<きちたび>ミャンマーの旅1987🇲🇲 軍事政権化でほぼ鎖国状態だった80年代のビルマに“潜入”した

🇲🇲ミャンマー(ビルマ)/ヤンゴン(ラングーン) 1987年6月3日~6日

軍事クーデターによってミャンマーの民主派が政権から駆逐されたのは去年の2月のことだった。

勇敢に立ち上がり国軍に抗議した市民たちは弾圧され、ロシアのウクライナ侵攻により国際社会の関心もすっかり薄れてしまったように見える。

だから私はずっと、ミャンマーのことが気になって仕方がない。

私はバンコク特派員の頃、一度だけミャンマーに行ったことがある。

あれはまだミャンマーがビルマと呼ばれていた1987年、ネ・ウィン議長の軍事独裁体制が続き、ジャーナリストの入国が一切認められない“鎖国時代”だった。

独裁者のネ・ウィンは、建国の父アウンサン率いる青年活動家グループ「三十人の志士」の一員として、旧日本軍の南機関によって海南島で軍事訓練を受けビルマ独立義勇軍としてイギリス統治下にあったビルマに送り込まれた人物だ。

つまり、現在のミャンマー国軍につながるネ・ウィン体制は、旧日本軍の血を引いているのである。

そんなビルマにどうしても行ってみたくて、観光ビザを取得し旅行に行ったのだ。

取材用の機材は持たず、現地で家庭用のビデオカメラをレンタルして街の様子を撮影した。

当時、ビルマ国内の映像は貴重だったため、翌年の1988年にビルマで民主化運動が激化した際、私が撮影した映像が繰り返し使われることとなった。

まだ20代だった私が書いた取材メモには独裁国家の怖さを知らぬ無邪気さが溢れている。

でも知らないことの強さもある。

声を封じられたミャンマーの人々を想いながら、当時のメモをもとに、3泊4日のラングーンの旅で見聞きした様子をこのブログに残しておこうと思う。

■ 6月3日(水)

14時、バンコクのビルマ大使館でビザをもらう。1週間のシングルビザだ。

18時5分、ビルマ連邦航空222便。

予想外に新しいジェット機。サンドイッチもインドシナよりもマシだ。国境の山地を越えて海に出る。このあたりに密輸ルートがあるのだろうか。

ラングーンに近づくと、一面の水田。すでに雨季に入ったのか、大地全体がドロドロに見える。高度を下げて気づいたのだが、ビルマの水田地帯にはほとんど道がない。もちろん、畦道はあるのだが、自動車が走れるような道路は未舗装を含めほとんど見当たらない。その代わりというわけか、車の轍が水田の中を全く無頓着に走り回っている。田植え前は誰の田んぼであろうと自由に走れるのだろうか。

18時40分、ラングーン空港着。

時差はバンコクと30分。約1時間のフライトだった。すでにあたりは薄暗くなってきた。

空港ビルには、ラングーンと書かれたネオンサインが輝き、ちょっとしたレストランという趣き。建物の外観も白壁に緑色がおしゃれっぽく配されていたりして、なかなかにコロニアルだ。バスで空港ビルに着くと、まずパスポートチェック。続いて所持金の用紙、所持品の申請用紙に記入。カメラなどを持っているともう一枚書かされる。しかし、金を見せろとも言わないし、係官の態度も比較的明るく親切。悪名高い税関と覚悟してきたのに、ちょっと拍子抜けだ。

空港で両替をする。現在のレートは1ドル=6.33チャット。団体客以外は公定レートで100ドルの両替を義務付けられる。そして両替のたびに用紙に記入される。

銀行のカウンターの反対にあるインフォメーションデスクでホテルまでのタクシーのクーポンを買う。バンコクではストランドホテルは臭いのでやめた方がいいとアドバイスされたが、カウンターの男はタマダーホテルより良いというし、川に近いのが魅力でやはりストランド・ホテルに泊まることにする。タクシー代は60チャット。クーポンを受け取ったドライバーの後について行く。

