今日の岡山は、朝から雲ひとつない気持ちのいい青空が広がった。
午前中にタマネギの苗を植え、正午ごろ家に戻ると妻が出かけようとしている。
老人ホームに入所している義母のお見舞いに行くのだが、今日は路線バスを使って一人で行ってみると言っていたので私はのんびり農作業の続きでもしようと思っていた。
ところが、路線バスの時刻表を調べると1時間に1本しかなく、それでは差し入れの品を買って予約の時刻に施設に到着するのは無理ということになった。

仕方なく、私が妻を市内の百貨店まで車で送ることになった。
どうせ街まで出かけるのなら、足を伸ばして県北の紅葉でも見にドライブをしようと思い立った。
目的地に選んだのは、以前から一度行かねばと思っていた「湯原温泉」。
岡山県を代表する温泉地「美作三湯」の中でも一番有名な温泉地だが、私はまだ一度も訪れたことがない。
全国3300の温泉を踏破した温泉評論家・野口冬人による「全国露天風呂番付」で『西の横綱』に格付けされた湯原温泉の「砂湯」には、岡山にルーツを持つ人間として絶対に訪れておかねばならないとずっと思っていた。
晴天に恵まれた今日こそは、絶好のタイミングだと考えたのだ。

山陽自動車道の岡山インターチェンジから高速に乗って、県北に向かう岡山自動車道から中国自動車道、米子自動車道を乗り継ぎ、湯原インターチェンジまでおよそ100キロの道のりである。
高速とはいえ、途中片側1車線の対面通行の箇所もあり、制限速度は70〜80キロ。
それでも平日で通行量が多くはないため、だいたいの車は時速100キロかそれ以上で走っている。

岡山インターから湯原インターまではおよそ1時間。
料金は片道2400円である。
高速を降りると湯原温泉まではすぐ、残り4キロほどだ。
帰り高速を使わず下道を使うルートも考えたが、カーナビによれば3時間半ほどかかるというので、やはりお金がかかっても高速道路を使うのが現実的だろう。

初めて訪れた湯原温泉は、「西の横綱」とは思えない鄙びた温泉街だった。
旭川沿いの脇道を進むと、温泉宿や飲食店がパラパラとあるが、紅葉シーズンなのに湯治客で賑わう風情はまったくない。
岡山に住んでいても私のように行ったことのない人間もいるぐらい全国的な知名度は今ひとつである。

温泉街を抜け、奥まで進むと、川原に無料の駐車場があった。
この先は湯原温泉を代表する「八景」という旅館の客以外は通れない行き止まりだと書いてある。
私もこの駐車場に車を停めて、歩いてお目当ての露天風呂「砂湯」を目指す。

私が到着したのは午後2時半。
旭川の東側斜面にはまだ太陽が当たっていて紅葉が美しい。
見事というほどではないが、わざわざ車を走らせてきた甲斐はとりあえずあったと思う。
川では虹鱒を釣る釣り人の姿も。
その向こう側に見える小屋がどうやら「砂湯」のようである。

道端にこんな立て札があった。
「入浴指南」には、次のように書かれている。
『湯原の温泉は、元々全てが露天にあり、多数存在していました。現在の「砂湯」は古代からの湯原のお風呂の名残です。自然噴出する掛け流しで人工的消毒の薬剤投入を行わない為、利用する側が衛生上のマナーを守る必要が強く求められます。衛生知識の低かった古代でも多くの人が同時に利用出来たのは、このマナーが守られていたからです。法度に従って、すべて自己管理にて御入浴くださいませ。』
続いて「心得」が5つ。
- 下を清めよ。・・・お尻を洗って入る事。前じゃなく後です。
- 湯尻より入り上より出よ。・・・お湯が捨てられている下流側から入り、身を清めながら上流に移動する。そうすれば、最上流では顔も洗えるし飲むことすら出来る。
- 静かに浴し拝め。・・・お湯を濁さない為に、安らぐ人の邪魔をしない為に、そして先人と管理してくれている人々に感謝する。また療養の人は完治を祈り、健康なればその身に感謝する。
- 湯を清めよ。・・・ゴミは持ち込まない。持参物は持ち去る。
- シャボンは無用にて候。・・・アルカリの強いお湯にて石鹸は無用。
そして最後に書かれていたのは「法度」。
- 飲食・飲酒を禁ずる。
- 喫煙を禁ずる。
- 無理を禁ずる。
- 盗人を許さず。
- 入れ墨者は入浴を禁ずる。
なるほど。
いつ決められたルールかは知らないが、こうして温泉を楽しみにくる全ての人々がルールを守り、西日本を代表するこの露天風呂は守られているのである。

