<きちたび>北朝鮮の旅1985🇰🇵 報道カメラマンとして“謎の国”北朝鮮を訪れた若き日の取材メモを読み返す

🇰🇵 北朝鮮/平壌&板門店 1985年7月2日〜16日

昔の取材メモを整理し始めた。

ほとんどは今となっては役に立たない情報で埋められているのだが、メモの中に若き日の私が記した日記のようなものが含まれていることがある。

そんな取材メモに残された異国の風景をこのブログに書き留めておこうと思った。

まずは今から40年ほど前、報道カメラマンだった頃の私が訪れた今も昔も「謎の国」北朝鮮取材の記録からである。

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テレビ局に入社後3年目を迎え報道局でカメラマンをしていた私は、デスクから北朝鮮に出張するよう指示された。

当時は今以上に北朝鮮への入国は難しかった時代、謎に包まれていた北朝鮮の実情を大々的に取材したいという取材申請が認められたのだ。

メインニュースのキャスターを団長に、外信部の記者と私、カメラ助手という4人の取材チームである。

北朝鮮取材は、当局からの招待状を持って北京の北朝鮮大使館でビザをもらうところから始まった。

6月28日に北京入りした私たちは、翌朝支局スタッフの車で北朝鮮大使館を訪れるが、この日は土曜日で大使館は休み、週末は初めての北京見物に費やして週明けに再度大使館に向かった。

7月1日(月) 晴れたり曇ったり

朝、便所が壊れた。お粥に目玉焼き、脱脂粉乳という朝食を済ませて、9時支局スタッフに迎えに来てもらって再び朝鮮大使館にビザ申請に行く。すぐ済むはずが、朝鮮相手だとなかなかそうはいかない。なんと我々の事が本国から連絡が来ていないというのだ。人を招待しておいてビザの発給を拒否する国など他にはそうあるまい。態度の悪いオヤジがやってきて、我々をじろっと見回して、朝鮮語で何やら言っているが、我々にはわかるはずもない。そんなことをしながら待つこと約30分。結局本国に問い合わせるので明日また来いとのことで大使館を去る。

取材メモより

そして、翌日。

7月2日(火) 雨

9時半、再々度、朝鮮大使館へ。今日はおばさんが出てきて、愛想よくパスポートを持っていき30分ちょっとでビザがおりた。ビザといってもスタンプではなく、水色の薄い紙切れにハングルでごちゃごちゃ書いてあり、写真とスタンプが押してある。発給料は25元。

ビザが取れたことを支局に報告に行くと、支局長が「この天気では飛行機が飛ばないのではないか」などと言う。中国人スタッフの夏さんがそれを確かめるため電話をしてくれるが、なかなか繋がらない。北京は電話事情がよくない。中国では何ヶ所かで電子交換機への転換が進められており、プッシュフォンが使えるところもあるらしいが、北京ではなぜか最後だそうで、当分は一生懸命ダイヤルを回し続けなければならない。30分ほど回した後、やっとつながり「今日は予定通り飛ぶ」と言うので、大急ぎでタクシーを探して空港に向かう。

14時50分、予定より1時間近く遅れて離陸。機体はイリューシンというソ連の四発プロペラ機だ。朝鮮民航のスチュワーデスは白いブラウスにピンクのワンピース姿。中国民航よりマシ。乗る時にこっと笑いかけると、ほっぺたがわずかに引くっと動いたが、あとは顔に表情なし。乗客の半数近くは日本人。社会党の参院議員が広島県連の代表団を引き連れている。

17時40分、平壌着。機窓からは、よく整備された水田が一面に見える。第一印象は緑が綺麗だなということだった。着地した時、地面のガタつきが気になった。機が静止してUターンする時、その理由がわかった。滑走路にアスファルトで亀の甲羅のように六角形の模様が描かれ、その部分が膨らんで地面に凸凹を作っていたのだ。おそらく、滑走距離を縮めるためだろう。予想していたような歓迎団もないまま、イリューシンは空港のはずれに静かに止まった。空港は静まり返り、動くものは何もない。空港ビルには、ハングルで「ピョンヤン」と書かれ、金日成の絵がかかっていた。

飛行機を降り、バスに乗り、空港ビルへ。バスが止まると、まず社会党一行が呼ばれ、次いで我々が呼ばれた。2グループが降りると、残りの乗客は正規の到着口に向かった。ガイドに導かれた我々を、1人の中年の男性と1人の少女が待っていた。少女は団長であるニュースキャスターに花束を差し出し、男は我々全員と握手した。特別階段を上ってビル内の大きな部屋に入り、ソファーに座るよう言われる。天井は2−3階ぶち抜いたほど高く、滑走路側はガラス張りになっていた。入って左手の壁の上の方に金日成の肖像画かけてあった。ガイドの男は黄哲(ファン・チョル)、迎えた男は対文協の副課長で康と名乗った。康さんは我々のパスポートを持って入国手続きをしてくれ、荷物の受け出しをしてくれたりもした。その間、黄さんと取材内容などについて簡単な話をした。我々全員、緊張気味で言葉に気を遣った。我々の後ろの方では、社会党の一行が、党の役人相手に挨拶などを交わしていた。

