<吉祥寺残日録>定年後を考える😄 「二拠点生活」を奨励する養老孟司さんの言葉に共感する #230701

今日から7月。

今週は私が東京、妻が岡山で過ごしているのだが、そんな妻から写真が送られてきた。

古民家の玄関の土間をプチリフォームし、動線を改善するための工事を行なっているという。

先月大工さんにお願いした工事だが、忙しくていつできるかわからないと言われていた。

ところが岡山も今週天気が悪いらしく、外の工事ができない期間、急遽大工さんが来てくれることになったのだ。

築100年の古民家なので、気になるところを直し出したらキリがないのだが、こうして少しずつ手を加えていくたびに家への愛着も湧いてくるものである。

私たち夫婦が東京と岡山を行ったり来たりしながら本格的な二拠点生活を始めたのは、伯母の介護がきっかけだった。

もうかれこれ2年になる。

去年からは本格的に農作業にもチャレンジするようになり、自分で育てた野菜や果物を食べる喜びは私の隠居暮らしに充実感を与えてくれた。

ただ、完全に田舎に移住してしまうのも違うと感じている。

田舎には田舎のルールやしがらみがあり、完全に移住するとどうしても村のしきたりに縛られてしまう。

ところが、私たちのように定期的に東京と岡山を往復していると、周囲の人たちも私たちはちょっと特殊な人間なんだと見なしてくれて必要以上に干渉されることがない。

かといって、道や畑で顔を合わせると「帰ってきとんじゃな」と嬉しそうな顔で迎えてくれて、これまで一度も不快な思いをしたことがないのだ。

一方、都会には都会でいいことがたくさんある。

東京では常にさまざまなイベントが開かれていて、自分に好奇心さえあればどんな分野でも興味を満たすことができる。

そもそもうちの子供たち孫たちは全員東京に住んでいて、妻にとってはやはり中心は東京である。

友人たちも大半は東京にいる。

人とつるむのが好きなタイプの人間ではないので、頻繁に連絡を取り合うわけではないが、会いたい時にはいつでも会える距離感はとても心地よいものである。

こうして私がすっかり二拠点生活の信奉者になっているからかもしれないが、先日ネットを見ていて自然に目に止まった記事があった。

それが「DIAMIND online」に掲載されていた『養老孟司が説く!都会と田舎の「二拠点生活」で生きる覚悟を取り戻せ』という記事である。

我が意を得たりとばかり、すぐに妻にも転送したのだが、2023年も折り返しを迎える今日、この記事をブログに引用させていただくことにする。

 東日本大震災が起こり、すさまじい津波に襲われました。その光景を見て、「自然は驚異だ」「自然とは想定外のものだ」などという言葉が氾濫しました。大自然がもつ怖さ。そんな当たり前のことは、今さら言うほどのことでもありません。

 「人間がつくったものではないもの」。自然を定義するなら、その一言に尽きます。人間が立ち入ることのないような森。そこに育っている木々。実がなれば鳥たちがやってきて食べ、不要な枝は勝手に朽ちていく。これが自然です。しかし、この木を都市部の街路に植え替えた瞬間に、それは自然ではなくなります。

 ほんとうの自然に身を置いて暮らすことは、人間にとっては危険なことでもあります。人はどうして都市をつくったのか。それはとりもなおさず、自然の怖さから身を守ろうとしたからです。都会とは、人が安心を得るためにつくられた要塞みたいなものなのです。

 そしてこの要塞のなかで暮らしていると、いつしか人間が特別な存在だと勘違いしてくる。人間の身体もまた自然であることを忘れてしまうのです。私の身体にしても、生命の自然がつくりだしたものに過ぎません。何も好き好んでこんなふうに生まれてきたわけではない。森の木々と同じです。

 自然そのものには不安と恐怖が常につきまとっており、いくら管理しようとしても、人間の力には限界があります。大自然を管理することなどできるはずはありません。それでも人間は、大自然と向きあって生きなくてはならない。そこに必要となってくるのは、自然とともに生きるという覚悟です。

 海に囲まれた日本。漁師たちは昔から海の側で暮らしを営んできた。台風や津波に襲われながらも、それでも海沿いで暮らすことを選択してきた。きっとそこには、海とともに生きるんだ、という覚悟があったのだと思います。津波で家を流されても、家族を海で亡くしても、それでも自然と共存しようとする覚悟をもっていた。そうした日本人の覚悟が都市生活を続けていくなかで、次第に薄れていったのではないでしょうか。

 ほんとうの自然とは何なのか。そして、それとどう向き合えばいいのか。もう一度考える時が来ているような気がします。

 私がまだ幼かった頃の日本。世の母親たちは、我が子が大人になるのが当たり前だと思ってはいませんでした。5歳のかわいい盛りに寿命が尽きてしまう。そんな子どもがたくさんいた時代です。私の祖母などは、10人の子どもをもうけましたが、そのうち成人して祖母の葬式に出ることができたのは4人だけです。半分以上は親よりも先に旅立ってしまった。だからこそ母親たちは、今、目の前にいる我が子に精いっぱいの愛情を注いだのです。この子が20歳を迎えられるかどうかわからない。早くに寿命がやってくるかもしれない。だから今、生きている瞬間を精いっぱいに大切にする。そういう覚悟のなかで暮らしていたのでしょう。

 現代では、子どもが大人になるのは、当たり前と考えています。「今、一生懸命に勉強しておけば、いい大学に行けて、いい会社に就職できるのよ」。小学生にも満たない子どもにそう言い聞かせているのは、子どもが必ずすくすくと育って、大人になるということが前提にあるからでしょう。

