それは岡山で偶然テレビのニュースを見たのがきっかけだった。
阪神淡路大震災から29年が経った今月19日、「神戸ルミナリエ」が始まったというニュースをたまたま見たのである。
直下型地震で神戸の街が壊滅した1995年、私はパリでその映像を見ていた。
倒壊した高速道路、道路に横倒しになったビル、丸焼けになった商店街。
それまで想像したこともなかった衝撃的な光景に息を呑みながらも、海外特派員ができることは限られていて、現地で取材できないもどかしさを感じていたことを今も思い出す。
その年の年末、神戸で始まったのが「神戸ルミナリエ」だった。
異国情緒あふれる復興の光が被災者の心を慰め、破壊された街の再建に取り組む人たちに勇気を与えた。
ちょうど岡山での仕事も片付いたところだったので、東京に帰る途中神戸に立ち寄り、一度自分の目で復興の光を見てみたい、そう思った。
神戸には仕事などで何度か行ったことはあるが、ほとんど土地勘はない。
岡山から新幹線で新神戸へ、そこから地下鉄に乗り換えて県庁前駅で降りた。
予約したホテルが元町エリアだったからだ。
Googleマップを頼りにホテルに歩くと、賑やかな商店街が現れた。
街路灯に「元町1番街」の文字が見える。
やはり岡山に比べて歩く人が多くて活気がある。
さらに南に進むと中華街、ものすごい数の人でごった返している。
海と山に挟まれた港町・神戸。
横浜の中華街に比べてコンパクトで、繁華街にも近い。
たちまち、神戸の魅力に引き込まれている自分を感じた。
ホテルに荷物を置くと、すぐに街歩きに出かけた。
Googleマップに「震災遺構」と打ち込んで、表示されたポイントを巡ることにする。
最初に目指したのは「東遊園地」、毎年1月17日に合わせて慰霊の竹灯籠などが設置される場所だ。
ホテルから東遊園地の間は「旧外国人居留地」と呼ばれたエリア。
ヨーロッパ風の整然とした街並みに、海外の高級ブランドが軒を連ねる。
これが神戸か、と思う。
東京とも横浜ともどこか違う。
このエリアにある三井住友銀行神戸本部の前に白いオブジェが立っている。
これがルミナリエ、夜になると無数の電球に灯が点るのだ。
夜になると前の道路が通行止めとなり、ここもイベントの会場となるらしい。
三宮駅に近い東遊園地にも、高層ビルをバックに芝生の広場に白いオブジェが立っていた。
コロナ禍が明け、4年ぶりの本格開催となった今年の「神戸ルミナリエ」は、開催の時期がこれまでの12月から1月に変更された。
会場もこれまでは旧外国人居留地やここ東遊園地がメインだったが、今年から神戸港のメリケンパークにメイン会場を移し、初めて有料の観覧エリアを設けたという。
過去のルミナリエを知らない私には比較のしようもないが、これまでは街中に設けられた光の回廊を潜り抜けようと多くの人が殺到して、駅からの大行列が恒例だったようなので、その混雑を緩和するのが目的らしい。
メイン会場を有料として時間ごとに最大人数を5000人に限定することで、これまでよりもゆっくりと楽しめるという声がある一方で、ちょっと散漫になってしまったと感じる人もいるようだ。
私もテレビ局でいろんなイベントに関わってきたが、全員が満足する形というのはなかなか難しいものである。
こちらの東遊園地には、大震災にまつわるいろいろなものがある。
最初に見つけたのはこちらの石碑。
『笑み交はしやがて涙のわきいづる 復興なりし街を行きつつ』
現在皇太后となった美智子様が皇后時代に震災から10年が経ち復興していく神戸を訪れた時のことを歌会始で詠んだ和歌が刻まれていた。
こちらは、「1.17 希望の灯り」。
この灯は、震災から15年が経った2000年1月17日の午前5時46分に、被災10市10町と全国47都道府県から届いた種火を一つにして「生きている証」として点したものだそうだ。
灯りと共に、こんな碑文が刻まれていた。
震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 街並み 思い出
・・・たった一秒先が予知出来ない人間の限界・・・
震災が残してくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間
この灯りは
奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ
そしてこの水が流れるオブジェが「慰霊と復興のモニュメント」。
阪神淡路大震災の記憶を後世に語り継ぐ目的で、「希望の灯り」と共に2000年に作られた。
モニュメントには、地下につながる迷路のようなスロープがあった。
コンクリート製の壁に埋め込まれたたくさんの金属板には、地震で犠牲となった人々の名前がびっしりと刻まれている。
阪神淡路大震災では、6434人が亡くなり3人が行方不明のままである。
犠牲になった人たちのうち、919人は災害関連死だという。
私は当時海外にいて、日本にいた人たちに比べてリアルタイムでの詳細な情報には接していないものの、地震の怖さを初めて痛感した出来事だったと言っていいだろう。
通路を抜けた先には「瞑想空間」と呼ばれる場所があった。
水が流れていたモニュメントの真下。
水槽を通して差し込む淡い光が、犠牲者たちの名が刻まれた金属板をやわらかく包み込む。
静けさに包まれた空間に身を置き、29年前に起きた大地震を想う。
もしあの時、この場所にいたら自分に何が出来ただろう?
