サイトアイコン 吉祥寺@ブログ since 2016

<きちたび>中国南京の旅2017🇨🇳 過去を知り、未来に目を向ける!南京大虐殺記念館と日本

広告

🇨🇳中国/南京 2017年5月4日〜7日

南京といえば、どうしても日中戦争での「南京事件」のことが思い起こされ、日本人にとってはちょっと気が重くなる地名です。

しかし南京は中国の古都であり、訪れるべき価値のある場所がたくさんあります。避けて通るのはもったいない。私はちゃんと過去にも向き合った上で、今の中国を楽しむことをオススメしたいと思います。

私は南京滞在中、日本人だという理由で不快な思いをすることはありませんでした。むしろ南京の街を歩くと、日本の商品もいろいろ見かけました。過去から逃げず、未来に向けた旅をしませんか。

南京大虐殺記念館

南京を旅するからには、ぜひ訪れたかった場所がありました。

南京大虐殺記念館、正式名称は「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」。「南京事件」をテーマにした博物館のような施設です。広島や長崎の原爆資料館が日本人から見た原爆の記録であるように、この施設は中国人の視点から南京事件を現代に伝えるものです。

いわゆる南京事件については、今なお論争が続いています。

日本側からすれば異論がある表現も多々あります。ご興味がある方は、ぜひ日本で出版されている書物やネットの情報と比較しながら、80年以上前に起きた戦争の悲劇について思いを馳せていただければと思います。

地下鉄2号線の「云錦路」という駅で降りて2番出口を出ると、目の前に目的の記念館はあります。

広大な敷地に建つモダンな建物。入場は無料です。

手荷物検査を受けてゲートを抜けると、まず屋外の彫刻群が並んでいます。

「殺された息子は帰ってこない。生き埋めにされた夫は帰ってこない。強姦された妻は溺れる悲劇。ああ、なんということだろう」

中国語と英語でメッセージがつけられています。

それでも、一つ一つメッセージを読みながら進む私の横を、中国人観光客たちがまったく関心を示さずに通り過ぎていきました。

遭難者30万人

この記念館は、抗日戦争終結40周年を記念して1985年にオープンしました。

建物の中に入ると、南京事件の犠牲者を偲ぶ大きな部屋が作られていました。

天井には「遭難者300,000」の文字。「遭難者」とは「死者」の意味で、中国側は南京事件の死者数を30万人と主張しています。日本側の研究とは大きな開きがある数字ですが、ここでは既成事実になっていました。

正面のスクリーンに犠牲者の写真が次々に浮かび上がります。

犠牲者一人一人の名前と殺害場所も表示されます。

日本国内には「南京大虐殺はなかった」と主張する人もいますが、こうした一つ一つの「事実」を前にすると虚しさを感じます。私たち日本人も、謙虚な気持ちで訪れたい施設です。

両サイドの壁面には、犠牲者の名簿が刻まれていました。

沖縄・摩文仁の丘にある「平和の礎」を思い出します。戦争は、国境を越えてたくさんの悲劇を作り出します。

犠牲者の写真も展示されています。多くは青年の写真です。

南京陥落後、日本軍は軍服を脱ぎ市民の中に紛れ込んだ便衣兵の掃討作戦を進めました。その過程で大量虐殺が行われたと言われています。この青年たちが兵士なのか市民なのか、混乱の中で見極めるのは困難だったでしょう。

中には老婆や子供の写真もあります。

補給ができない日本軍は現地での物資調達を命じ、これが兵士と市民の接触を生み、略奪や強姦を誘引したとされます。

南京への道

南京事件に至る歴史の展示に移ります。

中国語、英語と並んで日本語の説明文も施されているので、時間をかけて読んでいくと戦争が拡大する経緯を知ることができます

私がじっくりと説明書きを読みながら見て回っている間に、観客の数がどんどん増えてきました。日本の戦争博物館をこんなに多くの人たちが見に来ることは考えられません。

これはちょっと驚きでした。

いよいよ展示は、日本軍による南京攻略へと移ります。

「日本軍の空襲は南京城に巨大な災難をもたらした。1937年8月15日から10月15日までのわずか二ヶ月間、日本軍が南京で65回の空襲を行い、最後の時は90機以上の航空機を投入した。空襲された南京城内は満身創痍となり、至るところで死体が転がり、多数の公共施設や工場、及び一般庶民の家屋がひどく破壊された。」