 しかし、その前提は100%ではありません。人間が自然の存在である限り、いつどうなるかはわかりません。突然の病や不慮の事故も十分に起こりうる。

 人間にとって100%のこととは、死ぬこと以外には一つもないのです。何も「どうせ死ぬんだから」と投げやりになれということではありません。恐る恐る生きる必要もない。ただ、常に覚悟を心に持って生きることです。不確定な未来に軸足を置くのではなく、今という時間に軸足を置くこと。今日という日、目の前の小さな命に心を寄せることです。

 現代社会は死が遠ざかっています。今の日本の若者たちに「信仰する宗教はあるか」と聞けば、8割が無宗教だと答えます。それは彼らが本気で生死を考えたことがないことと無関係ではないでしょう。生きていることが当然だと考えていると、神や仏を信じる気持ちは生まれにくい。自分はこの先何十年も生きると信じ、自分の親さえも、まだまだ長生きできると勝手に思い込んでいる。そんな思考のなかからは、生きる覚悟は生まれません。

 死を意識することと、自然を意識することは同じことだと思います。死を考えることと、自然の恐怖を考えることは、どこかでつながっている。そしてもうひとつ付け加えるなら、自然とは怖いものでもなく、さらには優しいものでもない。明るいものでもなく暗いものでもない。自然とは、あくまでも中立のものなのです。

 都市のなかで暮らしていると、どんどん生きる覚悟が殺がれていきます。安全が当たり前で、自分の身体そのものが自然だという実感も薄れていく。それを取り戻すためには、自然のなかで暮らす機会をつくることです。

 仕事を辞めて田舎に移り住むというのではありません。できるならば、都会と田舎の両方に拠点をもつことです。古民家などを安く借りて、一年に数週間は自然のなかで畑を耕しながら暮らしてみること。都会と田舎の両方に軸足を置きながら生活をする。私はそういう提案をずっとしてきました。特に30代や40代の働き盛りの人こそ、こうした「二足の草鞋」を履くことをおすすめします。

 どうも日本人というのは、たった一本だけの軸足で立つことが好きなようです。「この道一筋」という言葉が評価される傾向があるのです。職人さんのように、生涯をかけて同じ道を歩く人が尊敬されて、軸足がぶれる人間はダメだと言われてきました。

 それはどうやら「この道一筋」の意味を履き違えているようです。ある職人さんが、地味な仕事を一生懸命に生涯続けている。あの職人さんは何とすごいことか……。これは「この道一筋」のとらえ方ではありません。本来の意味するところは、職人さんを讃えるものではなくて、「この道」を讃えるものなのです。「あんな地味な仕事を、よくも一生やっていられるなあ。あの仕事は地味に見えるけれど、きっと人間が一生をかけてやるだけの価値がある仕事なんだなあ」と。

 一生をかけて歩むべき「この道」。一生住み続けられる「この場所」。それは簡単に見つけられるものではありません。大自然に囲まれて、田舎でずっと暮らすのも現実的ではないでしょう。かといって都会でばかり生活していると、神経が疲れ切ってしまいます。ならばいくつかの「この道」を探せばいい。二足の草鞋を履くことで、また違う風景が見えてくるかもしれません。

引用:DIAMOND online

養老さんが言う通り、田舎で暮らすと見えてくるものがある。

たとえば、都会ではカットした状態でスーパーに並んでいて単なる食材にすぎない春菊やブロッコリーが黄色い花を咲かせているのを見て驚いたこと。

私たちは春菊の葉やブロッコリーの蕾を食料として知ってはいるが、それらは生き物であり、花を咲かせタネを作り子孫を残すために生きていることを忘れている。

そもそも最初からそんなことには関心を持たずに暮らしてきたことを春菊やブロッコリーの花は教えてくれるのだ。

刈っても刈っても伸びてくる雑草はまさに自然そのものだ。

今年放送中のNHK朝ドラ「らんまん」では主人公である植物学者の槙野万太郎が度々こんな言葉を口にする。

「この世に雑草という草はない」

まさにその通りだと思う。

草を刈っていると、「雑草」と十把一からげに呼んでいた草に驚くほどの多様性があり、それぞれの草に名前があり、それぞれの特徴を持っていることがわかってくる。

すると植物の世界が実は人間社会と似ているということに気づくのだ。

田舎で暮らすと、都会ではお目にかからないような虫たちに囲まれる。

蝶やトンボだけでなく、ムカデやクモなど妻や孫たちが嫌う「害虫」も平気で家に入ってきたりする。

しかしこの「害虫」という言葉も「雑草」と同様、人間が勝手に区別した呼び名なのだ。

この世に「害虫」という虫もいないのである。

また農作業をしていると、丹精込めて育てたトマトや桃を食い荒らす動物や鳥、虫たちにも頭を悩ませることになる。

しかしこうした人間や作物に危害を加える生き物の存在は、人間様が絶対ではないことを教えてくれる。

全てが管理された都会では決して学べない自然の教室なのだ。

昔の賢者は年を取ったら田舎に隠棲し、晴耕雨読の生活を送ることを理想とした。

人生の終わりにあたり、自分が生きた時代を振り返り、世界を別の角度から見直すことは人間にとって必要な作業であり、それによって心が安らかになっていくのを感じるだろう。

私は明日、再び岡山に飛ぶ。

岡山で待つ妻と合流し夏野菜の収穫を楽しみながら無理のないペースで草刈りに励むつもりだ。

当初苦痛でしかなかった草刈りが近頃では楽しみになっているのを感じる。

不思議なものだ。

田舎は人間を熟成させてくれる。

最近、そんな気がしてきた。

「二拠点生活」というライフスタイルが日本に定着するといいのだが・・・。

<吉祥寺残日録>定年後を考える😄 養老孟司著「養老訓」②〜「こんな年寄りにはならないように」の極意とは #220430

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