大虐殺記念館②

南京事件をテーマにした「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」の続きを書く。

長く詳細な論争が続くテーマだけに、このブログでは、この記念館で南京事件がどのように伝えられているかという観点でまとめる。日本側での主張は様々な出版物やネットで簡単に見ることができるため、あくまで中国側がこの事件をどう記録し国民に伝えているかを知っていただきたい。

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いよいよこの記念館の主題「日本軍による南京での大虐殺」という展示コーナーだ。

「南京占領後、日本軍は武力で「中国を屈服」させ、三ヶ月で中国を滅ぼすという目標を達成するために、兵を使って無辜の人々への虐殺をほしいままにし、恐怖をばらまき、計画的に大規模な虐殺を敢行した。身に寸鉄も帯びない平民たちと武装を手放した中国軍人は日本軍によって集団虐殺され、その犠牲者は19万人余にも達した。また、日本軍によって個別分散虐殺された死体は慈善機構によって埋葬され、その死体は15万体以上にものぼった。被害者人数は合わせて30万人以上にも達する。」

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昼近くになり、入場者はますます増えてきた。先生に引率された生徒たちの集団も次々にやってくる。薄暗い展示コーナーは、すごい混雑になってきた。

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1937年12月13日に始まった南京事件。

記念館では事件をジャンル分けして展示されていた。最初は「集団虐殺」である。

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「南京で日本軍は生き残った中国兵を捜索した。しかし、「捕虜は保護せず全部処理しろ」という命令を出し、国際条約に公然と違反して、その捜索過程で、又確保した捕虜までもほしいままに大量に虐殺した。同時に、日本軍は「捕虜殺戮を拡大化」し身に寸鉄も帯びない無辜の庶民を大量に虐殺した。中国南京戦犯裁判軍事法廷の調査によれば、日本軍の南京での集団虐殺は計28件あり、虐殺された人数は19万人余りになる。」

東京裁判からの引用も・・・

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極東国際軍事法廷が認定した大規模な、組織的な虐殺

「大規模に、組織的に中国人男性居民を殺戮したのは、指揮官の同意の下であることは明らかである。殺害の理由は、中国の兵士が軍服を脱いで一般庶民に紛れ込んだ、というものであった。多くの中国市民は一列に並ばせられ、後ろ手に縛られ、城壁まで歩かされ、そこで機関銃の掃射や銃剣で殺された。ドイツ代表は「暴行と犯罪行為は個人に限らず、全軍隊に及んでいた。即ち、日本人のことを指している。」と政府に報告した。」

続いて、南京戦犯裁判軍事法廷判決書からの引用。

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「殺戮人数:「・・・わが捕らえられた軍民が日本軍に機関銃で集団射殺され、且つ、証拠をなくす為死体も燃やされた者は、単耀亭を含めて19万人余もある。それ以外に、個別分散に殺戮され、死体が慈善団体によって埋葬されたものは15万余ある。犠牲者総数は30万人以上に達している。」 破壊の規模:「陥落の初期は、中華門に沿って下関河岸に至り、どこでも激しい炎が立ち上り、城の半分が殆ど灰燼と化した。」 強姦事件の件数:日本軍が城を占領した後、至るところで強姦事件を引き起こし獣欲を満たしていた・・・12月の16、17の両日だけで、日本軍に蹂躙されたわが国の女性は千人を超え、しかもその方法の異常さと残虐さは、歴史上かってないことであった・・・およそ南京に残った婦女は皆危険にさらされていた。」

そして大量虐殺は軍の方針だったとして、この根拠を掲げている。

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まず平松鷹史著作『郷土部隊奮戦史』より。平松さんは大分の郷土史家のようだ。