一方、日本軍の侵攻に押され、大量の難民が南京に流れ込みました。

「1937年12月10日午後、日本軍中支那方面軍司令官松井石根は、正式に南京を総攻撃するという指令を出した。中日双方の軍隊は、南京城の東・南・西の郊外で壮烈な戦いを始めた。」

「占領後の光華門周辺の光景」

「1937年12月12日、日本軍歩兵第四十七連隊の決死隊が中華門に総攻撃をかけた」

街の南、中華門・雨花台方面でも日本軍の攻撃が続きました。

「雨花台は南京城南に当たる中華門外の天然障壁で日本軍の主な攻撃の目標でもある。雨花台を防衛する第八十八師団は松濤抗戦で重大な損失を蒙ったが、まだ回復する間がないうちに南京防衛戦に加わった。1937年12月9日と10日に<日本軍主力である第六師団、一一四師団は火力を集中して、なんども攻撃したが、全て撃退された。敵味方とも死傷が甚大だった。12月11日<戦況が一層激しくなって、日本軍は何度も山頂に攻撃し何度も撃退され、大きな代価を払わされた。12月午前10時、雨花台は敵の手に落ちてしまった。」

「日本軍部隊が中華門の城壁の上で「万歳」を叫んでいる様子」

1937年12月13日、首都南京が陥落しました。

「1937年12月12日の夜、日本軍は南京城南の中華門を攻め落とした後、城壁に沿って東と西の方へ侵入していった。13日払暁、相次いで光華門・中山門・和平門等の城門を占領した日本軍は南京城に入り掃討を行ない、そして南京の陥落を宣言した。日本では、国中が南京占領を祝った。」

そして南京陥落の後、大虐殺が始まったのです。

集団虐殺

いよいよこの記念館の主題「日本軍による南京での大虐殺」という展示コーナーです。

「南京占領後、日本軍は武力で「中国を屈服」させ、三ヶ月で中国を滅ぼすという目標を達成するために、兵を使って無辜の人々への虐殺をほしいままにし、恐怖をばらまき、計画的に大規模な虐殺を敢行した。身に寸鉄も帯びない平民たちと武装を手放した中国軍人は日本軍によって集団虐殺され、その犠牲者は19万人余にも達した。また、日本軍によって個別分散虐殺された死体は慈善機構によって埋葬され、その死体は15万体以上にものぼった。被害者人数は合わせて30万人以上にも達する。」

昼近くになり、入場者はますます増えてきました。先生に引率された生徒たちの集団も次々にやってきます。

薄暗い展示コーナーは、すごい混雑になってきました。

1937年12月13日に始まった南京事件。

記念館では事件をジャンル分けして展示されていました。最初は「集団虐殺」です。

「南京で日本軍は生き残った中国兵を捜索した。しかし、「捕虜は保護せず全部処理しろ」という命令を出し、国際条約に公然と違反して、その捜索過程で、又確保した捕虜までもほしいままに大量に虐殺した。同時に、日本軍は「捕虜殺戮を拡大化」し身に寸鉄も帯びない無辜の庶民を大量に虐殺した。中国南京戦犯裁判軍事法廷の調査によれば、日本軍の南京での集団虐殺は計28件あり、虐殺された人数は19万人余りになる。」

東京裁判からの引用も、その根拠として示されていました。

南京戦犯裁判軍事法廷判決書からの引用も・・・

「殺戮人数:「・・・わが捕らえられた軍民が日本軍に機関銃で集団射殺され、且つ、証拠をなくす為死体も燃やされた者は、単耀亭を含めて19万人余もある。それ以外に、個別分散に殺戮され、死体が慈善団体によって埋葬されたものは15万余ある。犠牲者総数は30万人以上に達している。」 破壊の規模:「陥落の初期は、中華門に沿って下関河岸に至り、どこでも激しい炎が立ち上り、城の半分が殆ど灰燼と化した。」 強姦事件の件数:日本軍が城を占領した後、至るところで強姦事件を引き起こし獣欲を満たしていた・・・12月の16、17の両日だけで、日本軍に蹂躙されたわが国の女性は千人を超え、しかもその方法の異常さと残虐さは、歴史上かってないことであった・・・およそ南京に残った婦女は皆危険にさらされていた。」