ビルマではタクシーと言っても乗用車はほとんどないようだ。私の車はライトバンのような車。3列に座席が並んでいる。一般的には、ピックアップ車の荷台を改造したミニバス型が多いようだ。

タクシー乗り場にたむろしている男たちが次々に酒やタバコを売らないかと話しかけてくる。土産物だからダメだと断って車に乗り込むと、今度はドライバーが酒を売らないか、ドルを換えないかと盛んに誘いをかけてくる。酒は300チャット、タバコは200チャット。闇ドルは1ドル=20チャット。高いのか、安いのか見当がつかない。

空港から街までは24キロ。途中、ラングーン大学やシュエダゴンパゴダの脇を通る。ビエンチャンなどに比べるとはるかに大都市だ。

やはりロンジー姿がほとんどで、ビルマに来たことを感じさせてくれる。(注:ロンジーはミャンマーの伝統衣装で、男性も履く腰巻のような布)

特に緑のロンジーを身につけた女子学生たちの姿は印象的だ。

ストランドホテル前の川沿いは港になっているらしく、貨物線の柱が見える。ホテル自体はさすが歴史がある感じで、ロビーやレストランはシンガポールのラッフルズを思わせる立派な作り。シングルで17.50ドル。部屋は確かにカビ臭く、クーラーもあまり効かない。エレベーターは昔ながらのスケスケのやつだ。

20時、荷物を置いて街に出かける。映画を観たかったのだが、最終が7時半ということで今回は諦める。ストランドホテルの近くはお役所風の大きな建物が多く夜は薄暗く寂しい感じだが、スーレーパゴダの近くまで行くとなかなか賑やかだ。葉巻屋、レストラン、雑貨屋、ヨーグルト屋、道端には例のキンマの店も多い。(注:キンマは南アジアから東南アジアで親しまれていた噛む嗜好品)

意外に目につくのがほんや。ちゃんと店を構えているものもあれば、歩道に本を並べているものもある。6月1日付のタイムやニューズウィークもあった。路地裏の暗い街灯の下で熱心に本を読む若者も何人も見かけた。

スーレーパゴダの前の芝生には、アベックの姿も多い。ラングーンの夜は、ホーチミンと同じような艶かしさがある。街を行く女性も綺麗に見える。そういえば、このスーレーパゴダの周辺の商店はインド人の経営が多く、店の作りも懐かしきインド風。美人も多い。

スーレーパゴダはロータリーの中にあり、四方に入口がついている。土足厳禁。入り口で必ず靴を脱がねばならない。

入り口を入ると階段になっており、その両側はお供え用の品物を売る店になっている。そこの女性に写真を撮ってもいいかと聞いたらOKというので、パチパチと撮らしてもらった。

階段を上がったところには、頭の後ろにネオンの輪を持った仏像がそれぞれガラスケースの中に入っており、この現代風の仏様をみんな熱心に拝んでいる光景は何となくヘルスセンターを思い起こさせ、異様である。

その他にも、様々な仏様がいる。

祠の中で仏像と1対1で向き合って拝む人もいる。

水をかけるのもある。

寝仏もある。

金ピカもある。

中には、円柱形のガラスケースの中に、十数体の小型の仏像が並べられたものがあり、実はこれが回転するようになっていて、ガラスケースの外側に置かれる洗面器も一緒に回るという不思議な装置もある。おそらく、これを回しながら洗面器の中にコインを投げ込むのだろう。

ちょうど一周したので帰ろうかと思ったところに、ジージャンにロンジーという素晴らしいスタイルの若者がやってきたので、写真を撮らせてもらう。

男女のカップルかと思ったら、1人はオカマちゃんであった。

パゴダを出て、路地裏を歩く。イスラムのモスクの前では、赤ん坊に乳を飲ませながら一人の母親が物乞いをしていた。このあたりはインド人街だ。一般的に物乞いや路上生活者は多くない。道端のあちこちでは博打の真っ最中、中には子供だけというのもある。