「日本軍第六師団の司令官は「女、こどもにかかわらずシナ人はみな殺せ。家は全部焼け」という命令を受けたことがある。」

もう一つは、1971年1月14日『朝日芸能』より。「朝日芸能」というのは「アサヒ芸能」のことのようだ。

「日本軍第十軍がぞくする第六師団に従軍したカメラマン河野公輝氏は、・・・同師団の司令部に、「共産主義の暴虐を許さず、共匪の跳梁を粉砕するため、農夫、工夫はもとなり、女子共にいたるまで全員殺虐すべし」という命令伝達書が届いたのを見た。」

このほかにも、極東国際軍事法廷判決書より。

「1937年11月下旬、日本中支那方面軍司令官松井石根は「南京は中国の首都であり、南京を占領することは国際的な事件だから、日本の国威を発揚し、中国をして日本に服従させるためには周到な研究をしなければならない。」という命令を下した。」

極東国際軍事法廷訊問記録より。

「中支那方面軍の副参謀長武藤章は、日中戦争は宣戦がなく「事変」であるから、「中国人ノ捕ヘラレタ者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定サレマシタ」と答えている。」

などと、組織的な虐殺方針があったことを強調している。

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さらに元日本兵の日記からも引用される。

「多少の犠牲者は止む得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいものである。」

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南京攻略に参加した元日本兵が書いた「陣中日記」。

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南京攻略に参加した元日本軍第三十三連隊兵士が着ていた軍服。

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当時の日本の新聞記事にも「敗残兵狩り」の文字。

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「第十六師団長中島今朝吾は、日記に「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコト」と記した。」

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「日本部隊は南京の中山東路に沿って青壮年を護送している途中中国国民党党史資料陳列館(中国第二歴史書類保存館)の門前を通って、図の上にある鳥居型の門とアーチは依然として当時の様子を保たれている。」

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「日本軍隊は逮捕して武装解除した中国軍人を縄で縛り、集団で銃殺するため郊外に連行した。」

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「南京の大通りでの敗残兵捜索」

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南京市内の工事現場で出土した日本軍の指揮官用刀、短剣、銃剣など。

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日本軍三年式重機関銃。

「一丁の重機関銃を扱うには、通常10〜13人の兵士が必要である。この重機関銃は、当時日本軍が華北華中を侵攻する時の主要殺人兵器の一つとなっていた。」

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南京攻略に使われた軽機関銃。

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「日本軍第六十六連隊が中華門で捕らえた中国軍民を山谷に連行し、虐殺する直前の様子」

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元日本従軍記者、佐藤振寿著『従軍とは歩くこと』より。佐藤氏は東京日日新聞のカメラマンとして従軍取材を行った人のようだ。

「1937年12月14日 兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には5メートル平方、深さ3メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちていった。 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。・・・ 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだった。」

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「この一組の写真は日本軍第十六師団従軍記者「画報近代百年史」雑誌社の不動編集長が撮影したもので、1953年始めて本雑誌の15集に掲載された。左上は刑場に護送された中国捕虜、右上は日本軍が捕えた中国軍人を刑場へ処刑のために連行していく写真である。中左はバラバラになった子供の死体である。野良猫が死体にまたがっている。下図は射殺の瞬間である。」

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「昭和二十年(1945年)十二月八日、日本で発行された『毎日新聞』。侵華日軍が南京市民二万人を殺した内容が記載されている。」

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「漢中門外の秦淮川辺で日本軍に惨殺されたあと焼却された南京市民の死体。『村瀬守保写真集・私の従軍中国戦線』より」

村瀬守保氏は、1937年7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影した。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を転戦した。

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こちらも村瀬氏撮影の写真だ。

「揚子江の沿岸には、日本軍に殺された南京大虐殺犠牲者の死体が山のように積もっていた。」

村瀬氏が南京で撮影した写真は、「虐殺」か「戦死」か論争の的となっている。ただ、村瀬氏の写真を否定する人たちの主張には私はまったく同意できない。今となっては、村瀬氏から話を聞くことはできないので、真相を確かめることは難しい。それでも、記者ではなく兵士として戦場を回った日本人が撮影した写真の価値は極めて高い。