世界でも例を見ない地震列島に生きる私たち日本人には、こうした折々にいざという時に備えた心の準備をすることが求められている。
そうした意味で、ここはとても意義のある訪れるべき空間だと感じた。
東遊園地を離れ、Googleマップを頼りに別の震災遺構を見にいく。
阪神高速3号線の京橋インターチェンジ付近にある「浜手バイパス被災構造物展示モニュメント」。
ここには、震度7の揺れで破壊された交通インフラの残骸が移設され保存されている。
中でも目を引くのは、鉄筋が剥き出しになった浜手バイパスのRC橋脚。
高速道路の被害といえば、すぐに東灘区での600メートル以上にわたって倒壊した衝撃的な映像を思い出すが、他にも阪神高速3号神戸線では橋脚1175基のうち637基、橋桁1304径間のうち551径間が損傷した。
ここに保存されている橋脚もそのうちの1基にすぎないのだ。
橋桁を繋いでいた鉄製の伸縮装置も強い衝撃で大きく歪んでいだ。
現場の説明板には当時の写真が載っていて、それを見るといかに大きな力が加わったのかがよくわかる。
日本の道路橋の耐震基準は1923年の関東大震災を契機に導入され、その後の経験を踏まえて確立していたが、神戸の地震はそれを根底から覆すものだった。
さらに海沿いの歩道を歩いてメリケンパークまで行くと、別の震災遺構が保存されていた。
「神戸港震災メモリアルパーク」
メリケン波止場と呼ばれたこの岸壁の被害を一部そのままの状態で残すことにより、神戸港の被災状況やその復興の過程など大震災の教訓を後世に伝えることを目的に整備された。
崩れた護岸、傾いたままの街灯。
神戸が発展する基盤となった港も見る影もなく破壊されたことが偲ばれる。
それでも道路や鉄道が寸断され交通の足を失った神戸の人たちにとって、港は地域と外部を繋ぐ重要な拠点であり続けた。
メモリアルパークに飾られた写真には、姫路港行きの臨時航路に乗るために列を作る市民の姿が映っている。
人口100万を超える大都会を襲った直下型地震。
支援を求める多くの人たちにどのような助けが有効なのか、阪神、東日本大震災の教訓で少しずつノウハウが蓄積されてきてはいるが、まだまだ不十分であることは今年元日に発生した能登半島地震で改めて明らかになった。
そのメリケンパークに今回設けられたルミナリエのメイン会場を確認してから、一旦ホテルに引き返した。
ちなみに、有料のメイン会場に入るための当日券は会場でも販売されていたが、私は事前にローソンですでに購入済みだった。
前売りは500円、当日券は1000円。
初めて使うロッピーという端末に戸惑いながら、どうにかこうにか発券でき、少し賢くなった気がした。
ホテルで大相撲中継を見て、午後6時すぎに再び街に出た。
先ほど事前に下見したルートをたどり、神戸ルミナリエを鑑賞する。
まずは、旧外国人居留地にある三井住友銀行前。
ここには三方を囲うように「光の看板作品」が設置されていた。
高さは7.2メートル、幅は14〜18メートルほど、思ったよりも小規模だという印象を受けた。
東遊園地に向かう道路は人で混雑していたので、迂回路を通っていくと、すでに多くの人たちが広場に集まっていた。
こちらの作品は全長39メートル、高さ19メートルの「スパッリエーラ」。
先ほどのものよりもだいぶ迫力があるが、こちらも無料で鑑賞できる。
会場には犠牲者の鎮魂のためか讃美歌が流れ、いかにも異国のお祭りという雰囲気を感じさせた。
初めて見る「神戸ルミナリエ」は、想像通り美しい祭りである。
ただ残念なことにスマホで撮影すると、自動で露出を絞ってしまうせいなのか、肉眼で見るほど綺麗に撮影できなかった。
少し離れた場所から見ると、背後の高層マンションも作品の一部のようで、多くの人たちと共に光る壁を見つめながら震災に思いを馳せるには、このくらいの距離感がいいと感じる。
しかし以前はこの街中に光の回廊が作られていたそうなので、せっかくならばそれも見てみたかったという後悔めいた気持ちも湧いてきた。
メリケンパークでの有料エリアは、1時間ごとの入れ替え制。
私が購入できたチケットは午後7時半からの回だったのでそれに合わせて港に向かう。