持ってきた手荷物の検査をした後、預けた荷物を確認に行く。北京の空港で間違えたらしく、荷物のタグがなぜか11もあったが、特に問題もなく荷物を受け取った。最近は、北朝鮮を訪れる外国人が多くなり、昔のような大名気分は味わえなくなったらしい。迎えも少ないし、荷物もろくに持ってくれない。だいぶ聞いた話と違っている。

取材メモより

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こうして無事に北朝鮮の首都・平壌に到着した私たちは、市内に向かう。

我々に用意された車は、ベンツとボルボ。確かに話に聞いていた通り、ベンツにボルボではあるが、はっきり言ってボロい。それに私物を乗せて出発する。機材はワゴン車で別に運んでくれた。

空港から街までは24キロぐらい。まるで岡山を走っているような低い山と田んぼの光景が続く。田の緑が恐ろしく美しい。こちらの農家は瓦屋根が揃っている。道の両側には立派な歩道。我々に手を振ってくれたのは、女の子たちのグループだけだった。僕は、助手と黄さんと一緒にボルボに乗り、団長と記者がベンツに乗った。市内の写真撮影は全く自由だと言う。

独学で日本語を学んだという黄さんは日本語だけでなく日本の事情にも明るい。田中角栄のことやぐり森事件の話、豊田商事の永野の話などをする。北朝鮮にどんなイメージを持っているかと聞くので、「私は自分で見たものしか信用しないので今はなんの先入観も持っていない」と答えておいた。やはり自国のイメージが暗いことを気にしているようだ。

山の上などにアンテナのようなものがいくつも見える。市内に入ると、高層アパートが並ぶ。車から見る限り、それほど暗くもない。大きな体育館の前で学生たちがマスゲームの練習をしている。数千人という単位だ。聞くと、8月15日の練習だろうとのことだった。えんじの体操服を着た学生たちの大群は、なんとなく北朝鮮に来たと言う実感を与えた。美しい夕暮れの普通江(ポトンガン)を右に見ながら、我々の泊まる「ポトンガンホテル」に着く。

ろくに荷物を解く暇もなく、対文協の歓迎宴に駆けつける。場所は平壌で一番冷麺がうまいと言われる「玉流館」。大同江(テドンガン)のほとりにある瓦葺きの建物だ。入り口には、対文協の局長という人が出迎えてくれた。結局、歓迎宴といっても、その局長さんと、康、黄両氏だけ、なんとなく拍子抜けだった。局長は義務的に歓迎の言葉を述べ、主席と書記様の万年長寿を祈って挨拶を終えた。それに応えて、我が団長が挨拶。局長はほとんど無関心な顔をしていたが、団長が最後に北京でビザがうまく取れなかったことを婉曲的に文句を言うと、通訳の方に関心の眼差しを向けた。それをネタに相手の協力を求めると、いかにも曲者そうな局長は、対文協の代表団が日本を訪れた時も、撮影を制限されたと言って、その国の決まりに従わなければならないとやり返したりで、柔らかい言葉の陰で暗闘が繰り返されたが、とても容易に現地を与えてくれるような相手ではないことは確かなようだ。

料理はまず手羽先に肉団子、生野菜、もち、パン、そして冷麺、ナマコ料理、アイスクリームなど。飲物は、当然のように人参酒とビール。全体にまあまあ。冷麺はとても美味しかった。

局長と別れてホテルに戻る。主体(チュチェ)思想塔の赤い炎の部分に電気がついている。金日成主席の銅像にはビカビカの照明が当てられ、ホテルの部屋からは後光がさしているように見える。ホテルに着いて、康、黄両氏と打ち合わせ。意外に柔軟な感じに見受けられた。近くの散歩は自由とのこと。

取材メモより

こうして、慌ただしい北朝鮮での初日は終わった。

ちなみに対文協は「朝鮮対外文化連絡協会」の略で、北朝鮮の対外的な窓口となる非政府組織である。

翌日からいよいよ北朝鮮での取材が始まった。

こちらからは様々な取材依頼を提出しているが、どこに案内されるかは当日にならなければわからない。

7月3日(水) 曇り

7時半 起床。

8時 朝食、白がゆと明太子などの添え物。

9時15分 局長によるブリーフィング

取材メモより

対文協の局長は次のようなことを話した。

  • 主席が6回党大会で示した80年代末までの10大展望
  • 金正日書記の正しい指導で穀物1000万トン達成
  • 1500万トン目指して干拓30万ha、開墾20万ha
  • 金正日書記の指導により非鉄処理工場、外貨の源泉
  • 125万人のインテリ大群養成
  • 無料医療制
  • 税金撤廃
  • 党結成40年で人民生活を一段階上げることが今年の目標

