高地」と呼ばれた飛行場の南側に位置する高台の地形がよく理解できる。
太平洋戦争当時も、この高台にはほとんど樹木がなく、今と同じように草地が広がり、その形がムカデに似ていたのだという。

尾根沿いにムカデ高地の上を伸びる一本道を進むと・・・

今度は日本語で書かれた白い慰霊碑が立っていた。
『ガ島戦没者慰霊碑』
慰霊碑には日本語と英語でそう刻まれていて、建立したのは「第二師団勇会」と書いてあった。
どうやら、この慰霊碑は川口支隊ではなく、それに続き上陸した第二師団の生存者や遺族によって建てられたものらしい。

この丘に立つと、遠くガダルカナル島を貫く山脈まで見通せて、日米両軍がその小高い丘を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げた理由も理解することができる。
ムカデ高地の西側にはルンガ川が流れている。
太平洋戦争当時、丘から見下ろす平野部分は一面ジャングルに覆われていたようだが、川口支隊の攻撃が失敗したことでようやく強い危機感を抱いた日本軍中枢は、本格的な部隊投入を決意。
今度は、日本軍の残存部隊が死守していた飛行場の西側に大兵力と十分な兵器を送り込み、真正面からの力攻で飛行場の奪還を試みる。
選ばれたのは仙台を拠点とする第二師団。
日清日露の戦いにも参戦した伝統ある師団で、「夜襲の仙台師団」の異名を持ち、満州事変や盧溝橋事件にも加わり、太平洋戦争が始まると蘭印での戦いに勝利した後、ガダルカナルへの派遣命令が下った。

再び半藤一利著『遠い島ガダルカナル』からの引用。
9月17日、とにかく参謀本部は活発に動き出した。第十七軍兵力の増強はもちろん、軍参謀部の増強が決定される。松本参謀が、次の飛行場奪取のための決戦兵力たる第二師団の作戦主任として転出、その後に参謀本部研究班長小沼治夫大佐が高級参謀(作戦)として着任することになる。これに伴って、わずか3名であった第十七軍参謀部は11名に拡大強化された。海軍に引きずられて、やらずもがなの戦いをしている、という不満を投げ打って、参謀本部もやっとその気になったのでもあろう。
これを受けて杉山総長が再び参内して、大元帥陛下に奏上する。それは誠に意欲に満ちた壮大な作戦計画なのである。次の攻撃は第二師団主力、青葉支隊の残部の総力をあげ、さらに戦車中隊、重砲兵中隊並びに大本営より先に送ってある自動砲(10門)、重擲弾砲(30門)、火炎発射機(10門)そのほかを集中使用する。その攻撃時期は10月に行われるであろう。こうして第二師団の使用目的ははっきりとガ島ということになった。
さらにポートモレスビー攻略作戦もあるゆえ、後続として第三十八師団、戦車第八連隊、野戦重砲兵第四連隊、独立山砲兵第十連隊、並び独立工兵1連隊、野戦輸送司令部など所要の部隊を引き抜き、第十七軍に増加補強することとする。
「このように兵力を続々増強いたしますれば、第十七軍は手中に有する兵力を思いきってガ島に注入することができます。でありますので、飛行場占領は万が一つにも間違いないことのみならず、今後の敵情の変化に対しましても、速やかにこれに対応することができる次第にございまして」
天皇に時に厳しく、いうことと実行とは違うではないかと、叱責されて「また天ちゃんに叱られたよ」と首をすくめることの多い杉山としては、この日の奏上は大いに胸を張って成し得たものであったろう。胸中の必勝の信念をそのまま言葉にのせて、杉山の奏上は終わる。そして大元帥陛下はこれを裁可し、「大陸命」(大本営陸軍部が伝達する奉勅命令)第六八八号を持って、兵力抽出、第十七軍編入は発令される。
さらに、「切り札」としてマレー作戦の立役者として参謀本部内での評価を高めていた辻政信参謀の派遣も決まる。
太平洋戦争の様々な場面で登場し、クセの強い言動で現場を掻き回した辻参謀がガダルカナルでも波紋を広げることになるのだ。
海に空に激闘が続けられている間に、第二師団のラバウル集結は着々と進んでいた。9月20日、先遣隊として歩兵第十六連隊の到着を皮切りに、第一梯団(師団司令部、歩兵第二十九連隊、工兵第二連隊主力など)がラバウルに到着したのは9月27日のこと。続いて第二梯団も10月6日までには集結を完了する予定である。
そして、これら大部隊を笑顔で迎えたのは、誰あろう、大本営からの派遣参謀辻政信中佐である。参謀本部は、第十七軍司令部の陣容強化とともに、次の総攻撃の勝利を確実にするために、作戦班長辻中佐の現地派遣、作戦指導を決めていた。今度こそ的に優る兵力と、時間的にも、質量的にも周到な作戦準備を完整し、さらに辻の知識を加重することによって、飛行場奪回の必成を期そうというのである。まさしく大本営は“作戦の鬼才”と定評のある辻に全幅の信頼を置いたといえる。
その辻はどんな戦争観あるいはガ島戦に対する戦略戦術を持っているのか。このことについては、参謀本部で戦力班長として机を並べていた高山信武中佐の回想をあげるのがいちばんいい。辻のラバウル赴任の直前に、むしろガ島を放棄して後方に本格的防御地帯を構築して血栓を挑むべき、とする高山中佐の意見に、辻が激しく論駁した。
「偉そうなことを言うな。戦いには機というものがある。兵には勢いというものが大事だ。今や戦機だ。今ガ島を敵手に委したら、敵に勢いを与えることになる。徒に数や形に囚われることなく、必勝の信念をもって敵に食いつくことが大事だ。わが精鋭なる皇軍の精神力の向かうところ、何の恐れるところあろう。貴様に忠告するが、参謀たる者は絶対弱音を吐いたらいかん。退却などという言葉は絶対に口に出すではないぞ!」
高山はただただ辻の迫力に圧倒されるばかりであったという。この燃えたぎるような闘魂を抱いて辻は東京から飛び立ってきたのである。
9月26日、辻は早速小沼参謀ともども第八艦隊司令部を訪ね、作戦上の打ち合わせをする。ねずみ輸送が月明のため中止ということでは、全攻撃部隊のガ島集結は遅れる一方となろう。暗夜を待っていては1ヶ月近く遅れる。10月総攻撃を実行するとするならば、危険を覚悟して大輸送船団を組んで輸送を敢行するほかはない。その船団護衛を海軍は全力を挙げてやってもらいたいと、辻は強く申し入れたのである。
第八艦隊司令部の返答は、そのような大作戦は艦隊独自の力量で宰領することはできない、という至極当然のもの。そこで辻は、ならば連合艦隊司令長官に会い「直接決裁を受ける」までと、彼一流の大決意を固めた。決心すると直ちに実行に移すところに彼の本領がある。そこで28日、ラバウルにいた連合艦隊の渡辺安次参謀、第十一航空艦隊の大前敏一参謀と連れ立って、辻は第十七軍の林忠彦参謀(作戦)と共に勇躍してトラック島へ飛んだ。
宇垣参謀長の日記、9月29日の項には、辻の熱意に煽られて同意せざるをえなかったことが記されている。“鉄仮面”の宇垣も理論的に押しまくられては、たじたじとなるほかなかったのか。また、このとき連合艦隊司令部が構想していた作戦計画も垣間見られるので、その部分を引く。
「大輸送船の突入はわが航空作戦はもちろん支援部隊および巡戦(巡洋戦艦)をもってするガ島砲撃など影響する所大なり。さりとて輸送の遅延は攻撃開始の遅延となり、月齢の関係上一月を遅延せざるべからざるに至る。輸送船の被害を覚悟し相当思い切ったる処置を要すと認めらる」
この巡戦による砲撃とは、後に敢行される戦艦金剛、榛名によるガ島泊地への突入攻撃のことである。
作戦参謀三和大佐は9月28日の項にあっさり記している。
