<きちたび>鳥取県の旅2024🇯🇵 出土した多数の人骨!「因幡の白兎」のロマンも打ち砕く「青谷上寺地遺跡」が示す古代日本の姿

🇯🇵 鳥取県/鳥取市 2024年5月12日

およそ半世紀ぶりに鳥取砂丘を堪能した翌日は、朝から一日中雨模様だった。

週間予報通りの雨で、前日無理して砂丘に行っておいて良かったと自画自賛しながら、ホテルを後にした。

この日の宿泊先は山あいの三朝温泉。

鳥取市からは西に50キロほどの距離だが、急ぐ旅でもないので、途中あちこち立ち寄りながら三朝温泉を目指すことにする。

まず最初に立ち寄ったのは白兎海岸。

あの因幡の白兎の物語で知られる神話の舞台とされる。

海岸沿いを通る国道を西に進むと道の駅があり、ここが白兎海岸の観光の起点となる。

神話に登場する白うさぎと大国主命の真新しい像が立っている。

そしてなぜか「恋人の聖地」という物語からはちょっとピンとこない宣伝文句も。

なぜ「恋人の聖地」なのか調べてみると、神話の続きが関係しているらしいことがわかった。

ワニザメを騙して丸裸にされた白うさぎが、助けてくれた大国主命に、神代の美女「八上姫」と結ばれると予言し、実際に大国主命と八上姫が結ばれたというお話から、白兎神は縁結びの神様と呼ばれパワースポットになったとか。

まあ、何事も商売、商売である。

早速、縁結びの神が祀られている「白兎神社」に行ってみる。

ちょうど雨も小降りとなり、今のうちにと足速に鳥居をくぐる。

こちらが白兎神社の本殿。

さほど大きな神社であり、日本神話に由来するというよりも、後世の人が商売のために建てた雰囲気がプンプンする。

神社の創建については定かではなく、戦国時代に消失して再興されたと伝わる。

現在の社殿は明治時代に建てられたもので、いずれにしてもさほどありがたさを感じない神社であった。

ちなみに境内に立てられた案内板によれば、大国主命が白うさぎに治療方法を教えたという神話から、ここは日本医療発祥の地とされ、白兎神は病気疾病にも効果のある神様とされているという。

そうした神社の由来よりも私の興味をそそったのは、境内の地面が全部砂地だったことだ。

つまり神社が立っているこの丘は、深い緑に覆われているもののまだ砂丘が続いていたんだと気づかせてくれた。

白兎神社の周辺は深い森に覆われている。

参道沿いにあるこちらの「御身洗池(みたらしいけ)」は、傷をおった白うさぎが傷口を洗い治療したとされる池だが、その周囲には鬱蒼とした森が広がっている。

この森林は「白兎神社樹叢」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されている。

その植生が、日本海海岸地方の植物分布の特徴をしっかり留めていることが理由らしい。

そしてこの池は別名「不増不減の池」とも呼ばれ、大雨が降っても日照りが続いても池の水位が変わらないのだという。

ひょっとすると、そうした不思議な池が古代人の信仰の対象となり、そこから大国主命と白うさぎの物語が編み出されたのかもしれない。

この白兎海岸に、神話の元となった島があるというので歩いて見に行ってみた。

道の駅から数百メートル西に歩いた岬の先に浮かぶ「淤岐島(おきのしま)」である。

古事記に登場する因幡の白兎の物語は、簡単にいうと次のような内容である。

「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる」

この白うさぎが元々住んでいた島は島根県の隠岐諸島と説明されることが多いが、それでは途方もない数のワニザメが必要である。

ところが、白兎海岸の目の前に浮かぶこの小さな「淤岐島」が神話の舞台だとすると、砂浜までワニザメを並べて渡るという話にある種のリアリティーが感じられるようになるのだ。

さらに、島に一番近い岬の先端まで行ってみると、島と岬の間にいくつもの岩礁があることがわかる。

大昔の人がこの光景を見て、因幡の白兎の物語を創作したとしても不思議ではないと私には思えた。

古事記に登場する「淤岐島」は隠岐諸島ではなく、白兎海岸と面したこの小島に違いない、そう確信した。

とはいうものの、そもそも古事記には「因幡の白兎」ではなく「稻羽之素菟」と表記されていて、この「稲羽」が鳥取県の「因幡」、すなわちこの白兎海岸を指すという証拠はどこにもないのだそうだ。

まあ、何はともあれ、1300年前に書かれた古事記の物語がこの地の観光振興に一役買っていることだけは確かである。

そしてこの物語の主役である大国主命はのちに地上を統一する神となるが、なぜか皇室の祖先である「天孫族」に国を譲り、代わりに出雲大社に祀られるのだ。

こうした日本神話は何を意味しているのか?