興味深かったのは、局長の口から次のような発言が出たということだ。

南進する意図がないばかりか、その力もない。人口も南が倍以上、南には100万正規軍、1000万の民間兵力、米軍4万人。1000余機の核兵器、中性子兵器、巡航ミサイル、リモートコントロールで操作できる兵器。人口でも兵力でも北が劣っている。

取材メモより

私たちが訪れた1985年は、ちょうど朝鮮半島が日本の支配から解放されてから40年目に当たる。

アメリカではレーガン政権が共産主義陣営に強硬な姿勢を強めていた時期であり、後ろ盾の中国も改革開放に舵を切り、ソ連でもペレストロイカを提唱する新しきリーダー、ゴルバチョフが書記長として登場した年。

きっと北朝鮮としてもヤバいと感じて日本のテレビクルーに取材を許可したのだろう。

12時、昼食。場所はホテルの大食堂の決められたテーブル。野菜(きゅうり)、豆腐のスープ、水キムチ、ご飯、焼肉(カルビ)、肉団子、鶏肉の炊いたもの。

13時、散歩。普通江に沿って左の方へ歩いてみる。岸にはたくさんの釣り人。最初に見たのは、イカリのような釣り針をつけた糸を遠方に投げ、グイッグイッと引く時に魚を引っ掛けようという力任せの方法。それでも1匹大きな魚が釣れていたので、よほどたくさんの魚がいるものと思う。そのほか、普通の釣り竿とウキを使ったり、練り餌を使ったり、思い思いに静かな時を過ごしている。

ホテルの塀沿いを歩いて行って、ホテルを離れると、土手を隔てて道になっているようで、バスの音などが聞こえる。そろそろ引き返した方がいいと思いUターンすると、やはり背後から目つきの鋭い若い男がやってきた。ぶらぶら帰る我々の後ろからひたひたと近づいてくる。しかし、彼は何もいうことなく、我々がホテルに戻るのを見極めていた。

ホテルでハガキを出す。絵葉書が10銭、切手代が80銭だった。記者が代表してホテルで5万円を両替し、約470朝鮮円。1朝鮮円=106日本円といった感じだ。僕はその中から5000円分を両替してもらった。このホテルには日本語のわかる売り子さんが何人かいる。このホテルの泊まり客の半数は日本人だ。黄さんもここは日本人が好きなホテルだと紹介していた。

取材メモより

こうして午後からいよいよ撮影開始だ。

14時50分、撮影開始。まずは金日成の指導のもとに建てられたというヘルスセンター「蒼光院」。外観を撮ろうとしているところに、学校帰りの少女たちが歌を歌いながら100人以上行進している。黄さんが市内の撮影は良いと言った通り、確かに蒼光院の入り口にいた大勢の小学生たちに近づいて撮影しても文句は言われなかった。考えてみれば彼らにとってなんのデメリットもないわけだから驚くには当たらないのだが、なんとなくヤバいのではという先入観が私の中にあるようだ。しかし、これで少し感じがつかめた。

蒼光院の中を案内してくれたのは美人の女性だった。1階は床屋、2、3階は風呂とマッサージ。別棟には屋内プールが揃っているが、入場料はタダだそうだ。子供プールは、30−40mぐらいの大きなもので、端に滑り台が2つ。小学校ぐらいの子供が100人ぐらい浮き輪につかまったり、水をかけ合ったりの大騒ぎ。明るい笑顔が見られる。壁には水上スキーをする女性の巨大な壁画。新しさを誇示する試みは、まるで銭湯のように見えた。

16時ごろ、合弁の喫茶店。今年できたばかりのこの店はなかなか洒落た造り。コーヒー1杯3朝鮮円ということで庶民には少し高いようで、客の多くは外国人。アイスコーヒーをやかんからグラスに入れているとはいえ、パフェやクリームソーダもある。取材を終え、我々も一休みしていると、ザンビアからの医学留学生が話かけてきた。彼はすでに5年北朝鮮にいて、あと3−4年いるだろうと言っていた。こんな刺激のない国では、話し相手にも事欠き、退屈なのかもしれない。彼の他にも多数のアフリカ人を目にする。

17時、日朝合弁の「楽園百貨店」へ。外観を撮影している時、お婆さんらしき人が泣く子供の手を引っ張って出てきたと思ったら、いきなりの往復ビンタ。びっくりする。店内は日本をはじめ外国製品が並び、麗しき店員たちが「アニョンハシムニカ」と声をかけてくれる。とても綺麗な2階建てのデパートだ。それにしてもここの店員さんは粒揃いの美人ばかりだ。団長が店員にインタビューすると、「朝鮮の女性は皆美しいのだ。頑張って模範店員になりたい」と答えた。日本で言われるほどインタビュー相手を限定されることはないが、彼女も一言言うたびに、上司の顔色をうかがっていた。