「午后、大前参謀及び陸軍辻、林両参謀来り作戦に付打合せす。頗る困難なるも、艦船輸送を実施せざれば成り立たず。海軍もどう椅子」
そして同日記の翌29日の項に「大前参謀、辻、林両陸軍参謀と共に、航空参謀(佐々木彰中佐)KB(機動部隊)に行く」と、辻たちの活発な動きが記されている。
これが辻の手記になると、がぜん張り扇の講釈調となる。「山本元帥に直訴しよう。元帥以外に誰も決定し得ないであろう。元帥と中佐の一騎打だ。負けても惜しくはない。進んで当ろう」と決意してトラックに向かったのが9月24日とある。日付も勘違いなら、山本が元帥になったのは戦死後である。こう楽しくやられてはこの著書がベストセラーになるわけである。
ボートから大和に移乗し、「人呼んで大和ホテルというのも宜なる哉。迷子になったら容易に出られそうもない」と感想を述べつつ、作戦室へ。そこで黒島参謀に会い、やがて宇垣とも会う。二人ともはっきりした返事をしない。そこで案内されて長官室へ。山本は「無心に筆をとって揮毫されているところ」であったという。
辻が全身全霊をあげて現状と作戦構想とを説明するのを、黙々として聞いていた山本は、やがておもむろに口を開く。それが何ともドラマチックな返答である。辻の書くこの部分の全文を、そのまま引き写す。
「海軍が油断し、拙い戦さをして奪われたガ島に、陸軍を揚げて、補給がつづかず、餓死させたとあっては、何とも申訳がありません。よろしい、山本が引受けました。必要とアラバ、この大和をガ島に横づけにしてもかならず船団輸送を、陸軍の希望のとおり援護しましょう。その代り、ただ一つ、百武さんに輸送船に乗って行くことだけは、山本の顔に免じて、やめて貰いたい。駆逐艦で安全に上陸して、立派に指揮して下さいと、一言伝えて下さい」
いい終わると山本はハラハラ涙をこぼした、という。
「鉄のような身体のどこに、涙があったのだろう。思わず貰い泣きする。このような将軍(提督)が果して陸軍に、幾人か在ったであろうか。海軍参謀になって、この元帥の下で死にたいとさえ考えた」
歌舞伎芝居の名場面を観ているような想いにさせられる。ほんとうにこうであったかどうか、なんら保証するものはない。しかし、戦後に議員会館で直接に会い1時間近く話を聞いたわが体験からいえば、辻参謀が熱血ほとばしるように弁をふるったであろうことは容易に想像できる。
川口支隊の予期せざる敗退後の、東京・ラバウル・トラック島の、いうならば“右往左往”の9月は、こうして終わる。9月30日、第十七軍の二見参謀長は日誌にこう記した。
「辻君トラックより帰る。連合艦隊大乗気にて全艦隊出動あらゆる協力し、金剛、比叡(ともに戦艦)海峡に入り、要すれば大和も出動する、頼もしきも果たして実現如何。(支隊艦隊は)11日出港、2週間目にトラックに油の関係上帰る要あり。之がため攻撃準備期間を短縮せられたしと云う」
辻参謀の肩を怒らせて報告する姿が見えるようである。
ともあれ、陸海の同意もなり、駆逐艦によるねずみ輸送、大型舟艇による蟻輸送を併用するほか、高速輸送船団による突入も決定される。作戦予定は概ね次の通りとなる。
蟻輸送、10月1日ガ島、爾後毎日6隻。
ねずみ輸送、駆逐艦6隻による。10月1日再開、爾後15日まで連日。
重火器輸送、水上機母艦日進による。10月3日と6日に決行。
高速輸送船団5隻にて強行上陸、10月11日〜14日までに予定上陸完了。
そして総攻撃開始は10月20日ごろということになった。今度こそは、と誰もが思う決戦である。

山本長官は、辻との約束を守った。
10月13日の夜、アメリカ海兵隊が後々まで「The Night」と呼んで語り継ぐことになる日本海軍による猛攻撃が実施されてのだ。
NHKスペシャル取材班「ガダルカナル悲劇の指揮官」からの引用。
形勢を逆転させるため日本海軍は、10月13日の夜、未曾有の作戦を決行する。
アメリカ海兵隊の兵士たちが、「The Night」と呼んで語り継いだ夜。アメリカ軍は、日本海軍によってかつてない恐怖に追い込まれることになる。
「陸軍の総攻撃に必要なドンバス高速輸送船団接岸には、何としてもそれ以前に飛行場を叩いておく必要がある。私は連合艦隊司令長官として、陸軍の切なる要請を承認した。承認した以上、私が行く。何か意見があるか」
予定されている高速輸送船団の陸揚げを完遂するために、連合艦隊司令部は、10月9日、作戦計画を策定した。
「13日、戦艦金剛、榛名を中心に、ガ島飛行場に連夜の艦砲射撃を行うこと」
この日、山本はいつも以上に積極的であった。できるならば、戦艦大和を先頭に、総力をもってガダルカナル島に殴り込みたいとまで言ったという。だが、ガダルカナル島の海域は複雑かつ狭い行動海面のため、大和の運航には、制約が伴った。大和ほどの大きさでなかったとしても、戦艦金剛や榛名でガダルカナル島飛行場を砲撃することは、あまりに危険が多すぎた。この日の打ち合わせでは、反対意見が相次いだ。
「戦艦はあくまでも白昼堂々と、主砲をもって射ち合う海上部隊が相手です。敵の艦隊と刺し違えて死ぬならいざ知らず、こんな小島の多い、狭い海域で低速で行動もままならぬまま、陸上砲撃や敵の飛行機で沈められるようなことがあったら、かけがえのない損失を招くことになります」
さすがの山本も連合艦隊司令部を置く大和の出撃は、見送った。それでも、戦艦による飛行場砲撃に関しては、一歩も退かなかった。
何故山本は、周りの反対を押し切ってまで、リーダーシップを発揮して、軍を動かしたのか。当時、山本が親友の堀悌吉予備役中将に宛てた手紙から、当時の心境を垣間見ることができる。
「米があれだけの犠牲を払って腰を据えたものを、一寸やそっとで明け渡すはずがないのは、ずっと前から予想したので、こっちも余程の準備と覚悟がいると思って意見も出したが、皆土壇場までは希望的楽天家だから、しあわせ者ぞろいだ」
希望的観測がはびこる中でも山本は事態を楽観せず、最大級の警戒を払っていたことが、この手紙から見えてくる。こうして連合艦隊司令長官の決意に動かされる形で、戦艦による飛行場の艦砲射撃は決定した。連合艦隊の作戦参謀・三和義勇大佐の日記からは、この攻撃にかける海軍の緊迫感がひしひしと伝わってくる。
「本日(13日)はガダルカナル飛行場砲撃の日なり。此の事は帝国海軍未曾有の事なるを以て、決行の当否大いに議論ありしが、遂に決行の事となる。緊張して電報を待てり」
13日深夜、アメリカ海兵隊の兵士たちはそれぞれ寝床にいた。
14日午前1時ごろ、突如コンディションレッド(敵機来襲)のサイレンが鳴り渡る。兵士たちは、塹壕へと駆け込む。貨物列車の汽笛のような音が空気を震わせる。爆発音だ。まばゆい閃光が暗闇を薙ぎ払った。夜を昼に変えるような巨大な爆発だった。爆発は、トラック1台分ほどもある土砂を飛行場の地面からえぐり取り、宙に舞い上げた。塹壕が降り注ぐ土と岩で埋まった。空気は埃と煙で充満し、兵士たちの鼻や耳、目、喉に入り込んだ。
日本による艦砲射撃作戦は、成功した。未曾有の攻撃であり、戦例にない奇抜な戦法だっただけに、完全にアメリカ軍の意表をついた。砲撃は1時間30分に及び、何と900発も撃ち込まれたという。当時、島にいた海兵隊の兵士が、眼前で展開される凄まじい地獄絵図を次のように回想している。
「斉射の閃光が空を照らすのが見えた。砲声が、それから砲弾の風を切る音が、そして最後に炸裂する砲弾の恐ろしいガーンガーンという音が聞こえた。ココ椰子の木が裂けて地面に倒れ、弾片が宙を飛び交い、数発の不発弾が爆発しないままジャングルに飛び込んで跳ね回った。火薬の匂いが漂っていた。何発かの砲弾は我々の地下壕から6メートルから9メートルも離れていないところに落ちた」