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「これは南京攻略に参加した、元日本軍第十三師団六十五連隊隊長である両角業作大佐が、当時の日記をもとにして書いた「南京大虐殺事件」であり、中には幕府山集団虐殺に関わる記載がある。」

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左は、両角部隊の大殊勲を伝える新聞。両角大佐の日記も南京事件の論争では有名なものだ。

そして右は、「幕府山揚子江の沿岸での大虐殺に加わった日本兵田中が描いた現場見取図」。この田中という元日本兵について調べてみた。どうやら本多勝一著「南京への道」に登場する仮名「田中三郎」、本名・栗原利一氏のことのようだ。栗原さんは両角部隊の下士官だった。栗原さんが証言する気になった心境をこう語っていたという。

<南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側が否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。中国側では「四〇万人が虐殺された」といっているらしいが、それは果たしてどこまで具体的な資料をもとにしたものなのか。あと二〇年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う。……>

<描虜が降参してきたからって、オイソレと許して釈放するような空気じゃ全然ない。あれほどにもやられた戦友の仇ですよ。この気持ちほ、あのとき戦った中国側の兵隊にだって分かってもらえると思います。仮に一〇万殺そうと二〇万殺そうと、あくまで戦闘の継続としての処理だった。あのときの気持ちに、〝虐殺〟というような考えはひとカケラもありません。みんな『国のため』と思ってのことです。>

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「日本軍第十三師団歩兵六十五連隊(両角部隊)は、武器を捨てた約14777名の中国兵を幕府山辺りに集めた。虐殺する直前の様子(昭和十二年(1937)十二月十六日上野特派員撮影) 『アサヒグラフ』より」

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「彼らは集団虐殺の歴史を証言する」と題された中国人生存者の証言も展示されている。

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藩開明さん。

「1937年12月13日、私は南京二条巷の家の前で焼き芋をしていた。急に、何名かの日本兵が駆けて来て、弁解もさせずに、私を捕まえた。手に人力車を引いたあとがあり、頭に帽子を被った跡があった為、日本兵は、私を中国兵と認定した。当時、鼓楼にある日本大使館に連れられて、二日間閉じ込められた。 16日午後2時頃、他の民間人300人あまりと日本軍に後ろ手で縛られ、長江付近の煤炭港に連行された。午後四時から、集団虐殺が始まった。300人あまりは三組に分けて銃殺された。私は一組目だった。銃声が響いたとたん、目から火が出て、気絶してしまった。日本兵は銃剣で死体の山の中の息が残っている人を突き刺し始めた。銃剣が近寄ってくるのが目に見えたが、急に左腕に激しい痛みを感じて、また気絶した。 夜10時頃、寒くて目が覚めた。その時の月光は明るかったが、私は生きているのかどうか分からなかった。「私は人間か、それとも化け物か」と自分に聞いた。自分の耳を力強く引っ張って、ちょっと痛い感じがしたので、未だ生きていると思った。頭を上げて見ると、死体の山にはまだ何人か生きている者がいた。「兵隊さん、助けて、私はまだ死んでいない、縄を解いて助けてくれ。」と私は言った。私達は互いに縄を解いて、それぞれ四方に散った。」

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唐広普さん。

「元は陸軍教導総隊第二連隊第三大隊の勤務兵であった。1937年12月13日に、私は日本軍によって燕子磯から、幕府山に連行された。約二万人の俘虜と一緒に空いた兵営に閉じ込められた。その中は大部分が捕虜になった将兵だったが、警察官及び民間人も含んでいた。何日も食事も水もなかったので、多くの老人と子どもが相次いで死んでいた。多くの女性が輪姦された。12月18日午後の四時ごろ、私たちは後ろ手に縛られて、上元門大高子(別名草鞋峡)の川辺に連れて行かれた。夜の八、九時ごろから、日本兵が虐殺を始めた。響いた銃声に乗じて、私は倒れた。日本兵がガソリンで死体を燃やした時、私は死体に押されて下敷になっていたが、もがいて死体の山から這い出した。一人の年寄りと子供の船に乗せてもらって、辛うじて八卦洲に逃げて、生き残った。」