19時にホテルに戻り夕食。まだ日没前だというのに、すでに食堂にはほとんど客がいない。ここでは、朝7−8時に仕事をはじめ、16時ぐらいには終わるのが普通なので、食事の時間も早いのだろう。メニューは、魚のフライ、春雨、鍋料理、揚げ豆腐、キムチにごはん、そしてアイスクリームだ。

夕食後、普通江のほとりでぼんやり川面を眺める。日没後のこの時間は涼しくて、静かで気持ちがいい。対岸のベンチには、アベックが寄り添って座り、女が男に頭をもたせかけている。結構自由恋愛なのかなと思ったりする。こっちの柳並木の下では、小学生ぐらいの男の子が何かを大声で読みながら道を行ったり来たりしている。金日成選集か何かを暗唱しているのだろうか。

取材メモより

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北朝鮮取材2日目。

朝からびっしりとスケジュールが組んであった。

7月4日 晴れ

8時、起床、朝食はお粥。

9時、平壌中心部のランドマーク「凱旋門」を撮影。デカすぎてフレームに入れるのに苦労した。

10時、平壌のシンボル「主体(チュチェ)思想塔」の撮影。金日成主席の70歳の誕生日を祝って金正日が造らせた高さ150メートル以上ある塔だ。この塔の150メートルにある展望台に登り、手すりの上から市内の俯瞰を撮影する。よく考えると非常に危険だった。足を押さえてくれた康さんに感謝。ここで三脚がぶっ壊れる。

11時半、人民学習堂。金日成が平壌の中心と考えている施設で、緑屋根の壮大な建築。意外に専門書が多い。この専門家養成の道が、ゆっくりではあるが着実に経済発展を遂げている原因の一つなのだろう。ここはただ本を読むだけではなく、いろいろな講義を行なっており、誰でも無料で受けたい講義に出席できるとの説明あり。

12時15分、ホテルでよど号事件の犯人2人と面会、玉流館へ。サブリーダーの小西隆裕と若林盛亮。松の木の下でインタビューを行う。ちょっとロマンチストで自己を正当化しようというところが強いように思ったが、あとはごく普通の人。むしろおおらかで明るく青年らしさを残した人たちだという印象。歳は40歳前後。方法論は間違っていたが、信念は変わらないと言っていた。

インタビューの後、玉流館で冷麺を食う。今日のはスープのほとんどないやつで、量は250グラム。最初なんてことないと思ったら、食ってみると相当な量で、おまけに辛くて辛くて。

彼らと話しながら考えた。北朝鮮の個人崇拝が本当に浸透しているのなら、それは皇帝のような人が上にいる方が、国民が安心できたからではないか。無知な国民はマルクスがどうのこうの言うよりは、信頼できる指導者のの指示に従う方が理解しやすいし、しっくりくるのだろう。それをマルクス主義の原理に照らして、個人崇拝や世襲制を批判してみてもあまり意味がないような気がする。北朝鮮は土着社会主義というか、えらく泥臭い田舎国家だが、それなりにみんなが生きがいを持って、生活できる社会を作ろうとしているのかもしれない。

17時半、歌劇場で革命歌劇「花売り娘」を見る。これは金日成が昔書いた原作を脚色し、金正日が舞台セットなどを指導したという舞台だ。不幸な家族が限りなく次々不幸な目に遭わされるが、革命によって幸福になるお話。3時間近い大作のうち、2時間半は暗い不幸な場面が続く。しかし圧巻だったのは、主人公が見る夢のシーン。それはそれは豪華で煌びやかなセットの中で、美しい衣装の妖精たちと3人の不幸な兄妹が踊るのだが、思わず吹き出してしまうようなくさい芝居と華麗な踊りが入り混じり絶妙の味だった。この歌劇場自体も迎賓館のような建物で、入場料ドリンク付きで2ウォンというのはとても信じられない。客席の天井は虹色のライトだし、階段に至っては紅白のセットのようで、壁画の滝の部分も水が流れているように電飾を施してある。とにかく一見の価値あり。

取材メモより

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こうして始まった北朝鮮取材。

最初は目新しくて見るもの全てが新鮮だったのだが、突如激しい下痢に襲われた。

7月5日 曇り時々雨

8時、朝食。粥、ヨーグルト、饅頭。

9時15分、「万景台(マンギョンデ)」へ。金日成の生家を見学した後、近くにある遊園地を取材。ダブルループのジェットコースターもあって、若い新兵らが大勢遊んでいた。

11時、地下鉄の駅を取材。長い長いエスカレーターを下りると、シャンデリア付きの豪華なホームがあり、駅ごとに異なる壁画や銅像が設置されている。改札は、見た目は悪いが一応自動改札機になっていた。

昨日の夜ぐらいから下痢がひどい。完全に水あたりである。まいった。全然、食欲がない。

15時、戦勝博物館。朝鮮戦争の際に米軍が使用したBC(バイオ・ケミカル)兵器は日本の731部隊が開発したものだという資料があるかもしれないと調べてみたが、直接731に結びつくものはないようだった。

