<吉祥寺残日録>岡山二拠点生活🍇 家族とたくさん話した夜、94歳の義父は天国に旅立った #230808

琵琶湖の旅を終えて、岡山にやってきたのは今月2日のことだった。

それから連日いろいろなことがあり、ついついブログの更新をしないまま日が過ぎてしまった。

この間の出来事はおいおい書くとして、まずは一番大きな出来事から書いておこうと思う。

あれは昨日7日の午前3時半ごろだったと思う。

夜中に妻の電話が鳴った。

妻は自分のベッドから離れた部屋でスマホを充電する癖があり、その電話の音で私が目覚めた。

シニアになると滅多にかかってこない夜中の電話。

ちょっと嫌な予感がして、スマホを持って妻を起こしにいく。

寝ぼけた声で電話に出た妻の声が変化するのを感じた。

お義父さんが亡くなったんだ・・・電話の声が聞こえなくても妻の反応からそれが分かった。

電話を切った妻は案の定「父が亡くなった」と言った。

電話の相手は老人ホームからの知らせを受けた妻の弟で、私は妻を車に乗せてすぐに義父母が入所する老人ホームに向かった。

途中、妻の実家に立ち寄り、夏休みで帰省していた妻の妹とその息子をピックアップする。

この前日、私はこの同じメンバーで老人ホームを訪ねたばかりだった。

義父は珍しく目を覚ましていてテレビで高校野球を観ていた。

義父は最後まで頭はしっかりしていたので、私たちがゾロゾロと部屋に入っていくとちゃんと誰が来たのかを理解した。

私たち夫婦はつい数日前に見舞ったばかりだったが、子育てがまだ終わっていない義妹は久しぶりの訪問、義妹の息子に至っては6〜7年ぶりに会ったので、義父はとても嬉しかったのだろう。

義父は家族に対して一生懸命何か話をしようとしていた。

すっかり衰えが目立ってきた最近ではとても珍しいことだ。

実は先週、訪問診療の医師から「余命は週単位で、終末期ケアに移行する」という趣旨の話があり、義妹が息子を伴って岡山に戻ったのも義父との最後の別れを告げる意味もあった。

実際、数日前に私たちが見舞った時には、義父の様子はそれまでとは明らかに違って、苦しそうに肩を揺らして呼吸をし、話しかけてもほとんど会話にならなかった。

妻はその時、「父はもうこの夏を越えられない」と覚悟したという。

そんな義父が蘇ったようにこの日は手を動かしながら盛んに何かを話している。

入れ歯を外しているため言葉は聞き取りにくかったが、末っ子の義妹は一生懸命聞き取ろうと努力するので、すごく会話が盛り上がっているようにも見え、今にも燃え尽きそうだった義父の命の炎が再び勢いを取り戻したように感じた。

「これはまだ当分大丈夫そうじゃない?」

面会を終えた後、私が妻にそう言うと、妻も私に同意し、とりあえず一旦東京に引き上げて様子を見ようと決めた。

義父の訃報が届いたのは、そんな日の夜中のことだったのだ。

去年からいつ亡くなってもおかしくない状況が続き、すでにみんな覚悟はできているはずだったが、ちょっと不意をつかれ少し慌てる。

私たちが老人ホームに到着した時、ちょうど連絡を受けて駆けつけてくれた訪問診療の医師たちの車と鉢合わせした。

当直スタッフの案内で寝静まった施設の中に入り、義父の部屋に向かうと、義父は口を開けたままの姿でベッドの上に横たわっていた。

死んだという実感はなく、普通に寝ているような姿に見えた。

近頃義父を見舞うと大抵はベッドで口を開けて寝ていて、「まるで死んでいるようだな」といつも思っていたので、逆に亡くなってしまうと「まるで寝ているだけのようだ」と見えてしまう。

お医者さんはひと通り遺体の様子をチェックしたうえで、「死亡時刻は午前4時9分とします。死因は老衰です」と言った。

義父の表情はとても穏やかで、特に苦しんだような跡は見られない。

人間というものは老いると徐々に子供のようになり、できないことが増え、最後には赤ん坊のように寝るばかりして、ある日突然心臓が止まる。

そうした自然な死にはほとんど痛みや苦しさは伴わないらしい。

義父の死の瞬間に立ち会った人はいなかったものの、文字通りの大往生、そう呼んでいい人生だったんだと思う。

亡くなった翌日、片付けのため義父が使っていた部屋に行く。

読書家だった義父らしく枕元には大好きな森鴎外など数冊の本が置いてあった。

1年前に老人ホームに入ってからも、元気がある時には裸眼で本を読んでいた義父、ふと見るとレポート用紙に何か手書きのメモが残されていることに気づいた。

いったい何を書いたのだろうと読んでみると、ちょっと堅苦しい文章で、この老人ホームで使用しているベッドの高さに問題があることを指摘し、その解決策まで提案されていた。

義父は生涯公務員として県庁で働いてきた男だ。

自分の担当する分野において問題点を見つけ、その解決策を提示する・・・それが義父の仕事だったのだろう。

「男は仕事、女は家庭」という時代に生きた男である。

仕事を辞めた後もいつも食卓の半分は義父の大量の本や新聞の切り抜きで埋まっていた。

徹底した左翼で、常に自民党政権には否定的だった。

家庭内でも歴史や文学など難しい話をすることが多く、子供たちが漫画を読むことを禁じ、躾にも人一倍厳しかった。

そのため長女である妻は今でも父親に対する恐怖心が消えず、強いコンプレックスを払拭できずにいる。

絶対的な権威を持つ父親。

今の日本社会ではほとんど絶滅した類の父親、それが義父だったようだ。

しかし歳をとるにつれそんな義父も少しずつ穏やかになり、年の離れた末っ子である義妹に対してはすっかり優しいお父さんに変身していたらしい。

とはいえ仕事では最後まで、お歳暮やお中元などが届くと例外なしに送り返すなど自分流のルールを貫いた厳しい人だったので、そのお葬式は故人の考えを尊重して無宗教の音楽葬、香典も一切受け取らないというスタイルになる見通しだ。

自分の思いのままに生きた94年の人生、まさに大往生であった。

<吉祥寺残日録>岡山二拠点生活🍇 七夕の日、93歳の義父が突如入院した #220707

1件のコメント 追加

コメントを残す