赤と緑にライトアップされた「神戸海洋博物館」のモニュメントの向こうに昔からの神戸のシンボル「ポートタワー」が見える。
そしてその南側に輝いているのが、「神戸ルミナリエ」の有料エリアである。
無料の場所からも光の回廊は見えるのだが、周囲にはたくさんのキッチンカーが並んでいて、ほどよく視線を遮るようになっていた。
チケットを持っていない人たちは、外から見て楽しみながらキッチンカーの前に行列を作る。
一方で、チケットを買った客は入場ゲートの前に集まり、想像以上の混雑になっていた。
人数制限をしているとはいえ、上限5000人なのでゲートが混雑するのは致し方ない。
それでも並んでいる人たちの声に耳を傾けると、これまでは駅からずっとこんな大行列だったのでそれに比べればまだマシだと肯定的に受け止めている人が多いように感じる。
午後7時半になると、列が少しずつ動き出す。
ゲートはたくさん用意されているため、予想したよりは早く10分ほどで入場することができた。
午後7時40分。
私は長さ70メートルに及ぶ光の回廊「ガレリア」の前に立った。
その入り口は、高さ15メートル、幅40メートルの「フロントーネ」と名付けられた玄関作品となる。
今年のテーマは「神戸、未来に輝く光」だそうだ。
やはり平板な作品よりも、奥行きのある回廊の方が迫力がある。
私も真正面から写真を撮ったが、これまではあまりの人混みで身動きが取れず、止まって写真を撮ることもできなかったという。
そういう意味では、有料とはいえゆっくりと光の回廊を楽しめるようになったのは良かったかもしれない。
途中で振り向くと、トンネルの先に赤と緑のオブジェが見えた。
やっぱりこういうイベントはカップルや子供づれで来るのがふさわしい。
外国人のファミリーが記念撮影しているのを見かけたので、家族一緒の写真を撮ってあげた。
光の回廊を抜けた先には入場者が鳴らすことのできる鐘が設置されていた。
鐘を鳴らして募金をするという仕組みらしい。
多くの人が鐘を鳴らそうと列を作っている。
でも、私が長居する場所ではないと思い、早々に退散することにした。
出口からは、光の回廊と海洋博物館のオブジェ、ポートタワーが同じ方向に見えてまさに光の競演、とても美しい。
当日券1000円を払って滞在したのはわずか10分ほど。
ちょっともったいない気もするが、念願の「神戸ルミナリエ」も見られたことだし、これ以上ひとりで佇んでいても仕方がない。
中華街のお店は案外閉店時間が早いので、急がないと夕食を食べ損ねてしまう。
翌日は市営地下鉄に乗って新長田駅に向かった。
神戸西部に位置する長田区は、震災によって最も大きな被害を受けた場所の一つであり、ここにもいくつかの震災遺構が残されているらしい。
地下鉄を降りると、そこには商業ビルやマンションが立ち並び、日本中でよく見かける類の風景が広がっていた。
しかし、29年前の震災によって長田区では4759戸もの木造家屋が全焼し、その数は神戸市全体の68%にものぼった。
このあたりには目を背けたくなるような光景が広がっていたに違いない。
まず向かったのは、駅の近くにある若松公園。
ここに懐かしい「鉄人28号」の巨大な像が立っている。
高さは18メートル、重さは50トンもある。
神戸出身の漫画家で新長田にゆかりの深い横山光輝さんの作品を起爆剤に街の復興のシンボルにしようと、地元の商店街などが中心となり2009年に完成させたのがこの鉄人20号だった。
鉄人は見違えるように復興しビルが立ち並ぶ長田の街を今も見守っている。
鉄人28号ほど目立たないが、Googleマップを見ると、街のところどころに震災当時の記憶をとどめる遺構が残されている。
新長田の駅から南西に10分あまり歩いた住宅街の中にある大国公園。
ここには「焼けた照明灯」と呼ばれる震災遺構が当時の姿のまま佇んでいた。
添えられた写真には、震災直後、この公園に立ちすくみ燃える我が家を茫然と見つめる鷹取地区の住民たちの姿が映っている。
『当公園は、震災時に際しては延焼を防ぐとともに被災後の救援活動の重要な拠点として活用されました。この経験は、私たちに公園や樹木の持つ防災的な役割を再認識させました』
震災から29年が経ち世代がひと回りする中で、こうした教訓が果たして未来の世代に受け継がれるのか?