19時、日本料理店で食事。下痢のためほとんど食べられず。

黄さんが「天皇というのは不思議な存在で理解しがたく、危険な感じがすると言っていた。自分の慣れ親しんだ社会に存在しないものは、恐ろしく思うものなのだろう。我々が金日成に抱くように。

7月6日 曇り

8時、朝食。下痢止まらず、ヨーグルトだけ。食事中にも漏れてしまった。

9時半、平壌に住む日本人妻3人にホテルでインタビュー。キャスターは盛んに望郷の思いを引き出そうとするが、3人は主席のご配慮と共和国(北朝鮮のこと)の素晴らしさを繰り返すばかり。その後、3人のうち2人が勤める職場を撮影する。

15時、千里馬通りのショッピング街や8.15に向けたマスゲームの練習風景を取材。

19時、サーカス取材。

取材メモより

体調不良のため、この2日間は詳しい記述がない。

平壌で経験した下痢は、世界各地で下痢をした私にとっても最もひどい下痢の一つで、固形分のない濁った水しか出ない状況で、少し気を緩めるとベッドに寝ていても漏れてしまうほどだった。

北朝鮮による日本人拉致問題はこの当時まだ日本国内ではほとんど知られておらず、戦後の帰国事業で在日朝鮮人の夫と共に北朝鮮に渡った日本人妻の困窮が主要な二国間問題となっていた。

我々が面会したよど号メンバーがヨーロッパで日本人の拉致に加担したことも、残念ながらこの時には全く知らなかった。

7月7日(日) 曇り

今日は、一日中平壌の休日風景の取材というスケジュールを提示されたので、記者がどうでもいいと判断、私は休んでホテルで本を読んだりして過ごす。下痢はやっと止まり、むしろ便秘気味である。

そこで、今まで見た北朝鮮の印象などを書いて見ることにする。

今一番感じているのは、北朝鮮という国が、一般に言われているように悪い国なのかという疑問である。もちろん、市民たちの間を自由に歩き回ったわけではないので、何も確固とした理由のない印象に過ぎない。ただ取材に関しては極めて順調で、いかにも我々のために偽装されたというものは予想したほど多くなかったような気がする。プールで遊ぶ子供や遊園地での新兵たちの笑顔に嘘はないし、千里馬通りの商店でインタビューした若い主婦の満足そうな顔は特に印象的だった。車から見る街の表情も決して暗くはない。

この国の国民は、個人よりももっと大切なものがあることを小さい時から教えられる。一方で、生活の不安を取り除き、個人の関心が私生活に集中しないで、理想とか名誉ということに関心を払うような社会を作っている。

と自分で書きながら、やはり思想統制の行われた国は、そのことだけで決定的に受け入れられないという考えが私の頭に浮かんでくる。

我々から見ると、この国は明らかに情報操作が徹底して行われ、思想、表現の自由のない国なのだが、ここに住んでいる人にとっては、力づくで強制されている意識もなく、むしろ邪悪な他の国と違い、偉大なる指導者の下、どこの国にも従属することなく国家建設を進めることが、個人の幸福だと信じている。すなわち、上層部から出された方針をいち早く吸収し、その中で自分の果たすべき役割を見つけ出すことを無意識のうちにやってしまうのだ。

9時半、少年団。

14時、市内。

17時半、映画。

20時半、夕食。

取材メモより

この日のメモを読んで、私は少し驚いた。

若い20代半ばの私が、凝り固まった先入観を持たずに北朝鮮という国を観察していると感じたからだ。

今だったら、相手の話も最初から疑ってかかっただろうが、やはり若くて柔軟で、見たもの聞いたものを素直に一旦吸収し、そのうえで判断しようとしていたことが読み取れる。

ヨーロッパで拉致された日本人の若者たちはほとんど私と同世代で、「北朝鮮に行ってみないか」と声をかけられ好奇心のままにその話に乗ってしまった。

もし私が旅先でそんなオファーを受けたならば、間違いなく二つ返事で北朝鮮に渡り拉致されたいただろう。

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7月8日(月)

9時半、平壌産院。こちらの赤ちゃんは手で顔を引っ掻いたりしないよう、首から下を布でぐるぐる巻きにして身動きできないようにしているので、コケシのように見える。なかなか面白い。

11時、団地。

12時、昼食。

13時半、立ちレポ(銅像の前)

14時、刺繍研究所。全然興味がなかったが、行ってみると非常に見事な品物で、それからは全員、安くていい刺繍の飾り絵がないかと土産物店に入るたびに探すことになる。

15時半、スケートセンター。夏だというのにフィギュアの練習。「ソウコウホテル」の合弁喫茶店に黄さんの彼女がいるというので、みんなで冷やかしに行く。

21時、康さん、黄さんとのミーティング。取材依頼を出していた白頭山の取材がダメらしいということで、みんなで陰に陽に嫌味を言って2人をいじめる。そうこうしているうちに、「韓国は独立国家かどうか」で記者と黄さんが言い合いになり、団長が割って入ろうとするのだが、なんとなく噛み合わず気まずいまま激論は終わった。