スーレーパゴダの1本北側の通りはインド人街の中心地で、歩道には幼稚園児用のような小さなテーブルと椅子が並べられ、人々がお茶を飲んだりしている。路上喫茶だ。

その横には、ココナツを使ったお菓子屋さん、写真を撮ったら1つプレゼントだと言ってくれた。何かの葉っぱの上に、ココナツで作ったソーメンのようなものを乗せ、その上に砂糖などをかけて食べる。甘すぎてあまり口に合わない。

この道をアウンサン市場の方に曲がると映画館街だ。洋画、インド映画、ビルマ映画と様々で、9時を過ぎても街にはまだ人がいっぱいいる。ビルマの人はすぐに路上にへたりこんでしまう。既に閉まった映画館の前で、薄汚れた子供たちが4〜5人で博打をやっている。1人はその横で既に寝ている。この子たちは、その汚れ方から見て路上で生活しているのだろう。さっきもらったお菓子をあげる。

また、スーレーパゴダの北の道に戻る。そこを東に進むと、ミュージックテープやテレビを扱う店が並んでいた。ビデオカメラのレンタルがないか何軒かでたずねたが、彼らは持っていないという。ただ朝9時ごろから晩の5時まで、その道の反対側でビデオカメラの商売をやっている奴がいると一人のおばさんが教えてくれた。ビルマはさすがに元イギリスの植民地。英語が結構通じるので楽だ。

テレビ屋に聞いた話では、テレビはナショナルの21インチが最もポピュラー。ただ値段が5万チャットと高いため、月に1〜2台しか売れないという。品物は台湾からマルチ方式のものを輸入。政府は通さず、台湾の商人から直接買うという。

そうしているうちに雨が降り出した。慌てて、街角に停まっていたサイカー(注:人力車)をつかまえる。ホテルまでは5チャット。露天商たちも大慌てで品物を片付ける。雨は次第に強くなり、ホテルに着いた直後にはスコールになった。レストランでアイスティー(5チャット)、ミネラルウォーター(8チャット)を買う。なかなか面白い街だ。

■ 6月4日(木)

8時、サーミーというおっさんのサイカーに乗って、シュエダゴンパゴダに向かう。

往復で50チャットというのを25チャットに値切って乗る。途中、1日チャーターで100チャット、3日間ならタバコ1カートンでいいかと聞くと、おっさんの顔にニタ〜と笑いがこみ上げてきて、タバコをくれるのかと言いながらOK、OKとうなづいた。

サイカーはスーレーパゴダを中心とした街の中心部には夜10時まで立ち入りが禁止されているらしく、ストランドホテルから東に向かい、だいぶ大回りをしていかねばならなかった。

ロイヤル湖のほとりを回り、動物園の横を抜け、シュエダゴンパゴダの参道に着く。

参道の正面は巨大なパゴダが金色に輝いている。やはり、これはなかなかの眺めだ。

参道の両側には店が並ぶ。

仏壇、数珠、本、メガネ、おもちゃ、プロマイド、金物、ミミズクのハリボテ、仏像、葉巻、キンマ。

参道を進むと屋根付きの階段が現れる。

そこからは草履を脱がねばならないが、石の感触も悪くない。

両側にはやはり店が続く。

何となく古い湯治場を思わす風情がある。

階段の真ん中にポスターを並べて売っている奴がいる。

ポスターの中には菊池桃子の大きなポスターなど日本のアイドルたちも目に付く。

階段を登り切ると境内になる。

あちこちで様々に拝む人々。

またそうできるようやたらめったら仏様がうじゃうじゃいるのだ。

好きな仏をひたすら拝んでもいいし、順々に回ってパゴダを一周しても良い。

パチパチ写真を撮っていたら、5チャットの撮影料を取られた。

ビルマの坊さんたちの袈裟は、タイと比べて赤っぽく、尼さんの着物は薄いピンク。どちらも実に美しい。

それに加えて、ビルマ人はなかなか美形が多いように見え、若い尼さんなどはとても魅力的である。

若いアベックで寺参りに来るものも多く、2人で床に平伏して拝む姿はとても純愛という感じで日本ではなかなか見られない光景だ。

9時半、日本大使館。

愛知大から研究員として来ている伊東先生がブリーフィングをしてくれる。今年の9月には日本に帰るという。先生は、ビルマが極めて統制職が強いという意見と、ビルマ人は本当の生き方を知っているという賛美論の両方とも間違っているといい、今の体制は各人の創意工夫を封じ込めてしまっている点が最大の問題で、本来ビルマ人というものはもっとエネルギーを秘めているはずだがと、植民地主義の影響も指摘する。

