暦の上では立秋も過ぎ、東京はいくぶん暑さが和らいだ。
変則的なルートで東から日本列島に迫る台風が北の涼しい空気を関東地方に送り込んでくれているせいかもしれないけれど、市営プールから見上げる雲の様子も、気のせいか多少秋の気配が混じってきたようにも感じられる。
とはいえ、大地震に見舞われた熊本をはじめ西日本では相変わらずの猛暑が続き、私が二拠点生活を送る岡山もほとんど雨が降らないクソ暑い日が続いているのだが・・・

さて、私が会社を辞めてから、すでに6年以上が経過した。
その間の私の隠居生活といえば、好きな海外旅行に行ったり誰に気兼ねすることもなくゴルフに興じたりしつつも、岡山に住む4人の年老いた親たちのことがいつも気にかかり、その定期的な見守りと先祖伝来の田畑の管理が暮らしの重要な柱となってきた。
養子縁組した伯母を2023年の3月に91歳で見送ったのを手始めに、同じ年の8月には妻の父である94歳の義父、さらに翌年の暮れには義母も92歳で亡くなった。
残るは、4人の中で一番若い私の実母だけである。
一番若いとは言っても、母も今すでに93歳。
しかし、健康には人一倍気を遣いながら、岡山市内のマンションで今も一人暮らしを続けている。
大きな病気もなく気ままな一人暮らしが気に入っている様子で、「自分事ができる間は今の暮らしを続けたい」というのが母の口癖だった。

そんな母から突然電話がかかってきたのは、7月初めのことだった。
かかりつけのお医者さんで受けた血液検査の結果、赤血球や血小板の数値が高くなっていて、気になるので専門医に診てもらえと言われたという。
母が高齢なため、お医者さんも直接家族に話をした方がいいと思ったらしく、私の方から電話をかけてみると、「このところ検査のたびに数値が上がっていて、何らかの病気が疑われるため、紹介状を書くので一度総合病院で調べてもらってください」とのことだった。
私がさらに詳しく病状を聞きたがったので、お医者さんは「直ちに深刻な状況というわけではないが、血液の病気、たとえば白血病の前段階などが疑われる」と教えてくれた。
年齢を考えれば特段驚く知らせでもなかったけれど、その話を聞きながら「そろそろ一人暮らしは無理かな」と思いながらお医者さんの話を聞いた。

2泊3日で岡山に飛び、紹介された岡山市民病院に母を連れて行ったのは7月27日だった。
久しぶりに訪れた大病院は多くの患者で大盛況で、もう待合室でじっと待つだけで疲れてしまう。
まず最初に血液検査を受け、血液内科の専門医の診察を受けるだけなのだが、とにかく長い時間椅子に腰掛けて待たなければならない。
対応してくれた専門医はとても気さくなお医者さんで、年寄りにあまりプレッシャーをかけないよう笑顔で噛み砕くように検査結果を説明してくれた。
赤血球や血小板の数値がかなり高く、貧血の反対の「多血症」という病気だそうで、わかりやすく言うと血液がドロドロで血栓ができやすい状況だという。
それほど恐ろしい病気ではないが、放置しておくと脳梗塞や心筋梗塞のリスクが高くなり、稀に白血病に発展することもあるため、とりあえず血液をサラサラにする薬を処方して、なぜ血液を作り過ぎているのか原因を見極めるために詳細な検査結果が出るのを待つ必要があるとして、8月初めに再び来院するよう求められた。
その情報はすぐに私の妻や弟夫婦とも共有、弟の休みを待って8月2日に4人でLINE会議を開催した。
以前から母を東京に呼び寄せたいと言っていた弟はすぐに入居できそうな老人ホームを見つけてくれていて、1日も早く東京に出てきてくれるよう母を説得したいと言った。
女性陣も当初から一人暮らしをとても危惧していたので、弟の提案に直ちに賛成、これまでただ一人のらりくらりと母の意思を尊重する態度をとっていた私も、今回の病気発覚がいいタイミングになるだろうと思ったので、大きな対立もなくみんなで母を説得することで合意したのである。
ただ、一番の懸念は「果たして母が東京行きに同意してくれるか」という点で、自ら岡山に出向いて一旦は説得できたと思った母が電話のたびにトーンダウンしているのを弟もとても気にしていた。
とりあえず、次回病院に行く日の夜に弟が母に付き添う私に電話をかけ、2人で一緒に母親を説得することでこの日の作戦会議は終了した。

岡山市民病院での2度目の診察は8月10日だった。
この日までに詳しい検査結果がまとまっていて、医師からは「真性多血症」という病名が告げられた。
血液を作る指令を出す「JAK2」という遺伝子に変異が起きていて、十分に血液があるにもかかわらずさらに血液を作れと誤った指令を出し続けているのが原因だと説明される。
対処法としては薬の投与を続けるだけで、前回もらった血液をサラサラにする薬に加えて、新たに血小板の数値を下げる薬が新たに処方された。
病名を聞いた母の様子は特段大きな変化はなかったけれど、母なりにいろいろ考えたようで、2人でランチを食べながら話したところ、意外なほどあっさりと東京行きに同意したのだ。
私は直ちに母の心の変化を弟たちに伝えた。
そして夜の電話では、最初から東京に行くことを前提に時期や準備などについて多少突っ込んだ話をすることができた。
母の最期をどう見守るか、私たちの間で続いてきた葛藤が、一つの病気の発覚により急に動き出したのである。

いざ引っ越しということになれば、それはそれでやらなければならないことがいろいろある。
とりあえず大枠合意したとはいえ、母の気持ちはまだ完全には定まってはいない。
今後詳細を詰めていく過程で、揺り戻しもあるかもと想定しておいた方がいいだろう。
とはいえ、私たちにとって母の決断は大きな前進だった。
東京の施設は岡山に比べて高いけれど、一人暮らしを続けることを考えれば、私の負担はずっと軽くなる。
長年心配し続けている妻の心労も多少は和らぐだろうし、仕事で岡山に行けない弟は自分の近くに母が来てくれることを心から喜んでいる。
まあ、物事は落ち着くところに落ち着くというのが私の人生観ではあるが、ようやく落ち着きどころが見えてきたと言えるかもしれない。
そうと決まれば、母がまだ元気なうちに東京に連れてこられるよう、11月ごろの引っ越しを目指して母のお尻をもう少し押してみたいと思う。