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劉永興さん。

「私の家は当時、南京市張家衛十九号にあった。私は仕立屋であった。陰暦霜月十日(1937年12月12日)、難民区の大方巷十四号の後ろに引っ越した。霜月十四日(12月16日)午後3時頃、一人の日本兵が飛び込んで来て、私と弟を連れ去った。空が暗くなるころ、中山埠頭に連れて行かれた。道中、道端に男女の多くの死体が見えた。下関中山埠頭の川辺に着いて、日本軍に捕まえられたのが何千人もいたのを知った。日本軍は私達を川辺に座らせて、周りに機関銃をすえた。危険を感じて、弟や多数の人と長江に一緒に飛び込んだ。すると、日本軍は機関銃で掃射し始め、長江に手榴弾を投げ込んだ。機関銃で掃射した後、川辺の死体にガソリンをかけて焼いた。死体隠滅を図ったのである。夜、日本軍は川辺を徹夜で警備し、岸辺に漂いついた死体を見ると、銃剣でめちゃくちゃに刺した。私は岸からわりに遠くて、日本兵の銃剣が届かなかったので、死を免れた。しかし、弟は見付からなかった。父親がいつも杖に縋って、涙を浮かべながら、あちこち探しまわったが、今だにたよりがない。」

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「図は1937年12月21日、下関埠頭で焼け焦げた死体と日本軍馬である。」

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「図は1937年12月21日、下関埠頭で焼け焦げた死体である。」

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「日本軍部隊が仙鶴門で捕虜にした大量の中国軍人」

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「日本軍は国際安全区で秩序維持に当たった中国警察及び難民を虐殺現場へ連行した。」

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子供達に虐殺の様子を話す伍長徳老人。

「私は南京の警察官で、安全区に派遣されていた。1937年12月16日、日本軍に捕らえられ、首都劇場の向かいの空き地に連行された。そこに何時間も立たされたその間、更に1000人余りの中国人がそこに追い込まれた。あとで、私達は漢中門に連行されて、日本兵にしゃがめと命令された。私達を無理矢理に70〜80人ぐらいの組に分けて、城外の秦淮河まで連行し、機関銃で銃殺しようとした。幸いに私は最後の一組に分けられたが、この時はすでに暗くなっていて、機関銃を掃射する時、私はすぐに地面に倒れて、死を装ったので、負傷しなかった。何人もの日本兵が鋤で薪とわらをかき集め、死体を焼却するつもりであった。一人の日本兵が、私が未だ息をしていることに気付き、鋤で背中を力まかせに打った。そして薪とわらを私の体の回りに置いた。薪の山に点火した後、日本軍は離れて行った。私は燃え付かない前に、うまく薪の山の中から逃げ出した。城外で10日ほど隠れてから、乞食を装って市内の鼓楼病院へ行って治療を受けた。」

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暗い展示室からいきなり明るい部屋に出た。

「2006年に発掘された犠牲者の遺骨坑」と題された施設だ。こう説明されている。

「1984年と1998年、江東門で前後2回に渡り、南京大虐殺の犠牲者の遺骨が発見され、それぞれ本館の犠牲者遺骨陳列室と「万人坑」遺跡内に陳列された。2006年4月、本館の新館工事現場で三回目の南京大虐殺の犠牲者の遺骨が発見された。この遺骨を保存、展示するために、関連機関により、まず全体的に移動させ、それから全体を回復させる案が制定され、遺体が発見された場所そのままに新館の展示ホールに陳列することになった。」

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骨には数字とアルファベットの記号が振られている。

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遺骨坑の展示ホールには、集団虐殺の瞬間を描いた大きな絵画が飾られていた。

 

<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。

 

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