11時半、大使館を出て日本料理屋に行きたいと言ったのだが、サーミーさんは知らないとみえ、OKとか何とか言いながら街の方へ戻って来てしまった。中国料理と日本料理は同じだと言いながら、チャイニーズレストランに私を連れて行った。私は中国料理と日本料理は違うと何度も言い、ホテルに戻るように言う。

12時半、部屋が臭いのと、タマダーホテルの方が便利そうなので移ることにしチェックアウト。17.50ドル+10%=121.47チャットがマネーフォームに記入される。

13時半、荷物をサイカーに乗せて、タマダーホテルへ。ところが満室だという。困った。やはり先に確認すべきだった。ストランドに戻るのも間が抜けているので、仕方なくロイヤル湖のほとりにあるカンドヂホテルに行くことにする。しかしサーミーさんはあそこも満室だという。どうして分かると聞いても、満室だと繰り返すだけ。要するに行きたくないのだ。そこにインド人のタクシードライバーが話しかけてきて、自分の車に乗れという。しかし例のインド英語を聞くと、反射的に猜疑心が湧いてくる。結局、サーミーさんは離すことにして40チャット払おうとすると、75チャットだという。しばらく揉めていると、またインド人が言葉を挟んできて間で50チャットでどうだと言うので50チャット支払った。後から考えるとやはり払い過ぎのような気がする。

今度はインド人と話す番だ。インド人はどこでも連れて行ってやるから乗れという。私はタクシーは高いから嫌だと言うと、インド人はいくらでもいいと言う。私が1日60チャットしか払わないというと、インド人はそれでいいという。あまりに簡単にOKするのでますます猜疑心が高まる。しかしインド人は「Don’t be afraid」などと挑発的な言葉を捲し立てるので、まあいいやと思ってインド人の車に乗ることにした。

14時、ロイヤル湖のほとりにあるKANDAWGYI HOTELに到着。

新しいというが中も外もあまり新しそうにには見えない。部屋は天井が非常に高く床はビニール張り、臭いは軽い殺虫剤の匂い程度で問題なし。窓からはガラウェイホールという水上レストランの奇抜な建物が見える。まずは満足してバンコク支局と支局で契約しているストリンガー、ヘン・ニン・タンさんに電話を試みるが、1時間待ってもどちらも繋がらなかった。

ストリンガーというのは、現地の取材する際に手伝ってもらったり、時々情報をもらう契約の通信員のような存在だ。

15時、ホテルを出て、インド人の車でビデオ屋に行く。このインド人はビルマ生まれ、イスマイルというインド名とマシュエルと言うビルマ名を持つ。

ラングーンのビデオ屋はANAWRAHTA Street沿いのスーレーパゴダより東側に集まっている。何軒か聞いてみたがレンタルのカメラはないという。33rd St.に入り、やっと1軒見つけた。『BA WA』と言う店。ただこの店にあるのではなく、ここに出入りしている男が持っているらしい。そのうちのひとりは美男子だった。NTSCのカメラも彼の友人が持っているので明日までに用意するという。1日テープ込みで1000チャット。1人付き合ってくれると言うことで話がまとまる。なかなか感じのいい連中だった。

車に戻ってイスマイルにレンタルカメラの話をすると、彼はなんで早くそれを言わないんだと言って、彼はNDN(日本のプロダクション)の橋田さんと9年来の付き合いで彼がよく使うビデオ屋を知っていると言う。(注:橋田さんとは、2004年イラク戦争を取材中に銃撃され死亡した橋田信介さん)