黄さんは単なるガイドや通訳ではなく、かなりのエリートらしく、2年前に日本語の能力を買われて対文協に引っ張られているが、いずれはもっと大きな仕事をする人間だと思う。朝日新聞を定期購読して日本に関する情報を手に入れているらしいが、とにかく非常に日本の事情に明るい。とても一度も来日していない人間とは思えない。そして議論の中で打ち明けた話だと、彼はアメリカや韓国の首脳の非公開な発言内容について北が入手した資料を見ることができる立場にいるらしい。それは翻訳するために見るという意味かもしれないが、ただの通訳ではない。日本語の能力も大変なものだし、頭の回転も早く、ノーはノーとしてはっきり相手に伝える度胸もある。非常に信頼に足る、ただし敵対すると厄介な人間で、とにかく真面目な現実主義者だと私はみた。

取材メモより

ここまでは、こちらが求めた取材依頼を少しずつ加えながら、北朝鮮側が用意した定番の観光コースを素直に見て回ってきた。

カメラマンである私にとっては新鮮だったが、リポートをまとめる記者としてはただ向こうが見せたいものだけを取材して帰るわけにもいかない。

滞在日数が徐々に少なくなってきて、記者のイライラも募っていたのだろう。

ちなみに、この黄さんはその後かなりの大物になったようで、朝鮮労働党国際部の日本担当者となり、金丸訪朝をはじめ数々の日朝交渉の舞台裏で彼の名前が登場する。

私も一度、黄さんから間接的に「北朝鮮に来て金正日の単独インタビューを撮らないか」というオファーを受けたことがある。

私は当時、国際ニュースを取材する立場ではなかったため、結果的には単独インタビューは実現しなかったけれど、彼が金ファミリーと直接話ができるキーパーソンになったことは間違いなさそうだ。

7月9日(火) 曇り時々雨

午前中、大同江の2つのダムを取材。

午後、平壌第一高等中学校。まるで日本の教育機材展でも見せられているような感じ。非常に不愉快な思いをする。

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7月10日(水)

9時、朝鮮労働党対外経済副委員長インタビュー。

11時、幼稚園を取材。小学校にもまさる大歓迎だ。幼稚園から始まる一貫した思想教育にただ驚くばかり。歌のクラスも踊りのクラスも、幼稚園児のことだからレパートリーは1曲しかなく、こちらがカメラの準備をしている間にその1曲が終わってしまったりすると、先生は困った顔をしながら子供たちにもう一度同じ曲をやらせるのだ。

しかしここでの圧巻は、なんと言っても遊戯室。広い部屋に我々が足を踏み入れると、ワーワーという大歓声が上がり、子供たちが拍手をしながら迎えてくれる。それぞれ役割が決められているようで、滑り台を滑る子は何度も滑り台を滑り、おもちゃのトラクターに乗った子は媚びた笑顔を作り、手を振りながら同じところをぐるぐる回っている。まるでディズニーランドのからくり人形を見ているようだった。

14時、ホテルで金正日の現地指導の様子を写した1時間30分の映画を見る。退屈なフィリムではあったが、謎の後継者、金正日という人間を初めて動く画面で見たという意味では面白かった。画面に映る正日は、チビででっぷりと太り、髪はチリチリでまとまりがなく、体操着のような服を着ていることが多かった。印象を一言で言えば、ただの駄々っ子という感じ。現地指導には現地のお偉方だけでなく、中央からも関係する大臣や役人が付き従い、総勢20人ぐらいを引き連れてやるのだが、正日は椅子にふんぞりかえって思いついたことをしゃべりまくる。よく言えばエネルギッシュ、ただ肝心の肉声が入っていないので、彼がどんな重要な指導をしているのかがわからない。とにかく、お付きの人々は戦々恐々として、あるいは媚びた笑いを浮かべながら、盛んに正日の発言をメモするのである。だが、本んとうに彼に従う人間が何人いるのか。父親が死んだ時が見ものであろう。フィルムを見る限り、かなり敵を作るタイプと見た。

16時、第一百貨店。

18時、日本人妻の自宅訪問。

今でこそ、金正日は父親から渡された権力を守り、息子の正恩に引き継いだことを知っているが、私たちが訪れたのはまだ初代の金日成の存命中で、その世界でも類を見ない個人崇拝国家が果たしてスムーズに権力の移譲ができるのか世界が注目していた時期だった。

金正日という名前は知られているが、果たしてどんな人物なのか、極めて情報が乏しかった。

そういう意味で、映画に映った金正日を見た時、父親のようなカリスマ性がなく、ただの道楽息子のようだと思ったことをはっきりと覚えている。

そして北朝鮮に入って10日目、ようやく平壌を離れ、地方の取材が認められた。

7月11日(木)