空っぽの塹壕よりも、混み合った塹壕の方がマシだったという証言もある。人がいれば、お互いにしがみついて支え合うことができたからだ。自分一人しかいない場合には、外の爆発による振動で、地下壕の中でピンポン球のように振り回されることになった。悪夢としか思えない光景だった。
夜が明けて、惨劇の結末が徐々に明らかになってきた。至るところに、ジープが1台隠れそうな、とてつもなく大きな砲撃の穴が開いている。飛行場の滑走路は粉々に破壊され、軍用機も90機のうち半数以上の48機が使い物にならなくなった。
10月15日、アメリカ軍は、確かに最大の危機に直面していた。
アメリカ太平洋艦隊司令部は、当時、司令長官のニミッツや幕僚たちが、いかに惨めな思いをしながらガダルカナル島の戦況を見つめていたのかについて、克明に伝えている。
「現在、我々はガダルカナル地域の海上を支配することは不可能のように思われる。わが陣地への補給は非常なる損失によってのみ果たされるであろう。状況は絶望ではないにしても、重大な局面を迎えていることは確かである」
一方、日本軍はこの奇襲攻撃の成功で、俄然息を吹き返した。
苦境にあったガダルカナル島の陸軍部隊に与えた精神的効果は絶大で、第一七軍司令部は「野砲1000門に匹敵する」「欣喜雀躍す」と報じた。
アメリカ軍が飛行場の修理を完了するまで一時的に輸送作戦を遮るものはなくなった。重巡洋艦2隻の援護のもと、水雷戦隊に護衛された高速輸送船6隻(笹子丸、埼戸丸、佐渡丸、九州丸、吾妻山丸、南海丸)が、15日、ガダルカナル島海域に入った。この日は未明まで霧が輸送船団を覆い隠し、夜が明けると、制空権を取り返した零戦が頭上を守っていた。その間、高射砲32門をはじめ、弾薬、糧秣800立方メートルなど大量の武器弾薬、食糧の揚陸を開始した。待望の増援部隊もやってきた。この10月の輸送作戦で、歩兵第一六連隊、二三〇連隊をはじめ、9091名の上陸に成功した。
東京では、永野修身軍令部総長が上機嫌で宮城に参内し、天皇に戦況の上奏を行った。
こうしてガダルカナル島での最大の戦闘が始まる。

半藤一利さんの著書によれば、正攻法で行くとされていた第二師団投入だったが、作戦開始直前、ジャングルを迂回し飛行場の南側からの攻撃に変更された。
1ヶ月前、川口支隊が失敗したルートを敢えて選んだのである。
第十七軍司令部の策定した作戦方針は、海岸線を押し進んでの正面からの正攻法ではなく、大きく迂回して飛行場の南、ジャングル側からの攻撃である。これは大きな変更と言えた。少なくとも10月11日の参謀会議の日までは、正面からの力攻につぐ力攻による一挙突破が最良の策と考えられていた。それも一夜、やむを得なければ二夜をかけて、断固飛行場を奪取するというものであった。辻政信参謀もこれに同意している。正面からの力攻が合理的とされたのは、大兵力のジャングル突破は困難、というより不可能であるからである。ほとんどの参謀がこれを納得していた。それが、突然に、ジャングル突破の迂回案に作戦計画が変わったのはなぜなのか。
確かに、戦闘司令所をガ島にまで進めてみたら、第一線の戦力は驚くばかり低いものであることがわかった。特に砲力火力においては比較にならないほど劣勢である。それゆえ、という理由は一応なされている。つまり、これでは第十七軍が最初に策定した正攻法による攻撃成功はおぼつかない、と判断されたというのである。しかし、それだけであろうか。
作戦変更の経緯を記す唯一の資料「第十七軍迂回作戦決心の経緯」には、次のように記されている。
- ガ島後方状況ならび2D(第二師団)の現況により正攻法は不適当なりと判断す。
- 海図により迂回路を研究するに、勇川河谷ーアウステン山南側隘路ールンガ川河谷を迂回せば、比較的容易に、かつ敵飛行場の直前に進出し、敵の虚を衝き得。
- 参謀を903高地に派遣し地形を見るに、部隊の正面より前進するより迂回路の方がはるかに通過容易の如く見らる
つまり、川口支隊の攻撃の時使用したのと同じ海図で研究してみると、簡単に飛行場まで進出できるとわかったというのである。実は、その海図たるや等高線も河川の位置もいい加減な代物である。それを見て「比較的容易」と判断したことになる。それに、この海図に頼って川口支隊は攻撃を失敗したのではなかったか。
しかも高地より遠望した結果、迂回路の方がジャングル通過が容易とあっさり結論しているのは、一体どういう神経なのであろうか。危険を冒して持ってきた山内参謀の写真情報、それは迂回作戦はかえって危険ということを示している。それを微塵も考慮に入れようとはしていない。科学的観察資料よりも、高所からの参謀の望遠鏡による観察を正確とする論理などは存在しない。にもかかわらず、どの参謀の頭脳もそれに疑いを挟もうとしないとは、奇怪至極と評するよりほかはない。
それというのも、ラバウルの作戦室の机上で確定していた“正攻法”の作戦計画に対して、ガ島に上陸してみたら、十七軍司令部の参謀たちは、確たる自信が持てなくなっているのである。上陸直前の、米軍の思い切ったマタニカウ川東岸への先制攻撃によって、歩兵第四連隊が敗退してしまったという事実が、前途に暗澹たる翳を投げかけている。といって、日本を離れる直前に田中新一作戦部長から、「ガ島の米軍はこれまでの植民地軍とは全く異なる。本格的に四つに組まなければ勝てぬ」ときつく念を押されてきたのは、ほかならぬ高級参謀の小沼大佐であり、辻参謀なのである。それなのに、今更どうして正攻法を断念し、自分の方から迂回奇襲を言い出せようか。苦悩で頭を抱えているちょうどその時、11日、第二師団参謀長の玉置温和大佐と松本参謀とが展望のきく高地に登って敵情偵察をし、それを十七軍司令部に報告してきたのである。
「山地の森林は密度大ならず」
そしてこう付け加える。
「座して、餓死するよりは迂回奇襲を」
十七軍司令部はよくよく検討することもなく、この報告に飛びついたのである。辻参謀は当初「大兵力のジャングル突破は不可能」として迂回作戦などテンとして受け入れようともしなかった。それが何という豹変か。12日の軍と師団の合同会議は、「軍の意図は師団の構想と一致せり」ということで、あっという間に迂回奇襲ということに計画は変更された。
そこに山内参謀から新しい貴重な情報がもたらされた。それを見れば、せっかく樹立した作戦計画をもういっぺん練り直さなくてはならない。当初退けていた迂回作戦を決行するための条件は全く整っていないのであるから。が、10月20日ごろまでには攻撃を実行すると、参謀総長は天皇に上奏してしまっている。海軍にもその旨を通告している。練り直しの余裕はないのである。
したがって情報は見なかったことにする。そして見ないで作戦命令を出した以上は、以後もずーっと見ないことにするほかはない。いわば暗黙の了解というもので、参謀たちはそこに意見一致する。極論すれば一種名状しがたい八百長ということになろう。しかし、命令は断固として発せられるのである。
「軍はX日薄暮主力をもって飛行場南側地区より敵を急襲、これを撃滅す。X日は22日と予定す」
この新たに構想された戦策すなわち「飛行場南側地区」よりの攻撃は、繰り返すが、1ヶ月ほど前に川口支隊が攻撃をかけ失敗している地点である。そこへもう一度突っ込んでゆく。強固な縦深陣地と圧倒的な砲火がスクラムを組み、がっちりと防護を固めているところなのである。その時の戦訓を、ちょっぴりとでもいい、参謀の誰かが念頭に浮かべなかったのであろうか。