そして大量虐殺は軍の方針だったとしています。

日本人の証言

中国側の主張を裏付ける根拠として展示されている資料の多くが、日本語の記録だったのは驚きました。

元日本従軍記者、佐藤振寿著『従軍とは歩くこと』より。

佐藤氏は東京日日新聞のカメラマンとして従軍取材を行った人のようです。

「1937年12月14日 兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には5メートル平方、深さ3メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちていった。 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。・・・ 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだった。」

「この一組の写真は日本軍第十六師団従軍記者「画報近代百年史」雑誌社の不動編集長が撮影したもので、1953年始めて本雑誌の15集に掲載された。左上は刑場に護送された中国捕虜、右上は日本軍が捕えた中国軍人を刑場へ処刑のために連行していく写真である。中左はバラバラになった子供の死体である。野良猫が死体にまたがっている。下図は射殺の瞬間である。」

「昭和二十年(1945年)十二月八日、日本で発行された『毎日新聞』。侵華日軍が南京市民二万人を殺した内容が記載されている。」

「漢中門外の秦淮川辺で日本軍に惨殺されたあと焼却された南京市民の死体。『村瀬守保写真集・私の従軍中国戦線』より」

村瀬守保氏は、1937年7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影しました。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を転戦したようです。

こちらも村瀬氏撮影の写真です。

「揚子江の沿岸には、日本軍に殺された南京大虐殺犠牲者の死体が山のように積もっていた。」

村瀬氏が南京で撮影した写真は、「虐殺」か「戦死」か論争の的となっています。ただ、村瀬氏の写真を否定する人たちの主張には私はまったく同意できません。今となっては、村瀬氏から話を聞くことはできないので、真相を確かめることは難しいですが、記者ではなく兵士として戦場を回った日本人が撮影した写真の価値は極めて高いと思いました。

生存者の証言

「彼らは集団虐殺の歴史を証言する」と題された中国人生存者の証言も展示されている。

藩開明さん。

「1937年12月13日、私は南京二条巷の家の前で焼き芋をしていた。急に、何名かの日本兵が駆けて来て、弁解もさせずに、私を捕まえた。手に人力車を引いたあとがあり、頭に帽子を被った跡があった為、日本兵は、私を中国兵と認定した。当時、鼓楼にある日本大使館に連れられて、二日間閉じ込められた。 16日午後2時頃、他の民間人300人あまりと日本軍に後ろ手で縛られ、長江付近の煤炭港に連行された。午後四時から、集団虐殺が始まった。300人あまりは三組に分けて銃殺された。私は一組目だった。銃声が響いたとたん、目から火が出て、気絶してしまった。日本兵は銃剣で死体の山の中の息が残っている人を突き刺し始めた。銃剣が近寄ってくるのが目に見えたが、急に左腕に激しい痛みを感じて、また気絶した。 夜10時頃、寒くて目が覚めた。その時の月光は明るかったが、私は生きているのかどうか分からなかった。「私は人間か、それとも化け物か」と自分に聞いた。自分の耳を力強く引っ張って、ちょっと痛い感じがしたので、未だ生きていると思った。頭を上げて見ると、死体の山にはまだ何人か生きている者がいた。「兵隊さん、助けて、私はまだ死んでいない、縄を解いて助けてくれ。」と私は言った。私達は互いに縄を解いて、それぞれ四方に散った。」

暗い展示室からいきなり明るい部屋に出ました。

「2006年に発掘された犠牲者の遺骨坑」と題された施設だ。

こんな説明文が添えられていました。

「1984年と1998年、江東門で前後2回に渡り、南京大虐殺の犠牲者の遺骨が発見され、それぞれ本館の犠牲者遺骨陳列室と「万人坑」遺跡内に陳列された。2006年4月、本館の新館工事現場で三回目の南京大虐殺の犠牲者の遺骨が発見された。この遺骨を保存、展示するために、関連機関により、まず全体的に移動させ、それから全体を回復させる案が制定され、遺体が発見された場所そのままに新館の展示ホールに陳列することになった。」