9時、ホテル発。

10時、大安重機工場。

13時、六三共同農場。神奈川県と同じ面積を埋め立てて作られたそうだ。

16時、南浦閘門。

取材メモより

「南浦閘門」は、平壌を流れる大同江の河口を堰き止める目的で、取材当時の1981年から86年にかけて建設されていた巨大な堰。

北朝鮮が総力を上げて取り組んだビッグプロジェクトで、川の水位を上げて海から平壌への水上交通を活発にし、流域の農地を広げることなどが目的だったらしい。

7月12日(金)

9時半、対外文化部副部長。

キャスターリポート撮影。

対文協委員長と面会。

答礼宴。

取材メモより

7月13日

8時、ホテル出発。

11時半、ウンニョル鉱山。

15時、昼食。

18時、開城(ケソン)着。開城には犬がいる。平壌では犬を見なかった。というより、普通江ホテルで飼われていたウサギと玉流館にいた子猫以外、平壌では動物を見ていない。街角に犬1匹もいない街はやはり味気ない。

取材メモより

移動が増えたせいかもしれないが、この頃になると私のメモが簡素になっている。

入国当初は見るもの全てが物珍しく、何を見ても面白いと感じたけれど、当局が用意するプロパガンダ感あふれる定番の観光コースにもかなり飽きてきたに違いない。

しかし、私たちはいよいよ平壌を離れ、この日から韓国との軍事境界線エリアを北側から取材することが許可されたのだ。

高麗の都だった開城は、南北会談が開かれる板門店から一番近い街である。

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7月14日(日)

8時半、離散家族インタビュー。

11時、滝。

16時、非武装地区。

19時、開城市外事局長による歓迎宴。

開城の街は、38度線より南にあり、朝鮮戦争前は南の領土だった。朝鮮戦争中も、南北の話し合いの場として中立都市扱いになったため、あまり破壊されることはなかった。そのため、高麗時代の古い街並みが残り、倉敷のような感じ。

解放40年を祝うために、開城の街のあちらもこちらも工事や修繕で大騒ぎ。日曜日だというのに、大人も子供も汚れた石垣をハンマーで削って表面を綺麗にしていたり、道路を補修したり草むしりをしたりで、大変だなあと感心する。一般に北の子供たちは土日でも学校単位で作業や行事が多いようだ。

そんな開城の人たちはよく挨拶をする。車に乗って走っていると、子供たちが手を振り、兵隊さんは敬礼をする。農民たちは頭を上げてこちらを呆然と見る。平壌では車の数も増えたせいか最近はそういうことがほとんどなくなった。

ここは朝鮮人参の有名な産地で、郊外に出ると小高い山に挟まれた谷間の傾斜地に人参が栽培されている。人参は直射日光や雨に弱いため、屋根がつけられていた。1本作るのに5〜6年かかり、収穫後4年ほどは土地を休ませないといけないそうだ。

コチュジャンという辛子味噌は開城が一番だという。辛いが何にでも合う。

軍事境界線の近くの村には、ラッパ型のスピーカーがあちこちに取り付けられている。これは、南が流す宣伝放送をきこえなくするためで、主に金日成の発言が流される。ノイズだらけのひどい音だ。それに比べて南側は大型のスピーカーを設置して、R.シュトラウスの「ツァラトゥストラかく語りき」などを流している。

我々と同じ時期に総評の代表団に同行して2つのメディアが北朝鮮入りし、彼らも15日の南北赤十字予備会談の取材を希望したらしいが、京義線、金正日、白頭山と目玉として希望を出していた取材リクエストがことごとくダメだったことを穴埋めするためか、我々の独占取材ということに決まった。

取材メモより

そして15日、いよいよ板門店に向かう。

7月15日(月)

8時、ホテル出発。すごい霧だ。

8時半、非武装地帯の入り口に到着。ガイド役の軍人が遅れたので、中に入れず待たされている間に、赤十字の代表団の車がやってきて、「ここまで来て何も取材できずに終わるのか」と一同焦りに焦った。悪いことに、今日は手続きのミスから黄さんだけ板門店に入る許可が降りておらず、同行するのは康さんだけという不安な状態だった。ゲートに着いてガイドが来ていないのがわかっても、康さんも最初のうちは例によってニコニコしていたが、代表団がやってくるとただオロオロするばかり。実際、彼には何ともしようがなかったことは間違いないのだが。

板門店の会議場に向かう車は、ここでナンバープレートを隠し、赤旗を立てて、乗員の身分証明書をチェックすることになっていて、代表団もそんな手続きのためゲートでしばらく止まっていたため、その間に黄色い腕章を巻いた英語が話せる軍人、すなわち我々を会議場に連れて行ってくれるガイドが車でやってきて、何とか代表団より先に板門店に入りその到着を撮影することができた。ちなみに我々はノーチェック。しかし、ガイドの軍人なしに非武装地帯に入ることはできない。