辻参謀は14日には田中作戦部長にあてて迂回作戦実施の報告電報を打った。
「密林障碍の度は予想以上に軽易なり」
戦後の田中の回想手記にはこんなことが書かれている。
「いまや、案じたように、辻の奇道機略の戦法にひきづられたるか、と思わずにはいられなかった」
それならば、大本営はそれは駄目だと作戦指導をしなかったのか。ここにも、なぜが残るのである。
10月16日正午、那須弓雄少将が指揮をとる部隊(これまで青葉支隊と呼ばれた部隊)が出発。続いて17日早朝、師団司令部と川口部隊とが、それぞれ集結地を出発する。第二師団の密林内機動はここに大々的に開始されていた。
こうして第二師団がいよいよ動き出した時、アメリカ軍にも大きな動きがあった。
南太平洋方面の司令官に「猛牛」の異名を持つ猛将ハルゼイ中将が任命されたのだ。
ハルゼイは、1942年4月に行われた東京に対する電撃的な空襲を実行した指揮官でもある。
着任したハルゼイは直ちに海兵隊や陸軍の指揮官を召集し、日本軍の猛攻撃を受けて弱気になり撤退論も出始めた現場に怒りを爆発させる。
『よし、わかった。諸君、持ち場に戻り給え。私は、私のできる限りのことはなんでもしてやる。そしてガ島戦に勝ち抜いてみせる。 空母部隊もいまや温存の時ではない。戦闘に加わることを命令する。 それでどうだ? 撤退するか、死守するか?』と指揮官たちを問いただした。
このハルゼイの一喝が、連合軍将兵の闘志を蘇らせた。

その頃、日本軍は現在の首都ホニアラの南側に位置するアウステン山あたりを西から東へ進んでいた。
今では人間の手が入って開墾されているこの界隈も、当時は人跡未踏のジャングルだった。
その頃、ガ島のジャングルの中を日本軍の各部隊は、苦闘力戦しつつ突き進んでいる。10月18日夕刻、第二師団司令部と同行している辻参謀は、ずっと後方の十七軍戦闘司令部に電話報告をしている。
「集合に4日、攻撃準備に2日を要するゆえ、22日に攻撃開始を至当と認める。敵は未だ師団の迂回行動を察知しあらざるものの如し」
第一線の将兵はそうした狂気や楽観とはおよそ無縁である。彼らの眼前に拡がっているのは、千古斧鉞の加えられたことのない鬱蒼たる大密林なのである。真先に立って工兵隊が斧と鋸をもって密林に足を踏み入れる。機械力など使えない。人間の腕ほどの太い蔓をたたっ切っていく。藪や木の根は掘り払われた。草原では網を張ってカムフラージュが施された。断崖にかかると藤蔓で梯子をかけ、沼や湿地にぶつかると樹木を切り倒して橋がわりとする。
そうしてやっと切り開かれ造られた細い一本路(これを「丸山道」と呼ぶようになる)を、師団兵力が一列縦隊で機動するのである。しかも地図では似たような山そして山があるが、その名は一つもかきこまれていない。アウステン山南側と指示されてもその評定を誰ができるというのか。もちろん密林には記号のあるべくもない。方角を失っても不思議ではないのである。
このため、隊の先頭は朝に到着しても最後尾の到着は翌日昼頃、といった苦闘を強いられる。連隊砲を分解して担ぐ支援隊に至っては、夕刻にならなければ終結は不可能という有様なのである。
試みに、分解輸送とはどのくらいの重量か、参考までに記しておく。
九二式重機関銃 銃身28.0キロ 脚27.5キロ
九四式軽迫撃砲 砲身34.2キロ 砲架48.5キロ
四一式山砲 砲身90.8キロ 揺架93.0キロ
この途方もない重量を背負って、急げ急げと督促されても、それは人間業を超えなければ不可能というものである。
これでは参謀たちの希望的観測どおりには、作戦は決行できそうにない。予想はその日その日で狂ってくる。
それでも、日本軍の精鋭部隊は困難を乗り越えそれぞれの攻撃予定地点にたどり着く。
その中には、川口支隊を率いた川口清健少将も右翼攻撃隊長として加わっていた。
攻撃開始直前、ここで重大な事件が起きる。
まさに24日、「日米決戦」と銘打つ総攻撃の日が到来する。
戦闘司令部は「一挙殲滅」の意気に燃えている。皇軍の最強たるゆえんの白兵大夜襲の前には、ルンガの敵陣は物の数にあらず、と自信満々である。この勝利過信の参謀たちは、米軍がどれだけの兵力を集結して決戦に備えているか、まったく念頭から振り払っている。2百門の大砲を百門以下、三重、四重に構えた防御陣地を一線だけと計算している。さらには、敵がジャングル内の要所要所にマイクロフォンを仕掛け、日本軍の進撃地点と接近速度を捕捉し、その作戦計画を逐一探知し、応変の策を練っていることなど思ってもみなかった。頭から「敵は我が企図を察知しあらざるものの如し」と安堵楽観していた。
ましてや、米軍が昨日までの日本兵の銃剣突撃に悲鳴をあげる、へなへな腰の弱兵にあらず。一人一人の将兵が「ジャップを殺せ」の闘志を改めて燃やし、その一念で固くまとまっている。彼らは日本兵を一人残さず撃ち殺すことを最大の義務としている集団に変じていると、日本軍の秀才参謀たちはそんなこととは露思ってもいないでいる。
第二師団の飛行場奪取のための総攻撃が、まさに開始されようとする。その最大に重要な時にあって、まず情けない事実から書かなければならないのである。それはもう総攻撃失敗の予告でしかなく、気の進まぬこと夥しいものがあるがやむを得ない。いちばん緊要な時に指揮権の混乱を露呈すること自体、日本陸軍という大きな組織が内部崩壊していたことの証しとも言えるであろう。
ことは10月22日、右翼攻撃隊長の川口清健少将が、山内参謀によってラバウルより急遽届けられてきた航空偵察写真を、自分の眼で確認したことに発する。第十七軍戦闘司令部の参謀たちが作戦機動がもう始まっているゆえ、という理由で無視したこの航空写真を、川口は暗然たる想いで見たというのである。
戦後に書かれた川口の手記にはこうある。
「1日歩いた時に、伝令が軍から4枚の航空写真を持って来た。最近撮影したばかりのもので、敵飛行場を中心とするものである。私はこれを見て驚いた。私が攻撃した9月12、3日頃には南方には別の陣地らしいものはなかったが、今度見る写真には、明らかに何か立派な工事が写真に表れている。その正面へ私共は攻撃しようというのだ。これでは金城鉄壁に向かって卵をぶつけるようなもので、失敗は戦わなくても一目瞭然だ。私は悩んだ。私はこの陣地を避け、遠く敵の左側背に迂回攻撃しなければならんと思った」
長い引用となったけれども、上層部の作戦上の衝突と混乱の内情を知るためには、とりあえずは川口の手記によるほかはないからである。
川口はそこですでに正式に作戦命令が発令されてはいるが、自分の抱いた憂慮を第二師団司令部に伝えようと考える。が、奥知れない密林の中、司令部がどこに位置しているのか、連絡の取りようもない。
すると、後から思えば何たる天の配剤というか、マルスの悪戯としか言いようがないのであるが、丸山通三叉路で偶然に辻政信参謀と出っ食わす。この邂逅を「天与の好機」と思った川口は、「作戦の神様」の大本営派遣参謀に、縷々というか、くどくどと情況と自分の意見を説明をする。そして会話は次のように続いた。
川口「従って、私の隊はこの方面(左側背)に迂回して攻撃しようと思う。どうぞ師団長にこのことをよろしく伝達していただきたい」
辻「それは結構なお考えですね。承知しました。よく師団長閣下にお伝えします。愉快ですなあ」