骨には数字とアルファベットの記号が振られていました。

個別分散虐殺

「集団虐殺」の次に展示されていたのは「個別分散虐殺」という項目です。

殺害方法ごとに分類されていて、最初は「中国人を銃殺する」でした。

「日本軍に銃殺された三歳の南京児童」

続いては「中国人を斬り殺す」。

「軍刀で中国庶民を殺している様子」

さらに、「中国人を焼き殺す」と「中国人を溺れさせる」が続きます。

そして、「中国人を殺す競技」として南京事件論争で必ず登場する有名な「百人斬り競争」の新聞記事が掲示されていました。

「1937年12月14日、日本『東京日日新聞』掲載新聞記者浅海氏、鈴木氏は南京紫金山麓で野田毅、向井敏明の殺人競争を取材した。その時、向井敏明は百六人、野田毅は百五人を殺していたが、どちらが先に百人を殺したのか判断できないから、百五十人を目標として、競争を続けることを約束した。」

さらには「楽しみとして中国人を殺す」という項目が登場します。

「この写真は、捕虜となった日本軍人より没収したもので、日本軍人が殺人を楽しんでいることの証明である。 『日寇暴行実録』より」

最後は、「中国人を生き埋める」。

ここでようやく殺し方別の写真パネルが終わりました。息苦しくなってきます。

周りの中国人たちも真剣な表情で説明書きを読み込んでいます。強烈な記憶がみんなの脳裏に焼きつくことは間違いないでしょう。

虐殺に関する展示の最後に一人の女性のインタビュー映像が流されていました。

夏淑琴さんです。

「私は1929年5月生まれであった。1937年12月13日、日本軍は南京城南中華門東新路口5号の私の家に突入して来た。何の訳もないのに私の母方の祖父聶佐成(70数歳)、母方の祖母聶周氏(70数歳)、親父夏庭恩(40数歳)、母親夏聶氏(30数歳)、上の姉夏淑芳(16歳)、二番目の姉夏淑蘭(14歳)、妹夏淑芬(1歳余り)など7人を惨殺した。母と二人の姉は日本兵に輪姦された。私は当時7歳で、体を三箇所切られて気絶し、後に蘇って、4歳の妹と幸いに難を逃れた。家族と同時に遭難したのは、大家の哈国梁一族4人と、外地から来た名字も分からない避難者2人であった。日本兵が離れた後、妹と少しだけのおこげを腹の足しにして、苦しい14日間を過ごした。安全区から帰った隣のおばあさんに発見され、おばあさんは南京安全区国際委員会に報告した。当時の南京赤十字会国際委員の委員長、アメリカ牧師のジョン・マギーは直ちに新路口5号に調査に来て、現場の撮影記録を取った。その後、私達二人は暫く剪子巷の「老人堂」に住まされた。後に、叔父が安全区に避難に連れて行った。」

そして、夏さんの家、つまり惨劇の現場が実物大の模型で再現されていました。

強姦と慰安所

「虐殺」の次は「日本軍による南京での強姦と略奪」に関する展示が続く。

「日本軍は狂気じみた大虐殺を行う同時に、南京の至る所で、老若の区別なく多くの女性を強姦した。毎日起こった強姦暴行は数百件ないし千件にものぼった。極東国際軍事法廷の判定によると、日本軍が南京占領の最初の一ヶ月の間、南京市内で起こした強姦輪姦暴行は2万件以上もあった。当時、南京市内に残った外国人たちは日本軍を「野獣集団」だと激しく非難した。日本軍はまた盛んに略奪を行った。個人の住宅あるいは政府機関、商店、倉庫から金銀財宝、文物骨董品、車まで略奪した。また、難民の食糧、病院の布団、民衆の家畜までがみんな略奪の標的となった。たとえ外国住民の財産であっても、免れることはなかった。」