板門店に向かう道すがら、大きな石が道と直角に帯状に並べられているところが2−3箇所あり、特に路肩には巨石を2つ重ねたものが左右それぞれ10近くも並べられていた。要するに、これは敵の侵攻を食い止めるためのもので、2段に積まれた巨石は間に挟んである小石を抜くと路上に落ちて道路を塞ぎ、帯状に並べられた石も戦車を一旦ストップさせるためのものらしい。

9時、板門店に到着。

10時、南北赤十字予備会談を取材。ソウル支局の記者と合流する。

南北会談(北では北南会談と呼ぶ)を北側から取材するのは西側メディアとしては初めてだそうだ。と言っても、板門店の中は南北の記者が自由に取材できるので、我々が特別に撮影できたものといえば、北の代表団が新車の青いベンツで到着し、我々の団長と握手をして、一言今日の見通し的なことを述べて控室に入る場面と、板門閣という北側にある建物の中にある控室から会談場に向かう後ろ姿を捉えることができただけだが。南側の取材陣は、板門閣から会談場に降りる会談の下までしか来ることができないので、階段を一段でも上がった所からの映像は、西側カメラマンとしては初めて撮ったことになる。

しかし、ここで大変驚く出来事が起こった。我々に自覚が足りなかったことだが、日頃板門店を取材している南北の報道関係者から見れば、北から日本の取材チームが来たということ自体がニュースだったらしく、我々が多くのメディアの取材対象となってしまったのだ。私が何かを撮影していると、たくさんのテレビカメラ、スチールカメラが我々の方に向けられる。最悪なことに、我々が浮かれて記念撮影しているところまでしっかりカメラに撮られてしまったのだ。軍事境界線を跨いでの記念写真。しかも、その日の私の格好ときたら、タンザニアで買った黄色いヘナヘナのチューリップハットに、北京で買った万里の長城Tシャツ、赤いウエストバッグにファスナーの壊れたズボンという軽薄な観光客風の出立ちで、この写真を悪意を持って使おうと思えば、『北から来た日本人カメラマンはほとんど観光気分、南北分断の痛みを全く理解していない』などと何とでもコメントがつけられてしまう。これが韓国や日本のマスコミに出たら、下手すれば大問題になるだろう。まずい、まずい。ちなみに、北朝鮮のテレビではこの日夕方のニュースで我々が取材している様子が放映されたらしい。

北側から板門店を見た印象は、南の方が強そうで怖いと感じた。南の兵隊さんは、米軍と同じような格好いい軍服を着ていて、遠目に見た時はアメリカ兵かと思った。体格もがっしりしているように思える。足を開いた「休め」の姿勢のまま、ピクリとも動かない。それに比べて北の兵隊さんは、いかにも百姓っぽく、服も緑色のやぼったいやつだし、体つきも貧相で猫背、よくキョロキョロ体を動かす。南の兵隊が北を睨んで構えているのに、北の兵隊も何故か北を向いている人が多い。記者の推理によれば、ソ連人が南に亡命した去年の事件の影響ではないかとのこと。

北朝鮮を取材中、軍服をきた人間は大勢いたが、そのほとんどは土木作業に従事しており、どの顔も田舎のお兄ちゃんという感じがして、何となく親しみすら感じた。

13時半、ホテルに戻って昼食。

14時半、ホテル出発。

18時半、平壌の普通江ホテルに戻り、玉流館で最後の夕食。

7月16日(火) 雨

7時、ホテル発。空港でパスポートと航空券を返してもらうが、飛行機に乗る際に、青いビザの紙は取り上げられ、北朝鮮に入国した痕跡が何も残らなかったのが残念だった。

9時、平壌出発。

11時、北京に到着。

取材メモより

こうして2週間に及んだ北朝鮮取材が終わった。

ほぼ40年ぶりに取材メモを見かえしながら感じたのは、放送内容を頭に描きながら取材する記者と違い、カメラマンの立場ではもっと自然体でその国の姿を眺め、人の話を聞いていたということだ。

もちろん経験も浅く、ニュースの知識も国際情勢の理解も今よりずっと未熟だった若い時の話なので、今から読むとトンチンカンな記述も散見されるが、政治的な利害を離れて北朝鮮の兵士にシンパシーを感じたあたり、昨今の一面的な北朝鮮報道に比べてちょっと新鮮に感じた。

ニュースを扱う人間は、敵か味方かという単純な図式にとらわれるのではなく、もっと複眼的に物事に向き合わなければならない。

独裁的な国家の中にもいい人はいるし、庶民たちの人間くさい営みは続いている。

たとえ自由に取材することが許されなくても、その地を自分の目で見ると、いろいろ感じ取れるものはあるのである。

若き日の拙い取材メモは、世界を複眼的に見ることの重要性を改めて私に気づかせてくれた気がする。

<きちたび>ソウル2泊3日の旅① 南北会談の直前にDMZ(非武装地帯)ツアーに参加してきた

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