ただし、右の和やかな会話は川口手記に基づいている。辻の戦後の手記には、川口の意見具申を聞いたことも、師団長への伝言をは請け負ったことも、一言たりとも書かれていない。いや、三叉路で川口と会ったことすら触れられていない。
そして話は、23日の川口の突然の指揮官罷免という大事につながるのである。辻は恐れいったことをぬけぬけと手記に書いている。
「午後3時ごろになって突然、K少将から電話がかかった。曰く、『第一線の攻撃準備不十分で今夜は到底夜襲出来ません。明日に伸ばしてください』と。21日の予定を延期したのもK少将の意見であった。すでに全師団に下し終わった今夜の夜襲を、その直前にまたもや出来ないと、半ば脅迫的な電話である。温良な師団参謀長玉置大佐の声が、さすがに怒りを帯び、電話器を握る右手がブルブルと慄えている」
Kが川口であるのはいうまでもない。が、この一連のクビにつながる話も、川口手記によれば、電話は師団司令部の方から彼にかかって来たことになる。辻に伝言を依頼してあったので、そのことに関してのことであろうと、受話器を取った川口は、相手が参謀長玉置温和大佐であることを知る。そして、
玉置「辻参謀から聞くと、右翼隊は敵を側背に迂回されるとのことですが、やはり予定の通り、正面攻撃してください」
川口「君!正面攻撃して僕は勝てるという自信が持てない。どうか師団長のお許しを願いたい。辻君が引き受けてくれたので、そのつもりで部下に命令も下し、迂回のためすっかり準備もしてあるのだから」
と川口は書くが、辻手記では、
「(二人のやりとりを)側で聞いていた丸山師団長は、白髪を逆立てるかのように、自ら参謀長に代わった。『K少将は、今直ちに師団司令部に出頭せよ。自今右翼隊の指揮は東海林大佐に譲れ』ついに温容慈顔の丸山師団長も堪忍袋の緒を切ったのである」
となっている。写していて恥ずかしくなるような張り扇の講談調である。
これもまた、川口手記ではやや異なって書かれている。電話は一旦は切れて、約30分後に再びかかってくる。川口の耳には玉置参謀長の声が飛び込んでくる。
「師団命令をお伝えします。閣下は右翼隊長を免ぜられました。後任は東海林大佐です。閣下は師団司令部の位置に来てください」
いずれにせよ、川口にとっては青天霹靂の解任命令であったが、二つの手記ではかなり内容が違って書かれている。どちらの手記が正しいか。少なくとも、川口・辻の両者が三叉路で話を交わしたことは間違いあるまい。辻がそれを全く記憶していないことはないであろうから、書かなかったことに対しては何かの意図的なものが感じられる。それに、いきなり師団長が直々に怒鳴るように首切り命令を伝える、というのもどうか。
さらに言えば、上長の第十七軍司令所が全く関知していないのも、妙といえば妙な話ということになる。師団司令部だけの判断によって、いよいよ作戦決行の直前に、こんな強引な幹部の人事異動が行われては果たしてうまくゆくとは思えないのである。
突然に右翼攻撃隊長を命じられた東海林俊成大佐の手記が、その無茶な罷免という意味からは実に面白い一面を示してくれる。
「23日夕方、第二師団玉置参謀長から電話あり、『師団が重点を左に保持して攻撃するとき、右翼隊としてはどうするか』と戦術の問題を聞かれた。自分は『右翼隊は左に重点を保持します』と答えた。玉置参謀長は続いて『よし、川口少将の右翼隊長を免じ、東海林大佐に右翼隊長を命ずる』と言った。自分は『攻撃を前にして武士道に反する。また自分は健康を害している』と辞退した。玉置参謀長は『命令、命令』と言って電話を切ってしまった。丁度その時川口少将が来られた。非常に興奮しておられた」
これで、急遽の隊長罷免が、後先をほとんど考慮することなく、きちんとした判断や検討もなしでヒステリックに行われたことがよくわかる。そして、罷免の理由が迂回作戦の意見具申にあったことも、参謀長のいまさらの戦術に関する念押しでわかるのである。
作戦は参謀が立て、軍司令官なり師団長なりが決裁する。そうしたきちんとした原則を踏みにじって、実践部隊長ごときが尋ねられもしないのに、余計な論評をし意見具申をするとは何事であるか。ましてや、「第一線の攻撃準備不十分で今夜は到底夜襲出来ません。明日に延ばしてください」と脅迫的な意見を述べるなど、作戦変更を求めることは許されるものにあらず。大本営の枢要な位置にあり、名参謀の誉れ高い俺に対して、無礼極まる、という驕りが果たして辻にはなかったか。
そう観じると、この参謀の心のうちには、激しく川口に対する憎悪と嫌悪とが交錯しているように考えられる。どう好意的にみても、この人事には激情に走った辻の影がちらちら見えてならないのであるが。
また、川口その人が土佐の血を引く“いごっそう”で、頑固で万事に批判的で反骨的な軍人であった、という人もいる。横柄な口利きが辻には秩序を乱す不敵な振る舞いとでも思えたのかもしれない、ともいう。仮に、その結果としての断固罷免という強硬策が生まれて来たとしても、これから突撃せんとしている部下の闘志を萎えさせるような、攻撃開始直前の罷免はあまりにも気まぐれであり、偏見の所産というほかはない。
それゆえに手記では、辻は川口を責めて責めまくる。第1回総攻撃の時、田村大隊が猛攻をかけ、まさに飛行場を占領しようとした。あの好機の時に川口支隊主力のとったザマは何だ。もたもたして勢いに乗った突撃をしようともせずに、折角の勝機を逸した。つまり川口支隊の攻撃の失敗以来、川口少将には師団長も軍司令官も、誰一人信頼感を持っていなかったのである、として、辻の手記の続きはこうである。
「本来ならば当然、軍職を去らせられたのであろうが、せめて、この機会にもう一度、雪辱の戦いをさせよう、との軍司令官の温かい心から、わざわざ丸山師団長の指揮に入らせたのであった。腐木は遂に腐木である。指揮権を、敵前で剥奪された少将は、その後師団司令部でも誰一人相手にするものもなく、ジャングル内の孤独を楽しんでいた」
ここまでくると、個人的な私怨でもあったのか、と言いたくなる。しかも、生死を賭して戦った人に「腐木」とは。何をか言わんや、で表する言葉もない。
なお、罷免は実は24日であったと記憶する人もいる。師団司令部付の渡部実軍曹である。その手記によれば、「23日には敵情が確認できず、互いに困惑の中に前進を続けていた最中である。軍司令部と師団司令部との間には電話が架線されていたが、先を急ぐ右翼隊との間には架線が無理であったであろう」というのである。そして渡部手記は、川口に罷免通達後の師団司令部内の雰囲気をこう記している。
「将校や下士官の間には、何やらうんざりした気配が感じられた。それは川口少将に対してなのか、あるいは辻参謀に対してなのか。あるいはその両者に対してだったかもしれない」
辻参謀の怒声が響いているのみの、後のシーンと静まり返った司令部でもあったのか。そんな想像も浮かんでくる。
それにしても、罷免が24日では、ますます戦闘集団のやるべきことにあらず、ということになる。

こうして突然の指揮官交代の混乱の中で、10月24日、総攻撃の命令が発せられた。
戦場となったのは、今回もまた「ムカデ高地」だった。
この戦闘に関して半藤さんは詳細を書いていない。
その代わりに、多くの兵士を無為に死なせた日本軍のあり方への強い怒りが溢れていた。
24日正午、丸山師団長は攻撃開始に関する最後の命令を発する。
- 天佑神助ト将兵ノ辛苦トニ依リ師団ハ其ノ企図ヲ秘匿シ、敵ノ側背ニ進出スルコト得タリ。
- 予ハ神明ノ加護ニ依リ既定計画ニ基キ攻撃ヲ行ヒ、一挙飛行場付近一帯ノ敵ヲ撃滅セントス。