神話のふるさとである山陰地方は、私の興味をそそってやまないのだ。

神話のロマンから考古学の世界へ。

白兎海岸を後にした私は、再び車を西に走らせ10キロほど離れた「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」に向かった。

この遺跡は、今から25年ほど前、自動車道路の建設中にとんでもないものが掘り出され一躍脚光を浴びることになった弥生時代の遺跡である。

2008年に国の史跡に指定され、発掘調査が進められているが、今年3月その調査結果を広く公開するために「青谷かみじち史跡公園」として整備された。

この遺跡から発見されたとんでもない物というのがこれだ。

そう、大量の人骨。

その数、実に5300点。

中には頭蓋骨の中に脳が腐食せずに残っているものや、明らかに武器によるものと思われる傷跡のある骨も見つかった。

中国の歴史書に記述のある「倭国大乱」とも関連するものとみられ、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館との共同研究も進められている今最も注目される古代遺跡の一つなのである。

展示施設の説明をもとに、これまでにわかっていることを書き写しておきたい。

まずは大量の人骨はどのように見つかったのか?

青谷上寺地遺跡に暮らした弥生人が活動の拠点としていた微高地の東側を区画していた溝から散乱する人骨が発見されました。溝の規模は幅約6m、深さ約1m、西側の壁は矢板、杭、横板によって厳重な護岸が施されていました。この溝の大半が土砂に埋まり、浅い窪地になったところに、大量の人骨が埋まっていたのです。

出土した人骨の数は5300点に及びます。溝の東側を中心に南北約13m、東西約5mの範囲に密集、散乱しており、比較的短期間に埋まったものと推測されます。

5300点の人骨と言っても、頭蓋骨もあれば細かい骨のかけらもあり、研究者たちはその骨を丹念に調べ、以下のことを導き出した。

  • 特定部位から推定された最小個体数は109体。男性がやや多い。
  • 男性の頭蓋骨には壮年後半から熟年(30〜50代)の個体が多い。
  • 女性の頭蓋骨には成年〜壮年(20〜40代)が多い。
  • 手足の骨は散乱しており、解剖学的位置を留めていない。
  • 出土した約5300点のうち、110点(少なくとも10体分)に受傷痕がある。金属製の武器で切られたり、銅製のやじりが刺さったりしたものもある。

こちらが前頭部に刺し傷のある頭蓋骨。

額中央の傷は頭蓋骨を貫通していて、鋭い刃物で襲われたとみられる。

少なくとも10体分の人骨から受傷痕が見られるが、傷の位置は広範囲にわたり、肋骨36点、上腕骨13点、肩甲骨、大腿骨各6点などで、金属製のヤジリが刺さったままの骨も4点見つかっているという。

また、大腿骨の長さなどから当時の男性の身長は約162センチ、女性は148センチ程度と推定され、日本で最も古い結核の症例が2点見つかるなどどんな病気にかかっていたかも骨からわかってきている。

もっと興味深いのは人骨から抽出したDNAの解析結果である。

青谷32個体のミトコンドリアDNAに29種類の系統(ハプログループ)が確認されました。ミトコンドリアDNAの配列は母系でつながる親戚関係において一致するので、分析した個体には血縁関係にある人がたったの3組しか存在しません。つまり、SD38−2に埋もれていた人々はほとんどの人が赤の他人だったことになります。

ミトコンドリアDNAの種類は、外部との人的交流が少ない集落では種類が少なくなることが一般的です。一方、広範囲からいろいろな人がたくさん集まる都市のような場所では、その種類が多くなります。弥生時代後期の青谷上寺地遺跡における人のあり方は、都市部の集団によく似ています。

また、29種類のミトコンドリアDNAのうち、縄文人から受け継がれているのは1系統(M7a)だけで、あとは全て弥生時代以降に渡来した人々が伝えた種類であることがわかりました。このことから、弥生時代後期に青谷上寺地遺跡に暮らしていた人たちには渡来人の影響が強いことがうかがわれます。

