今年元旦に発生した能登半島地震から半年、テレビニュースでは被災地の現状を久しぶりに詳報していた。
現地からの映像を見ながら、私は少なからぬショックを受けた。
なぜ、崩れた建物がそのまま放置されているのか?
半年経っても時が止まったままの状態は、私の想像を超えていた。

いくら半島の先端でアクセスが悪いとはいえ、エリアは限定されていて、半年あればもう少し景色が変わっていても不思議ではない。
何よりも気になったのは、被災地で復興に取り組む人の姿があまり映像に映っていなかったことだ。
当初から指摘されていた道路や宿泊施設の問題があって、大量の作業員を投入できない事情もあったのだろう。
しかし、政府が本腰を入れて復旧を進める決意を固めれば、全国から人や物資を能登に集めることも可能だったはずだ。
要するに、その意思がなかったということを能登の現状は示しているのだと私は受け取った。

かつて日本は「土建国家」だった。
全国各地に土着の建設業者がいて、国が負担する巨額の公共事業費に依存して道路を作り、橋を架け、トンネルを掘った。
彼らは自民党の重要な支援者として地方の政治家と手を結び、地域経済を牽引し雇用も担う一方、選挙となれば集票マシーンとして農村部に広がる保守王国を支えた。
こうして全国に張り巡らされた土建ネットワークがあった時代には、いざ災害が起きれば多くの労働者が被災地に動員され復興を進めたのだ。
しかし、政府の財政悪化に伴い公共事業費は削減を余儀なくされ、人口減少による人手不足も相まって、かつての土建ネットワークは崩壊した。
今回のような災害が起きても、動員できるマンパワーは格段に少なくなっているのである。

石川県は先月末になって「創造的復興プラン」なるものを策定した。
震災前から過疎が進んでいた能登地方だけに、単に元の状態に復元するのではなく、この機会により良い地域再生を目指すのが「創造的復興」ということらしい。
要するに、「元通りには戻しませんよ」ということである。
プラン策定に当たっては防災の専門家や住民の代表も加わり意見を取りまとめたため、プランが出来上がるまでに半年を要し、その間、インフラの復旧や仮設住宅の建設は進めるものの壊れた住宅の撤去などは後回しにされたのかもしれない。
地域をどのように再建するのか、そのマスタープランがなければ何も始められないというのも一理ある。
崩壊した家といえども私有財産であり、瓦礫の下には思い出の品が眠っている可能性もあって、行政が勝手に撤去するわけにはいかないという事情もわかる。
とはいえ、復興には時間がかかっても、せめて最低限の復旧ぐらいは短期集中でできないものなのか?
近い将来起きるとされる広域にわたる巨大地震を考えると、こんな悠長なやり方では日本中が大混乱に陥ることは目に見えている。
私は激しい不安を感じた。

昨日被災地入りした岸田総理は、「能登創造的復興タスクフォース」の発足式に出席した。
タスクフォースには、国から内閣府や国土交通省など7府省、被災地からは石川県のほか、被害の大きかった輪島市、珠洲市、能登町をはじめ6市町が入り、国と自治体が一体で議論し、省庁横断で地域の要望や課題をじかに吸い上げるという。
チームの新設に合わせて、国から派遣する常駐の職員を1割ほど増やし、150人規模の体制にする。
正直、「今頃?」という感じだが、国会が終わって霞ヶ関の人材が動かしやすくなったことも関係しているのだろう。
でも、大災害への対処はこうした調整だけではなかなか上手くいかないというのが歴史の教訓だ。
東日本大震災の復興は10年以上かかって、各地に巨大堤防や嵩上げした住宅地が作られたが、その間に人口はますます減り、費用対効果と地域の再生という点で大きな課題を残した。
それに対して、震災復興のモデルケースとして引き合いに出されるのが、関東大震災後の後藤新平率いる「帝都復興院」である。

帝都復興院は、大震災から27日目に総理直属の組織として設置された。
総裁は内務大臣だった後藤新平が兼務し、幹部には後藤の腹心やブレーンが集められて、直ちに大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を盛り込んだ野心的な復興計画を練り上げる。
当時の国家予算の1年分という巨額の予算を必要とする復興案は地主や野党から激しい反対に合い、大幅な縮小を余儀なくされるが、それでも昭和通りや靖国通り、環状道路など東京の骨格はこの時に整備されたものであり、その先見性と実行力は今も高く評価されている。
ただもう少し調べてみると、この帝都復興院でさえ、後ろ盾だった総理の交代や内部での路線対立から設立からわずか5ヶ月で廃止され、政治的な駆け引きの中で復興計画が翻弄されていったことがわかる。
さまざまな人の思惑と限られた予算の中で震災復興を着実に進めることは極めて難しいのだ。
もしも今、首都直下地震が起きれば、どれほどの大混乱が起きるだろう。
関東大震災が起きたのは大正時代、今ほど人権意識が高くなくお上の力が強かった時代である。
今の東京では1本の道路を通すにも少数の反対者のために何十年も工事が進まない箇所がいくつもある。
これが南海トラフ地震のような関東から九州までを巻き込む広域災害になった時、果たして誰がどのようにして復興プランを練るのだろうか?

最近の災害復興の現場を見ていて漠然と感じることがある。
被災者としてただ「公助」を待つのではなく、もう少し「自助」を重視できないのだろうか、と。
崩壊した自宅を個人で片付けるのは危険だし物理的な無理なことも多いだろうが、地元に愛着がありなんとか復興させたいという気持ちは人一倍強いはずだ。
高齢者を安全な場所に二次避難をさせた上で、復興のために働きたいという被災者を行政が給料を払って雇用して組織化し、復旧工事のためのマンパワーに充てるというのはどうだろう?
避難所でただ漫然と待っているよりも、私だったらそちらの方が遥かにありがたい。
業者が持ち込んだ重機と地元のマンパワーがうまく噛み合えば、残された思い出の品を選り分けたりするきめ細かい作業も今より進むのではないか。
何より地元に雇用が生まれ、少しずつ片付けが進む地域を見ることによって被災した人たちの心も前向きになれるのではないだろうかと私は考えるのだ。

菅元総理が「自助・共助・公助」の重要性を説き、「自助」を強調しすぎると批判されたことがあった。
しかし、「自助」こそが社会の基本だと私は考える。
「自助」なしにただただ国や行政の責任ばかりを責めるのはやはりどこかおかしい。
ただ、「自助」ではどうにもならないことが災害時にはたくさん出てくる。
だから「共助」が必要であり、復旧復興を強力に推し進める「公助」が求められるのだ。
首都直下にしろ、南海トラフにしろ、もう予想されているのだから、地震が発生してからプランを考えるのではなく、今のうちに初期の復旧プランぐらいは作成し住民に周知する必要があるのだと思う。
そのためには法律の整備も必要となってくる。
激しい反対に晒される可能性が高いので政治家にとってはリスクだと感じるのだろうが、震災前にできることを済ませておくことで震災後の混乱を少しでも小さくできるならば、リーダーたる者、それから逃げてはいけない。
現地の交通事情も多少改善したようなので、私も一度能登を訪ねてみたいと思い始めている。
<吉祥寺残日録>能登の被災地でようやく動き出した「2次避難」!災害対策基本法が定める“市町村長主導”の体制の限界 #230115