- 両翼隊ハ1700ヲ期シ突撃ヲ敢行シ、敵線深ク殺到スベシ。
- 予ハ1400迄現在地ニアリ、爾後左翼隊後方ヲ飛行場ニ向ヒ前進ス。
第十七軍戦闘司令所には、前後して辻参謀よりの報告が入った。これがすこぶる阿呆らしいものであるが、書き写しておく。
「第二師団の第一線は敵に察知されることなく、飛行場何方約2キロ付近に進出し、両翼隊は各々四条のジャングル道により前進中。歩兵第十六連隊はムカデ草原南側に集結しあり。師団司令部は今よりムカデ南側地区出発、前方に進出す。電話線の余力なき故、爾後軍戦闘司令所との連絡はきれるも、本夜は確実故次回に無電にて『バンザイ』を送る」
「バンザイ」とは突入成功を意味する暗号である。どこから「本夜は確実」に飛行場を占領できると踏んだのか、全く訳がわからないが、とにかく自信は満々であった。第十七軍の方でも、疑いを挟むこともなく、この楽観に乗っかって大本営とラバウルの司令部と連合艦隊に向けて、電報を晴れ晴れしく打っている。
いずれも戦場はるか後方にある秀才参謀たちの気楽さというものであろう。ただし、第一線にある将兵たちはそうした気楽さとは無縁である。彼らの行動は米軍によって逐一把握されている。その進撃方向には、まさしく地獄の砲火だけが待ち受けている。その上にこの日午後からは天候が悪化し、豪雨が沛然として降り出し、激しい雷雨ともなる。日没と共に密林の中は真っ暗闇となり、進路は泥濘化し、腰まで没する泥水を漕いで前進せねばならない隊も各所にできている。
しかし、将兵たちは必死の信念を固めて前進に前進をしていく。日本陸軍にあっては白兵突撃こそがこの必勝の信念の証しなのである。そのために生命を捨てるのに臆するところはない。
彼らは等しく勇敢であった。太平洋戦争においては、敗れたといえども、下級将校や下士官兵の果敢な善戦力闘が、連合軍側からも賞賛されている。その根源には兵隊それ自身の矜持、あるいは闘志、戦友愛、つまりは戦士としての心意気があると言っていい。さらには郷里に顔向けできないことはすまい、という強烈な郷土愛もあったことであろう。名誉とか勲章とか感状とかを常に頭に置く、戦争を指導しているもののそれとは、全く異なる精神構造で戦い抜いたのである。
さりながら、戦場での将兵の必死の頑張りが参謀たちの戦術の拙劣さを補うことはできないのである。まさに古今東西唯一無二の戦理である。戦闘の恐ろしさがそこにある。さらにまた、戦術がいかに巧緻を究めようが、最高司令部の戦略の愚劣さをプラスに転ずることはできないのである。大本営はガ島戦の最初から戦略的に大きな勘違いを犯し、米軍の戦力を過小評価し、誤算に誤算を重ね、米軍兵士の一人ひとりをなめてかかってきたことは、すでに何度も書いてきている。
米軍兵士は鉄壁の陣地に身を潜め、ひたすらファイティング・スピリットを燃やしていた。
統帥部の底知れない無責任と、根拠なき自己過信と、過剰なまでの楽観のツケを支払わされた、それがこの総攻撃の結果ということになるであろう。米軍の備え十分の反撃によって、完膚なきまでに撃破され、日本軍はほうほうのていで退却する。そして許せないくらい多くの勇敢な将兵が、ジャングルの中で空しい死を死ななくてはならなくなったことを、詳しく書くのはとてもとても忍べることではない。
しかも、敗戦の非情と悲惨とを倍化したものに誤報があった。午後9時ごろ、師団司令部の電話が鳴った。受話器をとった参謀が「なに、飛行場突入!」と大声をあげた。電話は指揮官不在の右翼隊からのもので、「右翼隊は敵陣を突破し、目下、飛行場東方の草原地帯を北方に向かい前進中」と伝えたというのである。司令部は、字義通り「バンザイ」「バンザイ」の歓声で埋まった。それだけではない。報告はそのまま無線によって、ラバウルへ、トラック島へ、そして東京へと繋げられていく。
寝ずに待っていた大本営の作戦参謀たちも興奮その極に達する。快報は東條首相以下の各首脳へ、さらには宮中の侍従武官を呼び出して明早朝これを陛下にいち早く報告するように要請する。「日米決戦」での大勝利である。ミッドウェイ敗戦の仇を討ったと同時に、皇軍不敗の信念をあらためて確認することができたのである。統帥部が有頂天になるのも当然のことであった。
しかし、これが誤報であると、わずかその30分後には師団司令部が確認することになる。「ただいまの飛行場占領は、飛行場付近で激戦中の誤りなり。主力の突撃は成功しあらず」という前線参謀の悲痛な声が、司令部の受話器に飛び込んできた。「激戦中」といえば「苦戦の真っ最中」を意味することは、わざわざ注釈するまでもないであろう。師団司令部は、さながら結婚式の喜びがいっぺんにツヤの悲しみに転じたように、シーンと陰鬱な沈黙の中に沈み込んでいく。日本軍の突撃は再度立ち直って、26日の夜の明ける頃まで続けられる。対する米軍の反撃も執拗を極める。日本軍の突撃を迎え撃つ自動火器はもちろん、観測射撃を実施する迫撃砲の威力は凄まじいの一語に尽きる。さらに無尽蔵と思われる大口径の砲が間断なく撃ちだす砲弾の幕が、攻撃につぐ攻撃をしかける日本軍の頭上を被った。人の顔を見分けられるほどに明るんだ密林の中で、左翼隊長那須弓雄少将が重傷後に戦死を遂げたことが判明する。歩兵第十六連隊長広安大佐、第二十九連隊長古宮大佐と高級幹部の戦死も明らかになる。以下の大隊長、中隊長、小隊長の戦士は数えきれない。生き残っている戦闘指揮官もほとんどが重軽傷を負っている。
川口の後任の東海林大佐指揮の右翼攻撃隊主力はどうしていたか。公刊戦史には「歩兵第二百三十連隊長代リシ為、部隊ノ掌握出来ズ、攻撃セザリキ」としている。何とか参加しようと急行したが、総攻撃には間に合わずやっと「左翼隊右第一線部隊ノ後方ニ進出シ、此ノ夜敵陣地ニ突入スルニ至ラズ」という情況であったようである。左右両翼からの一斉猛攻はどうみても成らぬままの、突撃開始であったということか。
26日午前6時、第十七軍司令官は飛行場攻撃隊に対して「攻撃中止」命令を発して敗北を確認した。
午前9時、那須少将の遺体が担架で師団司令部にまで運ばれてきた。丸山中将は、那須の顔を覗き込むようにしてかがむと、
「那須君、ご苦労であった」
と潤んだ声で言った。それを受けて、眼鏡をかけた那須の顔は微笑んでいるように、幕僚たちには感ぜられたという。
敗退した軍隊の惨憺たる退却行は、戦国の世も現代も変わることない。山内七郎の描く幻滅の様を長く引用する。
「帰途、いたるところに兵の死体がころがっている。傷ついて後退の途中、疲労と飢と渇のためたおれていった人たちである。瀕死の兵はにごった瞳をあげて水を求めた。誰もやるものはない。やれば自分が倒れる。いまや動物の世界の掟が皆を支配し、力つきて手をあわせ物乞う兵を見ぬふりをして通り過ぎるのだ。夜は飯盒泥棒が流行する。ある兵は首に結びつけて寝た筈の飯盒が、朝目を覚ますと盗まれていた。目当てを失った戦争は、各人に風土に病気に、飢渇に、環境に対する争闘と変って身内に燃えはじめた」
いまや米軍ではなく、生き残った兵たちにとって、どうしても生き抜いていくためには周りのものすべてが“敵”となっていくのである。

3度にわたる地上戦に失敗してもなお、その後もガダルカナル島での戦いは続いた。
島の西部、遠くサボ島を望む海岸には、日本軍に徴用された輸送船「鬼怒川丸」の残骸が今も海面から顔を覗かせている。
それは度重なる失敗により重火器の重要性を認識した日本軍が11月14日に実行した、輸送船団を連ねて第三八師団と大量の武器を運ぼうという捨て身の上陸作戦の痕跡だ。