それでは、そこにも行ってみるかと言う話になる。その店は、アナラタ通りの37th St.を北に10メートルほど入って左側の暗い階段を上がった2階にあった。ノックをすると、階段越しについた窓から男が顔を出し、しばらくしてドアが開いた。イスマイルがMR.ハシダの友人であると紹介してくれる。部屋の中もコンクリートの床であるが一応入り口で靴を脱ぐ。MR.リンに事情を説明し、明日カメラを借りたいと頼む。彼はPALのカメラしか持っていないので、友人から借りるという。1時間75チャット。奥の部屋にはテレビやビデオの機会がいろいろ並んでいる。リンさんが撮ったビデオを見せてもらう。

最初のビデオ屋に戻りキャンセルした。

17時、通信員のヘン・ニン・タンさんに電話が通じる。夜は用事があるので今から行くと言う。

18時、ホテルのテラスでタンさんとウ・アン・ソーという人と話す。

タンさんはすでに60歳ぐらいだが、実に日本語がうまく、やたらに話す人で、私が質問する間もなく一人で捲し立てる。ビルマ人に比べ、やはり華僑のエネルギーは凄まじい。

タンさん曰く、ビルマ人は楽して儲けることばかり考えている。倹約をしない。ちょっと努力をすればお金がもらえるのに、やろうとしない。その例としてサイカー乗りにどこか近くのところまで行くように頼んだのに拒否され、理由は上り坂だからだと答えたという話をする。私はサーミーさんの顔を思い浮かべた。本当にビルマの人は商売っけがない。サイカー乗りの方から声をかけることはほとんどない。タクシーだってどれがタクシーで、しかも客を乗せる気があるタクシーなのか、手を上げてみないとわからない。

タンさんは1時間ほど喋る続けた後、別の約束があるのでまた土曜にでも会おうと言って帰っていった。

私は映画を見に行くことにしていたのでホテルを出て駅の方に向かう。イスマイルは用事があるというのですでに帰っていた。サイカーをつかまえようと溜まり場に行く。スーレー通りまでと言ってもダメだと言う。不思議に思いながら歩いていると、スーレーパゴダの界隈にはサイカーが入れないことを思い出した。そこでタクシーという奴に乗ってみようと思い通りがかりの改造ピックアップ車に手を挙げてみるのだが、一向に止まらない。仕方なくもう一度サイカーをつかまえて駅まで連れて行ってもらうことにする。駅までは何とわずか2チャットこれが本来のサイカーの値段なのだ。

駅前から歩いて、スーレーパゴダ通りの映画館街。8時からの映画があったのでその列に並ぶ。ビルマの映画館は平日の午前中でも長蛇の列ができる。映画が最大の娯楽であるということと失業者が多いということの両方をこの列が明確に示している。入口のゲートが開くと、狭い入り口に人が殺到する。誘導の係員がわめく。いつにないエネルギッシュなビルマ人の姿だ。映画はビルマ映画。館内は池袋あたりのポルノ名画座を大きくしたような感じで、席にはゴミが散乱し、一種独特の臭いが立ち込める。本編が始まる前に、教訓スライドの予告編。予告の映画は2本とも白黒だった。本編は突然カラー、しかもバックに流れる曲はマドンナの「ライク・ア・バージン」のビルマ語版だった。会場は笑い声に包まれ大ウケである。なかなかちゃんとした喜劇のようだ。30分ほど見て外に出ると、雨が降っていた。映画館の横の中華料理屋で夕食。サイカーでホテルに戻る。

■ 6月5日(金)

8時40分、イスマイルの車でリンさんの店。リンとセーウィンと一緒に出かけ、イスマイルは帰す。まずは車探し。イスマイルの車ではすぐに外人とわかるからだという。

アナタラ通りのタクシースタンド。友人の運転手がいなかったのでなかなか値段が折り合わない。今、ガソリンの値上がりのため、ドライバーたちは1時間60チャットを要求する。リンさんは30チャットとその隔たりは大きい。先にテープを買う。VHS120分(ナショナル)が223チャット。