公園の片隅に忘れ去られたように残る照明灯を見ながらちょっと心配になった。
続いて探し当てたのは、震災遺構「止まった時計」。
先ほどの公園から北に1キロ余り歩いた住宅街の中で見つけたその時計は、すでに廃業した美容院のもので、震災が起きた午前5時46分を差したまま止まっていた。
広島にも原爆投下時刻を示したまま止まった時計がいくつか残されているが、この美容院の時計も29年前の大地震を静かに現代に伝えている。
しかし、案内板などは一切なく、Googleマップを頼りに探さなければ絶対に気づかない遺構でもある。
長田区役所近くにある「御蔵北公園」には、「焼け残った電柱」と呼ばれる震災遺構がある。
少し傾いてはいるが、下の方には焼けた跡も見えないため、知らなければ素通りしてしまうことだろう。
震災前この地区は家内制の小さな工場が多く集まる住宅密集地だったが、地震後に発生した火災で地区の7割が焼けてしまったという。
震災復興の区画整理で街の様子は一変し電柱も撤去されたが、この1本だけは公園の中に残されることになり、震災の「語り部」、「唯一の証人」となっている。
この公園の一隅には、地区の住民たちが資金を出し合って作った慰霊碑がある。
ほぼ壊滅状態となったこの地区では127人が犠牲となった。
同じように地震の被害に遭いながらも、後世への伝承では地区によって大きな違いがあるようだ。
地図に出ていなくても、道を歩いて偶然遭遇する痕跡もある。
「カルタゴ」と名付けられたこのオブジェもそうしたものの一つ。
震災の2年後の1997年に制作されたものらしく、次のようなメッセージが添えられていた。
『カルタゴは紀元前3世紀ローマとの戦争によって破壊されましたが、後年再建され、美しい港湾都市として栄えました。阪神大震災で大きな被害を受けた神戸も、カルタゴのように力強く再興して欲しいとの願いを込めています』
作者の願い通り、神戸の街が見事に復活した。
長田区を歩くと、電線の地中化が進んだエリアをあちこちで見かけた。
歩道が整備され電柱がない街並みは、住民や行政の防災意識の高さをうかがわせる。
一方で、こんな狭い昔ながらの路地もまだ残されていた。
Googleマップに表示された「兵庫県震災復興研究センター」という名前に惹かれて偶然たどり着いたのがこの場所だった。
このエリアは地震の被害を免れたのか、それとも震災後に建て直したものなのか?
震災から29年も経つと、その判別も難しくなる。
震災が古代史の発見を生んだ場所もあった。
新長田駅の北に位置する「水笠通公園」は震災後の都市計画によって生まれた公園である。
震災前にはこのあたりには狭い路地に商店や長屋が密集するエリアだったが、この公園を整備する過程で弥生時代から古墳時代にかけての大きな集落の跡が発見されたのだ。
都市部ではなかなか発掘調査を行うことは難しいが、皮肉なことに大規模な震災が、大昔から人々が集まり繁栄した土地であったことを明らかにした。
このほかにも、神戸を歩くと震災の痕跡や慰霊碑がいくつもあるらしい。
だからそんな震災の記録をまとめた資料のようなものを役所でもらえるかと思って長田区役所を訪ねて見たが、そのようなものはないと言われた。
震災から29年。
歳月の経過は人々の記憶を消していく。
私にとってはリアルタイムの大ニュースでも、震災後に生まれた世代には単なる歴史だ。
そういう意味では、神戸ルミナリエは震災の記憶の次の世代に伝える最高の取り組み。
今後も長く続いていくことを期待したいと思う。