それを成功させるためにはまず、邪魔なヘンダーソン飛行場をもう一度叩かなければならない。
日本海軍は輸送船団に先立って艦砲射撃に成功した「The Night」の再現を目指して、2隻の戦艦と護衛艦隊をガダルカナルに送る。
しかしこの作戦は、すでに日本軍の暗号解読に成功しつつあったアメリカ軍に察知され、ハルゼイ司令官は対抗するためアメリカの空母機動艦隊をガダルカナルに急派する。
こうして、11月12日に勃発した第3次ソロモン海戦は、双方の艦船が入り乱れ、近距離から撃ち合う壮絶な海戦となり両軍に大きな被害をもたらしたが、日本軍が企図した飛行場の破壊には失敗した。
それでも、すでに輸送船団はガダルカナル島に向け突き進んでおり、作戦はそのまま継続されることとなる。

そして、作戦は悲惨な結末を迎えることになった。
駆逐艦11隻に護られた頼みの日本の輸送船団は、ガ島まで、あと半日足らずの海域に達している。船団の主たる乗船部隊と積載軍需品は次の通り。
第三十八師団麾下の歩兵第二百二十九連隊主力、歩兵第二百三十連隊第二大隊、工兵第三十八連隊、輜重兵第三十八連隊の将兵たち総員約1万余。主要弾薬は山砲7千発、10センチ榴弾砲4千発、15センチ榴弾砲3千発、10センチカノン砲千五百発、高射砲1万5千発、その他歩兵各種弾薬。糧秣は在ガ島兵力3万人の20日分。確かに十分といっていい戦力である。が、問題はここからである。
ガ島ヘンダーソン飛行場を午前11時に飛び立った米海空軍機が、船団上空に到達したのはそれから50分後であった。それは予想通りに船団が魔の150海里圏に入った直後のことになる。しかも、船団の上空には、それまで期待に期待をかけていた零戦の防御の傘は影もない。
司令官田中頼三少将の指揮のもと、護衛する第二水雷戦隊の各駆逐艦は煙幕を張り、高角砲と機銃で必死に防戦の火幕を展張するが、それくらいで鈍足の輸送船団を護り切れるものではない。敵の戦闘機8機、雷撃機7機、急降下爆撃機19機の第一波は駆逐艦には目もくれず、ただ一文字に輸送船をめがけて容赦なく襲いかかる。白昼、きれいに晴れあがった大洋の真ん中、抵抗のための強力な武器もなく、動きもままならない貨物船とあっては、敵機の跳梁に身を任せるよりほかはない。多くの兵員と第三十八師団の幕僚を乗せていた佐渡丸と長良丸が被爆、まず洋上に停船せざるを得なくなる。続いて、きゃんべら丸が大きく傾斜したままぐるぐる回り出した。
田中は天霧と望月とを被爆した輸送船の救助ならび護衛のために残し、依然として前進を続ける。1時間後、さらに、24機の急降下爆撃機の攻撃を受け、ぶりすべん丸が大破して動けなくなる。やむなく江風を護衛として残し、船団はかまわずに決められた航路を突き進む。エスピリットサントからのB1715機が15トンにも及ぶ爆弾の雨を降らしたのは午後2時30分。さらに、陽のまだ高いうちにと、ガ島からの攻撃機が大挙して再度飛来する。とめどなく攻撃は続けられ、輸送船は次々に火炎に包まれ速力を落としていく。
3時過ぎには、南方はるかの洋上にあった空母エンタープライズの艦載機も、獲物の分け前にあずかるべく割り込んできた。艦爆8機、戦闘機12機は、やっと上空直衛に飛来した零戦の燃料消費でやむなく立ち去るのを待って、勝ち誇るかもように攻撃を加えてくる。信濃丸が被弾し、ありぞな丸はあっという間に猛火に包まれる。長波と巻波が救助すべく残されたが、船団は止まることなく前進を続けるのである。
目的地であるガ島まであと60海里の海域に達した時、輸送船団は仮借のない米軍機の攻撃によってついに壊滅という情況に陥っていた。虎の子である信濃丸は空しく沈んだ。那古丸がその姿を海面下に没したのは、陽が没せんとする時である。涼風が全速で駆けつけ海上の陸兵や乗組員を救助している間にも、船団はなお攻撃にさらされている。が、次第に暗くなっていくためか、どうやら命中弾はほとんどなくなっている。
田中をはじめあらゆる戦闘員にとって、この日は終わりのない日のようであった。猛火を噴きつつ停止した輸送船には駆逐艦が駆けつけて横付けし、沈没までの須臾の間に船員と陸兵とを収容する。あるいは内火艇やカッターをおろし、海中から拾い上げる。乗組員250人足らずの艦に、その数倍の武器なき陸兵を積み込み、収容を終えると駆逐艦はそのまま突き進んできたのである。
長い一日が終わる。昼から日没まで空からの攻撃は9回、150機に及んだ。信濃丸、ありぞな丸、那古丸、きゃんべら丸、長良丸、ぶりすべん丸が沈み、佐渡丸は天霧、望月に守られてよろよろと、ショートランドへ戻っていった。450人余の兵士が戦死した。弾薬・糧秣はすべて海の藻屑となっている。しかし、5千人余を駆逐艦は無事に海面より救助した。こうして、すっかり暗くなった海上に、なおも生存者救助を続け駆逐艦は広く散ってしまっている。手空きの駆逐艦は親潮、陽炎のみ。その2艦と残存の輸送船4隻に旗艦早潮から信号が飛んだ。
「アルマレ、アツマレ」
田中をはじめ部下の将兵は疲労困憊といっていい。しかし、揚陸作戦はなお放棄されてはいない。たったの4隻とはいえ、残った輸送船をガ島に送り届ける。その大仕事はこれからなのである。
こうして“悲壮な”という形容詞をつけるにふさわしい奮闘を続け、南下中の田中司令官や将兵を元気づける電報が届けられたのは、前進を開始してしばらく経った時である。近藤信竹中将指揮の、戦艦霧島を主力とする挺身攻撃隊が、ガ島飛行場砲撃のために全速でそちらへ向かった南下中であると、それは告げている。
喜ぶ田中とは違って、その頃ヌーメアの米艦隊司令部は最後の決断に迫られている。13日午後遅くなって、種々の情報を分析したところ、日本艦隊が、それも戦艦を主力に、再びガ島への攻撃に出ようとしている、という結論を得た。ハルゼイは躊躇することなく、新鋭戦艦ワシントンとサウスダコタに対し、空母護衛の任を解き、ガ島急航・断固阻止を命じようとする。これに幕僚たちが反対した。ガ島海峡は戦艦2隻が戦闘行動するには狭すぎる。
「広いところで、奴らをやっつければいいわけだ。それゆえにいち早く出撃させることが肝腎だ。とにかく飛行場を守るんだ」
とにかく飛行場を守る、この一言がすべてを決した。
海戦はまさに闘志と闘志のぶつかり合いとなった。
日本艦隊前衛の掃討隊は軽巡川内と駆逐艦綾波、浦波である。戦闘はこの日米の前衛に立っている駆逐艦同士の砲撃・雷撃戦で開始される。
このあと日本の掃討隊は米駆逐艦4隻を完膚なきまでに撃沈破する。前日の駆逐艦夕立にも負けないほどの、綾波の奮戦について少しく筆を費やしたいが、その余地もないし、主戦闘へと先を急がねばならない。
重巡愛宕坐乗の近藤長官は、敵艦隊発見とともに、軽巡長良と4隻の駆逐艦を分離させサボ島の西へ送り、自らは戦艦1、重巡2、駆逐艦2を率いてそのまま予定のコースを南下した。その近藤が、迎撃してくる敵が傷だらけの巡洋艦にあらず、なんと新鋭の戦艦であることを確認したのは、戦闘が始まって30分も経ってからである。今度は遭遇戦ではなくて想定戦であるはずの戦闘も、この瞬間からすっかり様相を変えた。作戦計画通りに整然と運ぶことはできなくなる。混戦の中で、結局、最後には火力の大きさと正確さの勝負となる。日本の主力である霧島は3万215トン、36センチ砲8門、しかも建造以来27年を数える老艦で、対する米戦艦は2隻とも真珠湾以後に進水した新鋭の3万5000トン、40センチ砲合計18門である。その巨砲同士の砲弾が闇を裂いて飛び交ったのである。初めて展開される戦艦対戦艦の真正面からの撃ち合いであり、しかも近接戦闘となり、互いに主砲を水平にして撃ち合うこととなる。