車を適当に決めてスタート。まず友人宅でカメラを借りる。ナショナルの一体型。まだピカピカだ。昔のオンボロカメラを予想していたので、嬉しい驚きだ。

早速スーレーパゴダ通りで市内の撮影。パゴダ、ロンジー、密輸品、満員バス・・・。

しばらくカメラを持ってうろうろしていると、リンさんが「あまり長いこと回しているとヤバい、何人もが何を撮っているのかと聞いてきた」と私に注意する。

仕方なく車に戻り、金ショップを撮影するためスコットマーケットへ。知り合いの金屋に話してみるという。金屋は政府の監視下にあるので撮影を嫌がるだろうという。

店は11時半にならないと開かないということで、先に「ネ・ウィン」パゴダに行く。シュエダゴンパゴダのすぐ隣に新しく建設中の寺院で独裁者の名前で呼ばれている。テッペンの部分が黄金に輝いているだけで、それ以外はまだコンクリート地がそのまま。下の方はまだ彫り物をしている最中であちこちに足場が組まれている。

このパゴダは、ネ・ウィン議長の一存で着工になったのだが、建設の理由は市民たちも知らない。歴代ビルマの王様はパゴダを作ってきたが、ネ・ウィンはまだ作っていないからだろうなどと言っている。このパゴダ建設のため、市民たちに募金を呼びかける新聞広告や立て看板がやたらに目立つらしいが、市民の反応は冷ややかで、絶対に寄付も参拝もしないと日本大使館の女性職員も言っていた。募金が集まらないことが工事の遅れにもつながっているようだ。

それでも物見がてら、参拝に来る人もいることはいる。パゴダの中にはすでに仏像が安置されていた。

このパゴダの外に天体望遠鏡を据えて見物人相手に商売しているおっさんもいた。このパゴダに金箔を貼るには一体いくらの金がかかるのだろうか。

ここでも撮影中にストップがかかった。許可なしにはスチール写真もダメだという。ただその態度は控えめで私には一言も言わず、そのまま撮影していてもそれほど問題はないのではと思う程度だった。

ストランドホテル前で、闇ドル屋を撮ろうと思ったらうまくいかず、スコットマーケットへ。お札や市場を撮影したが結局金の店の撮影はダメだった。

12時、撮影終了。

カメラを返してホテルに戻る。車代150チャット、カメラ代225チャット。バンコクの妻に電話すると30分ほどで通じた。

13時、日本料理店「ふるさと」。建物も内装も立派だったのだろうが、掃除、修理に手をかけていないのですでにあづま家になりつつある。客は誰もいない。蛍光灯も剥がされている。ビルマの日本人はみんな家で食事する。昼休みは12時から14時。生姜焼き定食とスパークリングレモンで32チャット。

13時30分、ボーヂョー・アウン・サン公園。ロイヤル湖畔を歩いて偶然見つけた。ここはアベックとのぞきの天国だ。ビルマのラブホテルらしく、昼間からかなり熱烈。それをまた熱烈に見つめるのぞき屋たち。確かにアベックの方からは見えない位置にいるのだが、横から見るとのぞく方とのぞかれる方を同時に見られるという奇妙な光景がある。しかしアベックの方も覗かれているのは承知の上。何しろ真っ昼間。どこからも見えないなどということはあり得ないのだ。とにかく何となくドキドキしてくるような艶かしさのある公園である。

この公園の先の方へ行くと、湖の向こうにシュエダゴンパゴダとネ・ウィンパゴダともう一つの寺院が見える。

14時20分、日本大使館で広報担当に会う。英語は達者だがギスギスした冷たい印象の若い男。ビルマのこともあまり知らず、考え方も悲観的。早く先進国に行きたいのだろう。

15時、サイカーで駅へ。ラングーン環状線の切符を買う。4チャット。

ホームに行ってしばらく待つ。駅員に聞くと16時20分発だという。あと1時間もあるのでやめてホテルに戻る。

ただ、駅というのはどこでも面白い。窓から乗るのなんかは当たり前だ。

面白いということでいえば、水売りという商売も面白い。

ある家の前に手押しのタンクを押した男たちがたむろしているので何をしているのかと聞いてみると、この家には水道があって、そこで水を分けてもらって売り歩くのだそうだ。

その先には水槽のようなものがあり、多くの人が体を洗っていた。

水道事情が整っていない途上国ならではの光景だなあと思って、その支え合いの仕組みに感心する。

17時、ボクシングスタジアム。ビルマボクシングかと思ったら普通のボクシングだった。しかもヘッドギヤー付き。少なくとも見たところ賭けもなさそうで、ただボクサーの健闘を讃えるのみ。しかし負けた選手が本当に悔しそうにリングを降りた後、グラブをバンバンと叩いたのはオヤッこれは本気かと意表をつかれた感じになる。