さて、駐車場から歩くこと5分。
「名泉 砂湯」に到着した。
立派な石碑が入り口に建てられていた。

こちらが砂湯の脱衣場。
川沿いのオープンな場所に立っていて、男性用の脱衣場は外からも丸見えだが、女性用の脱衣場はもちろん外から覗けないようになっているのでご安心を。
そして、何より嬉しいのは、この「砂湯」、24時間営業で入場無料なのである。

早速、私も脱衣場に入り、服を脱ぎ始める。
すると、こんな強烈な張り紙が目に入った。
『隠そう下半身!!』
すごく目立つコピーだ。
「露出禁止 Don’t show off」
「砂湯は公衆の場で混浴です」
「タオル・湯浴み着・水着等を着用し、必ず下半身を隠して下さい!」
この注意書きをしっかり読んだうえで、タオルで前を隠して私もいざ砂湯へ。

「砂湯」は、川底から湧き出る温泉でできた天然の大露天風呂。
旭川の河原には、温度の異なる3つの湯船「美人の湯」「子宝の湯」「長寿の湯」があった。
観光客の中には、しっかり水着を用意して来ている人もいるが、地元のおじさんたちは基本的にタオルのみ。
あまり前も隠さず堂々と入浴している人もいる。
地元のおばさんたちは、バスタオルを体に巻いて入浴している人が多いようだ。

「心得」に従って、まずは下流からお風呂に入ろうと、3つの湯船の中で一番下流にあって一番大きい「美人の湯」に入る。
湯船が大きいせいか、湯の温度はぬるめだ。
「美人の湯」の一番下流から入ると、目の前にあるダムが目に飛び込んでくる。
そう砂湯は湯原ダムを眺めながら湯に浸かる全国でも珍しい露天風呂なのだ。

徐々に上流に移動しながら、岩の状態が寝湯のような場所を見つけた。
ぬるめのお湯に体を浸したまま、寝っ転がって脱衣場の後ろで色づく山を眺める。
真っ青な空と紅葉に染まる山。
極楽、極楽。
露天風呂からこの景色を眺めるために、わざわざ県北までやってきたのだ。

さらに上流に位置を変え、ダムの反対側、温泉街の方向を眺める。
こちらもなかなかの絶景だ。
湯船の底には石が敷き詰められていて、歩くと足裏マッサージになるが、お湯から出るとちょっと寒いので、股間を隠した状態で全身を湯船に沈めゆっくりと開放感あふれる露天風呂を満喫する。

お隣の「長寿の湯」に誰もいなくなったので、そちらに移る。
「美人の湯」に比べて湯船は小さいが、ここだけ木造の屋根が据え付けられていて、ちょっと厳かな感じだ。
お湯はこちらの方が温度が高く、澄み切っている。
こちらも湯船の一番下流の位置に陣取ると、屋根の向こうにダムが見えた。

石を枕がわりに青空を見上げる。
川の左右から迫り出した樹木が、美しい秋を演出している。
極楽。極楽。
お湯加減も熱めで私にはちょうどいい。
急に思い立って午後から車を走らせて正解だった。

午後3時を回ると、もう西の山に太陽が隠れる。
山間の温泉は日が短いのだ。
到着がもう少し遅れていたら、せっかくの紅葉が楽しめなかったかもしれない。

名残惜しいが、そろそろ帰り支度をすることにしよう。
温泉から上がっても体はポカポカ。
お湯がサラッとしているので、体がベタベタすることもない。
そのまま、服を着て「砂湯」を後にする。

帰り道、「露天風呂番付」のパネルを見つけた。
「東の横綱」は群馬県の宝川温泉、張出横綱が東京式根島の地鉈温泉、大関は秋田の乳頭黒湯温泉、関脇が長野の中房温泉、小結は岩手の滝ノ上温泉だそうだ。
私が知らない温泉も多く、かなりマニアックなチョイスだと感じる。
そして西の張出横綱は和歌山の龍神温泉、大関が島根の玉造温泉、張出大関が奈良の湯泉地温泉、関脇は岐阜の新穂高温泉で、小結も岐阜で下呂温泉ということのようだ。
こうして見ると、日本には実の多くの温泉があることがわかる。
果たして、番付上位はどんな温泉なのか、にわかに興味が湧いてきた。

入り口で振り返ると、さっきまであんなに日光を浴びていた砂湯がもう影に包まれていた。
時刻は午後3時10分。
結局30分ほどしか砂湯にはいなかったことになる。
また、別の季節にも来てみよう。
新緑の季節がいいか、冬の雪の日もいいかもしれない。
ただ、入浴代は無料でも高速代が予想以上に嵩んだ。
一般道を使って手軽に行けるルートはないものだろうかと思った初めての砂湯体験だった。