愛宕、高雄、そして霧島は、突然といっていいほど眼前に立ちはだかった敵戦艦に猛撃を加える。戦闘開始は午後10時2分。その集中攻撃を浴びて、たちまちにサウスダコタが撃破され、主砲は沈黙しわずかに中部副砲のみで応戦していたが、やがて戦闘力を失い漸次傾斜して退いていくのが認められた。が、敵戦艦炎上に喜んでいる暇はない。もう1隻の巨大な戦艦がその背後から、主砲を振り立てて急速に近接してくるのを見張りが発見した。
戦艦ワシントンに坐乗の敵将ウィリス・リー将軍は怯むことなく突撃を続けた。われに気づくことなく僚艦サウスダコタに攻撃を続行している敵戦艦を目標に、チャンスと見て一気に砲撃をかける。命令は簡単である。
「一番でかいやつを叩き潰せ」
実に、ワシントンの発射砲弾は75発、そのうち9発が霧島に命中した。10時6分には霧島は火災に包まれ、舵の自由操作が不可能になっていた。
日付の変わった15日午前零時25分、近藤艦隊は愛宕以下の無事の艦がまとまって、煙幕の中を北上して去っていく。米戦艦2隻もよろよろと戦場から離れる。残された結果は、日本側はサウスダコタを撃破したものの、霧島と綾波を喪失し、そして比叡に続いてまたしても戦艦による飛行場砲撃の雄図は夢と消えたのである。
この砲撃戦のわずか外側を、今や4隻の輸送船が全速力でガ島へ舳を向けて突き進んでいた。
早瀬の艦橋にある田中司令官は、このとき、決断に迫られている。やっとの想いで4隻をガ島まで運んできたものの、上陸予定地点が戦場そのものなのである。正常な揚陸作業は不可能である。といって、いまさら避退はできない。避退したところで、船団の速力では魔の150海里圏から夜明けまでに脱出することは許されないであろう。残された手立ては? 田中の決意にはなんら躊躇逡巡するものはない。
「このまま突入する」
水雷戦隊が輸送船4隻を押し包むようにして一直線に突進した。戦闘力を失って漂う彼我の艦のあげる炎が、漁火のように夜空を焦がし、砲声はなお殷々としてソロモン海に轟いている。輸送船は遮二無二突進して、ガ島の海岸にそのままのしあげるのである。突然、前方に敵戦艦の巨大なシルエットが、燃える海の赤い火を背景に浮かび上がってきた。田中はこれにもただちに応戦する。拾い上げた陸兵の数の少ない艦は親潮と陽炎の2隻である。この2隻なら十分に戦うことができる。
「攻撃せよ」
田中の命令を受けた2隻はただちに本隊と離れ戦闘海面に躍り出ていく。
15日の夜が明ける。
親潮も陽炎も敵戦艦に肉薄して魚雷を発射したものの、戦果を確認する余裕はなく、開頭すると、ショートランドへの北方水道に向けて前進全速で走り出す。早潮を中心とする戦隊の姿は北方の闇の中にとうに消えている。敵機の跳梁する前に、150海里圏から離脱しなければならない。親潮と陽炎の見張員は、その巨大な直径15センチの双眼望遠鏡でガ島の方をもう一度見返った。高く黒煙の柱が二筋三筋。擱座した4隻の輸送船が上げている煙であろうと思う。それは泣哭するかのように、見張員の眼にはいつまでもゆらめいて眺められたという。
彼らが想像したように、鬼怒川丸、山月丸、安川丸、山浦丸の4隻の輸送船は、舳を高く持ち上げて、ガ島の海岸にのしあげている。万難を排しても陸兵と弾薬・糧秣を揚陸する、闘魂をそのままに示している。けれども、それもまた、夜明けとともに無傷の飛行場から飛び立った敵攻撃機による銃爆撃を受けて、すべて炎上する。その黒煙が、ガ島にいる陸兵たちの眼に無残とも映じた。炎上するまでに、陸兵2千人、弾薬260箱、4日間食いつなげるだけの米1500俵の揚陸にどうやら成功したという。二度にわたる戦闘の真の成果としては、多くの犠牲を払って、ただそれだけである。そして、輸送船の上げる黒煙は、日本の攻勢の終末点を告げ、さながら犠牲者を哀惜するかのようにいつまでも消えなかったという。
霧島が自沈したのは午後3時ごろであったという。
大統領のルーズベルトも、飛行場確保の報せに、ほっと溜息をついて洩らした。
「これでもう太平洋戦争には負けることはない」
いや、実のところ、第二次世界大戦の勝利は確定した、と大統領は言いたかったのである。ここ数日の間に、連合軍は素晴らしい勝利を次々にもぎ取っている。北アフリカの上陸作戦の成功。エル・アラメインではモントゴメリー軍がロンメル軍を撃破した。スターリングラードではソ連軍がドイツ軍の猛攻を撃退する殊勲をあげる。そして、いまガダルカナルの凱歌がこれらに加わったのである。ルーズベルトは記者会見で胸を張って語る。
「この2週間、我々はいいニュースをふんだんに受け取った。戦争の転機がついに来たようである。喜んでくれたまえ、諸君」

輸送船とともに、1万人の兵士と膨大な兵器、食糧が海の藻屑と消えた。
なんとかガダルカナル島に上陸できた兵士は2000人、重火器は全て失われ、弾薬や食糧もわずか4日分ほどしか残っていなかった。
それでも残った兵士たちは、飛行場の西にあるアウステン山に立て籠もって抵抗を続け、砲撃と飢餓により命を落としていく。
日本軍がようやくガダルカナル島からの撤退を決断したのは、12月31日の御前会議、そして翌年2月、生き残った兵士たちの救出作戦が決行された。
記録によれば、ガダルカナル島に上陸した日本兵の数は3万1404名、そのうち撤退できたものはわずか1万652名で、2万人以上が日本から遠く離れたこの島で命を失うこととなった。
戦死者はおよそ5000人だったのに対し、その3倍にあたる1万5000人が餓死と戦病死だったと推定されている。
一方のアメリカ軍の損害は戦死者7100人、負傷者7789人以上と決して小さくはない。
日本本土では、ガダルカナル島からの撤退は「転進」として報じられ、生き残った兵士たちは別の激戦地に送られた。

そしてガダルカナル撤退後もソロモン諸島での戦闘は続く。
後にアメリカ大統領となるジョン・F・ケネディも、ソロモン戦線で危うく戦死しそうになる体験をしている。
1943年8月2日、魚雷艇の艦長としてソロモン諸島のニュージョージア島で日本海軍の輸送業務を妨害すべく任務に当たっていた際、日本の駆逐艦に衝突され海に投げ出された。
なんとか小島に泳ぎ着いたケネディはそこで2人の島民と遭遇、ヤシの実にメッセージを刻み2人に託す。
実は2人は監視員としてオーストラリア軍に雇われていて、ケネディが乗る魚雷艇の爆発を確認したオーストラリア軍が出した捜索チームだった。
2人は敵がいる海を60キロ夜通し漕ぎ続けてメッセージを届け、遭難から6日後救助隊によって救出されたという。

ガダルカナル島の戦いには、私が漠然と思っていたよりもずっと複雑なドラマがあった。
判断ミスや過信、責任逃れや臆病さなど、人間ならではの習性により戦争の行方は左右されるのである。
はじめに紹介した「VILU WAR MUSEUM」で見た日本軍の榴弾砲は、鬼怒川丸など海岸線に強行上陸した輸送船に積まれた何万発もの重火器の一つだったという。
一度も使われることなく、島に放置されたこれらの兵器は、大量の資源を浪費する戦争の虚しさを教えてくれる。
この戦争から私たちは何を学び取ればいいのか?
まずは一人でも多くの日本人、特に若い人たちがガダルカナル島を訪れ、自分の目と足で現場に立って戦争について考えることを望みたいと思う。