18時半、イスマイルの車で再びリンさんの店。日本の雑誌へ送るスライドを頼まれる。今後何か面白いビデオ撮れたら買うので連絡してくれと伝える。彼は友人が航空会社にいるから送ることができると言った。

セーウィンも一緒にビルマ料理店へ。

板の間に低いテーブルという日本に似たスタイルで料理自体はチェンマイのカントク料理に似ている。

食事が終わってイスマイルの車でホテルに戻る。2日分の料金として「555」のタバコ1カートンをイスマイルに渡した。

■ 6月6日(土)

8時半、ニューマーケットでロンジーを買う。ビルマ製で50チャット。裾を上げる縫い賃としてプラス3チャット。

9時半、帰りのチケットのリコンファームを済ませ、ツーリストバーマに寄ってから外国人専用のお店「デプロマット・ショップ」に行ってみる。薄暗い店内に薄汚れた品物が並ぶ。2階が輸入品、3階が土産物。自宅用に40ドルでビルマの竪琴、支局の土産に4.50ドルの漆塗りのフクロウを6個を買う。しかし売り場ではお金は払わない。マネーフォームを見せて、レシートをもらう。このレシートは6枚綴りになっていて紙の無駄遣いも甚だしい。1階がキャッシャーになっていて、支払いはドルのみ。支払いが済むと品物を受け取れる。時間がかかったため、ホテルに戻るのが遅れる。

11時10分、ホテルに戻るとすでにタンさんが来ていた。すぐ出るからというので買ってきた荷物を部屋に放り込んで出かける。タンさんの車で市内を案内してくれる。

最初に連れて行かれたのは日本人墓地。戦没者の墓のほか、からゆきさんの墓も多い。ちゃんと塀に囲まれて歴史を感じさせる。この外はビルマ人の墓になっており、墓地を囲んで粗末な家が並ぶ。墓守の人々で、ビルマでも最低の階級を成しているそうだ。

次に行ったのはチャウツタチーパゴダ。ビルマ最大の寝仏がある。この仏様はまだ新しく顔立ちが良い。元々は座っており、寺から顔を突き出す異様な光景だったそうだ。

ラングーン大学にも行った。ラングーンの人口は250万人だが、そのうち学生(小学生から)の数は50万人。大学生は下宿している。卒業してもなかなか就職できないそうだ。そこで塾の先生になる者が多い。先日10人の教師の募集に100人が応募、教師の給料は月170チャットだがそれでも人が集まる。ちなみに昨日、タンさんと一緒に来た人はドッグヤードの局長さん。それでも月給450チャットで生活が苦しいためタンさんに情報提供しては、金をもらっているという。

続いては、テレビ局。3年前、日本の援助でできた。とても立派な建物だが中には入れない。番組の自主制作ができる設備はあるのだが、制作、編成のノウハウがないため、買ってきた番組を流す方が多いそうだ。それもたくさん買えないので同じのを何度も流している。JICAでは指導員を派遣する用意ありと何度も伝えているのに一向に要請を出してこないのだという。

1983年に北朝鮮による爆弾事件が起きたアウンサン廟にも行った。事件後外国人の立ち入りは禁止され、建物も赤色に塗り替えられた。外からも建物を見ることはできるが、写真撮影はダメだという。

シュエダゴンパゴダを正面に望む国会を通って、ニューラングーン病院へ。ここは日本の援助で作られた。しかし人影がほとんどない。外来は受け入れず、他の病院からの紹介患者のみを入院させ完全看護ということで、ビルまでは普通の付き添いが認められず、決められた面会時間だけ見舞いが許される。しかし何らかのコネがかいと入りにくいのも事実のようで日本の援助のその後としては残念な感じだ。