さらに、13個体の人骨について、膨大な遺伝情報を持つ核DNAを分析したところ、縄文人や韓国を含む大陸の人のグループに属する個体はなく、すべての人がほぼ日本の本土に暮らしている現代日本人と同じグループに属することがわかりました。つまり、皆、縄文人と渡来人の混血であり、外見は私たちと何も変わらない人たちだったようです。

なお、人的交流に乏しい集団では皆が近い場所に集中しますが、13個体の分布はかなりばらついています。これは同一集団内での遺伝的多様性が高いことを示しており、ミトコンドリアDNAの分析結果とも整合しています。

これは実に面白い分析結果である。

ここからは私の想像だ。

弥生時代後期とは紀元前1世紀から紀元後3世紀ごろを指すが、特に2〜3世紀の東アジアでは戦乱が続き、戦いに敗れた兵士たちが活路を求めて海を渡り日本列島に大挙して押し寄せたと考えられる。

敗残兵たちなので、渡来人の大半は男性で出身地もバラバラ、要するに戦争をするためにかき集められた男たちである。

朝鮮半島の東海岸から船で海に出てば、潮流に乗って日本列島の日本海側に流れ着く。

山陰地方の海岸線には今でもハングル文字が書かれたゴミが漂着するように、鳥取県の海岸も昔から多くの渡来人がたどり着く場所だったに違いない。

こうして大陸からやってきた男たちの集団が日本列島で暮らしていた縄文人の女性との間で子供をもうけることによって、多様なDNAを持った都市型の集落がこの地に生まれたのだろう。

ミトコンドリアDNA分析の最も多いハプログループは「D4」、すなわち朝鮮半島から中国北部に多い型であり、私の推論とも一致する結果である。

そして、炭素14年代法という検査手法により、この遺跡から発見された人たちは2世紀から3世紀の初めに生きていたこともわかり、私はますます確信を強めている。

この時代はまさに後漢の末期、中国大陸では黄巾の乱をはじめ各地で混乱が広がり、220年の後漢滅亡、三国時代へと移り変わる激動期だ。

朝鮮半島でも後漢の支配が揺らぎ、後の三国時代への過渡期である「原三国時代」と呼ばれる混沌とした時代に当たる。

こうした大陸の混乱の中から多くの人が海を渡り日本列島にやってきた。

彼らは当時の最新兵器を身にまとい縄文人や先に渡来した弥生人との勢力争いを繰り広げたのではないか。

それが卑弥呼に関する唯一の文献資料である魏志倭人伝の中に記されているあの「倭国大乱」の正体だと私は考えており、青谷上寺地遺跡から発見された多数の人骨もそれを裏付けるもののように私には見える。

そして、この時代にさまざまな人種が交雑して生まれたのが今の日本人なのだ。

おそらく天皇家の祖先である天孫族もこの時代に大陸から渡ってきて、武力によって日本列島の支配者にのしあがった一族だったと私は考えている。

研究者たちは、頭蓋骨の内部に腐食を免れた脳が残っていた第8頭蓋と呼ばれる成人男性の骨やDNAをもとに、その人物の顔を再現することに挑んだ。

その結果、復元された青谷弥生人の顔がこれである。

現代の日本人と極めて似た風貌をしている。

この人物は、ミトコンドリアDNA(母系に遺伝)のハプログループは大陸に由来する渡来系、そしてY染色体DNA(父系に遺伝)のハプログループは日本列島在来の縄文系であることが確認できたという。

縄文系のY染色体を持っているせいか、日本人としては比較的彫りが深く目の大きい、いわゆるソース顔である。

ただ私の推論では父方の遺伝子が渡来系という人の方が多かったと思うので、この第8頭蓋の復元像は必ずしも当時の弥生人の典型的な顔ではなく、もっと目が細く凹凸の少ない、いわゆる醤油顔がむしろ主流だったのではないかと私は推測する。

ちなみに、青谷上寺地遺跡があるのは海岸線から1キロほど内陸に入った川が流れる盆地のような場所。

海辺ではなくあえて少しだけ内陸に入った盆地に集落を作るのは、瀬戸内地方の遺跡などと共通している。

因幡の白兎、大国主命の神話、そして渡来系の特徴を持つ多数の人骨。

日本海を隔てて朝鮮半島と対峙する鳥取の海岸線には、日本人のルーツにまつわる多くのヒントが眠っているように私には思えた。

<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館⑨ 篠田謙一著「新版 日本人になった祖先たち」(2019年/日本/NHK出版) #210124

コメントを残す