「女性が日本軍に輪姦された後の苦しげな様子を撮影した写真。日本軍捕虜からの捕獲品。 『日寇暴行実録』より」

強姦した女性と記念撮影をする日本兵の写真。 『日寇暴行実録』より

「日本軍に輪姦されたため、重病を負った十六歳の南京少女 『日寇暴行実録』より」

こうした強姦の対策として慰安所が設立された。

「1938年初め、日本軍側は明確な指示をした。「海外駐留の日本軍兵士の強姦発生率を有効に低減し、同時に、それによって日本軍巡邏隊が被占領国の人民に報復されることを避ける為、各部隊は迅速に作戦の間に兵士に性欲を満足させる機関を設立する事」。日本軍側の指示のもとで、「慰安婦」制度が迅速に南京、上海などの地で実施された。南京駐留の日本軍が多い為、日本軍参謀部第二課はわざわざ南京慰安所を設立することを提案し、軍部で審議の上通過した。南京大虐殺の間に、すでに傳厚崗、鉄管巷等二つの慰安所が南京に設立されていた。」

被害女性のインタビューがモニターに流される。

強姦に関する展示は量的には少ない。しかし、若い女性たちが真剣に説明を読み、インタビューに耳を傾けていました。

同世代の女性の屈辱をひしひしと感じているのだろう。じっと展示の前から動かない女性たちの姿を見ながら、簡単には消えない日中の溝の深さを感じました。

「南京大虐殺記念館」の展示内容については、私が書いている「吉祥寺@ブログ」により詳しく書いています。もしご興味があれば、「大虐殺記念館①」「大虐殺記念館②」「大虐殺記念館③」もご覧ください。

南京で「日本」を探す

「南京大虐殺記念館」を訪ねると、重い気持ちになります。

ただ南京の街を歩いていると、こんなピカチューのポスターも目にしました。

今の中国の人たちから見た日本のことが気になって、南京の街で「日本」を探してみました。

まずはアジアで人気の「味千ラーメン」。南京の繁華街「新街口」の地下街にありました。

熊本発祥のこのラーメンチェーンは今や12カ国に800店以上を展開します。

創業者の重光孝治氏は、台湾出身の客家系中国人です。中国国内には700店以上の支店があり、運営は中国人女性が経営する現地法人だといいます。

私も初めて味千ラーメンを食べてみました。

店内は中国人の若者たちで賑わっていました。

メニューを見ると、日本人にはありがたい料理が並んでいます。

ラーメン、チャーハン、カレー、とんかつ、さらにはお酒のつまみも。

ありがたいことに、日本語メニューもありました。

スーパードライに餃子。

普通にうまいです。

さらに味千ラーメンと味付けタケノコを追加します。

全部で65元、1170円とリーズナブルです。

次に立ち寄ったのは、同じ新街口にある輸入品専門スーパー。

台湾の商品が一番多いようですが、日本が強みを持つ商品群がありました。

紙おむつや洗剤、抗菌製品などドラッグストアで売られている商品です。

日本にやってくる中国人が爆買いする商品がずらりと並んでいました。

その一方で、食料品などはお菓子が少し並んでいるだけで、台湾や東南アジアからの輸入品に押されているようです。

こういうお店で知名度が上げることが、爆買いにつながると感じました。まずは商品の良さを中国に住む一般の中国人に知ってもらうことからすべてが始まる。まだまだ日本製品の知名度は高くないと感じました。

新街口の地下街で「辻利」の看板を見つけました。

辻利といえばお茶。宇治茶というイメージですが、こちらの辻利は北九州に本店を置く「辻利茶舗」の支店のようです。

辻利は19世紀に暖簾分けなどでいくつかに別れたようですが、この辻利茶舗は海外展開に熱心で、台湾や上海でも成功しているようです。

南京でも抹茶アイスなどに行列ができていました。

それでも日本企業の出店はまだまだ少ないのが現実です。南京だから二の足を踏むということもあるかもしれませんが、これだけの消費者がいる市場だけにまだまだチャンスはあると感じました。

実際に旅行していて、日本人だからといって不快な思いをしたことは一度もありません。

逆に親切にされることもありませんが、基本的には外国人には無関心のようでした。


モバイルバージョンを終了