国営デパートに行くと、社会主義国の国営デパート共通の雰囲気があった。ショーケースに並んでいるからあると思ってはいけない。基本的にはいつでも買える物は高くてほとんど庶民の購買意欲をそそらないものだけ。人気の商品は売り出しの情報が流れるやあっという間に人の列ができる。ビルマの面白いのは、この列が男女別々、すなわち同じ品物も男が買う場所と女が買う場所が違うらしい。ただ値段は自由市場よりグッと安い。たとえば、デプロマットショップで4.50ドルで買ったフクロウは、ここでは数十チャットだ。しまったと思う。ロンジーの布も綺麗なものが並んでいる。アラカン織というのは高級品で色も味わいのある落ち着いたものだが、120チャットぐらいするため庶民の買える値段ではない。

このデパートの外にはヤミ屋というかダフ屋というか仲買人というかが道端で商売していた。彼らはデパートでの買い得品の販売情報をいち早く入手し、列に並んで買ってきてそれにマージンを乗せて大胆にもデパートの外で商売しているのだ。

12時半、中国人街の大上海という中華料理屋で昼食。ネ・ウィン体制になってから中国人街はすっかり廃れてしまった。自ずと闇の商売が多くなっているという。タンさんは、戦争中、日本の憲兵隊で働き、今は30年間JETROの現地通信員として6万円もらっているという。

昼食後、博物館に寄って昔の玉座などを見てから、ホテルをチェックアウトする。2泊に電話代を加えて301チャット。

14時50分、空港着。100チャットをドルに両替してもらおうと思ったら、100ドルしか替えていない者にはドルへの両替はしないと拒否される。あくまで100ドルを使うことが義務なのだ。

出国手続きはまず出国カードのチェック。続いてマネーフォームとデクラレーションフォームのチェック、お金を直接調べることはなかった。そして入国時申請した物を持っているかどうかをチェック。そして最後の手荷物検査。思ったほど面倒でもない。空港の土産物屋はデプロマットショップより割高で竪琴が60ドルだった。

16時半、定刻通りタイ航空306便でラングーンを出発。

帰りの機内でJICAの所長として3年間ビルマに滞在した人に出会った。任期が終わり帰国するという。援助の話をいろいろ聞いたが、一番面白かったのはアサハンの話になった時、あのプロジェクトに対する疑問を感じていた専門家は多かったはずだが。おかしいと相手にとって耳の痛いことをなかなか言えなかったのだろうという。それは両国の力関係などという高尚な話ではなく、派遣された調査団が嫌われ者になるのを嫌がって相手の気に触るようなことを言わずに帰ってきてしまうということがよくあるというのだ。

「援助は国際税」という言葉も出た。所長さんははっきり言わなかったが、援助に関わる人たちの間に、この国際税、つまり日本が世界の中で活動していく上でやむを得ない税金として援助をとらえる考え方があるようだ。これはつまり、援助の内容よりもその金額こそが問題とされるということであろう。援助を担当する人たちの間では5億は大した金額ではないという認識があるようだ。金額を増やすためには多少の大盤振る舞いは大いにあり得る話だと感じた。

こうして私の短いビルマ旅行は終わった。

観光ビザでの限られた行動範囲だったが、当時日本ではほとんどその内情が知られていなかったビルマの市民生活に少し触れることができた。

どこで誰が監視しているかわからない自由にものの言えない軍事政権下での生活。

今のミャンマーでも、きっと似たような重苦しさが覆っているに違いない。

軍事クーデター前の2020年、アウン・サン・スーチー氏が率いるミャンマーを見てみたいと旅行の計画を立てていたが、コロナの発生により止むを得ずキャンセルとなった。

現在ミャンマーへの観光旅行がどうなっているのか知らないが、また是非訪ねてみたい国の一つである。

<吉祥寺残日録>シニアのテレビ📺 NHKスペシャル「混迷ミャンマー 軍弾圧の闇に迫る」 #211007

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